帰らぬきみを想う日々に、さよならを

矢口愛留

帰らぬきみを想う日々に、さよならを



 隣の家に住む、二つ年上の、明るく元気なお姉さん。年齢は違うが、幼馴染と言ってもいいだろう。

 常に笑顔を絶やさぬその人が、僕の初恋の人である。

 そして――彼女が恋い慕っていたのは、四つ年上の、家庭教師だった。



「見て見て、ハル! ほら、今回のテスト、学年八位だったの!」

「おいこらユキ、俺は年上だぞ? もっと敬え。先生と呼びなさい先生と」

「はいはい、せんせぇ。それでそれで、約束通りテストで良い点取ったよ。ご褒美ちょうだいよハル」

「だから――」


 今日も、ユキ姉ちゃんの元気な声が、開け放した窓越しに聞こえてくる。

 僕は大きくため息をついて立ち上がり、自分の部屋の窓を静かに閉めた。


「まったく……あの二人、教師と生徒だよな? 距離感バグりすぎだろ」


 そう言って再びため息をつく。

 本当は開けていた方が涼しい秋風が入ってきて気持ちがいいのだが、お隣さんがあの調子だから仕方ない。


 僕がB先にS好きSだったのに、なんて言葉が頭をよぎる。

 泣きたいような気持ちになりながら、僕は一人、ベッドに転がった。


 僕は中学二年生。ユキ姉ちゃんは高校一年生。そして、ハルさんは大学二年生。

 ユキ姉ちゃんはハルさんに猛攻を仕掛けている様子だが、ハルさんの方は、四つも年下のユキ姉ちゃんのことなんて、眼中にもないようだった。


「はあ……いくらハルさんがユキ姉ちゃんを相手にしてないっつったって、なあ」


 ユキ姉ちゃん自身、僕のことは弟ぐらいにしか思っていない。そのぐらい、自分でも分かっている。


 ――ユキ姉ちゃん、年上がタイプだったのかな。

 なら、僕のことなんて……見向きもしないよな。


 僕はまたため息をつくと、ベッドから身を起こし、首を横に振った。


「……宿題やるか」


 重い腰を上げて、机に向かう。投げ出してあった眼鏡をかけると、問答無用で視界がはっきりとする。


 部屋には、カリカリと鉛筆を走らせる音だけが響く。

 僕は、数学が好きだ。解き方を考えて、黙々と問題を解いている時間は、余計なことを考えずに済むから。

 ずれてきた眼鏡を人差し指で持ち上げて、ひたすら連立方程式の問題を解き続けていく。



 ――それから一年半。


 何があったのかは知らないし知りたくもないけれど、いつの間にかユキ姉ちゃんとハルさんの距離は近づいて、とうとう付き合うことになったらしい。

 ユキ姉ちゃんが高校三年生になった頃、本格的に受験に備えるため、進学塾に通い始めた。それと同時に、ハルさんが家庭教師として来ることも、なくなっていた。

 二人が正式に付き合いだしたのは、おそらくその頃だろう。教師と生徒という関係ではなくなったからかもしれない。


 大学受験も上手くいき、ユキ姉ちゃんは卒業と同時に家を出ることに決めた。ハルさんの家で、ハルさんと一緒に暮らし始めるのだそうだ。

 今日が、その引っ越しの日――僕の初恋の人が、隣からいなくなってしまう、その日である。


「ユキ、ハルさんと仲良くね。喧嘩したらいつでも帰っておいで」

「えへへ、喧嘩なんかしないですよーっだ」


 玄関先で、ユキ姉ちゃんが両親に別れを告げる声が聞こえてきて、僕は窓を開け道路を見下ろす。

 ユキ姉ちゃんは、ボストンバッグを片手に、大輪の笑顔を咲かせていた。


「喧嘩しなくても、盆と正月ぐらいは帰って来いよ」

「はいはーい。じゃあね!」


