【短編小説】カメラには写らない光 ~世界は美しいと気づいた朝~(約7,200字)

藍埜佑(あいのたすく)

【短編小説】カメラには写らない光 ~世界は美しいと気づいた朝~(約7,200字)

●第1章 変容の朝


 桜井波音(さくらいなみね)は、その朝を、いつもと変わらない形で迎えた。スマートフォンのアラームを三度スヌーズし、四度目でようやく重い瞼を開ける。六畳一間のアパートの窓から差し込む光は、まだ青みがかっていた。


 時計は午前五時四十分。


「ん……今日は出張撮影、二件……」


 天井に向かって独り言を呟きながら、彼女は両腕を大きく伸ばした。その瞬間、左脇腹に走った痛みに顔をしかめる。ここ三ヶ月ほど続く痛みだった。


 フリーランスのカメラマンになって四年目。波音は二十七歳。決して派手な仕事ばかりではないが、ウェディングフォト、プロフィール写真、企業のプロモーション用の撮影など、そこそこの収入は確保できている。しかし、本当にこれでいいのか、という思いは常にどこかにあった。


 SNSのフォロワーは三万人。決して少なくない数字だが、同業他社と比べれば、まだまだ及ばない。世界を驚かせるような写真は一枚も撮れていない。ただ、日々をそつなくこなしているだけ。


「はぁ……」


 大きな溜息が漏れる。しかし、そんな贅沢な悩みを持てる時間も、もう残されていなかった。


 昨日、波音は病院で余命三ヶ月と宣告されていた。


 膵臓がん。ステージ4。発見が遅すぎた。


「私、死ぬんだ」


 朝もやの中、波音は呟いた。不思議なことに、パニックにはならなかった。ただ、どこか遠い場所の出来事のように感じられた。


 いつものように顔を洗い、歯を磨く。鏡に映る自分の顔は、どこか他人のように見えた。黒髪のショートカット、切れ長の目、すこし尖った顎。特徴的な容姿とまではいかないが、整った顔立ちだと言われることは多かった。


 しかし今朝は、何かが違った。


「え……?」


 鏡に映る自分の姿が、微かに発光しているように見えた。淡い光の粒子が、肌の表面をただよっているような。最初は目の疲れかと思ったが、洗面所を出ても、その感覚は続いていた。


 部屋の中のあらゆるものが、かすかな光を放っているように見えた。机の上に置かれた一眼レフカメラ、本棚の写真集、観葉植物のポトス、キッチンの食器類。それは目に見える光というより、存在そのものが放つ輝きのようだった。


「なんだろう、これ……」


 窓の外を見ると、街路樹が風に揺れていた。その一枚一枚の葉が、生命の煌めきを放っているように見えた。アスファルトですら、その無機質な存在感の中に、何か神々しいものを感じさせた。


 波音は思わずカメラを手に取った。しかし、ファインダーを覗いても、その不思議な輝きは写らない。それは彼女の目にだけ見える何かだった。


「私、なにか、おかしくなってるのかな」


 そう呟きながら、彼女は身支度を整え始めた。今日はウェディングフォトの撮影がある。キャンセルする理由はない。余命宣告を受けたからといって、人生が今すぐ止まるわけではない。


 しかし、外に出た瞬間、波音は立ち止まらざるを得なかった。


 通勤中の人々が放つ光が、まぶしすぎたのだ。


 それぞれが、異なる色合いの光を纏っているように見えた。疲れた表情のサラリーマン、制服姿の女子高生、道端で座り込むホームレスの男性。その一人一人が、存在そのものとして輝いていた。


「なんで……なんで、こんなに……」


 波音の目に涙が溢れた。それは悲しみの涙ではなかった。この世界の、存在することそのものの美しさに打たれた涙だった。


 死を意識したからこそ見える、生の輝き。


 波音は深く息を吸い込んだ。朝の空気が、今までに感じたことのないほど鮮やかに肺に染み渡った。


「写真に撮れなくても、いい」


 彼女は静かに呟いた。


「私には、見えている」


●第2章 光を追いかけて


 結婚式場に到着した波音を、新郎の木村竜也と新婦の木村(旧姓:中原)詩織が出迎えた。二人は一般的な会社員だが、波音の目には、特別な光を放つ存在として映った。


「桜井さん、今日はよろしくお願いします!」


 詩織が満面の笑みで声をかけてきた。その笑顔が放つ光は、まるで真珠のように柔らかく、純粋だった。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 波音は丁寧にお辞儀をした。カメラバッグから機材を取り出しながら、彼女は二人の姿を観察した。竜也と詩織は、幼なじみだった。高校時代に付き合い始め、社会人になってからの五年間の遠距離恋愛を経て、ようやく結ばれる。そんなストーリーを、事前打ち合わせで聞いていた。


