名前をつけて

ちゃくや

名前をつけて

皆様の名前にはどのような想いが込められているのでしょうか。

ああいえ、「名は体を表す」とも言いますでしょう?それほどまでに人間は、いや、人ならざる者にとっても名前は重要なものなのでございます。

名前がなければ存在することすら証明できず、消えてしまう。

皆様の中には自分の名前が嫌いという者や、名前を変えてしまう者もいると聞きます。

しかし、これだけは覚えていて欲しいのです。


名前だけは自分を裏切らない、ということを。


***


「…い、おーい」

「ん…」

自分を呼ぶ声に少女は徐々に意識を浮上させる。ゆっくりと、瞼を開ければまず目に入ったのは熟れたザクロのような綺麗な赤。

…綺麗。

そう言葉にする前に、なぜこんなに近くに瞳が見えるのかと少女は思考する。背中に感じる体を支える何か、ということは少女は仰向けに寝転がっているのだろう。だとしたら、この赤い瞳の持ち主は少女を見下ろしていて、そう、まるでキスをするのかと言わんばかりの距離で。

「っ!」

少女は反射的に起きあがる。と同時にゴン!と鈍い音が響いた。

「ったぁ…!」

少女はあまりの痛みと頭が揺れるような衝撃に額を押さえ声をあげる。目の前を見れば、青年が同じく額に手を当てて悶絶していた。


「ご、ごめんなさい…!あ、あの…」

少女はそう言いかけて言葉を失った。まるで新雪のような真っ白の髪、その胸ほどの長い髪は赤く輝くザクロのかんざしでまとめられている。白い着物を着崩して薄桃色の羽織を雑に羽織った姿は青年の白い肌を晒していて色気を感じさせた。そして何より、目を離せなかったのは僅かに涙で潤んだあの鮮やかな赤い瞳。白い髪と肌の中存在感を醸し出している赤い瞳はまるで雪の中にただ一つ落ちたザクロのようだ。

少女が見惚れていると、青年は起き上がり少女を見ると苦悶の表情からパッと光がついたように笑う。

「よかった、生きてたんだな!」

青年の言葉にそういえば、と少女は周りを見渡した。そこは一面白い空間で、下は水のようなものが張っているが自分はその上に立っているようで、濡れることはない。そんな何もない空間だが、赤い鳥居がただ一つたっており、不思議と落ち着く。まるでこの青年のようだと思わせた。

「あの…ここは?貴方は?」


色々聞きたいことはあるがとりあえず青年が少女の無事を喜んでくれたこと、思わずとはいえ頭突きをしてしまったのにも関わらず怒る様子がないことから青年に敵意はないと判断し、少女は問いかける。

「ここはオクリヨ。現世うつしよ幽世かくりよの間の世界、人ならざる者が住んでいて人間とか妖怪とかが迷い込む場所。んで、ここはオクリヨの中の俺が作った空間」

ここまでは大丈夫?と青年が尋ねるのでとりあえず少女は頷いた。何が何だかわからないが見た目も含めた雰囲気といい、空間を作ると言ったということは青年は人ではないのだろう。

「ん。で、俺の名前は…ない!」

「ない!?」

あまりにも快活に言い放つので思わず少女は大声を出してしまった。

「うん、ない。まぁ呼ぶとき困るだろうからシロでいいよ、俺白いし」

「えぇ…」

自分の名前がなくて困ってるわけではないようだ。実は目の前の青年…シロはただの大雑把な人なのだろうか。人ではないが。


「でも、お前も思い出せないだろ?」

「え?」

そう言われて、心臓が跳ねた。すぐに言い返そうとして、出てくるはずの言葉が出なかったからだ。

「私…私は…」

否、名前どころか自分が何者なのかすらわからなかった。どう生まれたかも、どう育ったかさえも思い出せないのだ。どうして記憶がないのかすら、わからない。自分が何者か、と証明できる術を一切持っていなかったのだ。

少女は必死に思い出そうとして思い出せない不安感から段々と呼吸が早くなる。落ち着けようと何度も吸おうとして、上手く吸えなくなった息が吐きだされた。は、は、と、まるで呼吸する部分が締め付けられるような感覚に少女は立っていることもできずその場に蹲る。苦しくてたまらなかった。

その時、温かい手が少女の頭におかれる。瞬間、少女を苦しめた呼吸が不思議と落ち着いた。そして、なんだろうと顔を上げて、シロの首元が近くにあるのだと気づくと同時に少女の額に柔らかい感触が触れる。

「え…?」

シロが離れることで少女はようやく額にキスをされたのだと気づいた。

「大丈夫、約束する。俺はお前の味方だし、お前の力になるから」

『約束しよう、俺は__の味方になる、そして__の力になってみせる』

「あ…」

その言葉はどこか懐かしくて、とても温かくて。そんなに大事な言葉のような気がするのになぜはっきりと思い出せないのだろう。


「それに、お前の名前の場所は分かってるよ」

困惑する少女にシロは優しく語り掛けた。

「お前の記憶は奪われたあとバラバラにわけられ、このオクリヨの様々な空間に散らばっている。だから俺は名前の記憶がある空間に連れて行ってやれるんだ」

「どうして、私の記憶はバラバラにされているの?」

少女が聞くとシロは笑顔を浮かべるだけで何も語ろうとしなかった。言いたくないということだろう。もちろん聞きたい気持ちはあれど自分の名前すらわからないところで聞いても理解できない、そう考えた少女はあえて聞かないことにした。

「それより早く回収しに行こう。名前がないと不便だろ?」

シロは手を差し出す。

「掴まって」

少女はおそるおそるシロの手を掴んだ。その手はまるで少女を安心させるように温かかった。

「移るよ、ちゃんと握ってろよ」

「わっ…!」

鳥居を跨ぐと自分はその場に立っているのに周りの景色だけがまるで早送りにした映像のように変わっていく。不思議と怖くない、それは手に伝わる温もりのおかげか。



***


シロと少女が移ったのはまるで地獄を連想させるような空間だった。上を見上げれば血のような空が広がり、ごつごつとした岩があちこちを占めており、少女を威圧しているように感じる。

「ここは懺悔の間、色んな懺悔が集まる場所だ」

シロはそう説明する。懺悔とはどういうものか。記憶のない少女にはわからない。懺悔とはこんなに恐ろしいものなのだろうか。

「懺悔っていうのは呪いなんだよ」

そんな少女の心を見透かしたかのように、シロがポツリと呟く。

「一生消えない呪い。誰かが許しても、自分が自分を許せなくて重しのように圧し掛かるんだ」

そう言いながら前を歩くシロの顔は見えないが、言葉の端々には悲しみが浮かんでいるような気がして。

「シロは懺悔しているの?」

少女は思わずそう質問してしまった。シロは少女の方に顔を向け驚いたように目を見開く。と、次の瞬間にはへらり、と笑っていた。

「してるよ、ずっと、ずぅっと前から」

でも、と肯定したシロは嬉しそうに笑って言いのける。

「その罪のおかげで俺は今こうして立っていられるんだ」


「…」

少女はシロに声をかけようとして…かけることができなかった。当然だ。呪いだというのに、なぜそれを嬉しそうに語るのか、今の少女にはとても理解できるわけがなかった。

「そんなことより、ほら、あれ」

シロが話を逸らすように指さした先には光る何かが落ちている。

「あれがお前の記憶」

「私の…」

いざ対面してみるとなんとも実感が湧かないものだ。ただの小石のような大きさで、光っていなければ気づきもしないだろう。

「触ってみればわかるよ」

シロに促されるまま、光るそれに触れるとまるで流れる川のように記憶が流れ込んできた。


『ああ…なんて可愛いのだろう』

男性が涙ながらに呟く。しかしその声には喜色が滲んでいた。

『この子、女の子なんですって』

同じく嬉しそうに赤ん坊を抱く女性の声。

「お父さん…お母さん…」

その光景を遠くから見つめていた少女は無意識に呟いていた。そうだ、これは少女が生まれた時の記憶。この二人は少女の両親だとわかる。思い出せて嬉しい筈…なのに、こんなにも胸が締め付けられるのは、どうしてだろう。

『どんな名前にしようか』

父親が呟いた。

『ふふ、実はもう決めてあるの』

母親はスヤスヤと眠る赤ん坊の額に口づけ口を開く。

小幸こゆき。どんな小さな幸せでも感謝できますようにって』


「ああ、思い出した」

少女…小幸はポツリと呟いた。

「私の名前は小幸、小幸だよ」

自分に言い聞かせるように、あるいは自分の名前に忘れていたことを懺悔するように何度もその名を呼んだ。

「そうか…いい名前だな。どんな小さな幸せでも感謝できる、優しい名前だ」

シロは名前を思い出した小幸に心底嬉しそうにそう話した。そんなシロの言葉に小幸はどこかくすぐったいような気持ちになる。

ふと、小幸は改めて自分の体を見渡す。今までどうして気にしてなかったのかというほど、体の熱さが、心臓の鼓動の呼び声が小幸の体を巡っていた。

「名前を思い出したから、存在がはっきりと形作ったんだ」

察したようにシロがそう説明する。

「名前がないままだと存在も力もなくなっていって、やがて消えていくんだ」

つまり小幸は名前を思い出せなかったらこのまま消えていたということだ。


いや、そんなことより…

「シロは!?大丈夫なの!?」

小幸はシロの着物を掴み、勢いのまま問いかける。あっけらかんと名前がないと言ったシロだって、本当は小幸と同じくらい危ない状態なのではないか。しかしシロは虚を突かれたようにポカン、とすると、「ふっ」と吹き出し笑い始めた。

「笑い事じゃないよ!このままじゃシロ消えちゃうんだよ!?」

「いや、ごめん。馬鹿にしてるわけじゃないんだ。嬉しくて」

シロは笑い過ぎたのか涙を拭うと、満足げに笑う。

「俺はいいんだ。小幸の記憶が戻れば」

「どうして…」

どうして、シロは小幸にそこまで優しくできるのか。シロにとって、小幸はどんな存在なんだろう。

「シロは、私を知っているの?」

「…ああ、知っているよ。でも教えない」

シロは悪戯気に笑った。


「そもそも俺が小幸に優しくしてるだけで良いヤツとは限らないだろ?」

確かにそうだ。小幸はシロのことを何も知らない。それこそ名前でさえ。小幸を騙してるかもしれない可能性は完全には否定できないのだ。

「でも…シロはいい人だと思う」

小幸がはっきりとそう言い放つとシロは片眉を上げる。

「何でそう言い切れる?」

「上手く言えないけど…シロが約束してくれた言葉」

『大丈夫、約束する。俺はお前の味方だし、お前の力になるから』

「あれは嘘じゃない。嘘だったらあんなに優しい声は出せない。それに…」

小幸はシロを真っ直ぐ見つめた。

「私がシロを信じたいから」

シロは嬉しそうに笑う。まるで小幸がそう言うことを知っていたように。

「小幸は強いな」

シロは手を差し出す。

「じゃ、俺はもっと信じて貰えるように小幸の傍にいるとするかな」

きっと小幸がシロを信じなくともシロは小幸の傍にいただろうが。しかしそんな軽快に振舞うシロに小幸の心は軽くなるのだ。

小幸は今度は迷うことなくシロの手を握る。相変わらず温かい。

「行くよ」

「うん」

景色が移ろっていった。


***


次にシロと小幸が移ったのは雨が降り続く空間だった。

「ここは『悲しみの間』、永遠に止むことのない悲しみが降り注ぐ場所だよ」

そう言われて小幸は納得した。誰の、何のための悲しみなのか知ることのできない小幸はこの雨に濡れることができないのだと。

しかし、ここまで降っていて涙の雨はどこへ流れていくのだろう。そう思い小幸が地面に目を凝らすと水たまりがプルプルと不自然に震える。すると、段々と水たまりは形作っていき、小さな二頭身のマスコットのような形になった。

「し、シロ…あれ…!」

小幸がシロの袖を引いて動きだす先程の水を指さすとシロは「ああ」と落ち着いた声で話す。

「アレはアイだよ」

「アイ?」

「ここの雨が集まってできた生き物だよ、ああやって定期的に生き物になって、蒸発して消えるんだ」

小幸は納得した。アイがいることでここは水が溢れることはないのかと。

「さて、肝心の小幸の記憶だけど…見つからないな」

悲しみの間は雨が降っている…しかし、逆に言えば雨以外は何もない。とすれば可能性は一つだ。

「おい」

シロは歩くアイを摘まみ上げた。

「小幸の記憶をどこにやった?」

シロはアイを睨みつけ問いかける。小幸の記憶が見当たらないということはアイが隠しているのだろうと察せた。しかしシロの問いかけにアイはジタバタと逃げようとする。

「早く教えろ」

答えようとしないアイにシロは僅かに声を低くして脅すように話した。そんなシロにアイは怯えてしまったのかブルブルと体とも呼べる水を震わせている。

小幸は見ていられず思わずシロの腕を掴んでいた。

「シロ、この子怯えてるよ、可哀想だよ。離してあげて」

「でも…」

「いいから」

小幸が強く言うとシロはしぶしぶとアイを下ろす。未だに震えているアイに小幸はしゃがみ込み、優しく問いかけた。

「ねぇ、私たち、記憶を探しているの。どこにあるか教えてくれないかな?」

小幸がアイに問いかけるとアイは震えるのを止め、小幸の足元にピトリとくっつく。

「わっ…懐かれたのかな」

「さぁね、しらな~い」

シロはすっかりヘソを曲げてしまったようだ。わざとらしくツンとした態度を取っているくせに、アイを怖がらせたことに負い目があったのかチラチラと様子を伺っている。そんなシロに小幸はクスリ、と笑った。

アイはしばらく小幸にくっついていたが、やがて離れテクテクと歩き始める。一定の距離を取ると小幸たちの方を振り向いたので案内するつもりらしい。

「案内してくれるみたいだよ、行こう」

「…」

シロは明らかに背を向けている。その顔は険しくなっており、小幸はまだ怒っているのかと苦笑した。

「ほら」

「!」

小幸は咎めるようにシロの手を握ると、シロは険しい顔をしながらも引かれるまま大人しくついていく。シロが終始無言でアイを見つめるその目に悲しい色が宿っていることに小幸は気づかなかった。


しばらく歩いて、小幸は驚愕する。シロは険しい顔のまま「やっぱりか…」と呟いた。

そこにいたのは先ほどのアイを何十倍にもした巨体な水の塊だったのだ。

「記憶は共鳴した生き物に力を与えることができる。アレは小幸の記憶に共鳴してここまで大きくなったんだろうね」

「そんな…」

巨大なアイを見つめる。アイの透明な水の中に光を放つものがあった。それが小幸の記憶なのだろう。

「ねぇ、私の記憶、返して」

巨大なアイの水の体に触れ、呼びかける。悲しみを理解できない小幸は悲しみでできた水の体に手を入れることはできないらしい。

「大切な記憶なの、お願い」

何度呼びかけようともしかし、アイはいやいやというように頭を振った。

…まるで、泣いているみたい。小幸はそう思った。

アイは体が水でできている。悲しみの雨でできた水を。人間のように涙を流すことはなかれどその全身でアイは泣くのだ。


「…大丈夫だよ」

小幸は気づけばアイにそう語り掛けていた。

「何も怖いことはないよ、大丈夫、一人じゃないよ」

小幸はアイに優しく語りかける。慰めるように。

「大丈夫だよ。私は貴方の味方だよ」

何度も、何度も。不安を取り除くように。安心を与えるように。その体を撫でながら。

そうしていくうちにアイはどんどんと小さくなっていき、元の小さなアイに戻った。しかし小さなアイは小幸の記憶を体全体で精いっぱい抱え渡すまいと抵抗する。

そんなアイを撫でたのはシロだった。

「シロ?」

「…ずっと、守ってくれたんだな。ありがとうな。もう大丈夫、小幸は俺が守るから」

アイはシロの顔を見上げる。やがて、何かを納得するように頷くと蒸発し、消えた。


「小幸」

シロは小幸の記憶を手に持ち、眉を下げて小幸の方に向き合う。

「この記憶はおそらく幸せなものじゃない。アイが共鳴したということは、悲しみが含まれてる可能性が高いんだ」

シロはそう言うと俯いてしまった。

「一度戻った記憶はなかったものにできない。それでも…思い出したいか?」

シロは小幸を気遣って言っているのだ。もしかしたら記憶の内容も知っているのかもしれない。それでも…小幸に尋ねるのだ。小幸の意思を尊重してくれる。だから…

「私は思い出したいよ。どんな悲しい記憶でも私の大切な記憶だもん」

「…そっか」

小幸が強く意志を示すとシロは記憶を小幸に渡した。再び小幸に記憶が流れ込んだ。


『貴方が花瓶を割ったんでしょう!?』

『違う!本当に割ってないの!』

『嘘を吐くんじゃないの!』

そうだ、小幸の周りには必ず不幸なことが起きた。しかしそれは小幸が起こしたものではなく、偶然に起こる出来事なのだ。しかしそんな偶然が繰り返されれば周りは自然と小幸のせいだと思い込むようになる。

『大丈夫、大丈夫よ、小幸。貴方は私たちが守ってあげるから』

そんな中でも小幸の両親は味方だった。両親はどんなことがあっても小幸を信じて守ってくれていたのだ。

…あの時までは。

『小幸!!』

迫るトラックのクラクションの音、ドン、と強く突き飛ばされる感覚。小幸が最後に見たのは小幸を突き飛ばした両親がトラックにはねられる光景だった。


「そっか…お父さんとお母さんは…」

涙が溢れる。胸が何度も何度も引きちぎられるかのような感覚だ。

「…」

シロは何も言わず小幸を抱きしめる。小幸はその温かな体温に縋るように、顔を埋め声をあげた。

「うぅっ…ふぅぅ…お母さん…お父さん…!ごめん、ごめんなさい…!!」

「小幸のせいじゃない。小幸は何も悪くないよ」

シロは小幸の頭を撫で、何度も何度も優しく言葉を投げかけ続ける。かつて小幸がアイにしたように。

どれだけ泣いただろうか。まだ心は痛いし全てを受け止めきれたわけではないが、それでも大切な記憶なのだ。思い出せたことを喜ぶ気持ちは嘘じゃない。

足元を見ればアイたちが心配げに見つめている。

「『哀』しみは『愛』しさから生まれるんだ。アイが小幸に記憶を渡したがらなかったのも小幸が悲しむとわかっていたからなんだよ」

シロはそう説明する。アイが共鳴したのは『哀』か『愛』か。否、どっちもだろう。

「確かに悲しいよ。でも…」

小幸はシロの手を繋ぎ、アイたちを見つめた。

「一人じゃないってわかったから。一緒に悲しんでくれる人がいるから。大丈夫だよ」

小幸が笑うと、シロは悲しそうに笑う。


「…小幸は強いな」

「シロが守ってくれるんでしょ?」

それはシロがアイに言った言葉。

『もう大丈夫、小幸は俺が守るから』

それは悲しみに陥ってもしっかりと小幸の心の支えになってくれた。

「ありがとう」

小幸が笑いかけるとシロはふい、と顔をそむける。機嫌をそこねたのかと思ったが、白い肌にさす朱色がそうではないのだと説明していた。

「ふふっ」

「…なに」

思わず小幸が笑うとシロはジッ、と睨む。わざとらしく拗ねた声を出している時点で怖くもなんともないのだが。

「ほら、次行くよ!」

照れ隠しなのだろう、雑作に差し出された手にクスリと笑い手を握ると、一体のアイが小幸の足元にくっついた。

「どうしたの?」

小幸が話しかけるとアイは手に持っていたものを渡す。それはまるで涙をとじこめたようなガラス玉だった。ゆらゆらと、玉の中を覗くとまるで水の中にいるかのような錯覚を覚える。

「アイの雫だな。小幸の身に危険があった時に守ってくれるアイの祝福だ」

共鳴したとはいえ小幸の記憶を奪ったことに引け目を感じていたのだろう。小幸はアイの雫を大切にポケットにしまった。

「ありがとう」

アイにそう言うとアイたちは小幸を応援するかのように小さな手を精いっぱいに振る。

「行くよ」

小幸はアイたちに手を振り返しながら移っていく。変わっていく景色に、それでも小幸はアイを見えなくなっても手を振り続けた。


***


次の場所にたどり着き、辺りを見渡したシロは顔を顰めた。それもそうだろう、暗い空に赤い月、周りは黒い木々に囲まれ森の中だとわかる。暗く、どこか不安感を煽られる雰囲気だ。

「ここは…恐怖の間、だと思う」

シロは曖昧な言い方をする。

「前の恐怖の間はここまでおどろおどろしくなかったんだ。たぶん…いや、なんでもない」

シロは言葉を濁したが大体予想ができた。おそらく小幸の記憶が共鳴しているのだろう。

がさがさ、とふいに草むらが揺れた。シロは咄嗟に小幸の前に出る。

「あ…」

しかし、出てきたのは子供のような背丈の、肌が青い住人だった。

「た、助けてください!」

子供はシロたちを見つけると必死な様子で助けを乞う。その姿に悪意がないのを見て、シロは警戒を解いた。

「こいつらはギシン、何の害もない臆病な住人だよ」

シロは小幸に説明するとギシンに向き直る。

「何があった?」

「じ…実は、アンキが出たのです!」


ギシンは集落の村に小幸たちを連れて行く道で、たどたどしくも説明してくれた。

昨夜、死んでいるギシンが現れたのだという。昨日は祭りがあり、小さな集落のギシンたちはお互いのアリバイがあった。そんな中でのギシンの一人の死。誰かが声をあげたのだ。「アンキの仕業だ」と。

「その、アンキって?」

「アンキは我々の村を襲う悪魔なのでございます。ギシンと同じ姿で紛れ込み、ギシンを殺して回るのです」

ああ、恐ろしい!とギシンは涙を堪えるように顔を覆った。そこで黙っていたシロは重々しく口を開く。

「そのギシンの死体はどうした?」

「ギシン皆で泣きながら、墓塚と呼ばれる洞窟の奥底へ置いてきました」

「…」

シロは何かを考え込んでるようで難しい顔をして黙ってしまった。そんなシロに話しかけようかと小幸が迷っていると森が拓けてくる。

「つきました。我々の村です」

ギシンの村についた小幸は唖然とした。最初に会ったギシンと同じ顔、同じ格好のコピーしたかのようにそっくりなギシンたちが木造の家から小幸たちを見つめていたからだ。


「あの…どうしてギシン、さんたちは皆同じ格好をしているのですか?見分けがつきづらいというか…」

「我々は特殊な能力を持つ者が現れます。そのため、同じ格好をして能力を隠すのです。アンキに能力がバレてしまえば恰好の餌になってしまいますから」

「な、なるほど…」

実際全員ギシンという名前上困ることもないのだろう。ギシン同士ならお互いの見分けもつくのだろうか。

「我々はなんとしてでもアンキが悪行をしないようにアンキを吊るさなければなりません。どうか、お力になってくださいませんか!」

「その、吊るす…って…」

ギシンは黙って涙を流す。なんとなく言わんとすることが分かった。

「そもそもアンキは本当に出たのか?」

シロはギシンに問いかける。

「ええ、間違いありません!ギシンが一人死んだにも関わらず村人の数が減っていないのです、これはアンキがギシンに紛れ込んだ証拠です!だからどうか…!」

青い肌であることもありギシンは死に物狂いで懇願する。その様子に圧されたシロは息を吐くように呟いた。

「…わかった、わかったよ。とりあえずアンキが誰かわからないなら話を聞くしかないね」

「ええ、ええ、ぜひ。我々はお互いを監視するために家にこもっております。ぜひ話を聞いていってください」

「…」

シロは喜ぶギシンに複雑そうに眉をひそめる。


「どうするの、シロ?」

シロと小幸は端っこにある空き家を借りてアンキを吊るすための審判役として滞在することになった。

「…俺は、誰も吊るさないよ」

シロは重々しく、しかし強い口調で口を開く。

「アンキがどんな思惑であれ、俺たちが勝手に殺すわけにはいかない」

「でも…もし、アンキを吊るせなかったら…」

死ぬのは罪もないギシンだ。

「…少し、気になってることがある」

シロは呟いた。しかし、未だに決めかねているのかポツ、ポツと言葉の欠片を紡ぎながら話す。

「それを調べるためには時間がかかるし…小幸と離れなきゃいけない。きっとギシンたちは俺たちがここから出るのを嫌がるだろうし…」

シロはそう言って小幸を心配げに見つめた。シロとしては小幸からひと時でも離れるのか心配なのだろう。かといってシロと小幸が共に村を出ていったとギシンたちに知られれば、臆病なギシンは見捨てられたのかと嘆きどうなるかわからない。

「…私は大丈夫」

小幸は胸のあたりをギュッと握り、自分に言い聞かせるように話した。本当は不安だ。一緒にいて欲しい。それでも、シロの足手まといにはなりたくなかった。


「でも…」

「私なら、大丈夫だから」

「…」

小幸の浮かべた笑みが強がりだということは分かっているだろう。それでも小幸が大丈夫だと主張すればシロはしばらく考えた後、頷いて小幸の頭に手を乗せる。

「できるだけ早く戻る。小幸は…」

「誰も吊るさない、だよね?」

「…ああ、恨みを買われる可能性があるから」

小幸は強く頷く。シロはまだ不安なのか小幸を見つめた後、くるりと回ると姿を消した。

「…さて」

小幸は叱咤するように自分の頬を軽く叩く。小幸だってただ立っているわけにはいかない。もちろんシロの約束は守る。誰も吊りはしない。それでも…ギシンたちに話を聞くくらいはしてもいいだろう。

小幸は扉に手を伸ばした。小幸が今いるこの家は左端で右に横に並ぶように四軒の家が建っている。順番に近い家から聞いていくのが妥当だろう。


手始めにトントン、とノックしたのは隣の家…便宜上一番目の家と呼ぶことにした。パリン、と何かが割れる音がした後、扉がおそるおそる開かれる。

「な、なななにか御用でしょうか…?」

「ごめんなさい、みなさんが何をしていらしたのか。ちゃんと聞いて回ろうと思って」

「そ、そうですか…」

随分と臆病なギシンだ。誰かが死んでいて、これから殺されるかもしれないという状況では仕方ないと思うが。

「お一人ですか?」

「いいえ、もう一人いるのですが…怪我をしていて」

「そうですか…誰か動いたという情報は?」

「わかりません…」

質問すればするほどギシンは青い肌をさらに青くさせていく。これ以上聞くのは申し訳ない気がして、小さく礼を言って扉を閉めようとした時。

「あ、あの…」

咄嗟に小幸はギシンに引き留められる。

「はい?」

「私…実は秘密の能力を持っているんです」

「え?」

小幸が思わず声をあげるとギシンはシー、と指を口に当てるので小幸は慌てて口をつぐんだ。


ギシンはひそひそと、聞こえないように小声で話す。

「実は…アンキが誰なのかわかる能力なんです」

「え、そうなんですか…!」

「あ、でも、わかるのは一日一人だけで…誰かを指名しないといけないんです」

つまり昨夜の事件の後、このギシンは誰か一人を指名していたらしい。

「私の二つ右の家…貴方たちをここへ連れてきたギシンはアンキじゃありません」

「そうなんですね」

二つ右…つまり、三番目の家だ。何もわからない以上、とりあえずこのギシンの言葉を信用するのも判断材料になるかもしれない。

「ありがとうございます」

「いえ…お気をつけて」

そう言って扉がバタンと閉まる。

「…三番目の家はアンキじゃない…」

小幸は覚えるように何度も小声でそう呟くと「よし」と次の家に向かった。


二番目、真ん中に位置する家はやたらと騒がしく、家の前でも騒ぎ声が聞こえる程だ。何度もノックしても気づかないので「すみません!」と大きな声をあげるとようやく扉が開いた。

「ああ、ごめんなさい!下の子たちがうるさくてね」

「い、いえ…」

随分と快活そうなギシンだ。兄弟であろう数人が揉みあいになっている。

「ご家族は出かけましたか?」

「いえ、御覧のとおりこの子たちは悪戯っ子でね。真っ先に疑われるだろうから家に出してないよ」

まぁそのせいでこんなにうるさいんだけどね、とギシンは頭を押さえる。家族いる以上、アリバイは高そうだ。

「ええと…なにか能力とか…」

「いいや、私たちは何も持ってないよ」

ああでも…とギシンは思い出したように話す。

「左隣の家…さっき貴方が話していた家が能力を持ってるんじゃないかな?」

「どうして?」

小幸がそう尋ねるとギシンは何かを思い出したのか顔をしかめた。

「だってあの家、二人暮らしだっていうのに喧嘩の声がいつも聞こえてくんだよ。『お前の能力のせいで』とか、よく言ってたしね」

「喧嘩、ですか?」


意外だ。あの臆病な様子だと喧嘩なんて到底しなさそうなのに。しかしよく思い出してみれば一番目の家のギシンは全身を見せなかったが腕にところどころ傷が見えた。さらに同居人は怪我しているとも言っていたこともあり、本来は怒りっぽいのかもしれない。しかし、どうにも小幸は納得できなかった。

「本当に左隣の家ですか?もう一つの右隣の家じゃなくて?」

「いいや、絶対あの家だよ。いつもうるさくするこの子たちでさえ迷惑してたんだから」

途中で話を聞いていたギシンの兄弟たちもうんうんと頷く。

「そう、ですか…」

未だに納得のいかない小幸をおいてギシンは話を進める

「ああ、でも能力者だとしたらあの家の二人は無罪になるね。どちらかが能力を持ってたとしたらアンキに成り代わられた時すぐに気づくだろうからね」

小幸は情報を整理するために頭をぐるぐると回した。このギシンの言うことが正しいなら、一番目の家のギシンが能力を持っているというのは本当だ。とするならば…?