 家を出るにしては、軽い挨拶だ。しめっぽいのが苦手な、ユキ姉ちゃんらしい旅立ちである。

 ユキ姉ちゃんは眉尻をわずかに下げてにこりと笑うと、片手を上げひらひらと振りながら、歩き出した。


「おーい、ユキ姉ちゃーん!」


 僕は、通り過ぎようとするユキ姉ちゃんを二階から見下ろし、窓から半身乗り出し手を振った。


「あっ、アキトくん! お見送りありがとう!」

「ユキ姉ちゃん、元気でね!」

「アキトくんもね! またねー!」

「うん、またね!」


 僕は寂しさを押し殺して、精一杯の笑顔でユキ姉ちゃんを見送ったのだった。


 ユキ姉ちゃんのことだ、きっと頻繁に顔を出すだろう。

 僕はそう思って、疑わなかった。


 だが――予想に反して。

 ユキ姉ちゃんは、全くと言っていいほど、実家に帰ってこなかった。



 僕――いや、がユキ姉ちゃんに再会したのは、それから三年後のことだった。

 俺は、高校を卒業し大学への入学を決めた後、高校時代の部活の友人に誘われ、シェアハウスの一室を借りて生活するようになっていた。


 眼鏡をやめてコンタクトにし、髪も茶色に染め、服も新しく買いそろえた。彼女もすぐにできた。大学で、同じサークルに入っている子だ。

 いわゆる、大学デビューである。中学高校時代のの面影は、もうあまりないと思う。


 だから、思わずこちらから声をかけてしまったとはいえ、ユキ姉ちゃんが、俺のことを一発で誰だか見抜いたのには、心底驚いた。


「え、二人、知り合いだったの?」


 ユキ姉ちゃんの隣で、同じシェアハウスの住民であるナツミ先輩が、目を丸くしている。

 俺とユキ姉ちゃんは、同時に頷いた。どうやら、ユキ姉ちゃんとナツミ先輩は大学の同級生で、先輩の紹介でこの部屋の内見に来ていたらしい。


「もしかして、ユキ姉ちゃん、ここに越してくるの?」

「うん、そのつもり。だから、アキトくんも、よろしくね」

「そっか。よろしく」


 俺は、つとめて明るく、自然に笑顔を作った。

 なぜなら……ユキ姉ちゃんの頬には、乾ききっていない涙の跡が残っていたから。


 ユキ姉ちゃんがここに越してくるということは、ハルさんとは別れることになったのだろう。

 一点の曇りもなく快活だった表情はなりを潜め、すっかり大人っぽく影のある美人になっている。長いまつげの奥、しっとりと濡れた黒い瞳には、深い悲しみが刻まれていた。

 どう見ても失恋の傷がまだ癒えていない彼女に、詳しい事情を聞くのも、野暮というものだろう。


「――それにしても、ほんと久しぶりだよね。ユキ姉ちゃん、全然帰ってこなかったもんな」

「うん、そうだね。それより、アキトくんのお部屋は? この奥なの?」

「ああ、俺の部屋は上の階だよ。階段がほら、そこにあるんだ」

「そっか。あ、そういえば屋上にも上がれるんだよね。その階段、使っていいの?」

「うん。バーベキューとかもできるよ」

「わあ、楽しそう! それからそれから――」


 一度話し始めると、ユキ姉ちゃんは、昔の快活な雰囲気をみるみるうちに取り戻していく。

 ユキ姉ちゃんの斜め後ろに立っているナツミ先輩が、やたら感極まった様子で満面の笑顔を見せているのが気になった。俺と目が合うと、なぜか大きく頷き、サムズアップする。

 先輩の意図が全く分からず、首を傾げると、『いいから続けて』とジェスチャーで示された。どういうつもりなのか、やはり分からないが、とりあえずユキ姉ちゃんと会話を続けることにした。