 二人の間に流れる空気には、確かな信頼と愛情が満ちていた。それは今の波音の目には、淡い桃色の光として見えた。


「では、まずは教会でのシーンから始めましょうか」


 波音は二人を先導しながら、教会へと向かった。純白のウェディングドレスに身を包んだ詩織は、まるで光そのもののように輝いていた。タキシード姿の竜也も、凛々しい表情で花嫁の隣に立つ。


 シャッターを切るたびに、波音は考えていた。この光をどうすれば写真に収められるだろうか。技術的には不可能かもしれない。でも、せめてその片鱗だけでも……。


「桜井さん、なんだか今日は特別な感じがします」


 撮影の合間、詩織がそっと波音に話しかけてきた。


「どういった意味でですか?」


「なんというか……桜井さんに撮影されていると、自分が特別な存在に思えてくるんです。大切にされているような」


 波音は静かに微笑んだ。


「木村さん、あなたは本当に特別な存在です。今、この瞬間のあなたは、かけがえのない輝きを放っています」


 詩織は少し驚いたような表情をしたが、すぐに柔らかな笑顔を見せた。


「ありがとうございます」


 撮影は順調に進んだ。しかし、波音の体の痛みは確実に増していた。左脇腹の痛みは、時折鋭いものとなる。それでも、彼女はシャッターを切り続けた。


 人生の最高の瞬間を撮影する。それは写真家としての誇りであり、責任でもある。たとえ自分に残された時間が少なくても、目の前にいる人々の輝きを記録することは、波音にとって何より大切だった。


「桜井さん、大丈夫ですか? 少し顔色が……」


 竜也が心配そうに声をかけてきた。波音は軽く手を振って否定する。


「大丈夫です。それより、もう少し花嫁様の方に寄り添ってください。そうです、その感じです」


 波音は、痛みを押し殺しながらもファインダーを覗き続けた。写真には映らない光の存在を意識しながら、それでも最高の一枚を撮ろうと努めた。


 撮影が終わり、波音は控室で一息ついていた。スマートフォンの画面には、次の撮影予定が表示されている。都内の企業のプロモーション用撮影。断ることも考えたが、やはり予定通り向かうことにした。


「人生最後の数ヶ月、私にできることは何だろう」


 波音は静かに考え込んだ。これまでの人生を振り返る。決して派手ではない。SNSのフォロワー数にこだわり、いいね数を気にして、同業者との比較に悩んだ日々。しかし今、彼女の目に映る世界は、そんな些細な競争を超えた価値に満ちていた。


 一人一人が放つ光。

 もの言わぬ物たちの存在の輝き。

 すべてが愛おしく、すべてが尊い。


「記録しなきゃ」


 波音は立ち上がった。次の撮影場所へ向かう途中、彼女は街の雑踏の中に佇んで、深い吐息をついた。人々が行き交う姿が、まるで光の川のように見える。


 死を意識することで、かえって生の輝きが際立って見える。この皮肉な真実に、波音は小さく笑みを浮かべた。


●第3章 記録と記憶


 その日から、波音の撮影スタイルは少しずつ変化していった。


 企業のプロモーション写真を撮る時も、商品そのものよりも、それを手に取る人々の表情や仕草に焦点を当てるようになった。作り手の思いや、使う人の喜びが、かすかな光となって写真に映り込むように工夫を重ねた。