「…ありがとうございます」

小幸は考えるのを一旦放棄した。今の状況で判断するのは情報不足だと思ったからだ。

「頑張ってね」

同じ顔の笑顔が複数、小幸を見守りながら扉が閉じた。


一番目の家にもう一度話を聞こうとノックしたが、何回しても反応がなかったのでしかたなく小幸は三番目の家の扉を叩く。

「はい…ああ!来てくださったのですね!」

開いた扉にいたのはおそらく最初に出会ったギシンだ。

「ええ。アンキについて何か知りませんか?」

「いいえ、しかし私は悲しいです」

「悲しい?」

小幸が復唱するとギシンは突然おいおいと泣き出してしまう。

「実は私は昨夜それぞれのギシンに話したのですが、皆が嘘を吐くのです」

「嘘?」

「ええ。だってそうでしょう?皆が本当の事を話していればアンキなど誰かすぐわかる筈なのに!」

言葉通りに受け取るなら確かにそうだ。でもそれを言うのなら目の前のギシンだって嘘を吐いている可能性を捨てきれない。小幸は複雑な思いで泣くギシンの話を聞いていた。

「せめて誰がギシンかわかれば守れるのですが…」

「守る?」


「ええ、私の能力で一人に特別な力を授けることができます。これはアンキの攻撃から守れるのです」

「そうなんですか!」

「はい…全員守れたらいいのですが…未熟で申し訳ありません」

そう言うとギシンはしくしくと泣き始める。確かに全員守れたら強いが、一人を守れるだけでも充分に頼りになる能力だ。

「自分を守ろうとは思わないんですか?」

「そんなことしません!私の能力は誰かを守るために使いたいのです」

よく泣くがこのギシンは正義感が強いらしい。その姿からは嘘を吐いているようには見えなかった。

「貴方は誰がアンキだと思いますか?」

あくまで参考にと、小幸は聞いてみる。

「私が疑っているのは二つ左の家、貴方がいる家と隣の家が怪しいと思うのです…」

小幸の家と隣…つまり、一番目の家だ。

「あのギシンたちはいつも怒っていてお互い怪我ばかりで。私は怖いです…」

どうやら一番目の家と三番目の家は仲は良くないらしい。私情が混じっているが、一番目の家が怪我をするという二番目の家のギシンが話してくれた内容にも矛盾がないあたり嘘ではなさそうだ。


「あ、あの…こんなことお聞きするのは憚れますが、どのギシンを守ればいいと思いますか?」

「えっ」

三番目のギシンからそう問われ小幸は戸惑う。確かに吊るさないという約束は守られるがどのギシンを守るかなんて、小幸が勝手に決めていいものなのだろうか。守れるギシンは一人だけ。もし小幸の予想が外れてしまえば、小幸だけでなくこのギシンもアンキに間接的に手を貸してしまうことになるのだ。

「…私が決めるのは…」

「どうかお願いします!私情の混じらない貴方様にしか頼めないのです!」

涙目でそう必死に乞われては到底否定することは難しい。小幸は腕を組みうーん、と頭を悩ませる。小幸にだって誰がギシンかなんてわかる筈もない。

「…なら、左隣の四人住んでいる家。その一番上のギシンにお願いします」

あの快活な笑顔で小幸を迎えてくれたギシン。あのギシンがアンキでないという確たる証拠はない。ただ少なくとも、あの笑顔がなくなれば悲しむのは三人の下の子たちだ。

「わかりました、あのギシンを守ることにします。ありがとうございます」

「いえ…」

自分の判断は正しかったのだろうか。その答えを示されることなく、バタンと扉が無慈悲に閉じた。


四番目の扉をノックすると「はいはーい!」と明るい声が二つ聞こえる。

「ああ、貴方が審判者なんですね!」

「ようこそ、ようこそ!」

開けて出てきたのは双子のようなギシン二人組だった。ここにいるギシンは全員同じ顔で同じ背丈なので正直双子というのも変な話だが。

「貴方たちは二人で住んでるのですか?」

「うん、そうだよー!」

「いつも二人で一緒だからねー!」

つまりこのギシンはアリバイがあるということだ。

「そうなんですね…お二人は、怖くないのですか?」

「怖い?」

「なんでなんで?」

「だって…殺されるかもしれないのに」


小幸の問いかけにギシン二人は目を合わせて、ふふふと笑う。

「私たちはお互いがアンキじゃないってわかる。それだけで幸せなの!」

「私たちは二人で一人、お互いがいればそれ以外はどうでもいいの!」

まるで縫い付けられたように手を繋ぎ続けるその様子はどこか幸せそうで…

「そ、そうなんですね…」

この状況とはあまりにもアンバランスな姿に小幸は戸惑うことしかできなかった。

「貴方にも大切な人はいる?」

「えっ?」

唐突に聞かれ、小幸は言葉を詰まらせる。きっと今までの記憶だと小幸の両親は大切な人だろう。しかし死んでしまった。その後、小幸は大切だと思う人はできたのだろうか。

「…わからない、です」

小幸が正直に答えるとギシンたちは「そう」と肯定するでもなく否定するでもなく笑う。

「そしたら大切な人ができたら一緒にいなきゃだめだよ」

「そうだよ。後悔していたら、いなくなっちゃうからね」

「後悔していたら…」

ふと、小幸の頭にシロの顔が浮かんだ。シロは大切な人がいるのだろうか。

『俺はいいんだ。小幸の記憶が戻れば』

シロにとって、小幸はどんな存在だったのだろう。小幸にとって、シロはどんな存在になっていくのだろうか。


そんなことを考えてるとゴーンゴーン、と鐘の音が響く。

「あっ、そろそろアンキが動き出す時間だね」

「誰を吊るか決めないといけない時間だね」

小幸は慌てて今までの情報を頭の中でまとめた。

(一番目の家は三番目の家がギシンだとわかっていて。二番目の家は一番の家が能力があると言っていて。三番目の家は一番目の家を疑って。四番目の家はお互いをギシンだとわかっている)

一見複雑そうだが誰も嘘は吐いていない。小幸は混乱する。

(そもそも本当にアンキは誰かを殺すのかな?なんのために?)

とりあえず小幸は誰も吊らない。それはシロとの約束だ。

他のギシンたちはアンキを恐れているのか家の中で息をひそめるように物音ひとつさえたてない。ここで小幸が動いていたら怪しまれるのは小幸だ。小幸も早々に部屋に戻ることにした。

(なんだか…疲れちゃったな…)

話を聞いていて、頭を動かしすぎたかもしれない。この空間は朝や夜の感覚がないがだいぶ時間は経ったのではないか。小幸は少し休憩するためベッドに横になると、そのまま吸い込まれるように眠りにつく。

しかし、そんな小幸を起こしたのは誰かのギシンの悲鳴であった。


慌てて小幸が家から飛び出すと、そこにあったのは血を流したギシンだった。ギシン三人が縋りつくように泣いている。四人のギシンの家…つまり、二番目の家のギシンが殺されたのだ。

「お姉ちゃん!お姉ちゃん!」

三人が口々にお姉ちゃんと呼ぶ。つまり殺されたのは三番目の家のギシンが守っている筈の、あの快活なギシンだった。

「どうして!?私はアンキから守ったのに!」

三番目のギシンはさめざめと泣きながら驚くように見つめている。

「てことはー」

「嘘吐きがいるねー」

四番目のギシンは手を繋ぎながらニコニコと話すが、その疑いの目は三番目のギシンに注がれていた。

「そ、そもそも弟がいるのに殺せるのでしょうか…」

一番目のギシンはおどおどと話す。

「私たちは何もしてない!」

「でも貴方が不自然に動いたのを見たよ!」

三人のギシンたちは一番目のギシンに憎しみにも近い怒りの目を向けた。


「わ、私は何も…」

「ねーいつまで演技しているの?」

「本当は怒りんぼなのにねー」

四番目の二人が言ったことで今度は疑いの目が一番目へと向く。

「っ…私がアンキだというの!?ふざけないで!私がいなかったら私の能力で誰がギシンなのか見分けられなくなるのよ!」

「!?」

一番目のギシンが突然声を荒げる。これが他のギシンたちが語っていた本性だったのだろう。しかしそれが突然表れたことで小幸は驚き言葉を失ってしまった。

「私が怪しいというなら貴方たち二人だって同じじゃない!」

一番目は四番目を指さし声を荒げる。

「私たちはアンキじゃないよー」

「そうだよねー」

そんな中、三番目のギシンが四番目のギシンへと震える声で話した。

「でも証拠がないじゃないのも確かです…こんな状況で笑ってられるなんて…怪しいですよね…」

そんな言葉に四番目のギシンたちは不機嫌そうに口角を下げる。


「待って…」

「私たちを疑うの?」

「そもそも貴方だって守れなかったのにね」


「ねえお願い…待って…!」

「そもそも一人で動けるのは貴方だけじゃない!一番怪しいわよ!」

「そんな、私はみなさんを守ろうと必死だったのに…!」


「待って!みなさん、お願いだから、聞いて…!」

「私の能力はアンキから守るためにあります。それなのに守った筈のあのギシンが死んだということは貴方たち兄弟が殺したのではないですか!?」

「私たちはやってない!怪しいのはあいつだ!」


小幸が止める声も虚しく、ギシンはやれあいつだ、いやこいつだと疑心を積み重ね、やがてそれは殺意へと変わっていく。

「私は嫌!このまま殺されるくらいなら…!」

「!?ギシンさん、待って!」

一番目のギシンが先の尖った皿の破片を両手に持ち他のギシンへ向ける。

「殺すんだね」

「私たちを引き裂くなら、私たちも容赦しないよ」

四番目のギシンたちも共にハサミを取り出した。

「ねぇ!ダメだよ!一旦落ち着いて!!」

小幸が精いっぱいの声をあげても誰も聞きはしない。

「ああ…悲しいです…結局はこうなるのですね…」

三番目は泣きながらナイフを取り出す。

「家族を殺された恨み…晴らしてやる!」

二番目は殺意のこもった目で包丁を持っていた。


「ねぇ、やめて…お願いだからやめて!!」

「小幸」

ふわりと後ろから包まれる安心させるような温もり。誰かなんて確かめなくてもわかった。

「シロ!ギシンたちを止めて!!」

小幸はシロに縋りつく。しかし、シロは酷く悲しい顔で首を振った。

「ごめんな…遅くなり過ぎた…」

「何言ってるの、シロ!?」

「小幸は何も見なくていい。だから」

おやすみ、とシロが小幸の目を覆うと小幸の意識は薄れていく。

シロは意識を失った小幸を横抱きにして悲しい顔で額に口づけた。

「ごめんな…小幸…ギシン…」

シロは互いを殺し合うギシンを見ることなく背を向ける。

「疑心に囚われた暗鬼は誰だっていいのだろうね」

そんな悲しい声を残しながら。


***


「ん…」

「小幸、起きた?」

小幸が目を開けると薄ら明かりに浮かぶシロが心配げに見つめていた。

「私は…そうだ、ギシンたちは!?」

小幸が問いかけるとシロは黙って指をさす。湿った雰囲気に洞窟なのだと察した場所でシロが指さした先には、浅いくぼみと古い看板が建っていた。『墓塚』と書かれている。シロが指さしたということは覗け、ということなのだろう。小幸は無意識に唾をのみながら、おそるおそる墓塚を覗き…思わず声をあげた。

「誰もいない…?」

と。

「最初のギシンが言っていただろう?死んだギシンはここに運んだって。だけど死体はない」

シロは話すのも辛いのか重い声で話す。

「憶測だけど…死んだというギシンは本当は生きていたんだ。そして何も知らず帰ってきたらアンキが出たという情報を聞いた」

そうするとギシンの数が減っていなかった話にも、誰も嘘を吐いてないことにも全て説明ができる。

「初めからアンキなんていなかったんだよ…だけどギシンは臆病な生き物だったからね。自分のことを殺されるという恐怖にありもしない憶測と妄想で互いを殺した」

「そんな…」

小幸は言葉を失った。そんな酷い話があるのだろうか。誰も悪くないのに、誰も傷つく必要なんてなかったのに。


「ねぇ…もしかして、それが起こったのって、私の記憶が共鳴したから?」

「…」

シロは何も言わない。しかし優しい彼が嘘を吐くことも真実も話すことも小幸を傷つけるとわかっていて黙っているのなら、それは肯定だ。

「先に言うけど、これは小幸のせいじゃない。小幸は何も悪くないんだ」

「それでも…それでも私の記憶がなければ、あの人たちは必要のない命の奪い合いをしなくて済んだ!」

「こ…」

「誰が悪いとか、悪くないとか、どうでもいいよ。だってあの人たちはもう…帰ってこないじゃない…!」

酷い八つ当たりだ。小幸だってわかってる、そんなことをこの場で言ったって何も悪くないシロを、そして小幸自身を傷つけるだけだと。それでも、胸を何度も何度も刺され続ける痛みは、溢れ出る血のような黒いドロは口へと溢れて、黒いナイフとなる。自分を傷つける、ナイフへと。

「私なんかいなければ、こんなことにはならなかったのに…!」

「!ちが、小幸!」

手を伸ばすシロを小幸は弾き飛ばした。

「違くない!私は不幸を招くんだ…!私なんて最初から…いなくなってしまえばいい!」

小幸が感情任せに叫ぶ。その瞬間だった。


小幸の後ろから謎の腕が小幸を掴まえる。

「やっと見つけた…俺の小幸…」

そんな声と共に小幸を掴まえる腕は暗闇へと引きずり込む。

「小幸!!」

シロの焦った顔と伸ばされた手に小幸は手を伸ばす間もなく暗闇に閉ざされ消えた。


***


『寂しい、苦しい』

誰かが呟いている。深い森の奥の祠の中で声は、寂しい苦しいと何度も嘆いていた。しかし、しんしんと降り積もる雪はそんな声を隠すように無慈悲に降り続ける。

『誰か…誰か…』

そんな声も小さく弱くなっていった。やがて聞こえなくなると思ったその時。

「どうしたの?」

『!』

気づけば小さな女の子が祠の前に立っていた。

『お前…どうしてここに?』

「声が聞こえた気がしたから」

誰も聞こえなかった声を、この女の子は聞いてやってきたのだ。

「寂しいの?苦しいの?」

女の子は心配そうに祠に積もる雪を払いのけながら首を傾げる。

『誰も俺を見てくれなくて、聞いてくれなくて…このまま独りで消えてしまいそうで寂しいんだ…』

祠は悲しそうに話した。

「そっか…それは寂しいね…」

女の子は悲しそうに顔を顰めて、祠の隣に座る。不謹慎だとわかっていても祠は女の子が自分のことで悲しんでくれることが嬉しかった。


「私もね、寂しいんだ。友だちがみんな私が悪いことするって言うの。悪いことなんて何もしてないのに」

女の子は膝を抱えグスン、と顔を埋める。

『…泣くな、お前が泣くと俺も悲しくなる』

祠は今まで知らなかった。寂しいと、悲しいと自分が思うこと以上に誰かが悲しむことの方がよほど悲しく苦しいのだということを。

『お前、名前は?』

「…小幸」

『小幸か、いい名前だな。小さな幸せでも感謝できる優しい名前だ』

祠は純粋に小幸の名前を褒める。それが嬉しくて、小さな小幸はようやく口角を上げた。祠に温かい感覚が伝わる。名も知らないその感情を、祠は大切に大切に抱えた。

「貴方の名前は?」

『…』

祠は迷う。しばしの沈黙の後、ゆっくりと話し始めた。

『ないんだ。名前』

「えっ…」

『前はあったのかもしれない。でも俺は気づいたらこの祠の中にいて、名前もないから出ることもできずにこのまま消えていくしかなかったんだ』

小幸は黙り込んでしまう。祠は小幸を悲しませたくなくて。それでもどんな言葉をかけたら小幸が笑顔になるかわからず黙ることしかできなかった。


「…じゃあ、私が名前つけてあげる!」

『えっ…?』

しかし女の子は強かに、笑って言いのける。

「名前をつけたら寂しくなくなるよね、消えないよね?」

『いいのか…?』

きっと小幸は知らない。名前を与えることはえにしを持つことだ。名前を貰った者と与えた者はお互いに影響し合う。

「いいの!私が決めたんだから!」

しかし小幸の強い言葉に祠はその名前の意味のことを言えなくなってしまった。それに名前は喉が出る程欲しかったものだ。うんうんと唸りながら自分の名前を考えてくれる小幸の姿が愛おしくて。

(もし…小幸に名前を貰えたら…)

その先の光景を想像してしまって。祠は期待を抱かずにはいられなかった。

「決めた!」

小幸は決心したように祠に向き合う。


「貴方の名前はザクロ!」

『ザクロ?』

うん、と小幸は笑顔で頷いた。

「お母さんがね、言ってたの。ザクロは再生の意味を持つ大切な物なんだって」

小幸はザクロを模したかんざしを見せる。

『それは?』

「お母さんがくれたかんざし。大切な物なんだって言ってた」

だからね、と小幸は祠の方を見て微笑んだ。

「貴方にも大切な物の名前をあげるの!貴方には大切に生きて欲しいから」

小幸は祠を抱きしめ、よしよしと優しく撫でる。実際に撫でられているわけでもないのに、その温かな手を、柔らかい肌を感じた気がした。

「貴方は生まれ変わるの。ザクロとして、優しくて強い人に。再生するんだよ」

『ザクロ…ザクロ…』

ザクロは名前を得て確かに再び生を受けたのだ。


『…小幸、俺は約束しよう』

ザクロは心に決めた。

『俺はお前の味方になる、必ず小幸の力になってみせる』

その決意を小さな小幸はどう思っただろう。ただの慰めにしか思わないかもしれない。

今はそれでいい。

『小幸、お願いがあるんだ』

「なあに?」

しかし…その先の幸せな景色、記憶は段々と白んでいく。

『俺に…くれ…必ず…する…』

…あの時のザクロはなんて言ってくれたんだっけ。


「…ダメだ!小幸!」


***


「ザクロ…」

小幸が目を開けると同時に涙が零れ落ちる。

今のは自分の記憶だろうか。それにしては小幸が感じるはずのない感情が流れてきたような。

「ねぇ、ネェ、大丈夫?オジョウサン」

気付けば黒いもやに人の唇だけがついた不思議な生き物が小幸の傍に立っていた。

「ここは…」

辺りは白い霧だらけで何も見えない。

「ココハ真実の間。お嬢さん、マイゴ?」

もやは首を傾げて心配そうに尋ねる。

「そうだ…私、シロと喧嘩して…」

焦った顔のシロを思い出しハッと小幸は顔を上げる。

「そうだ、私、何かに引っ張られて…!」

慌ててきょろきょろと辺りを見渡しシロを探す。シロの姿はどこにもない。

「ねえ、シロを知らない?真っ白の髪の赤い目をしたザクロのかんざしを持った男の人」

自分に何があったかわからないがとにかくシロに会いたかった。八つ当たりしてしまったことも謝りたかったのだ。

もやはピョンピョン、と跳ねる。

「シッテル、知ってるよ!」

「本当!?」

「コッチだよ」

もやは案内してくれるらしい。周りが霧だらけの中、うやむやに歩き回るよりはいいだろう。小幸は言葉に甘えてついていくことにした。


「ねぇ、まだ?」

「まだまだ、マダダヨ」

随分と歩いた気がするのは景色が全く変わらないからだろうか。それでもシロに会えるならと、小幸は辛抱強く歩き続けた。


「もう少し、モウスコシだよ。お嬢さん」

「…う、ん…」

そう話しかけるもやに小幸は僅かに間を開けながらなんとか重い口を開けて返事をする。

(私…誰かを探していたような…あれ…誰、だっけ…)

小幸は気づいていない、自分に異常が起きていることも。いつの間にかもやの大群がクスクスと笑いながら小幸を見ていることにも。

「ホラ、頑張って。オジョウサン」

ただ言葉のままに小幸は歩いていた。その行動の意味を忘れてしまっていても。


「あとスコシ、アト少しだよ。お嬢さん」

「…」

白い霧は黒い霧に変わっており、小幸の歩く先は深淵だ。落ちてしまえばひとたまりもない。無数のもやは小幸を嘲笑うように汚い笑い声をあげる。それでも小幸は止まることはなかった。言葉に乗せられ、その足を深淵へと運ぶ。


その時だった。

「そこまでだ」

誰かが小幸を引き寄せる。瞬間、小幸の意識が霧が晴れたようにはっきりと戻った。

「ヒッ…!」

そして小幸は思わず悲鳴をあげる。小幸が今まさに足を踏み込もうとした深淵だと思っていたそれは、大きく口を開いた唇だったのだ。

「邪魔、ジャマするな」

「うるさい、消え去れ」

小幸を抱えていた腕の片方が手をかざすと、光が辺りを包み込み、もやの悲鳴が響く。

悲鳴が止んだ時には、小幸はもやも霧もない、明るい小道に立っていた。


「よかった、間に合って」

そこでようやく小幸は後ろを振り返った。黒い髪と赤い瞳をもった、落ち着いた男性は小幸を見て優しく笑っている。ドキリ、としてしまったのはその黒い着物と深い赤色の羽織を着こなすその姿が大人っぽく見えたからか。

小幸がなにも言えないでいると男性は小幸を抱きしめる。

「えっ…あ、あの…!」

「やっと…やっと会えた…」

驚く小幸に男性は心底嬉しそうにそう呟く。

「あの…貴方は…?」

小幸が戸惑いながらもそう尋ねると、男性は困ったように眉を下げた。

「そうか。知らなくてもしょうがないな」

すまない、と男性はにこりと笑う。

「俺はザクロだよ。お前が名前をくれた、ザクロだ」

「ザクロ…!?」

小幸は驚いて目を開く。確かにあの記憶にはザクロの姿はなかった。

「小幸のおかげで今こうして生きることができて、力も手に入れたんだ」

確かにあのもやを一瞬で倒した様はまさに無双とも言えるだろう。

ザクロの言ってることにはなにも違和感はない…なのに、なぜだろうか。

(シロの瞳の方が、ザクロみたいだなんて思うのは…)

目の前のザクロも赤い瞳を持っている。なのにどういうわけか、シロの時のように惹かれないのだ。


それはそれとして、ザクロとの再会なのだ。喜ぶべきだろうと小幸は笑みを浮かべる。

「ザクロ…元気だった?」

「ああ…小幸も無事でよかった」

無事といって小幸は思い出した。

「そう言えば、さっきのもやは?」

どこにもいないが、退散させたのだろうか。そう思っていた小幸の考えを否定するように笑顔でザクロは言い放つ。

「殺したよ」

「えっ…」

小幸が驚いているとザクロはそのまま言葉を続けた。

「あいつらはウソヅキ、嘘の間の住人だ。迷い込んだやつを食らうんだ」

「でも…殺さなくても…」

ザクロは小幸の考えを否定するように首を振る。

「小幸は守ってやれるが、放っておいたら他のやつも餌食になるんだ。仕方ないんだよ」

ザクロは小幸の手を取った。その手は氷のように冷たくて、小幸は驚く。

「それとも小幸はこんな俺のこと嫌いになったか?」

ザクロは悲しそうに小幸を見下ろしている。

「…」

ウソヅキたちを殺したことはショックだったが、ザクロは小幸が死にそうなところを助けてくれたのだ。それに、これ以上被害が増えないとするならザクロのやったことは正しかったのだろう。


「嫌いにならないよ」

だから、小幸は「ありがとう」と微笑みかけた。ザクロは小幸のその言葉を聞くと嬉しそうに笑う。そして小幸の手に紳士のように口づけた。

「今度こそ離さない…俺の小幸」

小幸は頬が熱くなるのを感じて顔を俯かせる。そんな小幸を見てザクロはクス、と笑った。

「小幸、今自分に起きてることは理解してるか?」

「えっと…」

小幸は説明しようとして黙ってしまう。自分が記憶を奪われバラバラに散らばってること以外小幸は知らない。どうして奪われたのか、そもそもどうしてここにいるのか、何も知らないのだ。

そのことを伝えるとザクロは苦虫を噛み潰したような顔をした。

「そうか…随分好き勝手されたものだ」


「小幸、これから話すことは信じられないことかもしれない。それでも、聞いて欲しい」

ザクロの真剣な顔に圧され、小幸は黙って頷く。

「小幸は…さらわれたんだ」

「さらわれた?誰に?」

「小幸につき纏っていた赤い瞳の名前のない者に」

それが誰だと言われなくてもなんとなく察せた。

「シロはそんなことしない!」

「…本当にそうか?小幸の傍にいながら小幸に苦しい思いをさせただろう」

「それは…」

違う、あれは小幸が招いた不幸だ。

「そもそも小幸自身に記憶を回収させる必要はなかった。自分で回収してくればよかったのに、それをしなかった」

「…」

そう言われると反論できなかった。シロは自分について何も語ってくれない。全てを信じると言い切れる証拠がなかったからだ。

「…小幸がさらわれた後、あいつは小幸の記憶をバラバラに分けてオクリヨにばらまいて小幸に回収させた」

「…どうしてそんなことを?」

「…俺の邪魔をしたかったんだ。記憶をあちこちに隠して、小幸にわざと手に入れさせるように」

否定したい、でもできない。シロがそんなことできないと思いながら、ザクロの話には筋が通っていて。


「…小幸の周りに起こる不幸もあいつはずっと関わっていたんだ」

「……どうして私を不幸に合わせるの?」

頭がガンガンと殴られるような痛みを感じる。聞きたい、でも聞きたくない。そんな中で小幸は声を振り絞る。

「小幸は特別な祈りの力があるんだ」

ザクロが言うには祈りの力とは、人ではない者の力を増幅させたり、奇跡を起こす力なのだそうだ。

「その力は人間に稀に宿る、そしてそれを狙う者もいたんだ」

シロの顔が浮かぶ。小幸の幸せを喜ぶ顔、小幸の不幸を悲しむ顔、小幸を想う優しい顔。あれが、全部、嘘なのだとしたら。

小幸は目の前がくらりと歪む。思わず倒れそうになる小幸の腰を引き寄せ支えてくれたのはザクロだった。

「大丈夫か?」

「…う、ん」

小幸はザクロの着物に縋りながらなんとか返事する。本当は大丈夫などではない。全てが黒く染まったような、深い深い穴に突き落とされたような、体中が冷めたくなっていく感覚に陥る。


「…小幸」

ザクロが優しく、ゆっくりと語り掛けた。その言葉を染み込ませるように。

「大丈夫だ、俺なら小幸を助けてやれる」

その言葉はまるで真っ黒に染まった小幸に指す一筋の光だ。

「俺を…ザクロに全てを任せると言ってくれ」

「全てを…」

小幸は復唱する。

(苦しみを…捨てられるなら…)

ザクロは優しく微笑んだ。不思議とその身に全てを預けてしまいたくなるような笑顔だ。

「小幸、言ってくれ」

「ザクロを…」

小幸が口を開いた時。


『ダメだ、小幸!』


「っ!?」

どこからか声が聞こえ小幸は弾かれるように思わずザクロを突き飛ばす。もちろん反動で尻もちをついたのは小幸だ。

(今の…シロの声だ…)

どこで聞いたのか、いつ聞いたのかわからない。それでも確かにシロの声だと確信できた。

「小幸?どうした?」

…そうだ、何も全てが辛い事ばかりじゃない。小幸は胸をギュッ、と握りしめる。

「…ザクロ。私、シロを探す」

「えっ…?」

そうだ。シロから何も聞いてないのに、全てを決めつけるのはまだ早い。

「シロから聞いて、本当のことを私が決めたいの」

何よりシロの優しさを、あの温もりを嘘だと簡単に認めてしまいたくなかった。

「…危ないぞ、あいつは小幸を騙している」

「それを決めつけるのは、ザクロじゃないよ」

「…」

ふと、ザクロの赤い瞳が細められる。その冷え切った血のような色にゾクリ、と悪寒がはしり小幸は身を震わせた。しかし次の瞬間にはザクロの瞳にはその冷たさが無くなっていて。

「わかった。あいつのことだから小幸の記憶を回収すれば来るかもしれない。でも無理はしないこと、いいな?」

「う、うん…」

そう語るザクロの顔は優しく笑っており。先程の冷たい目は気のせいだったのかと錯覚させる。


「それなら、探しに行こう」

ザクロは小幸を胸元に引き寄せた。

「しっかり掴まっていてくれ」

「う、うん」

小幸が頷くと同時にふわりと体が浮く感覚に小幸は襲われる。思わずザクロにしがみつくように着物に掴まった。着物ごしから伝わるザクロの肌は…小幸の体温を奪うかのように冷たいもので。


***


小幸は足がつく感覚と共に揺れる地面にバランスを崩す。転びそうになる小幸をザクロは支えた。

「ここは…」

まるで電車の中だ。しかし、窓は真っ黒に染められ電光板は何も示さない。ただゴトンゴトン、という電車の走る音だけが聞こえるだけだ。

「ここは分岐の間、選択を待つ者が集まる」

「分岐…」

小幸たちがいる車両には年老いた女性と小さな子供、そしてカバンを大事そうに抱え背を丸める青年が座っている。

「ここに私の記憶があるの?」

「わからない。もしかしたら、誰かが持ってるかもしれないな」

「そっか、それなら話を聞きながら探そう」


小幸たちはまずそれぞれ座っている人に話しかけることにした。小幸が最初に話しかけたのは老婆だ。

「あの…」

「なんだい!?」

「!?」

小幸が話しかけた瞬間、老婆は目を吊り上げて小幸を睨む。

「え、っと…私たち、記憶を探しているんですけど…」

「そんなくだらないことのために話しかけたのかい!」

「ご、ごめんなさい…」

大きな金切り声に小幸は反射的に肩を縮めた。

「…おい、聞いてるのはこっちだぞ」

ザクロが低く唸る。

「消されたくなかったら…」

消す。その言葉に消されたウソヅキのことを思い出し小幸は慌ててザクロを抑えた。

「待って!他の人にも聞いてみよう!」

「…だが」

「私は大丈夫だから」

ね?と小幸が念を押すとザクロは黙る。一応納得してくれたらしい。小幸はホッと胸を撫でおろした。

「ああ、イライラするね…」

どうやら老婆は何かイライラしているらしい。これ以上老婆と、そしてザクロを刺激しないうちにと小幸はその場を去った。


次に話しかけたのは小さな男の子だ。床につかない足をぶらぶらと揺らしている。

「ねぇ」

そう話しかけると男の子は小幸の方を向いた。

「私たち、記憶を探してるの。何かを知ってる?」

そう問いかけると男の子はニコリと笑う。

「知ってるよ!」

「本当…!?じゃあ…」

「僕が出すクイズに答えられたら教えてあげる!」

「…え?」

呆気にとられる小幸をおいて男の子は「じゃあね~」と無邪気にクイズを出す気だ。

「『一番大きい影は何でしょう?』」

「一番大きい…影?」

小幸は頭を回す…が、ピンとくるものはない。

「ピラミッド…かな…?」

「ぶぶー!ハズレ!」

男の子は悪戯気にケラケラと笑う。

「おい、早く記憶について教えろ」

看過できなかったのかザクロが再び低い声で男の子を脅すように話しかけた。しかし男の子はそんなザクロ動じることなく口を尖らせる。

「えー…だって、僕暇なんだもん。面白い物持ってきてくれたら教えてあげるけど」

「面白い物を持ってきたら教えてくれるの?」

男の子は口を尖らせながら頷いた。

「わかった」

「小幸…」

「持ってくるね」

ザクロが何か言いたげにしていたが小幸は強引に押し通す。このまま男の子とザクロを会話させればまたザクロは消すと言うかもしれない。

「他の人にも聞いてみよう」

「…」

やや強引ではあるがなんとか意識を逸らそうと小幸は明るくザクロに語り掛ける。ザクロは眉にしわを刻んだが一応小幸の意に沿ってくれるようだ。


最後に残ったのは青年だった。しかし…

「………」

青年は何を問いかけてもだんまりを決め込んでいる。最初に話しかけた時に「ヒッ…!」と悲鳴をあげて肩を大きく跳ねさせた様子を見ると耳が聞こえないわけではないらしい。

「あの…私たち、記憶を探してるんですけど…」

「…」

「…何か、知りませんか?」

青年は小幸たちの方を見ることなくただカバンを強く抱きしめるだけだ。明らかに拒否の意思を見せる青年にこれ以上話を続けるのは難しいだろう。そう判断し小幸は早々に切り上げた。下手に会話を続ければまたザクロが何かしかねないと思ったからだ。


「うーん…どうしようか」

完全に手詰まりである。両隣へと渡る車両への扉は固く閉じられており、この車両でしか何かはできないようだ。

「小幸、消した方が早いんじゃないか?」

ザクロはここに来てから随分と虫の居所が悪いらしい。今にもここにいる者たちを消して早く記憶を見つけたいのだろう。それを小幸に妨害され、不快なのだと察せた。小幸としては消すという選択肢はできれば避けたい状況だが、かといって他の案があるわけではない。

どうしたものか、と小幸が頭を悩ませていた時だった。

ガラ、と無機質な音をたてて隣の車両へと続く扉が勝手に開く。あんなに開けようとしても頑なに開かなかった扉が、だ。

「…」

扉の先はよく見えない。扉が開いたことに他の人も…ザクロでさえ気づいてないらしく、何も反応を示さなかった。

「小幸?」

そんなザクロの声を無視して小幸は扉の先へと入っていく。小幸には扉のことをザクロに相談する選択肢はなかった。


隣の車両に行けるかと思いきや小幸が足を踏み入れたのはどこかの家の中のようだ。生活感はあるが綺麗に掃除されており、そして家の中には先程の怒っていた老婆と見知らぬ女性が立っていた。