 三年ぶりに会ったのだ。話のタネが尽きることはない。

 シェアハウスの他の住人のこととか、生活のこととか、大学のこととか。

 俺たちはしばらく立ち話を楽しんで、引っ越し当日に歓迎会を開くことを約束し、ユキ姉ちゃんはナツミ先輩と一緒にシェアハウスを後にした。



 その後、夜になって。

 シェアハウスのダイニングで、俺はナツミ先輩から、詳しい事情を聞いていた。


「ハルさんが、帰らぬ人に……?」


 沈痛な面持ちで頷くナツミ先輩を見て、その話が真実なのだと、俺は否応なしに悟る。


「……ユキはね、ハルさんの遺していった思い出を、ずっとあの家で守ってきたの。二年以上もの間、たった一人で」

「……ユキ姉ちゃん……」


 昼間にユキ姉ちゃんと話したときには、失恋したのだろうという程度にしか思っていなかった。何なら――心の端っこで、ほんの少しだけ、嬉しいと思ってしまっている悪い自分もいた。

 彼女がいながら、初恋の人が失恋していたことに仄暗い喜びを感じるなんて……俺は、なんて浅ましいのだろう。

 しかも、蓋を開けてみれば、ただの失恋なんかではない。知らなかったとはいえ、不謹慎にも程がある。


 ――ユキ姉ちゃんが抱えていた想いは、そんな俗物な俺とは遠くかけ離れた、とてつもなく重いものだったのだ。


「アキトくん、ショックだよね。きみも、ハルさんと知り合いだったんだもんね」


 俺が落ち込んでいるのを見て、ナツミ先輩は心配そうな顔をする。ハルさんの件で、ショックを受けていると思っているらしい。

 ――本当は、どちらかというと、自己嫌悪が大部分を占めているのだが。


 ナツミ先輩は、切り替えを促すように明るい表情を作ると、弾んだ声色で続ける。


「でもねでもね。今日、きみと話すユキの姿を見て、すっごく希望を感じたんだ」

「希望?」

「うん、そう。ユキはね、普段は明るく振る舞ってても、突然、ふっと遠くを見るような顔をして……まだ、傷が癒えてないんだよ」

「そっか……」


 ――だから、ユキ姉ちゃんは、実家に帰らなかったんだ。

 ハルさんのことをユキ姉ちゃんの両親が知ったら、ハルさんのアパートを引き払って、ユキ姉ちゃんを実家に戻そうとするだろう。

 ユキ姉ちゃんがはっきり言葉にしなくても、身近な人間だったら、何かあったのだと確実に悟ってしまうだろうから。

 そして、ユキ姉ちゃんは、ハルさんとの思い出が眠る部屋を、失いたくなかったんだ。


「でもね。ユキ、アキトくんと話してるときは、久しぶりに明るい表情をしてた。今回の引っ越しは、あの子が前を向いて、一歩踏み出せるチャンスなの」

「なるほど……」

「だからさ、アキトくん。私に、協力してくれないかな? ユキが、このシェアハウスを選んで良かったって思える日が来るように。ここが、ユキの帰る場所に――帰りたいと思える場所になるように」


 そう言って、ナツミ先輩は熱のこもった強い視線を俺に向ける。

 先輩は、ユキ姉ちゃんのことを、ずっと心から気にかけていたのだろう。


「――うん。もちろんだよ、ナツミ先輩。ユキ姉ちゃんが悲しいことを思い出さないくらい、毎日めちゃめちゃ楽しくしてやろうぜ」

「よしきた! じゃあ、まずは他の人たちにも事情を話して、歓迎会の計画を練ろう!」

「うっす!」


 俺がにやりと笑って大きく頷くと、ナツミ先輩も安心したように笑った。


 これからは、俺たちのシェアハウスが、ユキ姉ちゃんの新たな家になる。

 だから、俺たちは全力をあげて、ユキ姉ちゃんにとって最高の隣人になろう。


 以前の俺は、帰って顔を見たいと思えるような特別な隣人ではなかったのだろうけれど。

 今度こそ、このシェアハウスが、ユキ姉ちゃんにとって帰りたい場所であり続けられるように。




 そして。

 止まっていた歯車は、ここから回り始める――。




(次回作へ続く……かもしれない)

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帰らぬきみを想う日々に、さよならを 矢口愛留 @ido_yaguchi

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