「桜井さん、最近の写真、なんだか違いますね」


 広告代理店のディレクター、井上真理子が言った。三十代後半の彼女は、波音の仕事を何度も依頼してくれる重要なクライアントの一人だ。


「どんなふうに、違いますか?」


「なんというか……見る人の心に、すっと入ってくるような。今までも技術的には完璧だったんですが、最近のは、どこかこう、魂が宿っているというか」


 波音は静かに微笑んだ。真理子の周りにも、淡い光が漂っているのが見えた。仕事に対する情熱と、人としての温かさが混ざり合ったような、琥珀色の輝き。


「ありがとうございます。私なりに、新しい視点を見つけられたのかもしれません」


 その日の夕方、波音は都内の公園のベンチに座っていた。左脇腹の痛みが、また強くなっていた。診断から一週間が経ち、徐々に体力の衰えを感じ始めていた。


 スマートフォンには、その日撮影した写真が並んでいる。一枚一枚を見返しながら、波音は考えていた。自分の目に見える光の存在を、どこまで写真に込められているだろうか。


「へぇ、きれいな写真ですね」


 突然、後ろから声がかかった。振り返ると、白髪交じりの老人が立っていた。波音の目には、その老人が深い藍色の光に包まれて見えた。人生の重みのような、深い色合い。


「あ、ありがとうございます」


「写真家さんですか?」


「はい、フリーランスのカメラマンです」


 老人はゆっくりとベンチに腰を下ろした。


「私も若い頃は写真を撮っていましてね。今は目が悪くなって、ほとんど撮れなくなってしまいました」


 老人は懐かしそうに空を見上げた。


「でも、写真を撮らなくなった分、見ることに集中するようになりました。カメラを通して見る世界も素晴らしいけれど、自分の目で見る世界にも、また違った味わいがある」


 波音は静かに頷いた。


「分かります。私も最近、そう感じています」


「そうですか」


 老人は穏やかな笑みを浮かべた。


「あなたも、


 その言葉に、波音は少し驚いた。老人の周りの藍色の光が、より深みを増したように見えた。


「私、実は……」


 波音は言いかけて、口を閉ざした。余命のことは、まだ誰にも話していなかった。


「何か、抱えているものがありそうですね」


 老人は優しく言った。


「でも、それがあなたの目を澄ませているのかもしれません。人は時々、大切なものが見えなくなる。でも、失うかもしれないと知った時、かえってすべてが愛おしく見えてくる」


 波音の目に、涙が溢れた。


「はい……その通りです」


「私の妻が他界した時も、同じようなことを感じました」


 老人は静かに続けた。


「最期の数ヶ月は、彼女の一つ一つの仕草が、まるで宝物のように見えました。お茶を淹れる手つき、窓辺で本を読む横顔、夕暮れに空を見上げる表情。すべてが特別な輝きを持っていた」


 波音は黙って聞いていた。老人の言葉の一つ一つが、深く心に染み込んでいく。


「そうして妻は逝きました。でも不思議なことに、その後も私の目には、世界が美しく見え続けているんです。妻が教えてくれた見方を、私は忘れていないんでしょうね」


 夕暮れの公園に、優しい風が吹いていた。老人の周りの藍色の光が、波音の涙を通して虹色に輝いて見えた。


「素敵なお話を、ありがとうございます」


 波音は心からの感謝を込めて言った。老人は静かに立ち上がった。


「こちらこそ、素敵な写真を見せていただき、ありがとう。これからも、あなたの目に映るものを、大切に記録してください」


 老人は穏やかな足取りで去っていった。波音は、その背中が見えなくなるまで見送った。


 その夜、波音は自宅で、今までに撮った写真を見返していた。結婚式の前撮り、家族写真、ポートレート、街角のスナップ。どの写真にも、確かな命の輝きが宿っていた。それは死を意識する前から、無意識のうちに彼女が捉えようとしていたものなのかもしれない。


 スマートフォンに新しい撮影依頼のメールが届いた。週末の家族写真の撮影だ。


「あと、どのくらい撮れるかな」


 波音は呟いた。しかし、それは悲しみの言葉ではなかった。残された時間で、どれだけ多くの光を記録できるだろうか。そんな期待に似た感情だった。


●第4章 記録を超えて


 それから二ヶ月が経過した。


 波音の体調は、着実に悪化していった。痛み止めの量も増え、撮影の予定もだいぶ減らさざるを得なくなっていた。


 それでも、彼女は写真を撮り続けた。


 しかし、その目的は少しずつ変化していった。SNSへの投稿はほとんどしなくなり、代わりに一枚一枚の写真に、長い文章を添えるようになった。


 その家族の物語。

 その場所に秘められた記憶。

 その瞬間に漂う感情。


 波音の目に見える光の正体を、言葉で描き留めようとした。


「桜井さん、このポートレート、本当に素敵です」


 七十歳を迎えた母親の記念写真を依頼された娘が、出来上がった写真を見ながら目を潤ませた。


「お母様の優しさが、とても良く表れていますよね」


 波音はそっと言った。写真の中の老女は、穏やかな笑みを浮かべている。その周りには、子育ての日々の記憶のような、柔らかな黄金色の光が漂っていた。


「はい……私たちには見えない何かを、桜井さんは写真に収めてくださった」


 娘の言葉に、波音は小さく頷いた。かつては「いいね」の数を気にして、技巧を凝らした加工に没頭していた自分。その頃には見えていなかったものが、今ははっきりと見えている。