「あの…」

小幸が話しかけても反応はない。まるで小幸がここにいないみたいに二人は笑いあっている。

小幸は話しかけようと近づいて気づいた。きつい目で睨んでいた老婆がその目を和らげて赤ん坊を抱いてることに。

「可愛い娘ができたと思ったら可愛い孫まで。本当に何から何までありがとうね、○○さん」

「いえ、私の方こそお義母さんに尽くしていただいて、幸せ者です」

老婆は優しい声で女性に語りかけ、女性は嬉しそうに笑う。そのやり取りにあのイライラする老婆の面影はどこにもなかった。

「○○さん、至らないところも多い息子だけど、どうかよろしくね」

老婆は頭を下げる。慌てて女性は首を振った。

「そんな!私にはもったいないくらいの人です!こちらこそ、よろしくお願いします」

そう幸せに笑いあう二人はまるで本当の親子のようで。二人が仲睦まじいのだとすぐにわかった。


そんな光景を見ていると突然、ザザ、と景色がテレビにノイズがはしるように何も見えなくなる。

「どういうことだい!」

ノイズがなくなると同時に老婆の怒号が響き渡った。僅かに物が散らかった家には先程の女性はおらず、老婆と男性がなにやら口論しているようだ。

「新しい女を作って結婚って…突然何を言ってるんだい!?」

声を荒げさせる老婆に男性は面倒だと言わんばかりに大きなため息を吐いて頭をかく。

「だからさっきも言っただろ?あんな女より今の女の方が可愛げもあっていいから、離婚して新しく結婚するんだよ」

吐き捨てるように言い放つ男性に老婆はパクパクと形にならない言葉を落として、諦めたのか頭を押さえて大きく言葉になりそこねた息を吐いた。

「まったく…とんでもない愚息だよ、アンタは。○○さんが可愛げがないだって?あんなにアンタに尽くしてくれるいい子じゃないか」

どうやら男性は老婆の息子らしい。

「…それで?○○さんは?ちゃんと双方理解して離婚しているんだろうね?親権はどうするんだい?」

矢継ぎ早に質問する老婆に男性はイライラしたのか、机を強く叩くと声を荒げて老婆を睨みつける。

「母さんにはどうでもいいだろ!あいつだって勝手に出て行ったし、俺らとはもう他人なんだよ!」

「なっ…!」

男性の言葉に老婆はこれでもかと顔を真っ赤に染めた。

「勝手に、って…○○さんの気持ちを考えたことはないのかい!?子供だってどうするのか決めてないのかい!?」

「うるさいな!○○さん○○さん、って、あんな奴どうでもいいだろ!!」

「っ…!」

鈍く重い、人を殴る音と倒れる音が家の中に響く。

「アンタみたいなクズを産んだ覚えはないよ!!出ていけ!!」

男性を殴った老婆の悲痛な怒りの声と共に再びノイズがはしった。


ノイズがなくなった次の家はまるで強盗にあったかのように荒れまくっていて。電気もついておらず、静けさが人がしばらくいないことを雄弁に語っていた。

ふと、郵便物やら紙切れやらで埋もれたテーブルからパサ、と白い封筒が落ちる。おそるおそる小幸が手を伸ばすと、拾うことができた。

「これ…」

未開封の手紙には小さく、老婆が何度も呼んでいたあの女性の名前が書かれている。

「もしかして…」

老婆はこの手紙に気づいてすらいないのではないか。この手紙の内容は小幸も、あの老婆も知らないことだ。もしかしたら助けを呼ぶ手紙かもしれないし、あるいは全く関係ないことかもしれない。

「…」

それでも、ここは分岐の間だ。選択に気づかなければ選ぶことすらできない。

「おばあさんに渡しに行こう」

小幸はしっかりと手紙を抱きしめ、いつの間にか現れた白く切り取られた空間に向かって歩いた。きっとこの空間の出口なのだろうと小幸は感じたのだ。


「小幸…!」

また電車が走る車両へと戻るとザクロが小幸を抱きしめる。

「急に消えたから驚いた、無事でよかった…!」

「ごめんね、ザクロ」

ザクロには申し訳ない気持ちを抱えながら小幸はザクロの腕を解くと老婆の元へと向かった。

「あの」

「今度は何だい!?」

不思議と老婆の怒号を小幸が怖いと感じることはない。その怒る声が泣き声のように感じたからだ。

「これ」

「!」

小幸が手紙を見せると老婆は目を見開き、奪い取るように手紙を受け取ると、手紙を読み始めた。読んでいた老婆の吊り上がった目元は、徐々に嬉しそうに、それでいて悲しそうに下がる。

「そうかい、あの娘も、子供も元気なんだね…よかった…」

本当によかった、と老婆は手紙を抱きしめ静かに涙を流した。そして老婆は自虐するように笑う。

「本当に、最後まで情けない義母ははおやだよ。あの娘に何も残してやれなかった、それどころかあの娘の涙にすら気づいてやれなかった。そんな自分にイライラして、周りに当たり散らかして…」

老婆は本当は優しい性格らしい。だから許せなかったのだ。傷つく愛しい義娘むすめを助けてあげられなかった自分が、息子に手をあげて傷つけてしまった自分が。


過去の傷はいつまでも消えることはないだろう。

「…それでも、今から変えることはできる」

小幸の呟きに老婆は顔を上げた。

「その方に会いに行けばいいじゃないですか。その方は貴方を信じていた…今でも信じているから手紙を送ったんだと思いますよ」

「…でも、恨んでるかもしれない。顔すら見たくないかもしれない」

「そうやっていつまでも立ち止まるんですか?」

「!」

小幸の言葉に老婆は目を見開く。

「私には何もわかりません。でも…いつだって選択は待ってくれない。失ってからでは選択できないんですよ」

「…」

老婆はしばらく黙り込んだ。そして覚悟を決めたように、顔を上げた。その顔は憑き物が落ちたように晴れやかなもので。

「ありがとうね、お嬢ちゃん。そして…ごめんね」

ふと、電車が止まり、扉を開ける。電光板にはあの女性の名前が浮かんでいた。

「行ってくるよ。どんな罵倒でも暴言でも、何も聞かないはずっといい」

老婆は立ち上がる。そして思い出したように「ああ」と声をあげた。

「アンタの記憶だったね。これのことだろう?」

老婆は光る小さな記憶のカケラを小幸に渡す。

「…アンタはこんな老いぼれになるんじゃないよ」

そう老婆は笑うと、電車を降りた。扉は閉まり、再び動き出す。


老婆はどうなるのだろう。わからない。ただ…きっとどんな結果になっても自分の選択を後悔はしないだろう。

そんなことを考える小幸の頭に乗せられる手、ザクロだ。

「よくやったな、小幸」

ザクロは微笑んでいた。

「しかし、なにがあったんだ?」

「それがね…」

小幸が手紙を拾った空間について説明するとザクロはふむ、とあごに手を当てる。

「きっと小幸はあの老婆の記憶の中を疑似体験したんだろうな。手紙が老婆の記憶に共鳴してあったのだろう」

きっとあの手紙は、女性は老婆に伝えたかったのかもしれない。だからこそ老婆の記憶の中で小幸に訴えかけたのだとしたら。小幸が見たのは、老婆と女性の気持ちが共鳴してできあがった空間なのだろう。

「しかしそうだとしたら感心しないな」

ザクロは小幸を見つめ苦言を零す。

「今回はたまたまよかったものの、個人の空間は時に身勝手な理由で小幸を閉じ込めるかもしれない。今度からは入らない方がいい」

「…でも、もしあのおばあさんの記憶に入らないと手紙を見つけられなかったように、記憶に入らないと選択できなかったら?」

「…小幸には、関係ない話だよ」

ザクロはそう言って顔を逸らし、誤魔化そうとした。

…でも…


小幸が反論しようと口を開こうとした時。ガラ、と今度は反対の車両への扉が開く。

「あ…」

小幸はチラリ、とザクロの方を見る。ザクロはやはり気づいていないのか小幸の方を向く気配はない。どうして小幸だけが気づけるのだろう。しかし、小幸にすればそれは些細な事であった。

…確かに、ザクロの言うように小幸にとって関係ない話かもしれない。

「小幸?」

…それでも、今小幸が行かないという選択をしたら、他の人が救われないのだとしたら。

「…ごめん、ザクロ」

小幸は扉に向かって走り出した。

「小幸!」

きっと、小幸は自分の選択に一生自信を持つことができないから。


「ここは…」

小幸が見渡すと、そこは年季の入った和室だった。

「ねぇ、おじいちゃん。どうしてパパもママも来てくれないの?」

「!」

そこには電車で見た男の子が座っている。

「ごめんね、パパとママは赤ちゃんを産むために忙しいんだよ。代わりにおじいちゃんが遊んであげるからね」

「いや!パパとママに会いたい!」

男の子の我儘に男の子の祖父は困ったように笑った。小さな男の子にはわからないだろう。兄弟ができるとしても、男の子はまだ親の愛情を欲して当たり前の時期なのだ。


…また、ノイズがはしる。何も見えない中、赤ん坊の泣き声が響いていた。

ノイズがなくなったそこは新しい家の中だ。明るい日差しが家を照らしている。

「ねぇママ!見て!」

「ごめんね、ちょっと待ってね。赤ちゃんにミルクをあげないといけないの」

「ねぇパパ!遊んで!」

「シー、赤ちゃんが起きちゃうだろ?お兄ちゃんなんだからわかってくれ」

「…」

男の子が断られる度家の中が薄暗くなっていった。雲がもやもやとあれだけ晴れていた空を隠そうとばかりに浮かんでいる。

「パパもママも赤ちゃん赤ちゃんって、そればっかり…つまんないの」

親の心子知らずというように、親だって子供の気持ちを全てを理解できるわけがない。しかしそう割り切るには、男の子はあまりにも幼すぎた。


「あっ!」

男の子が突然声をあげる。赤ん坊が男の子のおもちゃを口に含もうとしたのだ。

「ダメだよ!危ないでしょ!」

男の子は咄嗟に赤ん坊を守るためにおもちゃを取り上げた。赤ん坊はポカン、と呆気にとられた後、「ふぇぇ…」と声を漏らし始める。男の子がまずいというような顔をした時にはもう遅く。

「あああああん!!」

赤ん坊は大きな声で泣き始めてしまった。もちろんその声を母親が聞き逃さないわけがなく。

「どうしたの!?」

「あ…いや…」

泣く赤ん坊、不自然におもちゃを持っている男の子、男の子が何かを言い出す前に母親の眉が吊り上がった。

「赤ちゃんを泣かせたの!?」

「違うよ!僕は…!」

「言い訳するんじゃないの!どうして赤ちゃんを虐めるの!?」

「っ…!」


ドン!と稲妻が地面を揺らすほどに落ちる。

「そんなに赤ちゃんが大事なら僕を産まなきゃよかったじゃん!!」

男の子は叫ぶと土砂降りの雨の中へと飛び出して行ってしまった。母親の呼ぶ声も虚しく男の子は土砂降りの雨のカーテンに隠れていく。

「だめ…ダメ…!」

小幸は慌てて男の子の後を追いかけた。


右も左もわからない道を小幸はただひたすら走って走って。雨が体温を奪おうとも、熱い息が小幸の肺を蝕もうとも、あの男の子の心の痛みに比べればなんてことなかった。

「見つけた…!」

ようやく見つけた男の子は公園のブランコに座っている。小幸は乱れる息を整えることなく男の子に近寄り話しかけた。

「一緒に、帰ろう?お母さんが心配しているよ」

「…心配してないよ」

男の子は俯いておりその顔を窺い知ることはできない。それでもこの雨が男の子の代わりに泣いていた。

「大丈夫、心配しているよ。お母さんだって君のことが大事なんだよ」

「じゃあ、なんで…あの時、僕のこと信じてくれなかったの…!」

小幸は男の子の前にしゃがみ、その冷たくなった手に自分の手を乗せる。

「お母さん、赤ちゃんを大事にしていたね」

「…うん」

「君も赤ちゃんの時、ああやって大事にされたんだよ」

「…」

それは男の子だって知っていた筈だ。それに、彼だって赤ん坊を守ろうとした。恨んでいるだけだったらそんなことはできなかっただろう。

「帰ろう、ちゃんと説明すればわかってくれるよ」

小幸は再び微笑みかけた。

「無理だよ、だって…」

男の子は顔を上げる。その顔に小幸はあげそうになった悲鳴ごと息をのんだ。

「僕、もう死んじゃったんだもん」

そう笑っていたであろう男の子の顔は、真っ赤な血にまみれて見えなかった。


再びノイズがはしる。

…男の子が、走っていた。右も左も見ずに。ただただ走っていた。

だから気づかなかったのだ。己の身に迫ったトラックも、そのクラクションの音も…自分の死も。

泣き声が…大人の泣き声がする。男の子の名を呼んで何度も何度も謝る声が。

ああ、彼は…違う、彼らは、いくつもの選択を間違えたのだ。もう選択をできない程に。


「ゆき…小幸…!」

「ん…」

小幸は目を開ける。ゴトンゴトン、と鳴る電車の座席に小幸は座っていた。いつの間にか元の場所に戻っていたらしい。

「ああ、よかった…!」

「ザクロ…」

小幸はゆっくりとザクロの顔を見上げる。小幸の無事を喜ぶザクロの顔を見て、小幸は顔を歪めて涙を流した。

「ザクロ…!私…!」

ザクロにしがみつくように小幸は泣く。

「小幸に怪我がなくてよかった。もう大丈夫だから」

見える怪我だったらどんなによかったか。あの男の子も、彼の両親も、男の子のこれからの選択にもう関わることができないのだとわかって。小幸は苦しくて苦しくて、とてつもなく悲しかった。まるで濁流に流され手足を動かしても這い上がることができないかのように、もがいてももがいても無意味なのだと知らされて。


「…おねぇちゃん、大丈夫?」

ふと気がつけば、あの男の子が心配そうに小幸を見つめていた。

そうだ。彼は知らないのだ。己が死んだことを。だから選択しなければいけない…あの世へ行くという最後の選択を。

「あ、それ!僕も持ってるよ!」

男の子は小幸の手を指さし無邪気に笑う。小幸の手に収まっていたものは…ボロボロになったレンジャーものの模型だった。そう、男の子が赤ん坊を守るために取り上げた…彼が最後に持っていた物だ。

「それね、カッコイイんだ!ヒーローになって大切な人を守るんだよ!」

男の子は腕をピンと伸ばし独特なポーズをとる。ヒーローの決めポーズなのだろう。

「僕、お兄ちゃんになるから、生まれてきた赤ちゃんを守るヒーローになるんだ!」

…ああ、そう無邪気に笑う彼にどうして「貴方は死んだ」などと言えるのだろうか。


これから彼の両親はずっと癒えない傷を持ち続けるのだろう。それこそ男の子と同じ最後の選択をするまで。

それでも。

「…お父さんとお母さん、好き?」

「うん!大好き!」

「…そっか」

それでも、最後の選択の先にも選択がまだ残されているのなら。

「じゃあ…また会えた時に、そう伝えてあげてね」

電車の扉が開く。電光板には『天国』と浮かんでいた。

「うん!わかった!」

男の子は強く頷いて、扉へと向かう。

「あ、そうだ」

降りる直前、男の子は思い出したように小幸の方へと向いた。

「これ、おねぇちゃんのでしょ?」

そう言って渡されたのは小幸の記憶のカケラだ。

「最初に会った時のクイズの答えはね、『夜』だよ」

おにぃちゃんみたいだね!と男の子はザクロの方を見て言うと電車を降りた。

天国で再び会えたら、その時は男の子は両親を許すという『選択』ができればといいと。そんなことを願いながら小幸は扉が閉まるまで男の子を見つめていた。


ゴトンゴトン、と無機質に電車が進んでいく。静かな空間を表すように。

「…小幸」

先に口を開いたのはザクロだった。

「わかっただろ?選択はどんなにあっても全部が思い通りに選択できるわけじゃないんだよ」

「でも…」

「でも、じゃない」

小幸の声を断絶するようにザクロは腕を組む。

「これ以上小幸を傷つけたくないんだよ、わかってくれ」

「…」

悲しい顔でそう言われてしまうと何も言えなくなってしまう。しかし、今までの傾向を考えるなら記憶のカケラを持っているのは。

「あ、あ、あの…!」

カバンを持っている最後の青年が話しかけた。


「…なんだ、今話して…」

「さ、さっきからき、聞いててお、思ったんです、けど…」

青年はおどおどと目をあちこちに動かしながらも言葉を紡ぐ。

「そこのお、女の子…」

「私…ですか?」

「そっ、そう…」

小幸が話しただけでビクッと肩を跳ねさせた。いったい何に怯えているのか。

「女の子の意思をあ、貴方は聞こうとし、しないです、よね」

「…だから、なんだ」

「だ、だ、だからっ!その…!女の子だって玩具おもちゃじゃないんだし、その、あの…」

青年は必死に言葉を紡ごうとするがどうも要領を得ない。そんな青年に呆れたのかザクロがため息を吐くと青年はその威圧に黙り込んでしまった。

「お前には関係ない。記憶のカケラを持ってるんだろう?さっさと渡せ」

「…」

青年はカバンをギュッと抱きしめる。その中にあるのだろうと、なんとなく察せた。


「…渡さないなら、消すまでだ」

「!待って、ザクロ!」

光を放とうとするザクロと青年の間に小幸は両手を広げ立ちはだかる。

「…小幸」

その声は冷たく、ザクロが怒っているのだとわかった。怖い。それでも小幸はどこうとは思わなかった。

「お願い、この人を消さないで」

「何故だ?小幸には関係のない奴だろう?」

「関係あるとかないとかどうでもいいよ。この人だって選択する権利がある。私はもう誰にも死んでほしくないの」

身を挺して青年を守ろうとする小幸の背で青年は少し目を見開く。

「…オレ、最後まで最低な奴だ」

青年が小さく呟くと共に電車が走っているにも関わらず外への扉が開いた。

「!?」

「ご、ごめん、弱虫だけど…弱虫なりにま、守りたいなんて、あ、あいつが聞いたら怒る、かな…」

電車から黒い無数の手が小幸を引っ張る。

「小幸!」

「さ、最後くらいカッコつけても…いい、だろ?」

小幸が外に飛び出るその瞬間に聞いたのはそんなふたつの声だった。


「ここ…は…」

真っ暗な空間だ。なのに小幸自身の体はハッキリと見える。


「おい、さっさと歩けよノロマ!」

「!」

パッと、スポットライトのような光が照らされ小幸の近くに人が映し出される。多くのカバンを持たされた先程の青年だった。

「…」

「なんだよその目、文句があるなら言ってみろよ」

青年は何も言わない。否、言えないのだろう。だからきっと、青年を囲む人々は青年を都合よく利用するのだ。

「おい、お前ら!」

そんな中、声をあげて青年の前に立つ男が一人。

「寄ってたかって荷物持たせて、いじめて何が楽しいんだ!」

「いじめとか勝手に決めつけてんなよ。俺たちはそいつと遊んでやってんだよ」

なぁ?と声をかけるも青年は声を出せない。

「ほら、嫌だって言ってないだろ?」

確かに言ってない。しかし、言える訳がないのだ。

「いい加減にしろよ!」

しかし代わりに男は怒りの声をあげた。

「何も言わなかったら玩具おもちゃみたいに扱っていいわけないだろ!」

「チッ…うっぜ~」

そんな声を皮切りにスポットライトが消える。


そして別の方向にスポットライトが再び照らされた。

「なぁ、これ、な~んだ?」

青年を虐めていた人と青年を庇った男が映っている。虐めた人は楽しそうに庇った男に何かを見せびらかしていた。

「それは…返せ!」

「返して欲しかったら言うこと聞けよ。逆らったら…わかってるよな?」

「っ…!」

庇った男は悔しそうに拳を握りしめる。虐めた人は心底楽しいと言わんばかりに笑い声をあげると庇った男を強く殴りつけた。小幸は思わず口を押さえる。

嫌な音が何度も何度も響き渡っていた。それでも庇った男が反抗しないのはよほど大切な物なのか。

その姿に確信してしまう。次のいじめの標的は庇った男になってしまったということを。

「あ…」

小さな声が聞こえる。よく目を凝らせばスポットライトに映るか映らないかの端に青年が立っていた。しかし、自身を庇ってくれた男を守ろうとせず。ただただ、立ってその光景を見つめていただけであった。

結局青年は動くことなくスポットライトが消える。


「…」

小幸は…何も言えなかった。青年と同じく…なにもできずただ見ていることしかできなかったのだ。

再びスポットライトが照らされる。小幸は目を背けたい気持ちを抑え、スポットライトへと顔を向けた。

「ほら、早く壊せよ!」

「頼む…それだけは壊さないでくれ!」

「っ…!」

虐めた人とその取り巻きが庇った男を羽交い絞めにし、青年は庇った男の大切な物を持っていたのだ。

「それ壊したら俺たちの仲間に入れてやるよ」

「お願いだ…なんでもするから…!」

青年は何も言わなかった。否、言えなかったのだ。自身を庇ってくれた男を裏切る行為なんてしたくないに決まっている。それでももし壊さなかったら再び虐められるのは自分だということを青年は理解していた。

「お、オレ…は…!」

「あん?勝手に口を喋ろうとすんなよ。お前に許した選択肢は壊すか壊さないかだ」

「っ…」

青年の手が震える。どちらかなんて、選べるはずがない。しかし選ばなければ。どんなに選びたくなくても。

「…逃げろ」

ふと、庇った男が声を発する。青年が顔を上げると庇った男は笑っていた。

「決められた選択肢に一生後悔するくらいなら逃げればいい、逃げて、忘れてしまえ」

「!」

青年は大きく開いた目から涙を流しながら声を出さず口を動かす。聞こえない筈なのに「どうして」と言ってるような気がした。

「お前は黙っていろ!」

虐めた人が庇った男を殴る。ゴホ、と血を口から流しながら、しかし庇った男は青年を真っ直ぐ見つめていた。

「お前は玩具おもちゃじゃない、人間だ」

「…!」

その言葉を聞いた瞬間、青年はバッと背を向け走ってその場から逃げる。

「おい!今お前が逃げたらこいつの命はねえぞ!」

その言葉に青年はビクリと動かしていた足を止めかけたが…

「人間として生きろ!」

その言葉に背中を押されるように再び走り出した。庇った男の大切な物を大事に抱え、涙をボロボロと流しながら。嫌な音が背後から聞こえようとも。ただただ走り、選択から逃げた。

スポットライトが消える。


「……滑稽だろ?オレはずっとあいつに助けられたのに、少しもあいつを助けることができなかった」

いつの間にか小幸の後ろに立っていた青年が自虐的に笑う。

「でもオレ、話すのが苦手だから見て貰った方が早いと思って」

あれだけどもっていた青年が嘘のように流暢に喋っている。それはここが彼の空間だからなのか、彼が実現したいと思っていた姿がここにいるのか。

「小幸、さん…だよね。貴方はあの男の玩具じゃない。自分のことは自分で決めるべきだし…決められなかったら、逃げていいんだ」

オレのようにね、と青年は肩をすくめて笑う。

「本当のオレはたぶんもう死んでる。あの男に殺されて」

「そんな…!私のせいで…!」

悲しみで顔を歪ませる小幸に青年は微笑んで首を振った。

「違うよ。オレが選択したんだ。貴方を助けるって…今更だけどさ」

青年は真っ直ぐ小幸を見つめる。

「あの男は危ない、今すぐ逃げるべきだ」

「ザクロが…?」

「よく思い出してみてよ、あの男がいつも気にしてるのは『小幸さんの身体』だけだ」

「あ…」

よく考えればザクロは小幸の身を案じて優しくしてくれたが、心に寄り添ってくれたことはない。まるで小幸の身体さえ無事なら心はどうでもいいというように。

「それに、あの男は…」

青年が言い終わる前に青年は光に包まれ消えた。代わりに立っていたのは。

「……ザ、クロ」


「よかった、無事だったんだな」

それは、小幸の身体が無事であることを喜んでいるのか。

「ホラ、記憶のカケラだ」

それはザクロがあの青年を殺したのだとわかって。

「他のカケラと合わせれば…小幸?」

小幸を見つめるその顔は、小幸がどんな気持ちなのかわからないといわんばかりだ。

「どうしたんだ、小幸」

ザクロが一歩踏み出すごとに小幸は一歩下がる。触れたくなかった。あの冷たい肌に。体温も、全てを奪うようなその手に。

「小幸に傷をつけるものは消した。小幸を害するものはもうないから安心しろ」

本当に小幸を傷つけていたのは…ザクロなのではないか。

「ち、近づかないで…」

ザクロを怯える小幸にザクロは驚くでもショックを受けるでもなく、ただただ笑顔を浮かべていた。

「大丈夫だ、俺は小幸を傷つけない。ほら、落ち着いて」

ザクロはそう言って強引に小幸に近づく。咄嗟に逃げようとしても恐怖で震えた小幸の足は役に立ちそうになかった。

ザクロの手が小幸に触れようとする。

「いやっ…!」

小幸がそう叫んだ瞬間。

カタン、と音をたてて小幸のポケットからビー玉のようなものが不自然に落ちる。悲しみの間で貰ったアイの雫だ。アイの雫は小幸の足元に転がると、透明な水の膜となり小幸を優しく包み込む。

「チッ…小癪な…!」

ザクロが光を放つ直前に水の膜はうずを作り、小幸を別の場所に飛ばした。

ザクロの前に残っていたのはただの水たまりだけで。

「クソッ…!」

そんなザクロの声は虚空に響いただけだった。


***


―起きて、起きて。可愛いお嬢さん。

「ん…」

小幸が目を開けるとそこは選択の間ではなかった。ふわふわと羽毛のような柔らかい地面が小幸を包み、空は早朝のように白く輝いている。

「ここは…」

―ここは愛情の間。

突然小幸の脳に直接語りかける声に小幸が慌てて辺りを見渡すと複数の色とりどりの蝶が小幸の周りをくるくると飛んでいた。

―ああ、驚かないで、純粋なお嬢さん。

―私たちはロップ。この世界の住人です。

どうやら小幸に語りかけているのはこのロップという蝶のようだ。その声の正体がわかった小幸は胸を撫でおろした。

―お母様が優しいお嬢さんを呼んでるわ。

「お母様…?」

頷くように蝶は大きく上下に飛ぶ。

―お母様、私たちのお母様。とても優しいのよ。

―美しいお嬢さんにぜひ会いたいって。きっと可憐なお嬢さんはお母様を好きになるわ。

蝶の母ということは大きな蝶の形をしているのだろうか。どちらにしろ、今の自分の状況を理解するためにも会う必要はありそうだ。

「…わかった。そのお母様のところまで連れて行って」

小幸がそう言うと蝶たちは嬉しそうに飛び回る。

―大丈夫、強かなお嬢さん。怖いことはないわ。

―こっちですよ、素敵なお嬢さん。

ロップはわいわいと話しかけながら小幸の周りを飛んで先導した。不可抗力とはいえそんな光景に緊張していた体がほぐれていくのを感じながら、小幸は歩く。


ふわふわと、ロップに連れられるまま進んでいった先には大樹がその腕をあちこちに伸ばし鮮やかな緑を風もないのに揺らしていた。その様はまるでたたずむ女神のようで。ロップからちょんちょんとつつかれるまで小幸は見惚れていた。

大樹に近づいていくと多くの色の蝶が大樹を彩り、大樹は微笑むように、あるいは我が子を撫でるようにさらさらと葉を揺らす。

―…ようこそ、小幸さん。

優しく美しい声が小幸を撫でた。目の前にあるのはただの木なのに、美しい女性が慈母のように微笑む様が頭に浮かぶようだ。

「あ、なたは…」

―…私はメイル。この世界の住人であり、貴女を案内した子供たちの母です。

ドキドキと小幸の胸が高鳴る。それは緊張のような、高揚のような、苦しい筈なのにもっとと感じてしまう。不思議な感覚だった。

「メイル、さん…」

―…ふふ、そんなに緊張なさらないで。こんなに可愛らしいお嬢さんに出会えて幸せだわ。

メイルの言葉一つ一つにこんなにも嬉しいような、恥ずかしいような気分になる。美しい音楽を聴かされたかのように自然と心が躍る。まるで甘い蜜のようだ。

「あ…どうして、私の名前を?」

本当はもっと早く気付くべきなのに。小幸はこっそりと心の中でメイルを見惚れていた自分を叱咤した。

―…貴女の大切に想う方についての記憶を持ってるから、かしら。

「!…私の、記憶を?」

―…ええ、ここは愛情の間。貴方の記憶に共鳴して、私は貴女に会いたいと子供たちにお願いしたの。

呼応するように沢山の蝶たちが鮮やかな羽を舞わせ飛ぶ。


―…今、お返しします。貴女の大切な記憶を。

そう言うと同時にロップたちが光る記憶を大切そうに小幸の前に持ってきた。

「っ…」

一瞬、小幸は躊躇う。触れていいのだろうか。これまでの悲しい記憶とそれに共鳴した者の悲劇が記憶に触れようとする手を止める。

―…大丈夫よ、小幸さん。

そんな迷いを読み取るかのようにメイルは優しい声で小幸を撫でた。

―…小さな幸せも感じていられる素敵な小幸さんだからこそ、この記憶は知っていて欲しいの。貴女を守る力になるから。

「…」

小幸は再び記憶に手を伸ばす。その手に、心に縛られた鎖はちりのように消え去っていた。


『あ、シロ!』

少し成長した小幸に駆け寄ったのは白い狐だ。

『よーしよし、今日も来てくれたんだね。ありがとう』

白い狐は小幸に懐いているのか、撫でる手に顔を押し付ける。その温かさに小幸の胸も温かくなるのを感じた。

白い狐がいつ現れたか、どうして小幸に懐いたのか小幸は覚えていない。それでも白いからとシロと呼んでいるその狐を小幸は愛し、癒されていた。シロといる時間が、小幸は大好きだったのだ。

ふと、シロは顔を上げ小幸の袖を強く引っ張る。しゃがんでいた小幸はバランスを崩し前のめりに倒れてしまう。

その瞬間、小幸が本来立っていたであろう位置に花瓶が落ちてきた。パリン、と冷たく破片になったその凶器に小幸はサァ、と顔を青ざめさせる。

そんな小幸の手に擦り寄る温もり。シロだった。大丈夫か、と問いかけるように小幸の顔を見上げる。

『あ…また、助けてくれたね』

そう、これが一度目ではない。このシロはどういうわけか小幸の身に降り注ぐ不幸から守ってくれるのだ。最初こそ偶然かと思ったがそれが何度も続けば偶然では片付けられなくなる。

『いつも助けてくれてありがとうね』

そう言いながらも小幸はどこか浮かない顔をしていた。自分がまた不幸を呼んだことが悲しかったのだ。

そんな小幸を悲しそうにシロは見つめていた。そして、何かを思いついたように小幸の袖を今度は弱い力で引く。

『どうしたの?どこかに連れて行ってくれるの?』

シロは小幸の方を何度も振り返りながらゆっくり歩いた。まるで着いてこい、と言わんばかりだ。小幸はその後を追っていった。

『…わぁ…!』

小さな森の中を進んだ先、開けた場所に出たと思えばそこには綺麗な花畑が広がっていて。

『凄い…!シロ、凄いね!』

小幸が嬉しそうに笑うとシロは得意げにふん、と鼻を鳴らした。自分が咲かせたわけじゃないのに、まるで「どうだ、凄いだろ?」なんて声が聞こえてきそうだ。

そんなシロにクスリ、と小幸は笑う。そして気づいた。影を差していた心がすっかり晴れてることに。

『本当にありがとう、シロ』

シロはいつでも小幸を笑顔にしようと必死だった。そんな姿が嬉しくて、愛おしくて。

小幸はシロの頭部…おでこにあたる部分にキスを落とす。

『シロにも幸せがきますように』

シロは嬉しそうに小幸に擦り寄った。


―大丈夫?可憐なお嬢さん。

「あ…」

ツ…と小幸の頬を涙が伝う。しかしその涙は温かくて。蝶は心配そうに小幸の周りを飛ぶ。

不幸を呼ぶと思っていた自分が、幸せであった記憶を思い出し、小幸は感情の波に揺さぶられていた。不幸を呼んで多くの人を悲しませた自分がこんな幸せだったなんて、許されるのだろうか。

―…大丈夫よ、小幸さん。貴女は幸せになっていいの。

「っ…!」

優しく、しかし強く小幸を撫でる声に、小幸は今度こそその場にしゃがみ、涙をボロボロと流した。

―…今はお泣きなさい。その涙が貴女の弱い部分も強い部分も全てを包み込んで守ってくれるでしょう。

「ふ、ぅ…うぅ…!」

小幸は声を噛み殺そうとして、しかし吐息と共にずっと心に堰き止めていた感情が崩壊し溢れ出す。

「うぁぁああ…!」

まるで子供の癇癪のように、小幸は泣いた。ずっと、怖かったのだ。不幸ばかり呼ぶ自分は誰にも必要とされてないのではないかと。ずっと小幸は不幸に纏われ生きていたのかもしれないと。誰からも愛されずに。

しかしそれは違った。

それは小さな幸せかもしれない。それでも確かに小幸は愛することができて、愛されていた。幸せを願ってくれるものがいたのだ。その事実がたまらなく嬉しくて、小幸の心を温めた。

メイルは小幸が泣いている間何も言わない。なのにその沈黙が柔らかい抱擁のように感じて。ロップは泣く小幸に寄り添うように小幸の体にとまる。愛情の間は、小幸の全てを包み込む柔らかい綿のようだった。


―…落ち着きました?

「はい…すみません。みっともないところを」

―…そんなことないわ。可愛くて、もっと小幸さんのこと好きになっちゃった。

お茶目にそう言うメイルにようやく小幸はクス、と笑うことができた。

そんなメイルだから小幸は信頼できる。

「あの、シロって…」

ずっと感じていた記憶の違和感。白い狐のシロ、そして小幸の傍にいてくれたシロ。偶然で片付けるにはあまりにも不自然過ぎた。

―…察している通り、あの狐は貴女が考えてるシロさんと同じです。

やはり。突然現れたというのに小幸に懐きそして未来予知のように小幸に降りかかる不幸から守ってくれる白い狐なんて、あまりにも都合が良すぎたのだ。

しかしそうだとして、疑問に思うことはたくさんある。どうしてシロは狐の姿になってでも小幸を守ってくれるのか。そもそもシロにとって小幸はどんな存在だったのか。

「メイルさん、シロは何者なんですか?」

―…それは貴女が一番知ってる筈よ。

「えっ…」

メイルはこんな時に小幸を冷たく突き放したりしない。記憶がない筈の今の小幸でもわかると、メイルは知っているのだ。その記憶はメイルからではなく、小幸自身で思い出すべきだということも。

「…」


小幸は考える。

両親が名前をつけてくれた時?違う

両親が小幸を庇って亡くなった時?違う

白い狐が小幸を守ってくれた時?違う

「あ…」

そうだ、記憶を奪われたはずの小幸でも思い出せた記憶があったではないか。あの冷たい目を思い出したくなくて無意識に一緒に仕舞い込んでいた記憶が。

「ザクロ…?」

そうだ、ザクロと初めて会った記憶だけは自然と思い出せた。しかしそれも断片的だったはずだ。完全に思い出せたわけじゃない。

『ダメだ、小幸!』

シロの強くて、優しい言葉がずっと小幸の胸に残っている。あの言葉はいつ、どこで小幸に放ったお呪いだったのだろう。その手を掴みたいのに、どれだけ腕を伸ばしても届かない。もどかしい気分だった。

「シロに会いたい…」

気づけばそんな声が小幸の口から零れ落ちる。ザクロについてもっと考えるべきことが沢山ある筈なのに、小幸の心はあの温もりを求めていた。シロのあの温かい手に触れたい。優しい声で名前を呼んで欲しい。美しい赤い瞳で見つめて欲しい。


ふふ、と笑い声が聞こえる。その声にハッと小幸は顔を赤く染め、自分の発言の浅はかさに俯いた。これではまるで、恋をしているようではないか。

「あの、変な意味じゃなくて、落ち着きたいというか…」

―…それはシロさんの元だったら落ち着くということかしら?

「あっ…」

誤魔化したつもりが墓穴を掘ってしまったことに小幸はいたたまれなくなり、黙り込んだ。

―…よかった、片想いじゃなくて。

「え?」

それはどういう意味だろうか、小幸が尋ねる前にメイルは言葉を紡ぐ。

―…シロさんの元へ貴女を連れて行くことは可能です。

「!本当ですか…!?」

―…ええ。でも…

メイルは少しの間沈黙すると、言葉を続けた。

―…今は小幸さんの居場所は誰にもわかりません。完全とは言えませんが、この場所は最も安全であることは確かです。

つまり、ここを離れてシロに会いに行く。またはシロをここに連れてくれば小幸は再び危険に晒されるということだ。メイルは小幸のことを考えて言っているのだろう。


「…シロの所へ連れて行ってください」

―…!

それでも、小幸はシロに会いたかった。小幸のために一生懸命になってくれるシロを尻目に自分の安全を優先したくなかったのだ。怖くないといったら嘘になる。それでも、どんなに怖くても、否、怖いからこそシロの傍にいたかった。シロに守られるだけではなく、小幸自身がシロを守るために。

―…そう、そうね。貴女は可愛く純粋で優しく美しく、華麗で強か素敵で可憐な娘ですものね。

蝶たちが小幸の周りを回るように飛んだ。

―…行ってきなさい、小幸さん。貴女なら大丈夫よ。

蝶の数が増え、小幸の視界は蝶で埋め尽くされる。

―…貴女にも、貴女を想う彼にも、幸せがありますように。

そんな声を聞きながら小幸の意識は黒く染まっていった。


***


「…き、こゆき…」

声が聞こえる。小幸がずっと聞きたかった、会いたかった声が。

「小幸!」

小幸が目を開けるとそこにはシロが今にも泣きそうな顔で小幸の手を握っていた。

「…ふふ、酷い姿」

あちこち走り回ったのかかんざしでまとめられていた髪はボサボサで、着物なんてあちこち汚れている。それでも小幸の手を握る手は変わらず温かくて。

「会いたかった、シロ」

小幸はシロに抱き着く。シロは驚いたように、それでも小幸を優しく抱きしめ返した。

「俺だってずっと会いたかった」

涙声でそう言うシロに小幸の体だけでなく心も温かくなるのを感じる。ああ、今だからこそわかる。小幸を誰よりも想ってくれていたのはシロだということに。


「ねぇ、シロ。教えて。ザクロはどうして私に執着するの?シロは私をどうして守ってくれるの?」

シロは小幸がそう言うと知っていたように弱弱しく笑う。

「…そうだな、本当のことを話すよ」

流石に誤魔化せないと思ったのか、あるいはこうなることを期待していたのかシロは話し始めた。

「ザクロは…小幸の身体を、いや、その名前と力を狙ってるんだ。小幸の身に宿った、祈りの力を」

祈りの力。そういえばザクロも言っていた。力を増幅させたり、様々な奇跡を起こすことができる力だと。

「小幸の記憶に共鳴した者は体を大きくしたり力を強くさせていただろ?あれも小幸の祈りの力なんだよ」

小幸の記憶と共に分けられた祈りの力がオクリヨの空間の住人に奇跡の力を与え、増幅させていたのだろう。

「でも…それなら、私の記憶を回収していけば力も手に入れられたんじゃ…?」

「ダメなんだ」

シロは首を振った。

「どれだけ記憶を集めてもその持ち主が明け渡すと認めないと力は手に入らない」

シロはそこまで言うと小さく息を吐く。その様は一つ一つの言葉を慎重に選んで話しているように見えた。

「小幸が名前を取り戻さずそのまま消えていたら、持ち主の失った力は簡単に手に入るんだけどな」

しかし小幸は最初に名前を取り戻した…他の誰でもない、シロの導きによって。


「シロは?どうして自分の名前がないの?ないって言っていたけれど、嘘だよね」

「それは…」

シロは口を閉じてしまった。その先の言葉を出していいのかと自分に問いかけるように。

「シロ、教えて」

シロは迷うように目を泳がせ、その視線が小幸の視線と絡み合うと観念したように口をゆっくり開いた。

「……奪われた…というよりは、明け渡したと言った方が正しいのだろうな」

「どうして?誰に?」

「…記憶を…大切な記憶を、誰にも奪われないために」

それが誰の記憶かなんて聞くまでもなかった。

シロは核心について語らない。あえて避けて話しているのだとわかった。


だが、シロの言葉の断片が、一見すると関係のない点が答えへと線を繋げてくれる。

シロは自分の名前を犠牲にして小幸の記憶を…小幸を守ったのだ。小幸が最初に名前を取り戻せるように。小幸の記憶を奪った、小幸を狙う「誰か」が見つけられないように小幸の記憶をこのオクリヨにバラバラに分けて。

全ては、小幸の為に。


そして、ザクロが小幸に話した言葉がある事実を映し出す。

ザクロは、シロが記憶をバラバラにして隠したと言っていた。そしてそれはザクロを邪魔するためだと。ザクロの物言いは一見シロを悪者に仕立てあげるために言っているように見える。しかしシロの言ってることと合わせるとそこに真実があらわれた。


シロは、ザクロから小幸を守るために小幸の記憶をザクロに見つからないように隠したのだ。自身の名前を明け渡して。小幸をさらった、小幸の記憶を奪った…小幸の力を狙った『ザクロ』という名前を名乗るザクロによって。


「シロ…ううん、本当はずっと傍にいてくれたんだね。ザクロ」

どうして気づかなかったのだろう。ザクロの名が誰よりも似合う、優しく強い、大切な者の存在はずっと傍にいたのに。

シロは目を見開くと、嬉しそうに、そして悲しそうに微笑んだ。

「…そっか。気づいて、しまったんだな」

シロは目を伏せる。

「俺はもうザクロじゃない。名前も力も、明け渡してしまったから。だから…ごめん、約束、守れなくて」

そう呟くシロの声は弱弱しく震えていた。まるで初めて会ったあの雪の日の時のように。

「違う、シロは約束を守ってくれたよ」

だから小幸はシロの手を握った。温かく、優しいその手を。

「シロは名前を失ってもずっと私の味方でいてくれたじゃない。自分の名前を、大切な名前を犠牲にしてでも私を守ってくれたじゃない」

『大丈夫、約束する。俺はお前の味方だし、お前の力になるから』

「シロはずっと私の『ザクロ』のままでいてくれたよ」

小幸がニコ、と微笑む。シロは…熟れたザクロのように美しい赤い瞳から実を落とすように涙を一粒流した。


「…ありがとう、小幸。本当にごめんな…」

シロ…ザクロは一粒、一粒と流れる涙を拭うことなくへらりと笑う。

「ずっと後悔してた、小幸が俺に名前をくれたことで繋がれた縁が小幸を苦しめてるんじゃないかって。今だって成り行きとはいえ名前と共に力を渡してしまったせいで小幸にいっぱい苦しい思いをさせてしまった」

(…違うよ、ザクロは名前が無くなることの恐ろしさを知っていたのにそれでも名前を手放してでも私を守ってくれた。苦しめたとするなら私の方だよ)

「ちゃんとハッキリ言わなくてごめん…でも、心のどこかで小幸なら気づいてくれると思っていたんだ」

(そうだよね、シロは私の記憶の中にいる呼び名だもんね)

「俺、最後まで小幸に頼ってばかりだ…ごめんな」

(そんなことないよ。私だっていっぱいザクロに助けて貰ったよ)

強く強く握った両手にそんな想いが伝わるようにと小幸は微笑みながら、それでもポタポタと温かな雫を二人の手に落とすザクロの懺悔を聞いていた。


「…行こう、小幸。あいつの元へ」

「うん」

二人で手を繋ぎ、シロが作り出した赤い鳥居の前に立つ。

どんな困難でもきっと大丈夫。この手を繋いだ温もりがある限り、幸せでいられる。

目を合わせる必要もなく、二人は同時に鳥居をくぐった。


***


辿りついたのは真っ黒な空間だ。足元は水が張られているがその上に立っているように濡れることはない。赤い鳥居を背にして小幸は思う。まるでザクロとは正反対だと。

「…ふん、その様子だとザクロが誰だかわかったようだな」

その空間の持ち主、ザクロの名を奪った者は赤い血のような目を細め、不敵に笑う。

「…私の記憶と、ザクロの名前を返して」

小幸がそう言うとそれは動じることなく勝ち誇ったように笑い声をあげた。

「どうやら『賭け』は俺の勝ちのようだな?ザクロ…いや、もうザクロという名前は俺のものか」

「…え…?」

賭け?なんのことだろうと小幸が眉をひそめると小幸の繋がれていた手が解かれる。誰でもない、小幸の隣に立つ者によって。

「ザクロ…?」

「…ごめんな」

…どうして、そんな悲しい顔をしているのだろう。だって、本当のことは分かった筈で。シロはザクロだと……どうしてシロはザクロが自分だと隠していたのだ?

「クク、ハーハッハ!!」

堪えきれないと言わんばかりにそれは腹を押さえて大きく笑い声を響かせた。

「教えてやるよ、小娘。俺とそいつは賭けをしていたんだよ」

愉悦を隠しもないそれはぺらぺらと聞いてもいないのに全てを語り始める。


小幸の力を狙う名前のないそれは、小幸に不幸な目に合わせることで小幸の口から助けを求めさせ、オクリヨにさらったこと。それを止めるためにザクロはそれと邂逅したこと。しかし一度それの手に渡った小幸を助けるためにザクロはある賭けを持ちかけたこと。それは「ザクロの名を明け渡し、記憶を失くした小幸に本物のザクロはどちらかを認めさせる」というものだったこと。

「もしザクロを俺だと認識したらザクロの名前を返し小幸は俺のもの。ザクロがそいつだと認識したら名前は俺のもの、小幸を諦めるという条件でな。もちろん縛りをつけた。『互いに嘘は吐かないこと』と『賭けの間は小幸を絶対に守ること』でな」

「そ…ん、な…そんなのって…」

「いいんだ、俺がそう決めたんだ」

ザクロだった者は優しく笑う。

「そもそも『賭け』は互いが平等の土台である必要があった。だから小幸に関わらせないためにはこうするしかなかった」

「でも…!そんなことしなくても、ザクロの時の力で倒しちゃえば…あ…」

倒すとはすなわち相手を殺すことだ。小幸の身体を、誰かの名前を貰わなければ元より名前がないそれは、ザクロが例え倒さずに穏便に済ませられたとしてもいずれ死ぬ運命にあった。それを…小幸が名付けた通りの優しく強いザクロはすることができるわけがなかったのだ。もちろん小幸がそれに名を与える選択もあっただろう…小幸の存在がそれの手に渡っていなければ。


「わた…私の、せい…で…?」

はー、はー、と荒い息が聞こえる。それが自分の息だと気づいたのは名前を失いそれでも小幸の幸せを心から願ってくれた優しい、強いその者が小幸を抱きしめたからだ。

「小幸は何も悪くない。俺が勝手にやったことだよ」

違う、小幸はそう否定したいのに小幸を見つめる温かい眼差しに音すら紡ぐことができなかった。

「まぁ祈りの力を得られなかったのは惜しいが…あくまでその小娘に手を出さないという制約だからな。次に生まれてくる祈りの力を持つ人間が現れるまでこの名があれば生きられるだろう」

そんな声が聞こえたような気がしたが、小幸の脳はその言葉の意味を理解できる筈がない。

「…小幸、最後のお願いを聞いてくれるか?」

優しいその者は自身の髪からザクロのかんざしを抜くと小幸の手に握らせる。その手にもう小幸を安心させてくれる温もりはなかった。

「このかんざしを俺たちが初めて出会った祠に収めて欲しいんだ」

小幸は返事をすることさえできない。言いたいことはたくさんあるのに、その全てがただの空気と化した。

「大丈夫。誰も傷つけないよ」

白い髪のその青年は笑おうとしたのだろう、上がった口角は歪で、そのザクロのような目は潤んでいる。青年は小幸を強く抱きしめた。

「幸せになって、世界の誰よりも大切な愛しい小幸」

その声を皮切りに小幸の意識は薄れていく。


小幸が目を覚ましたそこにはザクロも青年もいなくなっており、暗い空間にキラキラと光る小幸の記憶が等間隔に置かれていた。まるで帰り道へと案内するかのように。

「…」

小幸は重い足を動かし一つ目の記憶を触る。


『ああもうっ!なんで勝手に家を出ていった姉様の余計なお荷物を私が引き取らなきゃいけないのよっ!』

濃い化粧とキツイ香水の香りが印象的なその女の人は小幸の叔母にあたる人なのだという。黒い喪服を着た小さな小幸はただ両親を亡くしたショックから立ち直ることができなかった。

『ちょっと、聞いてんの?』

『…』

何も答えない小幸に叔母は大きく舌打ちをして小幸が抱きしめていた両親の遺影を奪い取ると地面に叩きつける。パリン、と大きな音をたてて割れたガラスが両親の顔写真を歪めた。

『あ…』

『人が話しかけてんだから返事くらいしなさいよ!!』

大きな金切り声に小さい小幸はその身を縮めることしかできない。

『ごめんなさいは!?』

『ご、ごめんなさ…』

『ボソボソ喋らないで!』

小幸が恐怖で委縮すると、その姿も気に入らないのか叔母は小幸の髪を鷲掴みにして引っ張る。

『い、痛い!やめて!』

『最初からそのくらいの声を出していればこんなことしなかったわよ!』

叔母は掴んだ髪を引っ張り、小幸を床に転がした。

『いい?もっと痛いことも怖いこともできるんだからね。それが嫌だったら言うこと聞きなさいよ』

『…』

その時、小幸は小さいながらに察することになる。

『返事は!?』

『は、はい!』

この叔母という肩書きの化け物に怯える日々がくるのだということを。


「叔母様…」

あの時はただただ恐ろしいという感情しか湧かなかった。叔母もある意味では被害者だったのだ。小幸の母は由緒正しい家の生まれで家を継ぐ筈だったのを小幸の父と出会い駆け落ちをした。そのしわ寄せが妹である叔母に向けられ、厳しい教育に望まない結婚をさせられ小幸の母を憎むことでしか己の心を保てなかったのだろう。その憎んだ人の忘れ形見を押し付けられ、自由を奪われた可哀想な女性。不満を言うことも許されなかった中で彼女が正気を保つためには小幸に当たるしかなかったのだ。それが例え罪のない小さな子供だとわかっていても。

「…」

小幸は次の記憶へと触れる。


『小幸!小幸!』

叔母の声に少し成長した小幸は慌てて声の元へと向かう。過去の経験から少しでも叔母の機嫌を損ねると酷い目に遭うことが体に染み込んでいた。

『小幸!』

『はい!叔母様!』

駆けつけた小幸を叔母は平手で殴る。パシーン、という乾いた音が響いた。

『貴方、私の大切な手鏡をどうしてくれるのよ!』

叔母が指さした先、叔母が愛用していた手鏡が割れ、あちこちにガラスが散らばっている。

もちろん小幸は知らない。それどころか手鏡に触れてすらいないのだ。

『っ…申し訳…ありません…』

それでも小幸は謝るしかできなかった。どんなに弁明しようと、口を開けばまた彼女に暴行を受けることがわかっていたからだ。

クスクス、と笑い声が小さく聞こえる。

『お母様、小幸を許してあげて』

叔母の娘、従妹にあたる女の子は叔母に猫撫で声で優しく訴えかけた。

『まぁ…貴方は本当にいい子ね』

叔母は従妹を撫でる。小幸は知っていた。手鏡を割ったのは彼女だということを。しかしそれを口にすれば従妹から酷い目をあうことを知っていたので黙っていた。

『それに比べて小幸は…本当、あの女そっくりだわ。卑しい心がそっくりね』

『…』

小幸は頭を下げたまま拳を強く強く握りしめ湧きあがる怒りを抑える。小幸の心の中にいるのは優しく小幸を抱きしめる母の姿だ。それを踏みにじられ、怒らない人などいるだろうか。

『ねぇ、お母様。それよりお願いがあるの』

叔母の意識は従妹へと逸らされる。その隙を狙って小幸はこっそりとその場を離れた。

流れる涙が腫れた頬にしみても小幸はその場から離れるように走り続ける。笑いあう二人の存在を消すように。


「お嬢様…」

彼女も可哀想な子だ。叔母の望まぬ政略結婚により産まれた子供。しかし小さいながらに知っただろう。母は自分を愛していないことに。家の存続のために産まれた彼女は自由どころか愛すらも得ることができなかったのだ。だから彼女は偽りの愛情を求めた。あえて叔母の大切な物を壊しては小幸に擦り付け、その小幸を庇ってあげることで自身の母は自分を大切に扱ってくれると知ってしまったから。愛情に飢えた可哀想な少女は愚かな行為を何度でも行ってしまうのだ。それがいけないことだという感覚が無くなってしまうほどに。

「…」

小幸は次の記憶へ触れる。


『ごめんなさい!お願いだから開けてください!』

小幸が大きくなると叔母たちは小幸を使用人として扱うようになった。否、使用人より酷いかもしれない。存在しない罪をでっち上げられ罰と言っては小幸に酷い扱いをする口実を作っているのだから。ある時は食事を与えて貰えず、ある時は無理難題を吹っ掛ける。しかし今回は虫の居所が悪かったようで小幸が物置小屋に閉じ込められてから二回ほど太陽が落ちていた。流石に命の危機を感じた小幸は弱った力を振り絞り助けを乞う。しかし、叔母たちならともかく、同じ使用人ですら開けてくれることはなかった。最初こそ使用人たちは小幸に同情して幾らか助けてくれたことはあったが、小幸の不幸体質に加え小幸に手を差し伸べたと叔母たちに知られた後の仕打ちを考えると皆自分の保身を選ぶしかなかったのだ。

『誰か…お願い…!』

声を張り上げる気力すらなくなり、その場にズルズルと蹲る小幸に何日ぶりかの日の光が差す。

『ああ、よかった…!遅くなって申し訳ありません、小幸お嬢様!』

そう言って日の光と共に小幸を温かく包み込んでくれたのは僅かに白髪が混じった使用人の一人であり、使用人をまとめる役割を持つ女性だった。小さい頃からこの家に仕えているらしく、特に小幸の母親と仲が良かったのだという。そのため小幸を唯一庇ってくれる存在であり、叔母や従妹に苦言を言うことができる人なのだ。古くから家に仕えていることもあり、叔母でさえ彼女に乱雑な扱いをすることができなかったのだ。

『ああ、こんなに痩せてしまって…!怖かったでしょう、お食事はこちらで用意いたしていますのでお湯に浸かって体を温めましょう。今なら奥様もお嬢様もいませんので』

使用人として扱われる小幸をちゃんとお嬢様と呼び、小幸が叱られないよう気を遣ってくれる。その存在がどれだけ小幸にとって救われたか。きっと言葉で表すことはできないだろう。小幸の不幸体質に巻き込まれることもあったが朗らかに笑い、「これくらい、小幸お嬢様のお母様の悪戯に比べれば可愛いものですよ」と言ってのけるのだ。

彼女が小幸を支えてくれたから、小幸は今でも生きることができたのだ。どんなに酷い扱いを受けようとも、耐えていけると。

…そう、思っていた。その人が流行り病をこじらせ亡くなるまでは。

小幸を庇わなければ、叔母たちはヤブ医者をわざと呼ぶことはしなかっただろう。叔母たちに苦言を言ってなければ、当主だってその人を無下に扱わなかっただろう。あの朗らかな笑顔は、小幸の味方はどこにもいなくなったのだ。


「…」

あの人は最後まで小幸のことを考えていた。あの家から出ていけるようにコツコツとお金を貯めてくれていたのだ。それも全て叔母たちに使われてしまったが。自分の幸せを全て投げうってまで家に仕えてくれた優しい人。彼女から聞く小幸の母は天真爛漫で悪戯好きで…そして優しい人だった。母が家を逃げると告白したのは彼女だけだ。それほどまでに母は彼女を信頼しており、彼女は母の幸せを願っていた。その母の子供の小幸のことも。

彼女がいなくなってしまってから叔母たちは更に小幸に酷く当たるようになっていく。止めてくれる人も助けてくれる人もいなくなった小幸は希望を抱くことを止めてしまった。

「…」

あと小幸の記憶は二つ。その先には白い鳥居が淡く光を放っていた。

小幸は記憶に触れる。彼女にはもうその選択をするしかなかった。


それは朝露も凍る寒い冬の日であった。

『小幸!小幸はいないの!?』

小幸は従妹であり自分の主人になる人の声に心の中でため息を吐く暇もなく急いで声の元へと向かう。

『いかがなさいましたか、お嬢様』

本来は同じ立場である筈なのに小幸は頭を下げなければいけない。

『私の可愛い金魚が死んじゃってるじゃないの!?どうしてくれるのよ!』

本当に可愛がっていたのなら自室で飼えば金魚も理不尽な寒さで死ぬことはなかっただろうに。しかしそんなことは些細なことで。従妹にとってもう小幸は死んでしまった金魚と同じようにしか見れないのかもしれない。

『申し訳ありません…』

『謝ったら許されると思っているの!?あの子はもう帰ってこないのよ!』

ここ最近は従妹は酷い荒れようだった。おそらく見合いの話が原因だろう。見合いとは言っても彼女に否定する権利はない。彼女はただ家畜のように望まない相手と子を成すしかないのだ。最近は叔母の愛情も得られなくなったことに加えて降りかかったそれに彼女には耐えられなかったのだろう。

『もういいわ、貴方は反省するまで牢に閉じ込めるから』

牢。この家には昔に使っていた地下牢があった。今ではすっかり寂れ、どこからか入ってきた水に僅かに水没している場所だ。

『っ…お願いします、どうかお許しください。雑用でも何でもしますから』

当然暖房も入ってない冬に水に浸かりながら閉じ込められては一日ともたず死んでしまうだろう。助けに来てくれる人はいない。もう、いなくなってしまった。

『ならこうしましょう』

落ち着いた女性の声が聞こえる。誰かなんて見なくてもわかった。

『今度の見合いの相手に小幸を嫁がせるのよ。小幸だってこの家の生まれ、何もおかしいことはないわ』

今まで小幸を家族として見てこなかった叔母にとって小幸に家を継がせるのは復讐なのだろう。自分が味わった苦しみを小幸にも味わせようとしているのだ。

『流石お母様!それがいいわ!』

従妹はこれみよがしに嬉しそうに賛同する。小幸に反抗する意思など既になかった。

『なに突っ立っているの。早く朝餉の準備をしなさい』

『…はい』

小幸にもう希望はないのだから。


厨房に入り、小幸は息を吐いた。誰もいない。当たり前だ、本来使用人はもっと遅くから働き始める。小幸に休む権利などとうの昔になくなってしまったのだ。

『…』

このまま生きていたとして、奴隷のような扱いは変わらず逃げることも叶わずただただ玩具のように扱われるだけ。それならば。

『…死にたいな』

気づけば小幸はそう言葉を漏らしていた。

『死にたいのか』

だからこそ、誰もいない筈のその場所から知らない声が聞こえても、小幸は驚く気力すら湧かない。

『死にたいのならば俺がここから連れ出してやろう』

『本当…?』

それは真っ黒に染まった小幸に指す一筋の光だった。

『ああ、本当だ。だから言ってくれ、さらって欲しいと』

『言えばいいの?』

『ああ。それでお前を助けてやれる』

それが幻聴でもなんでも、小幸にとってはどうでもいい。

『私を…私をさらって』

小幸がそう言うと黒い穴から手が伸び小幸の体を引き寄せる。小幸は抵抗しようとしなかった。

『ダメだ、小幸!』

そんな声をどこかで聞きながら。


「シロ…」

あの時、弱りきった小幸に語り掛けたのがザクロだろう。そしてそれを止めようとしたのはシロだったのだ。

シロだって万能じゃない。小幸を不幸から遠ざけることはできるが怨恨や羨望、病を遠ざけることはできない。それでも小幸が小さな幸せでも感じられるように狐の姿になって傍にいたというのに。小幸はそれを全て放棄してありもしない光を求めたのだ。

最後の記憶は出口の手前に置いてあった。小幸は手を伸ばす。


『小幸を返せ』

シロ…その時のザクロは小幸をさらった名もないそれを睨みつける。

『それはできないな。この娘の身体に宿る祈りの力を貰えば俺はこの世界を手にできるのだから』

クク、と笑いながらそれは小幸の喉元にナイフを突きつけた。

『っ…俺の名前をやる!だから小幸は…!』

『そんな提案になぜ応じる必要がある?お前よりも強い力が手元にあるというのにか?』

ザクロは拳を強く握る。力関係でいえば名前を得たザクロの方が圧倒的に上だ。しかし小幸という宝物を持っているそれに逆らうことができなかった。

なんとしてでも小幸を助けなければいけない。そのためには相手に有利な話を持ちかけなければ。

『…なら、賭けをしよう』

『賭け?』

握りしめたザクロの手は震えていた。それでも声は覚悟を決めたようにはっきりとしていた。

『名前をお前に貸す。そして小幸の記憶をバラバラにして分けるんだ。そして小幸にどちらがザクロかを認めさせる』

ザクロの声をそれは黙って聞いている。

『小幸がザクロはお前だと認めたら小幸はお前のもので俺の名前は返してもらう。ただし、小幸がザクロが俺だと認めたらお前は俺の名前を手に入れ小幸のことを諦めると誓え』

『ふむ…』

それにとってはどっちに転んでも美味しい話だ。さらにとザクロは言葉を続ける。

『祈りの力だけが欲しいなら俺の名前のまま次の祈りの力を持つ人間を狙えばいい。お前にとって損はないだろう』

それがザクロが小幸を守るための唯一の手段だったのだ。

『クク、どこまでも愚かな野郎だ。そんなにこの小娘が大事か』

『…そうだ。誰よりも愛している、かけがいのない存在だ』

それは高笑いをする。どう転んでも自分の勝ちは決まっているのだ。

『いいだろう。その賭け、のってやろう』

それは言い放つ。賭けの制約は絶対。互いに守らざるを得ないのだ。

『賭けの間互いに嘘を吐かないこと、それと小幸を絶対守ること。これは守ってもらう』

『条件付きか。まぁ、それくらいの条件ならいいだろう』

そうしてザクロは名前を明け渡し、小幸から記憶を抜き取りバラバラに分ける。

名前のない青年は小幸を自分の空間に連れ出した。仰向けに目を閉じる小幸を見下ろし青年は呟く。

『ごめんな…小幸。お前の幸せを、誰よりも願うから』

そう言って一粒の雫を小幸の額に落とした。


「馬鹿…」

小幸は涙を流すように呟く。

「自分を犠牲にしたって私が喜ぶわけないってずっと一緒にいた貴方なら知ってたでしょ」

どんなに文句を言ったってあの笑顔はもう二度と見ることは叶わない。

『小幸!』

無邪気な子供みたいな笑顔で、温かく包み込む体温で、小幸を愛してくれたその者はもういないのだ。

「私の気持ちも知らないで…言わせてくれないまま、終わって」

『幸せになって、世界の誰よりも大切な愛しい小幸』

そう呟く彼は知らないのだろう。小幸も同じ気持ちだったということに。


小幸が鳥居をくぐるとそこは彼と初めて会った祠の前だった。朽ちることなくあの時と同じままで、祠はそこで小幸を待っていたかのようだ。

「…」

小幸は手に持っていたザクロの髪飾りを祠の前に置いた。するとカチ、と小さな音が鳴り、祠の小さな扉が僅かに開く。小幸は無意識にその扉を開けた。

「これは…」

中に入っていたのはジャラジャラと金の塊がたくさん入った袋、これだけあればどれだけ贅沢しても一生では使いきれないだろう。そして叔母たちが小幸を人として扱わなかった証拠の書類や写真など、これらを前当主である小幸の祖父に見せれば叔母たちは小幸に手を出すことはできないだろう。

それらを誰が用意したかなんて考えずともわかった。

「どうして…」

そう呟く小幸の手に冷たい感触が伝わる。空を見上げれば白い雪がふわりふわりと舞い落ちていた。まるで彼と初めて会った時と同じように。

「あ…」

小幸の記憶が蘇る。


『小幸、お願いがあるんだ』

あの時、小さな小幸にザクロはお願いをした。

「なあに?」

『小幸のそのかんざしを俺に貸してくれないか』

その時の小幸は自分の大切なかんざしが取られるのではないかと顔を顰める。

『必ず返しにくる。それまで、小幸を全てから守れるようにそのかんざしに俺の力を込めるんだ』

だから頼む、と真剣な声色で頼み込むザクロに小幸は頷いた。

「…わかった。ザクロに貸してあげる」

小幸は祠の前にかんざしを置く。

『ありがとう、小幸。絶対に返す。その時はお前を、不幸も何もかもから守って幸せにするから』

「…うん、待ってるね」


小幸の頬から雫が伝い、一粒一粒と落ちては祠を濡らしていった。

「ザクロ…ザクロ…!」

地面に膝をついて何度も小幸の幸せを願ってくれたその名を呼んでも返事はない。

「ねぇ、苦しいよ、寂しいよ…!傍にいてよ、大丈夫だって言ってよ…!私、こんなのじゃ幸せになれないよ…!」

まだ、まだ愛してると言っていないのに。

「ザクロ…!!」

その時。


―ああ、懐かしい。この力。

リン、と鈴の音と共に女性の声が聞こえる。小幸がその声に顔を上げるとすぐ異常に気づいた。

「え…?」

降り注いでいた筈の雪が小幸の目の前で止まっていたのだ。それだけではない。木々が擦れる音も、冷たい風ですら、まるで小幸以外の時間が全て止まってしまったかのように静寂で不気味な空間に小幸は立っていた。

「な、なにが起こって…」

―私が止めたのよ。

「だ、誰!?」

声はクスクスと笑う。その声はまるであちこちに響き渡るようにどこから聞こえるのかわからない。

―誰、なんておかしな質問ね。それは貴方が一番知っているでしょうに。

「どういう…こと…?」

―私は貴方であり、この世界の全て。貴方が持っていた力は、元は私のものだったわ。

「私の力…?」

―そう、祈りの力。それはこの世界で土となり木となり生物となった。だからその世界で生きている人間にたまに祈りの力が宿ってしまうことがあるの。

ザクロもシロも言っていた。ザクロは小幸に宿る祈りの力を狙い、シロはそれから小幸を守ったのだ。

「教えてください、祈りの力ってなんですか?」

どうして人間に宿るのだろう。そしてそれをなぜザクロは狙うのだろう。


―それを知ってどうするの?貴方にはもう関係ないのに。

「え?」

関係ない?どういう意味だろうか。

―そのかんざし。

小幸はザクロのかんざしを見つめる。

―それに込められた力が祈りの力を抑えたの。だから貴方にもこれからの人間にも祈りの力が宿ることがないわよ。

「そ、れは…」

『小幸を全てから守れるようにそのかんざしに俺の力を込めるんだ』

シロは、全てを知っていたのか。祈りの力のことも、それを狙う者の存在のことも。

賭けを持ちかけたあの時、一見すればシロが不利だった筈だ。ザクロは言っていた。「小幸でなくても次の祈りの力を狙えばいい」と。しかし、シロが初めから祈りの力を抑えられる手段を持っていたとしたら。それを知っていながらあえて小幸が助かる方法を選ばせたとしたら。

「っ…!!」

優しく強い彼は全てを守ってみせたのだ。小幸も、祈りの力が宿るかもしれない誰かも、そして…名前を得たザクロのことも。自分だけを犠牲にして。

「そんなの…!!」


苦しくてたまらない。誰よりも優しくて愛しい者が、どうして犠牲にならなければいけないのだ。ただ全てを、小幸を守るために動いてくれただけだというのに。

―彼を救いたい?