 それは決して、死が近いからではない。

 むしろ、生きているからこそ見える光なのだ。


「桜井さん? 具合が悪いですか?」


 娘が心配そうに声をかけてきた。波音は軽く首を振る。


「大丈夫です。ただ、少し考え込んでしまって」


 その日の夕方、波音は古くからの友人、佐々木美咲と待ち合わせていた。美咲とは高校の写真部以来の付き合いで、今では大手出版社のカメラマンとして活躍している。


「なみね、最近の写真見たわよ。すっごくいい感じ」


 待ち合わせた喫茶店で、美咲は興奮気味に話しかけてきた。彼女の周りには、情熱的な赤い光が渦巻いていた。


「ありがとう。でも、まだまだね」


「いやいや、前とは全然違う。なんていうか……見る人の心に、ストレートに届くというか」


 波音は静かに微笑んだ。美咲の言葉は、心に染みた。


「美咲」


「ん?」


「私ね、写真って、記録を超えた何かだと思うんだ」


「どういう意味?」


「その瞬間の空気も、感情も、記憶も、全部含めて一枚の写真になる。でも、それは技術だけじゃできない。写真を撮る人の、見る目が大切なんだと思う」


 美咲は少し驚いたような表情で波音を見つめた。


「なみね、何かあった? なんか、変わった気がする」


 波音は軽く目を閉じた。美咲には、まだ病気のことを話していない。でも、この違いには気付いてくれたのだ。


●第5章 すべての光の中で


 余命宣告から三ヶ月が経とうとしていた。


 波音は入院を勧められていたが、できる限り自宅で過ごすことを選んだ。撮影の依頼は全てキャンセルし、代わりの写真家を紹介した。


 体力的にはかなり厳しい状態だったが、それでも毎日、近所を少しだけ散歩するようにしていた。カメラは必ず持参した。今では重たく感じるそれを、それでも手放すことはできなかった。


 世界は、かつてないほど鮮やかに波音の目に映っていた。


 道端に咲く雑草の一本一本が、生命の輝きを放っている。

 古びた集合住宅の壁には、そこで営まれてきた無数の暮らしの光が染み込んでいる。

 行き交う人々は、それぞれの人生を背負った光の束となって歩いている。


 波音は、できる限り多くの光を記録しようとした。


 しかし、ある日、彼女は気付いた。

 

 もう、シャッターを切る必要はないのかもしれない。


 光を見ることができれば、それでいい。

 記録する必要すらない。

 ただ、見つめていればいい。


 その日の夕暮れ時、波音は近所の小さな公園のベンチに座っていた。西日が街並みを黄金色に染めている。


「あの時のおじいちゃんが言っていた意味が、やっと分かったかも」


 波音は静かに呟いた。カメラは、膝の上に置かれたまま。


 突然、後ろから声がした。


「なみね!」


 振り返ると、美咲が息を切らせて立っていた。


「やっぱりここにいた……心配して探してたのよ」


 先日、波音は美咲に全てを打ち明けていた。余命のこと、世界が違って見えるようになったこと、全て。


「ごめんね、心配させて」


 波音は優しく微笑んだ。美咲は隣に座り、深いため息をついた。


「なみね、あのね。私、あなたの最近の写真を見返してたの」


「うん」


「そしたら、気付いたの。あなたが何を撮ろうとしていたのか」


 美咲の目に、涙が光っていた。


「生きることの、美しさ」


 波音は静かに頷いた。


「人は誰でも、いつか死ぬ。でも、だからこそ、生きている今この瞬間が愛おしい。私が見ている光は、そういうことだったのかもしれない」


 夕陽が沈みかけ、街灯が一つ、また一つと灯り始めた。


「私ね」


 波音は続けた。


「最初は必死だった。この光を写真に収めなきゃって。でも今は分かる。写真に収めなくても、この世界は確かにある。私が見ていなくても、光は存在し続ける」


 美咲は黙って友人の言葉に耳を傾けた。


「だから今は、ただ見ていたい。この世界のすべてが放つ光を」


 波音はゆっくりと立ち上がった。膝の上のカメラを、美咲に手渡す。


「これ、あなたに」


「え?」


「私の代わりに、光を撮り続けて」


 美咲は震える手でカメラを受け取った。


「でも、私には、なみねみたいには……」


「大丈夫」


 波音は優しく微笑んだ。


「きっと、見えるようになる。誰にでも、見える時が来る。その時のために、このカメラを使って」


 街灯の明かりが、二人の姿を柔らかく照らしていた。


 波音は、深く息を吸い込んだ。

 夜の空気が、今までで一番澄んでいるように感じられた。


 街の光、人々の光、存在する全てのものの光が、波音の目には見えていた。

 それは、生きているということの証。

 

 人は確かに、何も持たずに生まれ、何も持たずに死ぬ。

 選べないことだらけの人生。

 それでも、その一瞬一瞬が、かけがえのない輝きを放っている。


 波音は、微笑んだ。


 たとえ、残された時間が短くても。

 いや、だからこそ。

 この世界は、こんなにも美しい。


(終)

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