その言葉に小幸はゆっくり顔を上げる。

「その方法が、あるの…?」

―あるわ。でもその意味することはわかるでしょう?

彼が犠牲にしてでも守ったもの。彼を救いたいというということは彼が守ったその全てを否定することになるだろう。

…でも、それでも。

『小幸!』

あの笑顔が幸せになれる道があるのなら。

「…お願い、彼を…シロを助ける方法を教えて!」

どんな地獄が待っていようと、苦しみが永遠に続くことになろうと、小幸はなんだって構わなかった。

誰よりも優しく、誰よりも強い、それなのに誰よりも寂しがり屋で、誰よりも愛しい彼の幸せを手に入れられるのなら。


***


初めに、御繰世おくりよと呼ばれる世界があった。そこには祈りの力を持つ巫女と、巫女から貰った力で世界を維持する妖たちがいた。妖たちは巫女から力と共に名前を授かりそれぞれの力で御繰世にあらゆる事象を起こし、神羅万象に大きな影響を与えた。妖が自然を豊かにし、時に厄災から守り、世界を作り上げていった。そうして世界が作り出されると世界から巫女に生命力と共に祈りの力を与えられる。

そうして巫女は妖に力を与え、妖は世界を作り、作られた世界が巫女を生かし、繰り返される世界をいつしか誰かが御繰世と呼ぶまでその世界は平和に、それはそれは平和に過ごしていた。

しかし平和は続かなかった。とある二人の妖がたった一人の巫女に恋をしたことで。妖の中でも力の強かった正反対の二人は、しかし自身こそが巫女の隣に相応しいと争った。その争いはやがて他の妖たちを巻き込み世界を壊した。世界は巫女そのものであり、世界が壊れることはすなわち巫女が死を意味することと同義であった。その過ちに二人が気づいた時にはもう遅く。二人が恋というものに盲目になった末に手に入れたのは修復不可能な壊れた世界とすでに息絶えた巫女であった。

ある妖は怒り狂い、ある妖は悲しみに打ちひしがれ、皆がもう巫女から力を貰えないことに絶望し、荒れ果て中には自暴自棄になって暴れる者もいた。元凶である二人の妖は巫女の死に幾日も泣き崩れ、絶望する妖たちに罪悪感を募らせ、かつての平和の面影も残らない荒れ果てた世界に打ちひしがれ、何度も何度も話し合った結果、二人は責任と懺悔を果たすため自身の名前を犠牲に二つの異なる世界を作り出した。

一人の妖は僅かに力の残った妖たちがこれ以上力を失わないように、止まった時の中妖たちが名を分け合いそれが妖怪と呼ばれ生きていく『幽世』という世界を。

一人の妖は力をほとんど失った妖が他の力で生きて行けるように、何度も何度も輪廻転生を繰り返す時の中妖が人間として文化を築きあげていった『現世』という世界を。

二人の妖は二度と同じ過ちを犯さない為巫女の魂を幽世へ、巫女の体を現世へと分け、互いに干渉することなく己の存在を祠の中へと閉じ込めた。永遠に、それこそ名前を失くした自身が力も記憶も、やがて存在すらほとんどなくなるまで。それが贖罪と平和になることを願って。


しかし、悠久の時は無慈悲に二人の意思と関係なく縁を結んでいく。

空っぽになった御繰世に人間と妖怪が迷い込むようになってしまったのだ。文化という形で世界を作り出したかつての妖と、止まった時の中かつて世界を作った力を持つ妖は、互いの正体に気づくことすらなく、しかし偶然にもお互いの無いものを補った結果、御繰世に幾つかの小さな空間を生み出すことになったのだ。

本来交わる筈のない妖たちが作り出した幾つもの御繰世の空間はやがて住人を生み出し、徐々に世界を作り出したのだ。そして世界が作られたということは巫女の祈りの力も生み出されることと同義であり、その力は魂と体が分けられた二つの世界に影響を与えた。

巫女の魂が眠る幽世には妖怪の力が増幅され、安定した力を得た妖怪はそれぞれ階級を生み出し幽世を豊かにした。

巫女の体が眠る現世では進むときの中巫女の体は土となり植物となり水となり生物となり、人間を成長させた。

そんな中不都合が起きた。現世には巫女の体であった植物や水や生物を摂取することで、人間の中に稀に祈りの力を宿した器が生まれるようになり、幽世には平等に妖の力が増幅されたことにより祠で消える筈だった記憶と名前を失くした『それ』にも力を与えてしまったのだ。

力を持ったといっても名前がなければいずれ消えゆく運命にあった『それ』は祈りの力をもつ器の存在を知り、その体を祈りの力ごと奪うことで自身が幽世、現世、御繰世その全てを支配できると考えた。そして何千回目かの器である小さな少女に僅かな力を使い不幸が起こるように仕向けた。そのまま上手くいけば少女の体は『それ』の手に落ちていただろう。


…小幸がもう一つの現世の祠にいる、俺に名前をつけなければ。


***


正直、自分がかつて御繰世で妖として一人の巫女に狂った話を知った時は他人事のように冷めた気持ちで考えていた。実際の記憶は無いに等しかったし、何より俺には小幸から貰ったザクロという名前を得て再び生を受けることができたから。しかしその話を知るに至るには小幸の体を狙うあいつを知る必要があった。

あいつは俺だ。記憶を失くし自身の存在が消えることを嘆くことしかできないちっぽけな存在。どういう経緯で祈りの力の正体に気づいたのかは知らないけど、もし俺が幽世の祠にいてあいつが小幸から名前を貰っていたら俺も同じことをしたかもしれない。過ちを犯したかつての自分だった妖を恨みはすれど、あいつも小幸も祈りの力も、誰も何も悪くないんだ。偶然が生み出した必然の悲劇なんだ。

だから考えた。誰も恨まない、誰も不幸にならない方法を。その結果、俺は消えることになっちゃったけど、後悔はしてない。でも…小幸には申し訳ないことをしたと思う。俺がそうするように誘導したとはいえ小幸自身に選ばせてしまったから。本当はもっと早くに小幸をあんな場所から連れ出して幸せにしてやれればよかったんだけど、祈りの力を抑えるために力を込めることで精いっぱいで狐の姿になって傍にいてやることしかできなかった。


…今頃、小幸は泣いてるかな。俺のこと馬鹿、って言ってるかも。それくらいはわかるつもりだ。愛しい小幸のことだから。

初めて会った時のことは今でも忘れない。

『寂しいの?苦しいの?』

雪の中から突然現れた小さな少女。濡烏色の髪を引き立てるように雪の粒が散っていて、白い息を吐くその唇はリンゴのように赤くて。しかしそれらが気にならない程の、澄んだ色で俺を見つめる真っ直ぐな目。

その目が、俺を見てくれる。あの時の気持ちは今になっても言葉に表し難い。全身に火がついたように熱を初めて知る感覚は何物にも代えがたい大切な感情だった。

その顔が涙に濡れるだけで心が引き裂かれ悲しくてたまらなくなる、その顔が嬉しそうに綻ぶだけで何日でも踊ってしまいそうな気分になる。でも、どんな表情をしていてもその目はずっと変わらず小さな幸せを見ることができるほど強く、真っ直ぐで。

彼女の瞳はどんな不幸に合おうとどんな理不尽な目に合おうと、濁ることなく永遠に朽ちることのない宝石のようにそこにあった。

ずっと見ていたいと思ったその時にはもう既に、きっと俺は小幸のことを愛していたのだろう。わからないけど、かつての自分が巫女に恋をした時もこんな気持ちだったのだろうか。いや、きっと、絶対、俺の気持ちの方が上だと思う。俺だったらあの瞳を自ら濁らせるなんて愚行、しないから。それが例え自分がもう二度と見れなくなったとしても、俺の知らないどこかで俺の知らない誰かと俺の知らない顔をしていたとしても、その瞳を守ったのは俺なんだってだけで誇りになれる。


小幸は祠の仕掛けに気づいてくれただろうか。本当は俺の手から返すつもりだったけど、賢い小幸のことだ、きっと俺がいなくても一人であの小幸を苦しめる場所から逃げることができるだろう。そしていつか、誰かと恋をして結婚して、子供も作って、おばあちゃんになってみんなに愛されて笑顔で寿命を果たすのだ。そこに俺も、あいつも必要ない。あの時の事はただの悪夢だったのだと思うほどにいっぱい、いっぱい幸せになればいい。その為なら俺のことも、一緒に笑いあったほんの少しの愛しい時間でさえも忘れても、小幸がそれ以上に笑ってくれれば俺はそれ以上何も望まないから。

だからもう泣かなくていいんだよ、小幸。小幸は優しいからきっと俺の為に泣いてしまうのだろう。その涙を拭ってやれないのはちょっと心残りだけど、俺のことを想ってくれるのはその時だけでいいから。俺のことで泣いてくれることに嬉しくないといったら嘘になるけれど、それでも小幸が笑顔でいてくれる方が俺はずっと好きだ。だから涙と共に全てを流し尽くしてしまって、そして前を向いて欲しい。


…でも、ちょっとだけ、我儘を言うなら。もう少しだけ、小幸の傍にいたかったなぁ…なんて、あんなに綺麗事を言っといて情けないヤツだな、俺。

「…シロ…」

そう言って俺のことを撫でてくれる温かい手が大好きだ。微笑みかけてくれる花のような笑顔が大好きだった。いつもその温もりに、その笑顔に俺は救われたのだ。これから先は俺よりもっといいヤツ見つけて、そいつと笑いあって、手を繋ぎ合うのかな。嫉妬しないといったら嘘になるけどきっと俺では小幸をそうしてやることはできないから。

「シロ…」

いつかそんな呼び名すら忘れてしまうのだろうか。白いからシロなんて、ありきたりだけど、小幸がそう呼んでくれるなら俺はなんだって嬉しかったんだ。白い髪なんてどうでもいいしなんなら面倒くさいと思っていたけれど、小幸のくれたかんざしを引き立ててくれる色が今は少しだけ好きだと思える。小幸にとっては何でもない白だけど、俺にとっては特別なシロなんだ。

「シロ…!」

…ああ、我ながら女々しい。もう目も見えない筈なのに小幸の顔が頭に浮かぶ。耳なんてもう機能してない筈なのに俺を呼んでくれたあの声がまだ聞こえる。

ごめんな、小幸。俺、ずっと愛してるんだ。出会ったその時から、消える最後の瞬間まで。小幸が俺のことどう思っているかわからないけど、想い続けることだけはどうか許して欲しい。もうこれ以上迷惑はかけないから。

だから…

「シロ!」

「!」

その温かい手が、再び俺を掴んでくれるわけなんか、なくて。

「待たせてごめんね、シロ」

そう言って俺にまた笑いかけてくれる筈なくて。

「幸せにしに来たよ!」

それでもその澄んだ色で真っ直ぐ俺を見つめる小幸は、俺の妄想ではないことはわかった。


***


小幸が謎の声に連れられるようにやって来たのはなんとも不思議な世界だった。元の世界のように建物やそこから漏れる明かりは見えるものの、その中に歩いているのはとても人間の世界では見たことないような形の生物。

「ここが…幽世」

そう、小幸は幽世にいたのだ。


あの時声は言った。

―幽世に連れて行ってあげる。そこで私を探しなさい。そしたら彼を救う方法を教えてあげる。

と。

勢いのまま二つ返事で来たはいいものの、声の正体もその声がどこにあるかも何もかも小幸は知らないのだ。その場に縫い付けられたようにただ立っていることしかできなかった。

「そこのお嬢さん」

不意に小幸の後ろからかかる声、小幸が肩を跳ねさせながら振り向くと老婆がそこに立っており、見慣れた姿に小幸は胸を撫でおろす。

「わ、私…ですか…?」

「そうそう、お嬢さん、少し手伝ってくれないかい?」

老婆はしゃがれた声で小幸に話しかけた。

「実は落とし物をしてしまってね。目もよく見えないものだから手伝って欲しいんだ」

そう話す老婆は小幸に害を成すようにはとても見えなくて。

「はい、私にお手伝いできるのであれば」

小幸はついでに幽世について聞こうとそのお願いを引き受けたのだった。


「ここですか?」

「ああ、ここら辺で落としたはずなんだけどね」

老婆が落としたというその場所は建物の裏、幽世の生物たちがほとんどいない静かな場所だ。

「何を落とされたんですか?」

「小さな指輪でね。目を凝らしてよく見ないと見つかりそうにないんだ」

なるほど。それならば目がよく見えない老婆は探せないわけだ。

「よぉく目を凝らしておくれ。大切な物なんだ」

老婆の言う通り、薄暗がりの中しゃがんで目を凝らし、地面を見渡す。しかしいかんせんどんな物かも知らない指輪を他人の小幸が無作為に探して見つけるのは到底無理であった。

「おばあさん、何か明かりになるものを…」

せめて光に反射すれば少しは見つけやすくなるだろうと後ろを振り向くと。そこには老婆の姿はなく、大きく、それこそ小幸を一口で丸呑みできてしまいそうな黒い化け物がいた。

「ヒッ…!」

その姿に怯んだ小幸が思わず尻もちをついたおかげで大きな口は本来小幸が立っていれば腰にあたるであろう位置でガチン!と剥き出しの歯を鳴らす。

「なんダ…そのまま気づかなけれバ楽に逝けたものヲ」

逃げなければ、逃げなければ。そんな警鐘が小幸の頭にガンガンと鳴り響いているというのに、体は震える以外の行動を認めてくれなかった。

そうこうしている間にも口は再び小幸を食べようと大きく開ける。生ぬるい吐息が小幸の全身を撫でた。


…食べられる。

小幸はその事実から目を逸らそうと強く目を閉じた。

(助けて…助けて、シロ…!)

そう心の中で愛しい者の顔を思い浮かべ、ハッと我に返る。自分は何のために幽世に来たのか。その大切な者を助けるためだろう。

小幸はギュウ、と強く握りしめた拳に握った砂を口に向かって投げつける。

「ガァ!ぺっぺっ、小娘が…!」

怯んだその一瞬を見逃さず小幸は走り出した。

走って走って、何度も転びそうになりながらも小幸は走り続ける。もうあの化け物は小幸を追って来ていない。それでも小幸はただただ走り続けた。

「あっ…!」

そんな小幸の足を止めたのは曲がり角でぶつかったことによる衝撃だ。

「ご、ごめんなさ…っ!」

顔を上げた小幸は全身の血の気が引いていくような感覚に陥る。それはなんという不幸なのだろうか。

「……何故、ここにいる。小娘」

黒い髪と血のような赤い目、そして小幸を惑わせた低い声。

「ザ、クロ…」

そこにいたのは、ザクロであった。


***


「…ほぉ、それであやつを助けるため何も知らずにおめおめと幽世に来たと」

ザクロは小幸の手当てを甲斐甲斐しくしながらクツクツ、と笑った。

「つくづく愚かだな。少し頭を使えばわかるものを。妖怪にとって人間が来たらそらいい餌になるだろうよ」

そう言いながらもザクロは人間である小幸が他の妖怪に狙われないために和室の一室を貸し切り、そこまで小幸を匿い今はこうして治療してくれる。なんともおかしな話だ。

「ザクロこそ…どうして助けてくれるの?」

恐怖がないわけではない。シロの名前を奪ったことを恨んでないといえば嘘になる。それでも放っておけばザクロの言う通りただの餌になっていたであろう小幸を助けてくれたザクロの行動がどうしても言葉とは合わず、小幸は聞かずにいられなかった。

「勘違いするな。賭けの制約は絶対だ。俺はお前に傷一つでもつければその瞬間に死ぬ。だから害さないだけだ。助けるなどと生ぬるい考えをしないことだな」

その言葉は冷たい。しかしオクリヨで会った時のように触れれば傷をつける刃物のような無機質なものではないことを小幸は感じた。

「…そう。じゃあ、私はもう行くから」

「は?お前、ここを出たらどうなるかわかってるのか?それとも本気で馬鹿なのか?」

立ち上がる小幸にザクロはあぐらに頬杖をついていた体勢から顔をあげる。

その言葉で小幸は確信を得た。


「じゃあどうして、今更私に…ううん、シロに情が湧いたの?」

「!湧いてなんか…!」

小幸の言葉に動揺していることが一番の肯定だ。ザクロは咄嗟に反論してしまったことで動揺していることが露呈してしまい、頭を押さえ忌々しそうにため息を吐く。

「クソッ…名前なんて貰わなければこんな醜態…!」

「名前?」

小幸が聞き返すとザクロは短いその髪を掻きむしった。

「……名前というのはな、言わば記録のようなものだ」

ザクロは非常に不愉快といわんばかりに説明する。

「名前はその名前を持つ者の感情、記憶、それこそ小指の僅かな動きですら事細かく記録する。そして名前を貰った者はその記録をいやでも脳に書き連ねられる」

「ええと…つまり、シロの記憶や感情を名前と一緒に受け継いで同情したってこと…?」

小幸がそう言うとザクロはやや俯いた姿勢から赤い瞳を小幸に向け睨みつけた。

「誰があんな軟弱者に同情なんぞするものか。言葉は慎重に選べよ、小娘」

シロを軟弱者と言われ小幸はムッと眉をひそめる。自分の名前を犠牲にしてでもザクロを守ったその姿を軟弱だと貶すようなことをザクロ自身に言われたくなどなかった。

「そう言いながらシロに情が湧いてることは事実じゃない。いくら感情や記憶が上乗せされるといってもそこに共感がなかったら他人事で済ませられるでしょう?」

なにも記憶や感情を受け継いだとしても洗脳でない限り本人の積み上げてきた信念は揺らぐわけがない。それでもシロを軟弱者と表したのはそこに僅かにでも理解できる部分があったからこそだ。


ザクロは小幸の言葉にグ、と言葉を喉に詰まらせ、腹立たしそうにゆっくり息を吐いた。

「…どこまでも頭の中花畑だな、お前も、あいつも。こんなもの、共感なぞしたくもないわ。だがわかりやすく言葉にしてやるならば…嫉妬だ」

そう語るザクロは侮辱するように、あるいは悔しそうに眉にしわが刻まれている。

「俺があやつの立場にあれば、たった一人の愛した小娘を泣かせてまで他のどうでもいい奴らに…それこそ小娘を狙う輩なんぞに自分を犠牲にして助けるなど甘ったれた思考などしないだろうよ。俺だったらそんなことしない、どんな下劣な手を使ってでも愛した者が笑う世界を作り出してやる」

「それって…」

ザクロは大きな片手で顔を覆った。指の隙間から覗く血の色が、なぜだか彼が流してきた傷を表しているような気がして。

「なぜ名前を貰うのが俺じゃなくあやつだった。どうして俺は名前がないというだけで醜悪なあの日々を受けねばならない。なんのために非道になってようやく手に入れた名前に…こんな…屈辱な気持ちにならねばならんのだ」

ザクロはシロと同じ立場だった。ただ名前を貰ったか貰わなかっただけかの違いしかなかった筈だ。それなのにザクロという名前の中に流れるシロの優しさが、ザクロを思いやる気持ちが。愛おしい存在が泣くとわかっていても自分を犠牲にして全てを守ってみせた強さがあまりにも眩しく、愛おしくて。同じ立場であってもザクロには一生手に入れられなかっただろうそれにただ自分の愚かさが浮き彫りになるだけだった。


「ザクロ…」

小幸はザクロの頭を包み込むように抱きしめる。そこに恐れや怒りは消え去っていた。

「…ハッ、同情のつもりか?それとも俺を惨めな気持ちにしたいだけか?」

そう言いながらザクロは小幸を拒むことはしない。

「ザクロはシロじゃないよ」

「…」

小幸の言葉にザクロは唇を噛む。

「違って当たり前じゃない。同じ立場だとしてもそこにいるのは別人なんだから。ザクロがシロになれないように、シロだってザクロになれないんだよ」

小幸はザクロの頭を撫でた。身も心も冷え切るしかなかった彼に少しでも温もりが伝わればいいと、何度も、何度でも。

「私はザクロのこと、全てを許せるわけじゃない。でも…ザクロという名前が貴方に渡ってよかったって、今は思えるよ」

「…なぜ」

そう問いかけるザクロの声は弱々しかった。

「ザクロはね、再生の意味もあるんだけど、結合とか心臓っていう意味もあるの」

小幸は優しくザクロに語り掛ける。

「今ザクロがこうしていてくれるから私はシロとの縁を手放さずにすんだ。やり方は褒められたことじゃないけど、ザクロがいなかったらシロはきっと私にかんざしを返してそのまま離れていただろうから。結果的に私とシロの縁を結んでくれた。それはザクロしかできなかった、『心』を『結』んでくれた証なんだよ」

「…酷いこじつけだな。子供の方がもっとマシな言葉を使うだろうよ」

だが、とザクロは小幸の服を掴み、涙を流した。

「そう…だったら、いいと思う俺も充分子供なのだろうな」

その涙は、彼が秘めていた心臓から流れる血のように、温かいもので。

静かに泣くその存在を小幸はただ静かに撫で続けていた。


「言っておくが俺は今までのことを謝るつもりはないし反省するつもりもない…だが…」

ザクロは顔をふい、と背ける。その耳は僅かに赤く染まっていて。

「お前があやつに会える手助けくらいは…してやってもいい」

尻すぼみに放った言葉はザクロなりの思いやりなのだろう。小幸は思わずクス、と笑った。もちろんザクロに聞こえているため睨まれることになるのだがそれを怖いと思う気持ちはない。

「じゃあ小娘とかお前って呼ぶんじゃなくてちゃんと小幸って名前で呼んで欲しいな」

「は?なんのために…」

「その方が咄嗟に反応しやすいし、それに…」

小幸はニコ、と笑う。

「本来のザクロの持ち主だったらそう呼んでくれるもの」

「…いい性格をしてるではないか」

それは小幸なりのちょっとした意地悪だった。謝ることも反省することも必要ない。小幸と呼ぶことでザクロという名前は貰ったものなのだという事実を知って欲しかっただけだ。

「……小幸。まず祈りの力についてどこまで知っている?」

その言葉に小幸は静かに首を振った。ザクロが呆れたように小幸を見つめている。

「…よくそれでここに来れたな。無謀というべきか馬鹿というべきか」

どちらも小幸を貶していることには変わりないのだが、実際かなり無理をしている自覚はあったので小幸は反論することができず頭を垂れるしかなかった。


「はぁ…いいか、一度しか説明せんからよく聞いておけ」

そう言いながらザクロが説明してくれたのは御繰世と呼ばれていた世界でのできごと、巫女に恋をした妖たちの過ちとその末路、そして作られた二つの世界と元は同じ妖だった者たちが生んだ偶然、そこで起きてしまった必然の悲劇の話だ。

「理解できたか?」

「うん…」

理解はできた。一度しか言わないと言いながらも一つ一つの出来事をきちんと小幸にもわかるように丁寧に説明してくれたザクロのおかげで。

しかしそれに納得ができるかは話が別だ。自分が巫女の力の一部であった祈りの力が宿った器であることも、かつての元凶であった二人がなんの因果かまた再び相まみえることになることも、そしてそれを引き寄せたのが小幸に宿った祈りの力であることも。何もかもがまるで他人事のようだった。

「それで…ザクロは、その祈りの力を手に入れてどうするつもりだったの?」

ザクロは少し黙った後、静かに話す。

「…本来なら幽世にある巫女の魂も回収し俺自身が新たな巫女として成り代わるつもりだった。もっとも、どこぞのお節介のせいで全て白紙になったが」

ザクロはそう嫌味らしく言いながらもどこか清々しさを感じさせた。

「新たな巫女…もし、巫女になったらどうなるの?」

「人間も妖怪も元は同じ妖、今まで互いに干渉せずに互いの世界を紡いできた均衡は呆気なく崩れるだろうよ。巫女の意思次第で世界などそれこそ息をするが如く容易く消すことができる」

「…」

もし、巫女が生まれたとなれば現世も幽世も混乱が起きるだろう。巫女を利用しようと企む輩もいるかもしれない。下手をすれば、無益な争いが起こすことすら可能なのだ。巫女という立場の重さとだからこその覚悟を小幸は重しをかけるように聞いていた。


「…あやつは…」

考え込む小幸に言葉を選ぶようにザクロはゆっくり言葉を紡いだ。

「もう名を失くしてから随分と時が経っている。もし探すとなれば空気の中からたった一つのちりを見つけると同意義になるぞ」

だが、とザクロは言葉を続ける。その目はしっかりと小幸を捉えていた。

「それを僅かだが確かにする方法がある。巫女の力であれば祈りの力を受けたあやつの気配を辿れるかもしれん」

つまりシロを助けたければ小幸が巫女となるしか方法はない。しかしそれも確実ではない。塵から花びらになった程度の違いだ。

「どうするかは小幸、お前が決めることだ」

助けられる可能性だって確実ではない。その僅かな可能性のために全ての世界の責任と覚悟を背負えるか、ザクロはそう問うているのだ。

「………」

怖い。当たり前だ、少し身じろぎしただけで戦争すら起こせてしまう力をそう易々と請け負うなどと言える心の強さなんて小幸は持ち合わせていなかった。

「…」

それでも…愛しい彼が自分を犠牲にして小幸も、それどころか世界全てを救ったというのなら。

「……巫女に、なる。もちろん私なんかに相応しいものではないとわかってる。それでも…!」

小幸は胸のあたりをギュッと握りしめザクロに向き合う。

「私は愛した人の為ならどんなものがその先に会っても乗り越えてみせる覚悟がある!」

心臓がドクドクと強く脈打っている。手だって震えてしまって説得力などないだろう。しかし小幸の言葉に嘘はないと感じたザクロはふ、と笑った。


「そのくらいの意気など赤子の喚き声と同じよ」

ザクロはそう言うとポン、と小幸の頭に手を置く。

「ならばまず巫女の魂の居場所だが…」

「えっ…」

すんなりと話を進めるザクロに小幸は素っ頓狂な声をあげた。

「手伝って…くれるの?」

呆気にとられる小幸に対しザクロは軽蔑するようにわざとらしくため息を吐く。

「元より引く気なぞないのだろう?赤子の喚き声に説法を説いたところで意味もないのと同じよ」

さり気なく馬鹿にされたような気がするが、要は小幸を手助けしてくれるという言葉は嘘ではないということだ。

「…ありがとう」

「やめろ。礼を言うのはあやつを助けられてからだ」

ザクロは不快と言わんばかりに顔をしかめるが、それが照れ隠しなのだとわかったので小幸は微笑むだけに留めておいた。

「話を戻す。巫女の魂は今幽世でのトップでもある『鬼』の一族によって守られている」

「鬼?」

「巫女の魂が妖怪に力を授けたという話は覚えているな?それはより近くにいるほど影響を受けやすい」

つまり、巫女の魂を持つ鬼を筆頭にした階級ごとに妖怪は巫女の魂の近くにいることができるということだ。


「そもそも巫女の魂を巡って争いが起こった中で鬼は階級を生み出すことで場を治めた平和主義だ…だが、争いを力づくで治める程度の力はある」

つまり穏便ではあるが下手な動きをすれば人間の小幸などあっという間にひれ伏させることができるということをザクロは言っている。さらに最も巫女の魂が近いということは更にその力を強めているだろう。

「本来なら、邪魔する奴はまとめて殺す…と、言いたいところだが現実的ではないだろうな。それが巫女の魂と関係があるとするなら猶更」

いくらザクロ一人が強くても多勢に囲まれれば掠り傷程度などでは済まない。巫女の魂を守ることで平和が保たれているとするなら、敵は鬼だけでは済まないだろう。

「話し合い…といっても巫女の魂をそう易々と渡せるわけないよね。そもそもその鬼に近づくことすら難しいかも」

考える小幸にザクロは少し考えた後、口を開いた。

「単に鬼に会うだけならば…方法はないわけではない」

「!」

希望を見る為に顔を上げた小幸に対しザクロはどこか乗り気ではないような顔をしている。

「教えて、ザクロ」

「……」

ザクロも元よりその方法しかないと言葉にしたのだろう。時間は有限ではない。ゆっくりなどと言っていればシロを救える確率は遠ざかっていくだけだ。ならば、多少強引にでも動かなければならない。

「…幽世の妖怪は力関係が自身の価値の証明だ。だから、定期的に闘技場を開く」

ザクロが言うにはその闘技場にて力があると判断された妖怪は鬼からの審議の後、階級を授けられるのだという。

「鬼の審議…」

つまり、鬼に直接会えるとするならその瞬間だろう。しかしその為には闘技場とやらで力を見せる…つまり、勝ち抜かなければならないのだ。


「その、闘技場っていうのはどういうものなの?」

「…闘技場とは言っているが、あんなもの、ただの処刑場に過ぎん」

ザクロはその闘技場について知っているのか、吐き捨てるように言い放った。

「負けた者はずっと弱者の肩書を貼られ、他の妖怪からの迫害を受ける。だからこそ相手は絶対に勝とうとどんな卑怯な手でも使う…その卑怯な手段ですらその妖怪の力なのだと評価されるから地獄だぞ」

「そんな…」

つまりその闘技場に挑むにはそれ相応の覚悟を伴い、そして…もし勝ったとしても相手を迫害させることになるのだ。

ザクロは強い。それなりに勝ち進むことができるだろう。しかし小幸たちの狙いは鬼へと接触することのみ。その為に何人もの妖怪を踏み台にしなければいけないのだ。

小幸は服を強く握りしめる。その指先は白く冷え切っていた。

決断しなければいけない。妖怪たちを犠牲にして、それでもわらに縋るほどの可能性に賭けることを。

ふと、小幸の手に冷たい手が重なる。それが誰のものかなんてわかりきっていた。

「余計なことは考えるな。たかが人間の小幸が妖怪相手に勝てるわけないだろう。闘技場に参加するのは俺だ。お前は俺に連れてこられて鬼に会うだけだ」

「ザクロ…」

ザクロだって自身で処刑場というからには参加するのは辛い筈だろう。相手がどんな手段を使うかもわからず一人で勝たなければいけないのに、その上その罪を自分が全部背負うと言うのだ。


「いや」

だからこそ、小幸はその冷たい手を握る。その手が一人で冷え切ってしまわないように。

「私だってザクロを支えたい。足手まといにはならない。だから、お願い…一緒に参加しよう」

「…意味をわかって言っているのか?」

小幸も参加する。それは小幸自身も安全が保障されないということだ。

「わかって言ってるよ」

「何もわかってないだろう!」

キッ、と目を吊り上げるザクロに小幸は変わらずザクロの手を繋ぎ続けていた。

「大体、たかが人間のお前如きに何ができる?邪魔なだけだ。余計な同情はするな!」

「だったら、私のことは放っておけばいい。自分の身は自分で守る」

「ハッ、馬鹿だとは思っていたが余程阿呆らしい。それで鬼に会えねば元も子もないだろうが!」

「阿呆なのはどっちよ!鬼に会うためならザクロがどうなってもいいわけないでしょう!?」

ザクロは強く睨みつける。小幸も負けじとその赤い目を睨んだ。

しばしの睨み合いの末、視線を逸らしたのはザクロの方だった。


「はぁ…もういい。無意味な時間を続けても無駄なだけだ」

ザクロはそう言うと背を向けてしまう。それが小幸を拒絶しているように見えて、小幸は自分の無力さに顔を下げるしかなかった。そんな小幸の視界に映る大きな手。小幸が顔を上げると顔を背けながらも手を差し出すザクロがいた。

「共に参加するからには少しは役に立ってもらうぞ、小幸」

「!」

その言葉に小幸は顔を綻ばせる。

「うん!一緒に頑張ろうね、ザクロ!」

小幸がその手を取るとザクロはふん、と呆れたような息を漏らす。その顔は窺い知れないがきっと悪いものではないのだろう、と感じとることはできた。


***


「おい」

闘技場は石造りの壁で円状に囲まれた大きな吹き抜けの建物だった。本で見たどこかのコロシアムのようだ、と人間と悟られないために特別な鬼のお面をつけた小幸はザクロの後ろで闘技場を見上げて思う。

「はいはーい。おっ、お客サン良い男だね!初めてのお客サンにはサービスしまっせ!」

闘技場の前でニコニコと手をこまねく猫耳と二本の猫尻尾を生やした小柄の猫又ねこまたが小幸の正体に気づくことなくザクロを上客にしようと媚を売っていた。

「初めてのお客サンは安定して九尾きゅうびに賭けるのが王道ですな!まぁ、大人気なんでそうそう儲かりませんけどね」

ケラケラと笑う猫又に小幸はこっそりとザクロに話しかける。

「ねぇ…賭けって?」

「…この闘技場では観客側が出場者にここでの金を賭けることでそやつが勝利した時に観客が金を貰える方式を取っている。謂わば博打のようなものだ」

つまり、迫害されるかそうでないかを面白半分で観客は金を賭けて遊ぶのだ。それはなんて残酷なのだろう。

「そんで、お客サンは誰に賭けやすかい?」

「賭けなぞしない。参加させろ」

ザクロの言葉に猫又は笑みを絶やさず、しかし僅かに目を開いた。

「…本気ですかい?悪いことは言わねぇ、あんなの参加しなくても旦那なら十分でしょうに」

猫又も闘技場の一人だ。だからこそわかっている。闘技場に参加することの愚かさを。


「本気だ。お前は金だけ気にしていろ」

ザクロがそう言い切ると猫又は残念そうにため息を吐く。

「馬鹿なお方だ、傍観者面していれば良いものを。ま、あっしにしたら金になればなんでもいいのでね!」

猫又は再び笑みを浮かべるとパンパン、と手を叩いた。すると二匹の猫が闘技場の奥から歩いてくる。

「今回の参加者だ。案内してやれ」

猫又がそう命令すると猫はにゃあん、と一鳴きし奥へと消えていった。

「行くぞ、小幸」

「う、うん…」

今から行くのは多くの感情や欲望が混ざった地獄の入り口。自然と強張る小幸の肩をザクロは慰めるかのように引き寄せると小幸のペースに合わせて歩いてくれている。それだけで小幸は自然と歩くことができた。

暗闇へと呑まれる二人の背中を見届けた猫又はぼそりと呟く。

「惜しい方を亡くしたな…今回の『お狐様』は虫の居所が悪いことも知らずに…」


***


猫はとある部屋の前に止まり、小幸たちの方を振り返る。

「こちらが待機室ニャ、出番の時までゆっくりしていけニャ」

猫はそう言うとスタスタとどこかへ行ってしまった。

扉を開ければそこは綺麗…とは言い難い、簡素な部屋がある。やや狭い部屋に布団と箪笥、座布団と机が置いてあるだけだ。

ザクロは辺りを見回すと後ろの扉に手をかける。

「ふむ…鍵はない、か。今のところ部屋に妙な細工はされていないが、警備もいないとなるといくらでも毒は盛れそうだな」

「ど、毒…」

今はザクロの参加は知られていない。しかしこれから勝ち上がっていけば、確実にザクロに害をなす存在は出てくるだろう。

「小幸、ここで部屋を見張っていろ」

「…ザクロは一人でどこ行くの?」

こんな所で一人でいるのも不安だが、ザクロの身に何かが起こるのが恐ろしくて小幸は思わずザクロの袖を引いていた。

「…なに、古馴染みと話すだけだ。すぐ戻る」

ザクロはそう言って小幸の頭に手を置く。その柔らかな表情に何も言えず、小幸は見送るしかなかった。


小幸は何をするでもなく、座布団にちょこんと座ってザクロを待っていた。少しの間、そうして待っているとコンコン、とノック音が響く。小幸は肩を跳ねさせ扉を凝視していた。ザクロならばわざわざノックなんてしないだろう。だとするならば扉の先にいるのは見知らぬ妖怪だ。

開けるべきか否か小幸が考えるよりも先に鍵のかかっていない扉は無慈悲に開く。

「こーんにーちわ!」

開口一番元気よく入ってきたのは快活そうな少年とも少女ともとれるような小さな背の妖怪だった。

「あれ?君一人?もう一人いなかった?」

呆気にとられる小幸を他所に妖怪は首を傾げる。

「ま、いいや!ボク、山彦やまびこ!君は?」

ずい、と顔を近づけられ小幸は内心ドキリ、と心臓を跳ねさせた。ザクロの作ってくれたお面はそう簡単に人間だと悟らせないとわかっていても近づかれるともしやと思わずにはいられないのだ。

「こ、小幸…」

「小幸ね!よろしく!」

にぱ、と笑う山彦に小幸はただ頷くしかなかった。


「あの…山彦、さんはどうしてここに?」

「あーあー、さんとかいらないよ。敬語もなしで。ボクそういうの苦手でさー」

山彦は嫌そうに手を大げさに振ると、「んー」と唸る。

「新しく参加した馬鹿がいるって聞いたから様子見…と思ったけど、小幸じゃなくてもう一人の方かなって。小幸そんな馬鹿に見えないし」

様子見、ということはこの山彦も参加者なのだろうか。

「山彦も参加しているの?」

「お、正解!ずっと参加してるよ、まぁ…結果は散々だけどね」

陽気に肩を竦める山彦からはとても闘技場の参加者だとは思えなかった。

「どうして、山彦は闘技場に?」

「あー…聞きたい?」

苦笑いを浮かべる山彦にいらない地雷を踏んでしまったと小幸は慌てて首を振る。

「ごめん、失礼だったよね」

「ん?別に隠してることじゃないからいいよー。まぁ…ちょっと恥ずかしいだけ」


山彦は頬をかくと小幸の方を向いた。

「そう言う小幸こそ、なんで闘技場に参加したの?流石に負けたらどうなるかわからないわけじゃないよね?」

そう問われて小幸は適切な言葉を頭の中で探す。まさか鬼に会いたいがために来たなんて馬鹿正直に話すわけにはいかなかった。

「…どうしても、やりたいことがあるから」

嘘は吐いてない。シロを助けるためにはどうしても通らなければいけない茨の道なのだ。そしてそれは…目の前の山彦を倒すことになろうとも。

「ん。そっか!よくわからないけどお互い頑張ろうな!」

そう無邪気に笑う山彦でさえも踏み台にしなければならないことに小幸はただ心を痛め、それを悟られないために頷くしかなかった。

「じゃ、ボクはそろそろ出番だから!」

そう言うと山彦はひょい、と立ち上がる。

「ボクが言っても信じて貰えないだろうけど…小幸のやりたいこと、できるといいな!」

そう言って山彦は軽い足取りで部屋を出ていった。


「…」

山彦の語り口からして何度も闘技場に出場しては負け続けているのだろう。そしてその度に迫害され。いったい何のために、どうして負けるとわかっていながら笑顔でいられるのだろう。小幸にはわからない。そもそもあの素直さが本心からだという確信もないのだ。複雑な思いを心の中で燻ぶらせていると、扉が開く。そこにいたのはザクロだった。

「…他の妖怪の気配がする。何を吹き込まれた?」

顔を顰めるザクロに慌てて小幸は否定する。

「何も吹き込まれてないよ!ただ様子を見に来ただけみたい」

嘘は吐いてない、山彦と話したことはあえて避けて小幸は話した。

「ザクロこそ、知り合いには会えた?」

話を逸らすように、小幸は話題を持ち掛ける。

「ああ…会えはした、が…」

「?」

言葉を濁しどこか苦虫を噛み潰したような顔をするザクロに小幸が問いかけようとしたその時だった。

「出番ニャ、さっさと来るニャ」

猫のよく通る声が扉越しから聞こえる。

「…行くぞ」

「…うん」

いよいよ始まるのだ。互いの信念を賭けた、戦いが。

「小幸は俺の後ろにいろ。うろちょろされる方が邪魔だ」

小幸を守るためだろう、ザクロの言葉は僅かに強張っていて。

小幸はその冷たい手を握った。

「!」

「大丈夫、ザクロを一人にしない」

小幸がザクロに向けてそう微笑むと、ザクロは視線を逸らす。しかしザクロの手は小幸の手を強く握り返していて。

二人は歩き出した。


***


猫に案内されるまま招き猫の像の所まで連れて行かれ、そこで待っていろと言われた通りに待っていると、気がつけば小幸たちは大きな円形の広場のような所に立っていた。

周りを見渡せば妖怪たちの歓声や罵声がごちゃごちゃに絡まった声と目の前には全体的に白の印象を纏った女性らしき妖怪が一人。

雪女ゆきおんなか…これならば俺一人で充分だろう。小幸は下がっていろ」

小幸は静かに頷くとザクロの後ろに隠れるように下がった。実際小幸にできることはない。ただザクロの無事を祈るだけだ。

ゴーン、と重々しい鐘の音が鳴った。

その音を皮切りに雪女が鋭利な氷の粒を作り出すと目にもとまらない速さでザクロへと飛ばす。ザクロは袖を振り、その風で氷の粒を風で落とした。

雪女はその僅かに作った隙を狙い、辺りを氷の舞台に作り上げる。四方八方から雪の粒がザクロを狙って次々と容赦なく襲う。しかしザクロはなんてことないように埃を払うが如く腕の動きのみで氷の粒を消していった。

その場から動こうとしないのは小幸をいつでも守るためだろう。そうすることができるザクロは知っていたのだ。目の前の妖怪に勝てるという可能性に。


ザクロは小さな光の玉をいくつか作り出すとあちこちに散りばめる。玉は一気に膨張し辺りを照らすと、雪女が作った氷の舞台をあっという間にあとかたなく消してしまった。雪女が動揺するように辺りを見渡すと、一つ残っていた光の玉が雪女の前に現れる。

「!」

玉は雪女を包み込み辺りを照らすと高い悲鳴が響いた。光が消えた時には倒れた傷だらけの雪女が倒れていて。

一瞬の静寂の後、湧いたのは歓声。誰もがザクロの勝利を感じ取り、その圧倒的強さに歓喜の声をあげたのだ。

「終わった…の…?」

あまりにも呆気なかった。雪女はザクロに掠り傷すら残すこともできず、ザクロをその場から動かすことなく負けたのだ。雪女としてはなんとも屈辱でしかないだろう。

「…いや、終わってない」

しかし重い声で言うザクロは小幸を庇うように腕を上げた。

「!」

傷だらけの雪女がよろよろとふらつきながらも立ち上がる。あちこち破けた着物から血が滴り、荒く呼吸するその様はとても戦える状態ではなかった。


雪女はそんな中でもにたり、と笑うと黒くて大きな丸い飴玉のようなものを取り出す。

「っ!馬鹿者…!」

咄嗟にザクロは小幸を抱きしめ、守るように雪女に背を向けた。

何が、と小幸が問うまでもなく観客の悲鳴が響き渡る。びゅうう、と風が吹き荒れ、抱きしめられていても肌を刺すような寒さが小幸を襲った。

ザクロは光の膜を作ると、それで小幸を包み込んだ。さっきまで感じていた寒さが嘘のように、膜は小幸を守ってくれるものなのだと察した。

「待っていろ。すぐに終わらせる」

そう言うザクロの顔色は悪く。ザクロ自身も辛いのではと膜の中で小幸はザクロを見上げることしかできなかった。

ザクロが雪女の方へと向く。小幸はその雪女を見て唖然とした。

グォォ、と雄叫びをあげるその声は聞く者を凍てつかせるような冷たさを纏っていて。まるで氷でできた大きな体は氷漬けにした観客すらも襲い暴れまわる。その姿に理性など一切感じず、ただの怪物としか表しようがなかった。


「っ…!」

小幸が言葉を失っているとザクロは飛び上がり、怪物の頭部に乗る。怪物はザクロが乗ったことすら気づかず暴れまわっていた。

ザクロは暴れまわる怪物にその手を触れると怪物の体が内部から光る。

ガァァ!

という怪物の悲鳴と共に光は膨張していくと大きなガラスが割れる音と共にその体が小さな氷の粒となって辺りへと散っていった。

それと同時に吹雪は止み、凍りついていた観客たちは氷が融け何が起こったのかと辺りを見渡している。

そんな中、ザクロは呆然としている小幸へと近づき光の膜を解いた。

「ザクロ…いったい、何が…」

「…説明は後だ。今は戻るぞ」

ザクロの顔色は先ほどより悪い。今はザクロを休めるべきだと判断した小幸は黙って頷いた。


***


「幽世には、力を増幅させる丸薬がんやくが出回っているニャ」

一度部屋に戻り死んだように眠ったザクロの傍に寄り添いながら、あの場を静めてくれたお礼と言って大量の金の塊を持ってきた猫たちに小幸は状況を聞いていた。

「だけどそれは禁薬。接種した妖怪は過剰に接種すれば多大なる力を手に入れる代わりにその身も心も壊されるのニャ」

「そんな…」

雪女としては迫害されるくらいならばとその薬に頼ったのだろう。自身を嘲る妖怪ごとめちゃくちゃにしてしまおうと。そうまでして彼女が手に入れたかったものは何だったのか。文字通り壊れてしまった今では聞くことすら叶わない。

「そもそも、観客に被害が出たのにその薬を禁止しないのですか?」

「勘違いしないで欲しいニャンだけど、ここでは力が全ての世界。自分の身も守れない奴らなんて観客だろうとどうでもいいんだニャ」

なんて冷めた言い方なのだろうか。ザクロが止めていなければ今頃何人もの妖怪が犠牲になったかもしれないのに。

「まぁ、でも早めに止めてくれたおかげでちょっとの時間があればまた闘技場を始められるニャ。それまでゆっくり休んでろニャ」

猫はそう言い放つとスゥ、と消えてしまった。


「…」

小幸は布団で眠るザクロを起こさないようにそっと頭を撫でる。

闘技場のことを地獄だと言ったザクロの気持ちが今ならわかる気がした。人間は力がない。だからこそ互いを守るために協力しあう。しかし力がある妖怪にはそれが通用しない。力のない者は死んでも当たり前の世界で、名前すらなかったザクロがどんな目に合ったか、想像ではとても補えないがザクロがどうしても非道にならなければいけない理由はわかるような気がした。

「ザクロ…ありがとう」

それでも、ザクロは非道になりきれなかったのだ。雪女が禁薬を呑んだ時のあの焦った表情、あの場に小幸がいなかったら力づくにでも止めに入っただろう。それでも自らの手で雪女だったそれを壊したのは、彼なりの敬意の表れなのだろうと察せられた。

「ごめんね」

手触りの良い髪を何度撫でても反応はない。相当無理をしたのだろう。いつも機嫌が悪そうに顔にしわを刻んでいるが無防備に眠るその顔はあどけなく、どこかシロに似ていて。彼もシロに負けず劣らずの強く優しい人なのだ。


コンコン、とノックが鳴る。咄嗟にザクロを庇うように扉に体を向けた小幸は扉越しから聞こえる「小幸ー?入っていい?」という山彦の緊張感のない声で体の強張りを解いた。

小幸が軽く了承すると山彦は小瓶の入った箱を両手に持ち「よいしょっと」と言いながら器用に扉を開ける。

「小幸大変だったねー。怪我はない?」

「うん、大丈夫だよ。その小瓶は?」

「あ、そうそう!差し入れ!」

山彦は持っていた箱を小幸の足元に置いた。僅かな茶色が透けて見える液体がざっと見て十何本かくらいか。

「小幸たちの初戦を見ててさ、小幸の後ろの人が大分無理しているように見えたから。これは簡単に言えば回復薬?みたいな感じ」

そう言うと山彦は小幸に「一つ選んで!」と勧める。いくら山彦とはいえ敵に塩を送るような真似は流石に信頼できないので小幸はまず自分が飲んでみようと山彦に言われる通り適当な一つの小瓶を手に取ると、山彦は小幸の手からその小瓶を奪って一気に飲み干した。

「えっ…!?」

小幸が困惑していると山彦はなんてことのないようにニカッと笑う。

「ほら、この通り弱い妖怪のボクが飲んでも大丈夫だから安心していいよ!」

「え、えっと…」

「あー、それとも一つずつ舐めた方が良い?」

「いや、そうじゃなくて…」

迷わず小瓶に手を伸ばそうとする山彦を小幸は慌てて止めた。


「どうしてそんなことしてくれるのかなって…ほら、私たち、敵…だし」

小幸の問いかけに山彦はこてん、と首を傾げる。

「敵とか関係ないじゃん?困ったら助けるもんだろ?」

「っ…!」

山彦の言ってることは正しい…その筈なのに、小幸は酷く心を締め付けられた。自分が弱いとわかっていて、迫害されて、それでも困ったら助けようとする山彦はこの幽世では生き辛かろう。

「山彦は、辛くないの?力が全てのこの世界が」

「んー辛くない、って言ったら嘘だなー。正直めちゃくちゃ辛いし苦しい」

けど、と山彦はにへ、と恥ずかしそうに笑った。

「ボクが辛くなるほど、苦しくなるほど、その上に笑っていてくれる人がいる。その人の為ならいいんだ!」

力の弱い者は力の強い者の踏み台となる。つまりは誰かが一番下で足場にならなければいけないのだ。山彦はその役を自ら買ってでているのだろう。とても優しく、とても悲しい人だ。

「そんな悲しい顔しないでよー。ホラ、早くこの瓶飲ませてあげてよ!効果は妖怪によるから結構持ってきちゃってさー」

仮面をしている小幸の顔など見えない筈なのに。それでも山彦は元気づけようと「めっちゃ重かったー」と肩を回しておどけてみせる。そんな山彦に絆されてか、小幸はクス、と笑うことができた。


山彦には申し訳ないが、それでも念のためと小幸が小瓶の中身を少し飲んで安全だと確認できると少しずつザクロが嚥下できるように流していく。その喉がしっかりと上下に動くのを確認してから再び少量を流し、とその工程を繰り返していると段々とザクロの顔色は良くなっていき、六本目を飲ませた後静かに目を開けた。

「ザクロ…!大丈夫!?」

小幸が問いかけるとザクロは一度瞬きをした後、「ああ」と肯定して起き上がる。

「不思議と力が元に戻っている。小幸、何をした?」

「あのね、山彦がこれを運んでくれて…って、あれ?」

小瓶を見せようと小幸が後ろを振り返るとそこに山彦の姿はなかった。いつの間にいなくなっていたのだろう、ザクロの手当てで精いっぱいだった小幸は山彦の退室に気づかなかったのだ。

「…とにかく、同じ出場者の山彦って妖怪がザクロを心配してこれらを持ってきてくれたの」

小幸が液体が残った小瓶をザクロに渡すとザクロは「ふむ」と小瓶を覗く。

「…確かに。この液体は飲んだ者の力を回復させるものだ」

だが…とザクロは何かを言いかけてどこか思うところがあるのか顎に手を当て考え込んでしまった。


声をかけるべきかと小幸が静寂の中座っていると、扉越しから猫の鳴き声が響く。それだけで出番なのだと理解できた。

「とりあえず、行こうか。どこか不調なところはない?」

「ふん、不調だろうが負けるわけないだろう」

さっきまで眠りこけていたというのに。それでも小幸に心配させないためにわざと言ってくれているのだとわかって、小幸は頷いた。

「無理しないでね」

「わかっている」

そう言うと二人は扉を開けて再び戦場に赴く。


***


闘技場に移った途端、何かの残像が小幸の横を通り過ぎ隣にいたザクロと共に倒れる。

「うわ~マジでクロマルじゃんか~!めっちゃ心配したんだが!お、背伸びたか?」

あまりにも速い動きに小幸自身反応することすらできなかった。なにより、ザクロがあえて避けようとしなかったのが小幸には驚きだったのだ。

「うるさい、鬱陶しい、重い。どけ」

「またまた~そんなこと言って~クロマルだって会えて嬉しかったじゃんか」

「いい加減その呼び方を止めろ!」

ザクロはいかにも嫌そうにザクロに乗っかるそれを剥がそうとしているが、それは気にすることなくケラケラと笑っている。ザクロも本気で嫌だったら剥がす以前に消しているので完全に嫌がってはいないことが二人の仲のよさを示していた。

「あ、あの…」

流石に止めに入るべきかととりあえず小幸が声をかけると、白と黒がちょうど縦に半分に分かれた髪の色と羽を持った美形の妖怪は小幸の方を向く。

「ああ、ごめんごめん、そりゃビックリするか」

ようやくザクロの上から退いたその人はザクロと同じくらいの背丈だろうか。しかし、良い意味で細い体と精悍な顔が女性らしさと男性らしさをどちらも兼ね備えており、美しさを感じさせる。

「自分は烏天狗からすてんぐ…と言っても、天狗の中ではハブられてるんだが」

「烏、天狗…」

小幸は思わず復唱した。確かに背から羽が生えているが色が正反対のその様は天使のようにも見えたからだ。


「ワハハ、天狗っぽくないか。そりゃそうか」

「い、いえ…確かに天狗というより天使みたいだなとは思いましたけど…」

小幸がそう言うと烏天狗は驚いたように目を見開くと、腹を抱えて笑い出した。

「アッハハハハ!天使、天使か!そりゃよっぽど縁起がいいじゃんか~!」

「え…え?」

小幸が困ったようにザクロに視線を寄越すとザクロは立ち上がって着物についた砂埃を手で払っており、小幸の視線をこっちに寄越すなと言わんばかりに手でしっしっ、と振り払う。

「いやぁ、クロマルが気に入るのもわかるってか」

「気に入ってない」

「あの…クロマルって」

先程からザクロをこの烏天狗はクロマルと呼び続けていた。それはきっとザクロが名前がない時の呼び名なのだろうとは自然と察せられたが、その呼び名に込められたその先の二人の関係が気になって小幸はつい聞き返してしまう。もちろんザクロには睨まれたが。

「自分とクロマル、同じはみ出しもん同士一応同盟というか。まぁ仲良しごっこしてたんだが」

烏天狗はザクロの威圧なんてものともせずにペラペラと喋る。

「まぁ、利害が一致していたから一緒にいただけというか。実際クロマルなんてザクロなんてかっこいい名前手に入れちゃって自分は置いてけぼりじゃんか~」

「ぬかせ。誰のおかげで天狗族に戻れたと思ってる」

「ん~…自分のおかげか?」

「おい」


とりあえず二人がただの利害関係以上に互いを想いやっていることは察せた。辛い事ばかりの世界だと思っていたが、クロマルという大切な呼び名が、それがたった一粒の雫ほどでしかなかったとしても、彼の中の芯を守っていたのだとわかって。小幸はふふ、と笑った。

「まぁでも、今はそんな利害関係も過去の話か。今は敵同士、お互い譲れないもんがあるか」

そう、すっかり烏天狗にペースを乱されてしまったがここは闘技場。互いに勝たなければいけない理由がある。

「そうだな。久々に本気でやれそうだ」

「ワハハ、こりゃ勝たないと上司に怒られちゃうか」

二人は笑いながらその目は闘志に燃えていた。

「精々自分を楽しませてくれるか?」

「当たり前だろう」

ここは負ければ地獄の闘技場。だというのになぜだろう。二人の間には信頼と喜びが混じっていた。

そんな二人の戦いに自分は不要だろうと、小幸は静かに後ろに下がる。

重いゴングの音が鳴り響いた。


***


二人の戦いはそれはそれは白熱し、観客を沸かせた。縦横無尽にその身軽さと速さで飛び回り翻弄する烏天狗に、まるで大木のようにその場から一歩も動かずしかし正確に烏天狗を攻撃するザクロ。相反する動きでしかしお互いを牽制しあう二人に固唾を飲みこんだのは小幸も同じだった。

お互いの動きなど勝手知ったる攻防の押し問答の末、負けたのは途中で降参した烏天狗だ。

「いやぁ、これ以上は無理、本気で自分死んじゃうとか。笑えない話じゃんか」

ブーイングを集めても気にしない疲れた様子の、しかしまだまだ本気ではないとわかるような様子で烏天狗はおどけてみせる。

「ま、正直クロマルに会いたかっただけだったが。ちょっと面白かったから遊んじゃったか~」

「お前、本気で降参するとはな。せっかくの天狗族の長になるチャンスを棒に振っているのだぞ?」

最初から分かっていたのかザクロはため息を吐いた。小幸には詳しいことは知らないが、今負ければこの烏天狗は天狗の群れから迫害されるのは目に見えている。

「まぁまぁ、チャンスなんていくらでも作れるじゃんか?てかあの暑苦しい集団にいるの結構キツすぎるのだが~」

それは本音でもあっただろう。しかしそれ以上にザクロを思いやる気持ちがその目に顕著に表れていた。

「…借りは作らんぞ」

「ワハハ、利息付きで請求するか~」

二人はその言葉を最後に背を向ける。その間に小幸がそれ以上に何かを言う権利はなかった。


***


次で最後。これに勝てば小幸たちは鬼との対面を果たすことができる。しかし猫から聞かされた次の対戦相手は狐の一族、そのトップである九尾なのだという。妖怪の中では二番目の階級にあたる御仁であるらしい。闘技場を作ったその人であり、たまに視察と銘打って闘技場に参加するらしいが、大体その九尾が参加する時は賭けにもならないという。それほどまでに相手は強いのだ。

「まぁ最近は狐の一族が鬼の一族と冷戦中で九尾も本調子じゃないらしいが」

ペラペラと軽い口調でそんな事情を話してみせた烏天狗にザクロは眉をひそめた。

「なぜ負けた分際でいる。そして勝手に部屋に入るな」

「まぁまぁいいじゃんか~。そもそも本命はこっちだったが」

ヘラヘラと烏天狗は座布団の上であぐらをかいている。ある意味肝が据わっているというべきか。

「なんのためにわざわざあんな暑苦しい集団の中でニコニコしてるもんか。しっかしまぁ…天狗族ってのは耳が早くてべんり…じゃなくて、恐ろしいが~」

つまり、鬼族と狐族の冷戦のことは天狗族しか知らない程の機密事項だということだ。逆に言えばそれだけ知られたくない秘密であると同義だろう。力を何よりも順守する妖怪にとってなによりも隠したい秘密…それは妖怪の力にも関わるかもしれない。もしそうであれば、無敗の九尾の鼻を明かせるというわけだ。


「それで?なんの成果もありませんでした、で終わるわけないよな?」

「まっさか~!そこまで落ちぶれてないが」

烏天狗は待ってましたと言わんばかりに嬉々として話し出す。

「どうも九尾がここ最近きな臭い動きをしてるって噂なんだが」

「きな臭い?」

「そーそー、あのプライドの塊がどうも闘技場の敗者を助けてるって…怪しい通り越しておぞましいじゃんか~!」

鳥肌を擦るように大げさにブルブルと震えてみせる烏天狗に小幸は問いかけた。

「えっとつまり…九尾、さん?は闘技場の負けた妖怪を使って何かしてる、てことですか?」

「まぁ、そうとしか考えられないか。むしろあの高飛車の妖怪が慈善活動で誰か助けてるとか冗談にもならないが~!」

想像したのか烏天狗は腹を抱えて笑い声を響かせている。よくもまぁ、誰が聞いてるかもわからないこの部屋で堂々と上の階級の妖怪の侮辱ともとれる発言を声を張って言えるものだ。ここまでくると大物になる気がする。


「まぁ、真面目な話をするとこの情報は絶対的にこちらに有利に動く…が、どうもその肝心の最後の砦が掴めずにいるじゃんか~」

「なら、とっとと掴んでこい」

「まぁそう焦るなってクロマル、それができたらここに来てないが?」

「…」

烏天狗はこてん、と首を傾げて小幸の方を見た。その顔は笑顔で。あんなにもペラペラと軽い口を回していたというのにその笑顔が何を考えているのか小幸にはわからなかった。

「…まぁ、お前が何のきまぐれで大っ嫌いなこの場所に来てるのかも根掘り葉掘り聞きだしたいところだが」

烏天狗は小幸から視線を外してザクロを見る。

「時間もない、やることは一つしかないか」

その烏天狗の言葉にザクロはため息を吐くと、小幸に向き合った。


「小幸、これからこれと調査に行ってくる」

これ、と言って指さされた先で烏天狗はひらひらと手を振る。何の調査、と聞かなくてもわかっていた。きっと九尾に関することだろう。だとするならば小幸が共に行くのは足手まといになる。

「うん、わかった」

怖くないと言えば嘘だ。しかしそれと同じくらい、否、それ以上にザクロたちだって怖い思いをしてここにいる。小幸はその勇気に応えるべきだ。

「でも約束して」

小幸は小指を差し出す。

「絶対何があっても私を信じて。私もザクロを絶対信じる」

この先小幸がどんな目に合うかはわからない。それと同時にザクロだって無事だという保証はないのだ。それでも、絶対にお互いを信じるという心があれば、その道は必ず二人に光を示してくれると確信があった。

「…ふん、当たり前だ」

ザクロはそう言って小幸より一回り大きい小指で小幸の細い小指に絡める。

「…あ~ぁ、自分だけのクロマルだったのになぁ」

そんな誰にも聞こえない程の小さな声は二人に届くことはなかった。


***


パタン、と閉じられた扉を見つめていることにも飽きて視線をどこにでもなく彷徨わせているとノック音が響く。ビクリ、と肩を跳ねさせた小幸にかけられた声は聞き覚えのあるものであった。

「おーい、自分じゃんかー」

「烏天狗さん?」

小幸は扉へと近づく。

「ザクロは?」

「大丈夫、無事だが」

その声に小幸は胸を撫でおろした。どうやら調査はうまくいったらしい。

「でもまぁちょっと厄介になったか」

「厄介?」

「うん、とりあえずこっち来てくれるか?」

「わかりました」

小幸は扉を開けて、そしてふと気づく。

…どうして烏天狗さんは自分から入ろうとしないのだろうと。

しかしその疑問を持つより早く。開いた扉の先から何かを顔の近くに持っていかれ、小幸は咄嗟にその香りを嗅いでしまい同時に意識を失ってしまった。

ぼんやりとした意識の中聞こえたのは少年とも少女ともとれる声。

「…ごめん、小幸」

それは山彦のものだった。


***


「ん…」

小幸は目を開ける。頬に冷たい感触が伝わった。

「ここ、は…」

石造りの暗い部屋、狭い部屋の中扉から漏れる光だけが唯一の光源だ。

目がまだ慣れない中手探りで辺りを調べていると目の前には格子のようなものがあること、そして自分はその格子と三方面に壁がある中におり、出られない状況なのだと知った。

「はよ、小幸」

「…山彦?」

目がようやく暗がりの中でも僅かに何があるのかを認識し始めた時、聞こえた声の方向にいたのは格子の先に座る小さな影だ。

「どうして…」

「んー、小幸を人質にしろって、言われちゃったから…かな」

山彦はカツカツと足音をたてて小幸の前に立つ。

「本当に人間だったんだな。ボク初めて見たや」

「!」

小幸が顔を触ると仮面は外れていた。いつの間に…否、山彦が外したのだろう。


「ねぇ、山彦。私を閉じ込めるように言ったのは九尾さんね?」

「…そうだよ。ボク、初めからあの人からザクロってやつを妨害するように言われてたんだ」

やはり。山彦がやけに小幸たちを気にかけてくれたのはそういうことだろう。

「でもそれなら、どうしてザクロに回復薬をくれたの?」

「ボクも知らない。なんにも知らないんだ。ただあの方の言う通りにしただけだから」

九尾が闘技場の敗者を使って何かをしていたという烏天狗の噂は本当だったらしい。ただその真意は山彦ですらも知らされていないのだ。

「ただ…たぶん、九尾様は小幸を恐れてたんだと思う」

「私を?ザクロじゃなくて?」

「ボクもよくわからないけどね。なんか祈りの力がなんたらって叫んでたからそうじゃないかってだけ、ただの勘だよ」

祈りの力。それを九尾を知っているとなればもしかしたらかつての御繰世について知っているのかもしれない。


「山彦はどうして九尾さんの言うことを聞いてるの?」

そう小幸が聞くと山彦は力なく笑った気配がした。

「小幸は裏切り者ー、とかここから出してー、とか言わないんだね。へんなの」

その声はどこか羨ましそうで。

「約束したから」

「約束?」

そんな山彦に小幸はそう言って笑った。暗い部屋の中でも妖怪の山彦には小幸の顔は見えているのだろう。

「何があってもお互いを信じるって。ザクロが私を信じてくれているってわかるから、私もザクロを信じられるの」

今頃ザクロは闘技場に出て一人で九尾と戦っているのだろう。しかしザクロを心配する気持ちは小幸にはなかった。もちろんザクロが小幸を心配しているという懸念もない。お互いを信じると約束したのだから。

小幸と山彦の間に不自然に生まれた静寂。それが山彦を動揺しているのだと明確に示していた。

「約束、か…そっか。小幸には背中を預けられるやつがいるんだな」

山彦はその場で蹲ると小さなしゃくり声を漏らす。

「ボクたち山彦族はみんなが家族みたいなものでみんながみんな、信じあっていたんだ。特にボクには親友がいてね」


妖怪の中でも特に力の弱い山彦族はかつて妖怪が巫女の魂を巡って争っていた時に大半の主戦力だった者たちはまだ弱く未熟だった者たちを守るために次々に死んでいったのだという。鬼が統治を始めた時には山彦は雛の集まりだけになっていた。時の進まない幽世では妖怪が成長することはない。例え未熟者でも生きていかなければいけないのだ。そんな中、一番年上…力が僅かでも強い山彦二人が闘技場へと行くことを考えた。参加するためではない。観客に混じって山彦の力でもある声真似を使い観客から金を掠め取るためである。運営を仕切っていた猫又族の声を真似て金を巻き上げれば闘技場に釘付けになって興奮しきっている観客など誰に払ったかなんて覚えていない。それこそ幽世でいうのなら自業自得なのである。

ところが、欲と慢心が裏目に出た。一人の山彦が猫又に掴まったのである。そして強制的に闘技場へと参加させられることとなった。しかし山彦族にはもう一つ隠していた能力を持っている。同じ種族だけにしか聞こえない声をどこにでも届けることのできる能力だ。そこでもう一人の山彦と会話した。そして闘技場、山彦二人が対峙することとなったのだ。山彦はこの状況になったからこそもう勝つしかないと思っていた。だから三回戦の勝負の中の一戦目で互いを敵とする。どちらが勝っても一勝できることには変わりなく、さらにその後負けた方は他の敵の声を真似て棄権すると嘘を吐いた。もちろんバレれば命はない。それでもどちらにしろ闘技場という処刑場に引き摺り出された以上、負けようが死のうが結果は同じなのである。ならば足掻くことを考えた。

山彦二人の策は上手くいき、最後の三回戦目、九尾との対峙。負けた方の山彦が九尾を騙くらかし、自然と棄権になるよう誘導する…筈だった。結果は山彦の負け。九尾は山彦の幼稚な足掻きに引っかからなかったということだ。しかしそれも山彦たちの想定内だった。もしそうなった時のために予め他の山彦たちには隠れているように指示していたから。だから断罪されるのは二人の山彦だけだ…その筈だった。


「のぅ、主らの仲間の隠れ場所はお主の味方が全部話してくれたぞ?」

九尾は地面に伏す山彦に嘲笑うように耳打ちする。もちろん山彦は信じなかった。大方もう一人の山彦を殺して裏切ったと煽りたいのだろうと、山彦はそんな九尾に屈するつもりはないと睨みつける。

そんな山彦の様子がおかしくてたまらないというように高笑いした九尾は手を挙げた。そこにいたのは、もう一人の、山彦で。

九尾たち狐の一族は幻を見せることを能力とする。これも幻なのだろうと、その時はまだ信じていた。

しかし、幻ではないことを九尾の傍にいた山彦が証明したのだ。山彦の能力、いくら幻でも山彦の『声』だけは生み出すことはできない。しかし、だからこそ幻だと思っていた山彦の『声』はどうしても幻でないことを証明してしまって。山彦は語った。そのよく通る声で。観客から金を掠め取っていたことも、闘技場で薄汚い真似をしたことも、そして…他の山彦たちが隠れる場所の詳細な部分まで。まるでその場にいる全員に聞こえるように、さながら死刑宣告のように。

絶望する山彦を嘲笑い、大声で裏切った山彦は九尾の手によって殺された。その顔は、最後まで笑っていたのだ。

九尾はさらに話を持ち掛ける。

「主に選択をやろう。他の一族を殺されたくなくば、わらわの道具となるがよい」

どちらにしろ山彦が今隠れている一族に逃げるように呼び掛けても狐の一族は既に山彦族を捕虜にしているだろう。そうでなくとも、他の妖怪たちに居場所を知られた今、狐の一族の保護がなければ山彦族は死ぬ。選択肢など初めからなかった。

「道具は精々道具らしく何も考えず壊れるまで使い潰されるが良いわ!」

九尾は高らかに笑う。山彦は、一人唇を噛んだ。その声を形作る唇から血が出ようと、使い物にならなければいいと歯を突き立て続けた。


「ボクはさ、許せないんだ」

自身の過去を語った山彦がポツリ、と呟いた声はまるで独り言のようで。

「あの時、たとえ同族を守るためとはいえ唯一の親友を裏切り者だと思い込むことでしか自分を奮い立たせることができなかったことを」

山彦の親友の真意などわからない。死んだ者は語らない、真実はいくらだって嘘で作り上げることができる。ただ道具となるために心を壊すには、壊すための悲劇と悪役が必要だったのだ。それが嘘だったか本当だったかなんて関係ない。それは確かに山彦が親友に行った『裏切り』であることには変わりないのだから。

「だからずっと許されているのを待ってるんだ。道具として壊されるその日を」

山彦は自分が死ぬことで許されると思っているらしい。

「…違うよ」

だから、小幸は否定した。語らぬ親友の代わりに、その想いを伝えるために。

「そんなことして仲間を見捨てるの?それこそ親友を裏切ってるよ」

「…」

「私にはその親友のことはわからない。貴方の気持ちも。でもこれだけはわかる」

小幸は格子からその腕を伸ばす。その手が、『声』が伝わるように。

「貴方は生きている。そして山彦族を助けられる可能性はある」

親友が山彦を裏切ったのは今こうして山彦を生かす為だったかもしれない。生きていれば逃げるチャンスなどいくらでも作れる。そんな中でどちらかを生かすかと考えた末に親友は死んで尚悪役として山彦の生きる糧となったのかもしれない。真実などわからない。ならば嘘だろうと作り上げてしまえばいいのだ。


「山彦、私の待機室にいっぱいの金が置いてある。私にはここの通貨は知らないけれど、あれだけあれば逃げることくらいはできる筈だよ」

「な、んで…」

山彦は格子に縋りつく。

「なんで!怒らないんだよ!助けるんだよ!!小幸にとってボクは裏切り者だろ!?」

小幸は格子に掴まる山彦の小さな手を撫でた。その小さな手でどれだけの業と罪を抱え込んできたのだろうか。

「『敵とか関係ない、困ったら助けるもの』…そう言ったのは山彦だよ」

その手が抱えるものはそんな重いものじゃなくていい。ただそこにある幸せを掴むために空けておかなければ意味がない。

「貴方は自分を許せないかもしれない。許される日がいつなのかもわからない。でも…今、死んだら誰も貴方を、そして親友のことも許すことができなくなるんだよ」

「…!」

どんな理由だっていい、生きるためならば、生かすためならば罪だろうと業だろうと足場にしてしまえばいい。

「逃げて、生きて。山彦」

それだけが小幸の願いだった。


そんな時、扉が蹴破られる。小幸と山彦が驚いて顔を向ければそこに立っていたのは烏天狗だった。

「…ふぅん、必死に命乞いするならその程度の人間だって見捨ててやろうと思っていたが。ま、妥協点か」

烏天狗は既に小幸の場所を知っていたのだろう。それでも追い詰められた小幸がどんな動きをするか泳がせていたということらしい。

「烏天狗さん、山彦を仲間の元へ連れて行ってあげてください」

格子の鍵を解いた烏天狗に小幸は頭を下げる。

「…言ってることわかってるか?自分のこの速さを己に使わないというわけか?」

烏天狗はザクロのことを気にして言っているのだろう。しかし小幸は強かに笑った。

「ザクロは私を信じてくれていますから」

同じように小幸だってザクロのことを心から信じている。ならば、やれることは一つだ。

「私やザクロより、山彦の方が時間がないから」

助けられるものは助ける。そのためならどんな力だって使う。それが小幸の判断だ。

「は~ほんと、自分の出番すらないじゃんか~」

烏天狗はやれやれとため息を吐くと、小幸の頭を優しく撫でた。

「クロマル…ザクロをよろしくな」

「はい!」

小幸はそう言って頷くと走り出す。ザクロの元へと。


***


「ザクロ!!」

小幸が肩を上下に動かしながらその名を呼ぶと、地面に膝をついたその黒い髪から赤い血のような瞳が笑った。

「遅い」

しかしそう呟いたザクロはあちこちに傷ができており、とてもではないが優勢とは言い難い状況のようだ。

「おのれ、ごみの分際でわらわの手を汚すとは。不敬であるぞ」

だがそれは九尾も同じであり、二人の戦いは接戦だったのだと察せられた。

「勝てそうなの?」

小幸はその背を支えてやりながらザクロに問いかける。

「正直に言えばこのまま小幸が来なければ相打ちにするつもりだった」

ザクロが本気を出しても相打ちにしか持ち込めない。それほどまでに相手は強いのだ。

「あれを見ろ」

ザクロに促されるままに九尾の方を見れば、九尾は小瓶をあおっていた。

「あれは…」

見たことがある。山彦がザクロに持って行った回復薬と同じものだとわかった。


「九尾は鬼との対立で力を失いかけている。それを闘技場の敗者の力をああして液体にして補っているのだろう」

「そんな…」

つまり、敗者は九尾の糧として力を奪われているということだ。山彦のように小間使いとして扱われる者はいれど、そのほとんどの末路はとても酷いものなのだろう。

「つまりは持久戦。この戦い、同じ力同士であるなら勝つのはいつまでも力を枯渇させることのない九尾だろう」

つまり、九尾より強い力で抑え込まなければいけないということだ。

「私にできることがあるんだね?」

小幸も察しが悪い訳ではない。山彦の言葉、ザクロの言葉を聞いていれば自然と自分の祈りの力が鍵になると理解できた。

「ふん、そのくらい知ってて当たり前だ」

「私はどうすればいい?」

「…祈っていろ」

「えっ?」

ザクロは立ち上がると、小幸に光の膜で覆う。

「お前は俺が傷一つつけん。だから集中してザクロが勝つとそれだけを考えろ」


「ザクロ、という名前は祈りの力によって作り出されたものだ。妖はその名前で己を研磨できるが、巫女からその能力を認められていれば巫女よりさらなる力を授けたと聞く」

ザクロは光の玉を大量に作り出した。

「小幸がザクロという名をつけたなら、同じことくらいできるだろう」

「祈るってどうすれば…」

理屈としてはわかるが、やったことのない小幸がそうすぐにできるものなのだろうか。

ふと、風の刃がとんでくる。小幸を的確に狙ったそれをザクロは光の玉でかきけした。

「できなければ共に死ぬだけだ」

ザクロはそう言って小幸の方をチラ、と振り向く。

「信じているぞ」

「!」

そう言うとザクロは九尾に攻撃を仕掛けた。当然九尾とてお喋りに付き合って待ってやるほど優しくはない。

小幸は慌てて目を瞑り、胸の前で両手を握った。


あちこちで爆発のような音が聞こえる。鉄のような血の臭いが鼻を埋め尽しても。それでも小幸は必死に乱れる思考をかき集めた。

ドン、と膜が揺れる音に小幸は目を開けそうになる、が。

「続けろ!」

近くで聞こえるザクロの言葉に小幸は緩みかけていた手を握りなおした。

(お願い…ザクロ…ザクロが勝てますように…!)

必死に何度も心の中で祈り続けた。その祈りがザクロに届くと信じ。

どれくらい、経っただろうか。いつの間にか静かになっている中、一つの声が小幸の耳へと届いた。

「無駄じゃったな、人間。ごみがいくら足掻こうが塵であることには変わりないわ」

ザクロの声が聞こえず耐え切れず目を開けた小幸はその光景に思わず口を押える。

「ザクロ!!」

そこには力なく横たわるザクロとそれを踏みつける九尾の姿であった。

「さぁ、人間。このごみを生かしたくばわらわの下僕となれ。そうすればこれだけは見逃してやろうぞ」

そう言って九尾はザクロを蹴り飛ばす。小幸の足元にザクロが転がる。だらりと動かない体はまるで死んでいるかのように見えて。

「さて?どうする、人間?わらわは気は長くはあるが、そのボロ雑巾はそう長く持たないだろうなぁ?」

九尾は愉悦の笑みを浮かべて小幸を見つめる。小幸は無意識に拳を握った。


「…ザクロ、聞こえているんでしょ」

小幸は語り掛ける。もちろん返事はない。しかしそれでいい。なぜなら小幸を守る膜はまだ小幸を守り続けているのだから。

「ザクロ。その名前をつけた時は再び生まれ変わるようにと祈りを込めました」

小幸が幼い時にシロに自由になって欲しいと願ってつけた名だ。

「ザクロという名前は優しく強い者によって貴方に授けられました。貴方が消えてしまわないように、もう誰からも虐げられないようにと祈りを込めて」

シロは知っていた。ザクロがザクロでなくなる前の、幽世での扱いを。だから願った。自分のように幸せになって欲しいと。

「ザクロという名前を受け継いだ貴方は強く優しく私たちの心を結んでくれました」

そう、まるでザクロの心臓のように、その実を結びつけるように。

「そう、ザクロ、貴方はザクロ。全ての祈りをその『み』に宿し、その心で『う』む、誰よりもザクロの名に相応しい者」

小幸は自然と口を紡ぐ。何を言うべきかわかっていた。

「やめろ!!小娘!!」

九尾が攻撃するが、膜が守ってくれる。小幸はふ、と笑った。小娘なんて呼ばれるのが、なぜだか懐かしいことのように感じた。

(そうだね、ザクロはいつもそうやって冷たくなって。なのにシロに負けないくらいあたたかい心を持っていたんだね)

だから、授けよう。強く優しいその者に。

「ザクロ、祈りの力より貴方に力を授けます。その力で、己の祈りを成就しなさい」

「やめろと言うておろうが!!」

九尾は全力で小幸を殺そうと強い攻撃を放った。その攻撃は膜では守り切れないだろう。


だが。

「ふん、もっと早くにやれ。いらん屈辱を受けたわ」

ザクロの手によってそれは防がれる。着物こそ汚れているが怪我は治っており、そしてなにより強くなったのだとその肌で感じとれた。

「くそ、クソ!もっと早くから仕留めておけば…!」

「無駄だったな女狐よ、先ほどは随分と痛めつけてくれたではないか」

不敵に笑うザクロに九尾は睨みつける。

「調子に乗るではないわ!ごみの分際でわらわを侮辱した罪は重いぞ!」

「ほう、ならば塵以下の狐に教育を施してやろう」

九尾は九本の尻尾を逆立てて全身全霊の攻撃を放った。ザクロは光の玉を掌の上に生み出すとそれを握る。瞬間、九尾を光の玉が包み込んだ。

誰もが言葉を失った。一度も負けたことのない九尾の呆気ない敗北に、それを圧倒する力に、理解をすることができないでいたのだ。

「やったね、ザクロ!」

小幸はザクロに笑いかける。ザクロは…

「やったね、じゃないわ!!危うく死にかけるところだったのだぞ!もっと早くやらんかこの馬鹿者!」

小幸の頭を軽く叩いた。もちろん痛くない。

「私だって頑張ったわよ!!おかげで死ななかったじゃない!お礼くらい言えないの!?」

「はっ、それはそれはどうも、瀕死にしてくれてありがとうな!」

静かな闘技場の中、二人の無意味な口喧嘩だけが響いていた。


「…どうなさいますか。『鬼神きじん様』」

「…あの二人を鬼の屋敷へと招待して。くれぐれも丁重にもてなしてね、そうでなければ死ぬから」

「承知しました」

それを遠くから見ていた男が一人、深く息を吐く。

「それが貴女様の御意向ですか。巫女様」

その悲しげな声は喧嘩中の二人に届くことはなかった。


***


「お待ちしておりました、ザクロ様、小幸様」

部屋の前で立っていたのは般若の仮面をつけた質素な袴を纏う女性だった。

「我らが主、鬼神様より申し付けられております、ご同行願えますと幸いです」

鬼神、つまりは鬼だ。小幸はきゅ、と口を引き締めた。目の前の女性は仮面をつけていることもあるが、隙を見せてはいけないと本能が告げている。

「もとよりそのつもりだ」

もちろんザクロも小幸と同じものを感じていただろう。しかし小幸の前に庇うように出ると強い言葉で言い放った。

「それではご案内いたします」

女性は軽く頭を下げると後ろを向き、無駄のない綺麗な動きで歩き始める。

「行くぞ」

女性から目を離さないザクロは小幸に語り掛けた。いつどんな時でも女性が牙を剥いてもいいように、小幸を守れるように。

だから小幸はその冷たい手を握った。

「!」

「行こう、一緒に」

一人で全てを抱えてしまわないように、守られるだけではないと示すために。

小幸はザクロへ笑いかける。それは緊張で引きつっていたかもしれない。それでもザクロはその意図を汲んでくれたのか目を僅かに和らげた。

二人は進む。その道が暗くとも、二人がつないだ手は確かにそこにいるのだと証明できるから。


***


流石は妖怪を統べるというべきか、それともただ張りつめていた気が時間を遅くさせているのか。ただただ長い廊下を案内されるままに歩き続ける。

「こちらです」

女性が示したのは廊下の突きあたりにある豪華な装飾の襖だった。女性がその襖を開けると、広く思っていたよりは落ち着いた部屋に座布団が二つと少し高い段に座布団が一つ。まるで侍の部屋のようだと小幸は思った。

「そちらでお座りになってお待ちください。主様は多忙の身ゆえしばしお時間をいただくことをお許しください」

女性は事務的にそう言い放つと出て行ってしまう。静寂と緊張が部屋の中を木霊していた。

小幸は改めて部屋を見渡す。華美ではない、しかしその色遣いといい置いてある小物が決してその部屋の主を見下すなと言わんばかりに威厳を放っていた。


そんな小幸の腕を強く引いたのはザクロだ。

「最初からそんなに身構えていては身がもたないぞ。少しは気を休めておけ」

そう言うザクロは座布団の上にあぐらをかいている。ここは鬼の屋敷、つまり鬼の領域というのにザクロは気を抜き過ぎなのではないか。しかしその姿に小幸の肩に重く圧し掛かるものが軽くなるのを感じる。

「ありがとう、ザクロ」

小幸がその隣に座るとザクロはふん、と相変わらずあぐらのまま座っていた。そんな彼がいつものザクロらしくて小幸はクス、と笑う。

「鬼神様はどんなお方なの?」

ザクロの気遣いを静寂で終わらせたくなくて、小幸は問いかけた。

「さぁな。俺の記憶のある中でのあの者はどこまでも冷酷な顔にしか見えなかった」

「顔…てことは、会ったことがあるんだ」

「…一応、な」

ザクロは何かを思い出したのか顔をしかめる。


「そもそも俺は…正確に言えば、巫女が生きていた時代の俺は、今の鬼の一族らを統べていたと聞く」

「え…!」

つまりザクロとこれから会う鬼神は少なからずとも縁があったということだ。

「じゃ、じゃあシロは…」

「今の狐の一族を統べていたらしい。もっとも聞いた話ではあやつは孤立することが多く、勝手に崇拝されていたらしいが」

詳しいことは知らん、とザクロは肩をすくめた。

「…」

なんという縁なのだろうか。かつて巫女を巡って争った二人、そして今巫女の魂を狙って互いに争う鬼族と狐族。縁と呼ぶにはあまりにも軽々しく、因縁と呼ぶには到底説明が足りな過ぎた。

「昔の話だ。鬼神も今の俺を俺だった者として扱うことはないし、狐の一族なぞ現世にいたあやつのことなぞ微塵も知らないだろう」

「…」

ふと、小幸の中に嫌な想像が巡る。鬼神がかつてのザクロとシロを知っているとしたら、小幸が巫女になりたいと言った時その背を押してくれないのではないか。昔の話だとザクロは言うが、少なくとも鬼神にとってのシロはかつての敵であるのだ。


「待たせたね」

嫌な方へと向いていく思考を遮ったのは低く、しかしまるで流れる川のように澄んだ声だった。

ハッと小幸が顔を上げると目の前に座るのは、黒い髪を肩前に流す穏やかそうな青年だ。その切れ長な目元は柔らかく、微笑むその様は平穏であるように見えるのに。なぜだろう、ザクロが冷酷な顔だと言った意味がなんとなくわかるような気がした。

「闘技場での九尾の愚行、詫びさせてもらうと同時に感謝する。こちらも手を焼いていたからね、助かったよ」

その顔が困ったように眉を下げる。それに対しザクロは挑発するようにはっ、と笑った。

「手を焼いていた?その割には鬼族が何か動いた様子はなかったようだが?」

仮にも妖怪のトップである鬼神相手に随分失礼な物言いである。思わず小幸はザクロを咎めようと口を開いたが鬼神本人が小幸に対して目配せしたことで大丈夫だと示した。

「こちらとしても動きたかったけど、なにせ狐族は神経質だから。鬼族が動けば何かと理由つけて戦争に繋がることは避けたかったんだ」

「その為に闘技場の敗者がどうなっていったか知っていても仕方なかった、と?」

ザクロはやけに鬼神の発言に食ってかかる。これから鬼神と穏やかな話をしたいというのに。何を考えているのだろう。


鬼神はザクロの言葉に気を悪くした様子はなくただ困ったように笑うだけであった。

「ああ、申し訳ないと思っているよ。可哀想なことをしてしまった」

しかし申し訳なさそうに放った鬼神のその言葉を小幸は聞き流すことはできない。

「…可哀想?どうしてそんなことが言えるんですか…?」

気づけば小幸は声に出してしまっていた。

「妖怪たちが、山彦が受けた痛みを可哀想だと憐れむのですか?貴方が手を伸ばせば幸せになれたその命を?」

ふつふつと、沸騰するお湯から泡が弾けるように言葉が飛び出す。小幸は自分の服を強く握りしめていた。

「起こるかもしれない可能性のために今犠牲になって生きる者たちを、貴方が可哀想だなんて言葉で括りつけないでください。貴方にその権利はない…!」

静かに怒る小幸を鬼神は微笑んで見つめている。冷酷なまでに、小幸の怒りに対し笑みを返すだけなのだ。彼にとって小幸の怒りは、その程度だということを示していて。そして、可哀想だと言った妖怪たちもそうなのだろう。

「なるほど。君たちは最初から穏便に話を進める気がない、と。そう言いたいんだね?」

脅しにも近いその言葉をザクロは笑い飛ばした。

「最初から穏便に進める気がなかったのはお前だろう。俺はこの馬鹿にそれを教えただけだ」


鬼神はふぅ、と息を吐く。

「まったく、だから対話なんて嫌いなんだ。やかましく吠えるガキにどうしてこっちが譲歩しなきゃいけないのかな」

その穏やかな顔には似つかわしくない下品な言葉がその澄んだ声で紡がれた。彼にしてみれば言葉などというものはただの鳴き声でしかないのだ。だから何を言っても、何を言われても何も感じない。全てがその力で解決できてしまうのだから。

「君たちの目的はわかっているよ。巫女の魂だろう?」

鬼神の声は、表情は変わらず穏やかなままだ。取り繕っているわけではない。ただその顔でいれば、その声色で言えば、楽なのだと理解しているだけだ。

「大方そこの器に魂を戻すと言いたいんだろうけれど、そんなことしたらどうなるかわかってるよね?」

鬼神は問いかける。その鋭く冷たい刃のような瞳で、見定めているのだ。

「幽世は巫女の魂がなくなればせっかく作った階級が壊れ統治が難しくなる、むしろ力の元が丸ごとなくなるんだから争いどころではないだろうね。現世…のことはどうでもいいけど、巫女の力で生まれた生物なんかで生活してるんだろう?その巫女の力が流れなくなってみんな死んでいくだろうね」

それを踏まえて鬼神はニコリ、と笑う。

「それでどうしたいの?」


目の前の鬼神に言葉は鳴き声だ、感情はただの飾りでしかない。きっと小幸がどんな言葉を訴えようと、どれだけその声を枯らそうと鬼神はニコニコと笑って「それで?」と言うだけなのだろう。

だとするならば。

「…私は、私が愛する人を助けるために巫女になります」

そう語る小幸は真っ直ぐと、そしてあえてなにも感情をのせず話す。

「それも確実ではありません。あくまで巫女になった方が助けられる可能性が高いから巫女になるのです」

「へぇ、それなら助けられない可能性も考えて巫女になるんだ、随分となめられたものだ」

「いいえ、助けます。絶対」

その言葉に、目に迷いはない。ただ真っ直ぐで、何物にも濁らせないほどに強く、そして美しく。

「私は絶対シロを、そして幽世も現世も御繰世も、全て助けてみせます。貴方がどんなに拒んでも、その決心は揺らぎません」

小幸の言葉に鬼神は目を細める。隣にいるザクロでさえ背筋に悪寒がはしるほどの殺気を真正面から受けながら、それでも小幸は、その瞳は一時ひとときの揺らぎすらも見せなかった。

「祈りの力を受けた器とはいえ所詮は力のなくした妖の成れの果て如きが、妖としてこの世界を守り続けてきたこの僕を殺せると本気で思っているのかい?」


鬼神の問いかけに小幸は優しく微笑む。それはとても殺意を向けられているとは思えないほどの慈しむような笑みだった。

「いいえ、殺すことはしません」

「…言っていることがわからないな。僕がどんなに拒んでも、と言ったのは君だろう?巫女になりたいのなら僕を殺すしかないだろう」

「はい、ですので貴方を殺さずに巫女になります」

鬼神はそこで初めて顔を歪める。言葉に示すとするなら面倒だと言いたげな表情だ。

「君さ、何言ってるかわかってる?僕を殺さず?巫女になる?とんだ空論だよ。どうしても巫女になりたいのだろう?ならその隣にいる者でも使って僕を殺して巫女の魂を奪い取るしか選択肢はないんだよ」

「私も、ザクロにも、貴方を殺させません」

小幸は優しく微笑む。頭に浮かぶ白い髪の彼の笑顔。

「そんなことしても、誰よりも優しくて強い彼は喜んでくれませんから」

鬼神は笑みを貼り付けることも忘れ、低く唸るように口を開く。

「…君の言ってることはただの屁理屈だ。そんな夢物語を言うためにこんな所に来たのか?」


「私の話を屁理屈だと言うのですね」

小幸は嘲るわけでもなく、ただおかしいというようにふふ、と笑う。

「全ての出来事が理屈で動くのなら、どうして貴方はその力で妖たちの争いを止めて階級なんてものを作ったのですか?」

「っ…」

虚を突かれたように鬼神は目を見開いた。

「…それは…僕は、うるさいのが嫌いだから…」

「なら、巫女の魂を独り占めしてしまえばいい。そしたら誰も貴方に盾突くことはできないでしょう?」

「…そんなことしたら恨まれるじゃないか」

「恨まれるのが嫌なのですか?山彦や闘技場の敗者に情けもかけなかったのに?」

鬼神は何度か言い訳を作り上げようと口をもごもごと動かすと、諦めたように大きく息を吐いて「ああもう!」とやけを起こしたように頭をかいた。


「ああそうだよ!僕は争おうが恨まれようがどうだっていい!それでもこの世界を統治するのはあの方がそのお名前を犠牲にしても争わない世界を望まれていたからだ!」

堰き止めていたものが外れたように鬼神は語りだす。

「あの方が巫女様と結ばれるなら、どんな薄汚いことだって何だってしたのに…!それでもあの方は巫女様の魂と共にこの世界を作るときに僕に言ったんだ…!」

『いつか巫女の魂を巡って争いが起こるだろう。そんな時はお前が世界を守り、そして本当に巫女の魂を必要とする者に渡せるように皆に平等であるようにして欲しい』

「あの方がいない世界なんて無も同然だ。ましてやそんな世界で皆が平等に?どうしてそんなことを僕がやらなきゃいけないんだ!」

文句を言っているがそれでもこの鬼神はそれをやってのけた。完全な平等とはいえなくても、少なくとも無益な争いを止めてみせたのだ。どんなに望んでいない世界でも、大切な者が望んでいたから。屁理屈とは言わなくとも理屈からは程遠い行為だっただろう。

「それがなんだ?あの方と同じ体で、同じ声で僕の前に出たと思えばとんだ人間の小娘を連れてきて。それで巫女様の魂を渡せと?死んでもお断りだね」

鬼神はザクロと小幸を睨みつける。それは鬼神が初めて見せた感情だった。


何度彼は感情を押し殺しただろう。巫女の魂を守り、望まない世界を統治し、挙句には巫女の魂を渡せと言われ。いつしかその感情が何という名前なのかもわからなくなるほどに。何も感じないのではない、何も気づきたくなかったのだ。かつての憧れだった者が、巫女となるべき人を連れ、しかしその理由がかつての宿敵だった者を救うためだということに。どうして協力しようなどと言えるだろうか。それは感情を押し殺し続けた彼が抑えきれず顔を出した感情だったのだ。そして感情から目を背けていた彼には到底扱いきれないものだった。

「…俺だった者がお前にどんな想いで託したのかは知らん。そいつはもう俺ではない」

ザクロは静かに、咎めるわけでもなく、慰めるわけでもなく、ただ静かに話す。

「だからこれは名を持たぬ時の者として、そしてザクロである今の俺として言わせてもらう」

記憶も姿もない、あるのは微弱な力のみ。そして何もわからず消える運命であった。否、それ以前に妖怪たちから殺される寸前だったその時初めて会った鬼の顔。今にも泣きそうな、子供のような情けない顔で鬼神は見下ろしていて。

あの時のザクロにはわからなかった。鬼の名前も自分との関係も、その時の表情の意味でさえ。

…だが、今なら少しはわかる。たった一人の女を愛し、その為に世界でさえ守ってみせた白い髪のかつての宿敵。女を一番に想いながらも女を狙う敵ですら見捨てることができず笑顔で自分を犠牲にし全てを守ってみせた、優しく強い軟弱者。


ザクロはふ、と笑う。ザクロも鬼神と同じだ。だからザクロは言う。

「もうお前はひとりじゃないだろう。だから…もう、頑張らなくていい」

「っ…!!」

御繰世で鬼神はずっと独りだった。その圧倒的な強さで誰よりも強いとおごっていたのだ。しかしそれを捻じ伏せたのは黒い髪の赤い瞳を持つ妖だった。彼は鬼神らを纏め上げ、誰よりも懐の深く、親しみやすい者だった。鬼神はそんな彼にいつの間にか心酔した。巫女とのことで争いを起こした時も、彼から巫女の魂を託された時も。ただ一人、憧れた者の為に奮闘していた。

ザクロであった彼は知っていたのだろうか。鬼神が巫女の魂を守ることで他の妖たちと鬼神の嫌いな対話で解決をするようにならざるを得なかったことを。そんな中で鬼神を慕う者ができるようになることも。鬼神はもう独りではないのだということにも。

「ぼ、く…おれは…ずっと貴方の、ようになりたくて…」

鬼神が語り掛けているのはザクロだ。しかし彼の目は憧れのその者を映していた。

「でも、おれは貴方のように纏めることもできなくて…それでもっ、貴方の真似をすれば少しは近づけると思って…!」

なるで子供のようにひ、ひ、と涙を堪えながら話すその鬼神にザクロは…否、優しく微笑むその者は鬼神の頭を撫でる。

「お前はお前だろう。真似などしなくともしっかりできたではないか」

「本当は、おれはっ、貴方がいない世界なんてどうだってよくて…!」

「それでも守ってくれたな。よく頑張った」

「おれ、おれはっ…おれは…!」

うぅ、と唸るように泣きじゃくる鬼神をその者はただただ優しく、労わるように、慰めるように撫で続けた。


「………巫女の魂を授けることになれば幽世は混沌に陥るだろう。鬼の一族として最大限秘密は守ってみせるけど、刺激が大好きな烏天狗どもの耳に入るまでそう時間は稼げない」

だから、と鬼神は何もない地下の壁に手をかざすと淡い光が浮かび上がり扉として開いた。

「そのシロとやらをサッサと助けてなんとかしてよ?」

扉の先にある小さな青い火を揺らめかせる蝋燭ろうそくを見せて、鬼神は笑う。その顔はどこか子供のようにあどけなくて。

「…ありがとう、鬼神」

小幸はお礼を言うとザクロへと向き直る。

「ザクロも、ありがとう」

ザクロは腕を組んで挑発的に笑った。

「ふん、少しはマシな顔ができるようになったではないか」

ザクロは小幸の腕を引くと、その額に優しく口づけをする。

「精々幸せになれ、お前も、あやつもな」

「っ…うん…!」

小幸は僅かに濡れた目を拭うと扉の奥へと入っていった。すると扉は閉まり、小幸と蝋燭一つだけになる。


『…本当に来るなんて』

「…!」

ふと蝋燭の青い炎が揺らめき、その前にうっすらと女性の姿を映し出した。

「貴方が…」

『ええ、私が巫女よ。といっても、もう魂だけだけど』

黒い長髪を三つ編みにして柔らかく微笑むその姿はまるで一輪の花のように儚く折れてしまいそうで、それでも何があっても美しさを保ち続ける強かさも感じて。

「…彼を、シロを助ける方法を。教えてください」

『そう…そうね。もう、愚かな私たちの過去は清算しなければいけないわね』

巫女は悲しそうに目を伏せる。

『もう聞いているでしょうけれど、二人の妖が私を巡って争ったことは知ってるわね?』

小幸が頷いて見せると巫女は悲しそうに笑った。

『あの争いはね…私を助けるためだったの』

「えっ…?」

巫女は手を揃えると真っ直ぐ小幸を見る。

『話します。新たな巫女となる貴方に、巫女としての運命と選ばれし妖の掟を』


***


巫女はたった一人。死ぬことはなく幾多いくたの妖が生まれ、死にゆくまでのその様を優しく、愛おしく見守るのだ。しかしただ一つ、巫女が避けられない死の運命があった。それは世界が作り続けられることによる、所謂『更新』の為の死だ。巫女はその身体と魂を洗い出し、その形も記憶も失くし新しく生まれ変わる。それはすなわち現時点の巫女の死と同義であった。

巫女はそれが運命、当たり前のことだ。当たり前のこと、である筈なのに。その巫女は自身の死を恐れた。自分が生き、愛した妖たちが、共に作り上げた世界が、自分ではない何者かに変わられることが。自分が必要とされなくなることが、酷く恐ろしかったのだ。

一人悲しみに泣き続ける巫女に手を差し伸べたのは二人の妖だった。妖の中でも最有力であった二人。

何色にも染まらない純白な彼はその優しさと強さで孤高でありながら信仰を集めていた。

全ての色を集めたような漆黒な彼はその懐の深さと親しみやすさから多くの妖を纏め上げていた。

まるで正反対の二人は、しかし唯一同じ愛おしさを含んだ赤い瞳で巫女を見つめていたのだ。


そして二人は決める。愛しい巫女のために世界を壊そうと。世界は巫女であり巫女は世界によって生かされる。世界を作り続けることが結果的に今の巫女の死へと繋がるのなら、世界を壊し巫女を永遠のものとさせたのだ。もちろん世界が壊れれば巫女だって息絶える。しかしその身体と魂さえ保っていればいくらでも巫女を復活させることはできるのだ。だから二人はあえて過ちを起こした。たった一人の巫女を生かす為に、巫女の存在自体が必要とされるように。その身体と魂を分け、互いに作り出した世界の妖が御繰世で再び世界を作ることを見越して。永遠に巫女が生きられるようにとその仕組みまで作り上げてあえて過ちを行ったのだ。

巫女が二人の作戦に気づいた時にはもう声すら出せないほどに弱りきってしまっていた。何度も何度も悲しみと後悔で明け暮れ、涙を流す。そして二人が犠牲になって守りだしたものを、彼女が望まない形で愛しい世界と妖を永遠に見守り続けることしかできなかったのだ。


***


その話を聞いた小幸は唾を飲み込み、そして口の中がカラカラであることに気づいた。

『…本当に、私たちは愚かだったわ』

巫女は涙の涸れ切った声で話す。

『少し話せばわかりきっていたことを、話すことなく勝手に決めつけて、それが幸せであると信じ込んでいた』

勝手に決めつけられた幸せなんて、不幸でしかないのにね。と、巫女は自嘲的に笑う。

『本当はね、二人があんなことしなくても巫女が永遠に生きる方法はあったのよ』

「え…」

言葉を失う小幸に巫女は悲しそうに微笑んだ。

『巫女が一人の妖を選んで妖人およずれびととして特別な名前を与えて永遠のえにしを結ぶの。そしたらその巫女と妖人は永遠に二人で世界を守ることになる』

「そ、れは…」

『おかしな話でしょう?二人とも自分が妖人になることは考えなかったの、私を不自由にさせると思い込んで』

それはあまりにも優しすぎて、あまりにも悲しすぎる話だった。だが、なぜか小幸にはわかるような気がした。シロだって、ザクロだって、その選択肢を知っていながら行動をしなかったのだから。

『本当に、どこまでも馬鹿なのね…』

それは自身へ向けた言葉か、それとももう過去となった二人の妖へか、あるいは…


『シロさんを助けたいのね』

巫女の問いかけに小幸は迷うことなく強く頷いた。それを知っていたように巫女は言葉を続ける。

『今の彼はもうほとんど存在を無くしかけている状態。巫女となってその痕を辿れたとしても、ただの祈りの力では元に戻すことは不可能でしょう』

「え…」

絶望する小幸に巫女は安心させるように微笑んだ。

『でも彼を…貴方が愛したシロさんを救う方法は、あるわ』

小幸は巫女が何を言うか、その先をなぜかわかった。巫女があえて話した自身の懺悔、そしてその話に含まれていた妖人の存在。

「私は、巫女としてシロを妖人にすればいいんですね?」

小幸が迷いなく言い放った言葉に巫女は少し驚いたように口を開けると、顔を強張らせて小幸を強い眼差しで見つめた。

『…その意味は、わかっているのね』

「……」

シロを助けるには小幸は巫女となり、そしてシロに特別な祈りの力…名前を与えて妖人にするしかない。しかしそれを小幸がするということ。それは小幸とシロは永遠に二人で世界を見守っていかなければいけないことを指す。その契りをただ愛した人を助けるために、そしてその愛する人に同じものを背負わせ縛り付ける勝手なことが行えるのかと、巫女は問うているのだ。

「…巫女様は、二人の妖が妖人になることを考えなかった、と言いましたね」

『…ええ』

「それでも巫女様は自分も愚かだと言った。それは自分が死を恐れたことではなく…自分も二人のどちらかを妖人にできなかったから。違いますか?」


巫女は驚いたように固まると、今にも泣きそうな顔で笑った。その感情は嬉しさからか、悲しさからか。

『……そうよ。一番愚かだったのは私。二人の感情に、作戦に気づいていたのに、妖人として選ぶことができなかった。片方を縛り付け、もう片方を切り捨てることができなかったのよ。だから…二人が自分を犠牲にすることを知っていながらただ見ていた…いいえ、目を背けていたわ』

小幸にはわからない。巫女が本当はどうしたかったか。二人の愛を知っておきながらその愛にどう向き合いたかったか。どんな気持ちでその愛を拒んだのか。

何もわからない。そして、その成否は決められるものではないだろう。

「私は、シロを助けたい。でもそれ以上にシロを愛しています。たとえその行動が利己的だと、束縛だと言われても構いません。シロがそれを望んでなくてもいいんです」

小幸は強く、優しく微笑む。その目はまるで宝石のようにただ変わらず輝いていた。

「だって、生きてくれればいくらでも愛してると言えるのだから」

『…!!』

愛する人のために自分を犠牲にするその行為を愚かだというのなら、その末に今ここに立つ小幸は愚かだというのだろうか。そうであるならば小幸がシロの手を掴むその行為は何と呼ぶのだろうか。

小幸は愛ゆえの行為を愚かだと思わない。シロを助けてその後どうなるかはわからない。ただ、一つだけわかることがある。今ここでシロを助けなければ一生後悔するということだけだ。

ここに来るまでに多くの者の想いを受けてきた。ザクロ、山彦、烏天狗、鬼神…皆がそれぞれの事情を抱え、それでも小幸の為にと力になってくれたのだ。小幸と、そしてシロの幸せを願って。それだって愛ゆえの行為だろう。全てが愛の上に立っていられるのなら、小幸はそれを愚かだと思わないしそれを裏切ることをしようなど思わなかった。


『そう…貴方はそうするのね…』

巫女は愛ゆえに自分を犠牲にし、そして真実から目を背けた。それに対し小幸は愛するからこそ真実がわからなくとも向き合う選択をする。二人がその相反する気持ちを理解できることはないだろう。それでもいいのだ。どちらも、そして誰にも正解など決めるものではないのだから。

『わかったわ。貴方に教えましょう。妖人とする方法…シロさんを助ける方法を』

巫女は静かに小幸を抱きしめた。魂だけの存在であるはずなのになぜか懐かしいような、ずっと嗅いでいたい匂いに包まれる。

『彼を…誰よりも優しくて強いあの人を助けてあげてね』

巫女の柔らかな囁きと共に蝋燭の火は消え、小幸を暗闇が覆い隠した。


***


「……」

小幸はその暗い道を迷うことなく進む。向かう場所は決まっていた。


『小幸か、いい名前だな。どんな小さな幸せでも感謝できる、優しい名前だ』

「…うん、シロが嬉しそうにそう呼んでくれたから、私は自分の名前が好きになれたの。小さな幸せだって、積み重ねれば大きな幸せになる事。どんなに悪い事があっても幸せになれるって、シロが教えてくれたんだよ」


『大丈夫、約束する。俺はお前の味方だし、お前の力になるから』

「…そうだね、シロは最後まで私の味方になってくれた。自分のことなんかそっちのけで全力で私のことを一番に考えてくれた。約束、守ってくれてありがとう。シロのおかげで私は安心できた」


『幸せになって、世界の誰よりも大切な愛しい小幸』

「…本当に馬鹿、馬鹿だよシロ。私だってシロのこと誰よりも大切な愛しい存在だったというのに。そんなシロが幸せになれないのなら、私だって幸せになれるわけないじゃない」


『…でも、ちょっとだけ、我儘を言うなら。もう少しだけ、小幸の傍にいたかったなぁ…』

「私もだよ、シロ。私だってシロの傍にいたい。少しなんて言わず、ずっとずっと一緒にいたいよ。それが我儘だというのなら、私はとんでもない自分勝手だね」


小幸は頬から伝い落ちる涙を拭うことなくシロの思念を、小幸を想うその気持ちに応えるようにただただ歩き続けた。

やがて、真っ黒に染まったその空間に白い影を見つける。

「シロ!」

「!」

その手を取れば愛しいその人は「なんで」と言わんばかりに目を見開いていた。

「待たせてごめんね」

その手にいつもの温もりを与えるように。小幸が受けた沢山の小さな幸せをその人に伝えるように。

「幸せにしにきたよ!」

小幸は涙と共に笑顔を浮かべるのだ。


***


「こゆき…」

シロは嬉しそうに、悲しそうに、あるいは全ての感情を混ぜたかのように。小幸の名を呼んだ。

「私ね、巫女になったの。シロを妖人およずれびとにして一緒に生きたいって思ったから」

「なんでっ…!」

そんな小幸の意思を、行動をシロは理解したくないと言うように頭を振り、顔を俯かせる。

「小幸は普通の人間として生きて、これ以上ないくらい幸せになって、俺らが犯した過ちなんかに縛られないで、ずっと、ずっと…!」

「…どうしてその私の幸せの中にシロはいないの?」

小幸の静かな問いかけに、嗚咽を噛み殺すように、言葉か泣き声かになり損なった音を漏れ出しながらシロは叫んだ。

「俺だって…!俺だって、小幸と一緒にいたかった!小幸が幸せに笑っているところを傍で見ていたかった!でもダメなんだ、巫女になったということはわかるだろ?俺じゃなくても俺だったそれは小幸と一緒にいたら不幸にするだけなんだよ!」

カーテンのように垂れ下がる白い絹のような髪からポタリ、ポタリと涙が落ちていく。二人の繋がれた手に熱く染み渡った。

シロだった者がどんな想いで巫女の為に犠牲になったのか。シロはわからない。ただ彼が無意識に繋いだ縁は、小幸に多くのものを背負わせる。だからシロは小幸から離れようとした。それが自分の意思とは正反対でも。

「でも、小幸がどこかで幸せでいてくれるなら、俺は…」

「シロは…自分で私を幸せにする、って言ってくれないんだね」

「っ…!」

小幸は悲しそうに呟く。シロの言動はいつもそうだ。小幸の味方で、力になってくれるというのに自分が小幸を幸せにするとは一度も言わなかった。傍で見ていたいとまでは言っても、シロ自身が小幸を幸せにすることは微塵も考えていないのだ。


「…私はね、シロの笑う顔が好き」

小幸はシロの手を優しく両手で包み込む。

「シロが悲しい顔をするのは辛くなるけど…でも、悲しい時に同じように悲しんで寄り添えるシロが好きだよ。怒ってるのにいつも誰かを恨むことのできない優しいシロも好き。あと、ちょっと子供っぽいところも」

ね、と小幸は優しく言葉を続けた。

「シロの好きなところ、もっともっとあるよ。どんなに言葉にしてもしきれないの。だって全部が大好きなんだもん」

「…そんなの…」

そんなの、シロだって同じだ。小幸の笑う顔が一番大好きだ。でも誰かのために泣いたり怒ったり、時には強い意志で行動にすらうつしたり。どんな小幸の姿だってシロは愛しているのだ。何物でも誰でもない、小幸だけをシロは心から愛して愛してやまないのだ。だからこそ…

「俺は…小幸を幸せにしてやれる自信がなくて…」

だからこそ怖かった。誰よりも愛おしくて、どんな姿になったって、目に入れたって痛くない。そんな存在だから、自分が心から幸せにできるという自信がなかった。自分の感情だけで縛り付けて、自己満足な幸せだけを与えて。それが本当に愛しい人の本当の幸せだと、思い込む自分が怖かった。だから逃げた。小幸はもっと幸せになるべきだ。そしてそれは自分と共にいることではない。こんな自分では小幸を本当に幸せにできないのだから。

「臆病者だろ?だからこんな軟弱なヤツ、小幸に相応しくな…」

シロが言葉を言い切る前に、バシーン、と乾いた音が響く。痛みを訴えるシロの頬と赤く染まった小幸の手がその全てを語っていた。

「馬鹿シロ!!」

小幸の泣くような怒号が響く。

「私だってシロを幸せにできる自信なんてないよ!今だってシロの望んでいないことをしてるってわかる。私だっていっぱいシロを傷つけたし、いっぱい裏切ったもの。きっとこれから巫女と妖人として永遠の縁を繋いだとしてもきっと傷つけちゃうし、シロを泣かせちゃうかもしれない」

でもね、と小幸は涙で震える声を必死にかき集め言葉を紡ぐ。

「それでも、それも含めてシロの傍にいたいの。苦しいところも楽しいところも全部を二人で一つを食べようよ。いっぱい喧嘩して、いっぱい仲直りして。それでもシロと一緒なら笑って私は幸せだって言い張れる」

「こ、ゆき…」

「シロが軟弱だっていい、もしそれが本当の幸せじゃなくたっていいの。それでも私はシロと一緒にいたいって思うの」

繋いだ手を濡らす雫は誰のものか。どちらでもいいのだ。二人の手を濡らしたのは同じ涙なのだから。

「ねぇ、シロはそれでも私といたくない?」

「そんなことない!!」


シロはそう叫んで、ハッと初めて小幸の顔を見た。初めて出会った時からシロを貫いて離さない澄んだ美しい瞳、その瞳が初めて揺れていたのだ。

どんな理不尽でも、不幸でもその美しさを決して汚すことのなかった彼女の宝石がシロというたった一人の存在のためにその輝きを濁らせている。

ああ、なんて自分は臆病者だ。シロは自虐する。愛情に正解はない。幸せにも正解はない。それでもシロが幸せだと感じることができたのは、他でもない小幸がその瞳でシロの幸せを掴んでくれたからだというのに。

「…俺だって小幸を愛している。この世のどんなものよりも、それこそ誰にも負けないくらい。いつだって俺の一番は小幸だ。小幸が幸せでいてくれることが俺にとっては何よりの幸せで。でも小幸が泣いたって、怒ったって、それこそ不幸になったってずっと俺は小幸のことを愛し続けるよ」

シロは小幸の手を強く握る。いつからだろう、その手が華奢でとても弱いことを忘れてしまったのは。巫女になる度胸や強い信念を抱いている、しかしそれ以前に愛しい一人の女性なのだ。それを近くにいた一番シロが知っていた筈なのに。

「俺だって、小幸と一緒に生きていきたいよ。小幸が祈りの力を持っていなくたって、それこそ巫女になったって、どんな小幸も大好きだ。こうやって怒ってくれるのも、泣いてる顔も、もちろん笑う顔も。全部俺のものにしたい。全部全部、愛おしくて仕方ないんだ」

小幸の顔が幸せそうに、愛おしそうに、全てを混ぜたようにぐちゃぐちゃな顔をする。シロだって同じだ。どうしようもなく悲しくて、どうしようもなく嬉しくて、それでも愛しい気持ちはどうしようもなく変わらなくて。どうしようもなく一緒にいたいのだ。

「散々言い訳しておいて恰好つかないけど、絶対小幸を世界一、幽世も現世も御繰世の中で一番、幸せにしたい。小幸の悲しいことで一緒に泣きたい、小幸のムカつくことで一緒に怒りたい…それで、一緒に幸せだねって笑いたいよ」

シロは小幸を優しく、それでいて強く抱きしめた。

「俺と…一緒に幸せになってくれる?」

小幸はシロに応えるようにその腕を背に回して抱きしめ返す。

「うん…うん…!私も、シロを幸せにしたい…!二人で一緒に幸せになりたい!」

二人だけの空間で、涙を流しながら、二人はお互いの存在を確かめ合うように抱きしめ続けた。

その温もりは何物にも代えがたい、二人だけの宝物だ。


「巫女として、貴方に新たな名前を与えます」

一通り泣き止んで、長い抱擁を解いた小幸は微笑む。その瞳の輝きはどんな宝石すら敵わないほどより一層輝いていた。

「妖人として、私と永久に世界を守ることを誓ってくれますね?」

「ああ、もちろん…じゃなかった」

いつもの口調で返事をしようとしたシロはゴホン、と咳払いをすると小幸の唇に口づけを贈り、恭しく頭を下げる。

「この身も、心も誓います。全ては巫女様と、世界のために」

茶化すように紳士的な振舞いをする純白な彼に小幸は一瞬呆気にとられたが、クス、と笑う声を漏らし、そんな彼の顔を上げさせて同じく唇に口づけを贈る。顔を朱に染めながら、それでも幸せそうに笑う彼に名前をつけて。

「貴方の名前は―」


***


「ザクロ、久しぶり」

幽世にやってきた小幸は書類まみれのザクロに話しかける。

「幽世はどう?」

「ふん、どうもこうもないわ。お前が勝手に俺を幽世の長に任命したせいで見ての通り大忙しだが?」

小幸が巫女として幽世の長をザクロにしたことは幽世でも衝撃的な話だ。しかしその任命を嫌がる様子もなく受けたザクロは階級制度を廃止し、闘技場含め迫害される妖怪たちがいなくなるようにと制度を作った。もちろんその制度に多くの有力妖怪からは大反対を受けたが、小幸の手助けと当時のトップであった鬼神が働きかけてくれたことにより着々と妖怪の中でも平等が浸透するようになっている。

「とか言って~さっきウッキウキで山彦族に施しを与えに行ってたじゃんか~。そんで小幸が来るからってわざわざ急いで戻ってきたとか」

そんなザクロをからかうようにケラケラと言い放つのは烏天狗だ。ザクロの補佐をするようにと役割を与えたのだが、勝手知ったる二人の相性は良いらしい。

「黙れ。消されたいか」

「ひぇ~じゃあ消される前にこの前の鬼神様とクロマルの呑み会の話でも…」

烏天狗が言い切る前にザクロは光の玉を放つ。しかしそれは烏天狗に当たることはなく、受け止めたのは白い手だ。

「仮にも部下だろ?少しは優しくしてやれ」

やれやれ、と言わんばかりに白い上等な着物を着こなし淡い桃色の羽織を着るその者は、ザクロの玉を素手で受け止めるとふっ、と一息で消してしまった。

「俺に説教とは良い身分になったな、『白幸しろゆき』」

「実際にお前よりは偉いからな、ザクロ」

白幸はその純白の長い髪を肩の辺りで結び、前に垂らしている。そして変わらぬザクロのような赤い瞳を細めて微笑んだ。


シロは新たな名、『白幸』を受け取り、妖人となった。巫女と妖人が永遠たる誓いをたて、幽世、現世、御繰世を統治するということは誰もが知っていることだ。実際妖人となった白幸は見た目ももちろん、実力としても誰にも負けることを知らずにいる。幽世が平等になるようにと陰で動いていたが、一番貢献したのは白幸だろう。

「ハッ、愛する者から逃げまどっていた軟弱者を俺の上だと思う気はないものでね」

「もう何十年も前の話だろ?今の俺は違う」

白幸は小幸の腰を引き寄せ懐へと招く。

「もう離したりしない。俺だけの小幸だからな」

白幸はそう言って小幸の頬に口づけを贈る。何十年も一緒にいるのに未だになれず顔を染める小幸、そんな様子を見せつけられたザクロは心底嫌そうに顔を顰めた。

「誰も惚気ろとは言ってない。それに巫女と妖人という縁を前に立ち向かう阿呆はおらんわ」

出てけと言わんばかりに手に持っていた書類でしっしっ、と振り払うザクロに白幸は「ははっ」と快活に笑う。

「その様子だと順調のようだな。さっき少し視察に行ったけど狐族もなんとか体勢を持ち直して心機一転、新しい狐の長が頑張ってるみたいだ」

「ほお、そうか。それはそれは良かったな」

他人事のように話しているザクロだが、実は九尾が行ってきた悪行から生まれた悪い噂で孤立しそうなところを新しく狐族の長を仕立て上げ、陰ながら援助していることは白幸にはお見通しだ。

「ザクロを長にして良かった、期待しているよ」

「ふん、俺がいればお前の力なぞ借りなくともこのくらい余裕に決まっているだろう。余計な心配をする暇があるなら現世を心配するんだな」

宿敵であった二人だが、今はこうして遠慮なく軽口を叩き合えるくらいには心を許せるようになるには紆余曲折あった。そして互いを許し合い、認め合うその姿に小幸は微笑ましそうに見つめていた。


「ああ、現世か…」

白幸は現世という言葉を聞くと苦労を滲ませたため息を吐く。

実際妖としての歴史があった幽世、小さな間を作りその中で生活する御繰世、この二つの統治は簡単ではなかったが比較的楽であった。しかし今最も手を焼いているのは現世だ。彼らは妖としての歴史がない。その上に何度も輪廻転生を繰り返し祈りの力の存在すら知ることもないまま人間として自力で発展してきた者たちである。そんな人間たちの前に突如として現れ「これからこの世界を自分たちが統治する」と言って誰が信じるだろう。しかし巫女の祈りの力で生み出されたもので生活していた者が力を失ってしまえば辿る結末は滅びだ。妖としての力がない人間たちを力づくで支配することは容易いだろう、しかしそれを小幸と白幸がするという選択肢はなかった。

「現世は元々政治だとか化学だとか自分たちで作り上げたもので生活しているのが当たり前の世界だからな、いきなり自分たちにはできない力を見せたところで信じて貰えない」

「うん、だから今回幽世に来たのはその現世をこれからも維持するための提案があったの」

白幸の言葉に小幸も頷いて話を進める。

「幽世の中でもある程度有力な妖怪たちを数人、現世で生活させてその妖怪たちを通して世界を保つようにしようと思って」

「はぁ~あえて主導権は人間に譲るというわけか。でもそれだと妖怪が暮らしにくくないか?」

「それは大丈夫」

烏天狗の疑問を当然考えていた小幸は安心させるように笑った。

「人間の世界では宗教っていって架空の絶対的な存在を作ることで意思も信念もバラバラな人間をまとめあげた歴史があってね…」

「その宗教に出てくる絶対的な存在と条件が合う妖怪たちを送り込み、実在させることで世界は人間に任せるということか」

ザクロはふ、と笑う。その笑みは優しいもので。

「つくづく面倒な仕事を押し付けてくれるな。ある程度の候補は絞り込んであるのだろうな?」

「もちろん。説得はしてあるからあとはザクロの確認だけ取れれば」

ザクロは白幸から渡された書類を一瞥すると、それはそれは嫌そうに長いため息を吐いて書類を烏天狗の方へ放り投げた。

「カラス、後は任せた」

「はぁ~!?結局やるの自分か?しくしく…クロマルが自分に優しくしてくれる日は来るのか…」

悲しいと言わんばかりにわざとらしく肩を落とす烏天狗だが以前より生き生きとしている。ザクロの補佐になれたのはもちろん、自分の奇異な見た目が受け入れられるようにザクロが色々と手を回しているらしい。なんだかんだ言って二人も切っては切れない縁があり、そして信頼しているのだろう。


「はぁ…面倒くさいけれど任されたからには頑張るしかないか。白幸様、どのようにすればいいでしょう、指示をくださいますか?」

烏天狗がそう恭しく語り掛けると白幸は少し嫌そうに眉をひそめた。

「だから様付けはやめてくれ、あと敬語も。なんで小幸は小幸なのに俺だけ様付きなんだよ」

「そりゃあ小幸は小幸と自分の仲があるじゃんか~!それに、自分なんかが白幸様を呼び捨てなんてできないですが」

烏天狗だってわかっている。知っていてあえて白幸をからかうために様を付けているのだ。烏天狗のことだ、からかう以外の意味も含まれているのだろうが、それを白幸が永遠に知ることはないだろう。

「それじゃあ、烏天狗さん。まずは…」

小幸が苦笑を零しながら指示を出そうとして、不自然に言葉を区切った。小幸と白幸は互いに目を合わせる。

「…小幸」

「うん、御繰世だね」

巫女である小幸と妖人である白幸にしか感じ取れない、世界の異変。二人は世界が乱れる小さなものから大きなものまで異常を感じ取ってはあちらこちらへと足を運んでいる。それこそ休む間もなく。

「ごめんなさい、烏天狗さん。あとは…」

「余計なことは考えるな。あとは俺らだけでもできる」

「そ~そ~、小幸たちはちょっとは頼るってことを知らないと禿げちゃうか~?まぁ、禿げたところも見てみたいが」

相変わらず二人の言葉は素直ではないが、小幸と白幸のことを心配して言ってくれるのだとわかって小幸はクス、と笑った。


「うん、わかった。じゃあよろしくね、ザクロ、烏天狗さん」

小幸が笑顔で頼むとザクロはふん、と鼻息だけで返事をし、烏天狗はひらひらと手を振ってくれる。

「…白幸」

「ああ、行こうか」

白幸が手をかざすと何もなかったところから赤い鳥居が現れた。

「あとは頼んだぞ、ザクロ」

「余計な挨拶なぞいらん。とっとと行け、邪魔だ」

「今度はお土産持ってくるね」

「おっ、じゃあ自分は現世のお菓子が食べたいが」

ザクロから睨まれて「冗談じゃんか~」とおどける烏天狗を微笑み見つめながら、小幸と白幸は手を繋ぐ。

「行こうか」

「うん」

二人は鳥居を共に跨いだ。二人が強く繋いだその手には、変わらず一つの温もりと愛情が存在し続けていた。


***


…こうして、小さな幸せをその身に多く浴びた少女と白い雪のように幸せを降り積もらせる妖はいつまでも、今もこうして皆様を見守っているのでございます。

喧嘩もあったかもしれません、悲しいこともなかったとは言い切れない。それでも二人はその手を離すことはしませんでした。それはお互いに想い合う愛情があったからです。


…おや?何かまだ気になることがありますか?

え?私は誰かって?

ふふ、誰だと思いますか?

実は小幸に恋心を抱いていながらそれをおくびにも出さなかった素直ではないザクロのような彼でしょうか。

そんなザクロに言葉通り身も心も捧げるつもりでいた素直ではない天狗のような天使のようなあの子でしょうか。

ああ、そんな素直になれない二人を強引に素直にさせて最終的には二人に想いが通じるように仕向けた苦労人の鬼かもしれませんね。

実は私が何者でもいいのですよ。皆様がそれぞれ好きな「名前」をつけてくだされば、「私」は皆様がつけた「名前」で、皆様が思い浮かべる者の目線としてこの物語を紡ぐことができるのですから。


なぜなら、名前だけは自分を裏切らないのですから。

だから、名前をつけて―

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