後編


 地球では荒々しい風が吹いていて、火星と同じように砂埃が舞っていた。火星よりもさらに過酷な環境のはずなのに、懐かしさで胸が締めつけられた。両目を砂から守るため、ゴーグルをつけて単車に乗り、家路を急いだ。

 自宅に辿り着いてドアの鍵を開け、玄関で服についた砂を払っていると、奥から声がした。

「おかえりなさい、タロウ」

 声を掛けてくれたのは、家事の手伝いをしてくれているロボットだった。棄てられていた旧型を修理したもので、それに「ただいま」と返す。中に入ると、ベッドに横になっている父と三ヶ月ぶりに顔を合わせた。

「おお……帰ったか。タロウ」

「ただいま。僕の留守中に不便はなかったかい?」

「ああ、大丈夫だったぞ」

「それを聞いて安心したよ」

 布団を掛け直そうとして、ちらりと見えた父の素足に目が留まる。指先が、黒ずんでいた。そこから視線を外し、父の体に布団を掛ける。

「そういえば、アレをボーナスとしてもらってきたんだ」

「……もしかして」

「そう、父さんの想像通り、99だよ」

 リュックの中からボトルを取り出すと、父の瞳が輝いた。

「ウイスキーの水わりが好きだったよね。さっそく飲む?」

「おいおい、ウイスキーなんて、一体どこで手に入れて来たんだ?」

「スペース・ポートの売店で買ったんだ。とんでもない値段だったけど」

 普段は手が出ない嗜好品。だが、採掘場の仕事の給金で思い切って買った。ウイスキーのキャップを外していると、ロボットがグラスを持ってきてくれた。礼を言って受け取り、ウイスキーと99を注いで父へ渡す。氷はないが美味いはずだ。

「この……99の水割りがな、最高なんだ」

 父が一口飲むと、たちまち顔が綻んだ。幸せそうに酒を啜る父の姿に、嬉しくなって笑った。

「どうだ? お前も飲まないか」

「……いや、俺はやめておくよ」

 よほど美味かったのか、たちまちウイスキーと99はなくなってしまった。父は、昔から酒に目が無かった。飲み終えた父に、探るように視線を送る。

「タロウ……ありがとうな……タロ、ウ……」

 父は、そっと目を閉じた。近寄り、呼吸と脈拍を確認すると、まごうことなく、父は亡くなっていた。リュックから黒い筒状の医療器具を取り出す。それについているスイッチを押すと、注射針が現れる。父の腕へ刺そうとするが、なかなか上手くいかない。焦りを滲ませ、額に汗が流れる。ようやく刺すことに成功して、血液を採取する。やっとのことで終えると、膝から崩れ落ちた。

「軽蔑するかい?」

 ロボットに語り掛ける。だが、何の返答もない。違和感を抱いてロボットを見やると、それは俯いたまま、動かなくなっていた。

「……僕が帰って来たから、役目を終えてしまったのかい?」

 動かないそれに、声を掛ける。

「今までありがとう。世話になったね」

 もう、父もいない。長い間、ともに過ごしたロボットも。父の全身に黒いシミが広がっていく。シミが顔まで行き渡ると、父だったはずのそれは砂へと変貌を遂げて、形を失い、シーツの上に崩れて広がった。しばらく呆然としていたが、意を決し、チェストから拳銃を取り出した。装填して腰のベルトに掛け、リュックを背負い、ブーツを履いて家を出る。

 家族と過ごした自宅を見つめ、記憶に刻みつけると、ゴーグルをつけて単車に乗り、自宅をあとにした。

 もうここへは帰って来ない。

 そう、心に決めていた。




 轟轟と吹き荒れる風を受けて、単車を走らせる。対向車など見たことがない、寂れた道。まっすぐ続く道と、見慣れた砂だらけの景色に何の感情も湧かなかったが、顔に当たる砂に不快感を抱けば、火星へ出稼ぎに旅立つ前、安い飯屋で会った、ある男が脳裏に浮ぶ。


「そこの君、ウォーター99の秘密を知っているかい?」

 カウンター席で数日ぶりの食事を胃袋に詰め込んでいると、黒メガネをかけた背の高い老紳士が隣に座ってきた。

「君は飲んだことないかもしれないけど、富裕層に流通している火星産の99──実はね、この国の人口のうち1パーセントの人間には、毒になってしまうようなの」

「……陰謀論がお好きなのですか?」

 冷ややかな視線を送ると、老紳士は、ふふ、と楽しそうに笑う。老紳士の右頬には直線の大きな傷があり、笑うと、それが曲線になる。

「毒といっても、すぐに命を奪われるわけじゃないの。一定量を守って飲めば、そこから30年の余命が保障される。さらにその間は、病気と無縁で過ごせるの」

 地球に住む人間の平均寿命は、およそ50歳。この紳士の言うことが本当であれば、20歳になったときに飲めば、平均寿命までは生きられる。それに加えて、病気知らずでいられるならば、メリットの方が大きいのではないだろうか? 紳士が話したことが、本当ならば。

「皆が皆、平均寿命まで生きられるわけではありません。この時代の過酷な地球環境を考慮すれば、どちらかというと毒というより、万能薬に思えます、が、……それで、一定量とは、どの程度の量なのです?」

 老紳士は、持っていたバッグの中から透明なボトルを取り出した。

「これ、一本分の量なの」

 それを見た瞬間、心臓が跳ねる。そのボトルには見覚えがあった。父が99の話をするたびに見せてくれたボトル、そのものだった。父が火星の採掘場で仕事をしたのは、僕が生まれる前──今から29年前のはずだ。老紳士の話が本当ならば、父の、余命は。

「ここからが本題なの」

 老紳士は、ぐい、と顔を近づけてきた。

「その、99が毒になってしまう体質の人間が、一定量以上……ボトルもう一本分を飲んでしまったら、どうなると思う?」

「あなたが毒と説明していたので、今度こそ、死んでしまうのでは……?」

 老紳士は大きく頷いた。

「個人差はあるけど、それでも、一年以内には死んでしまうの」

「……やはり」

「けど、それだけじゃないの。適量の倍を飲むことで、火星で長く生きられる免疫を獲得できるみたいなの」

「えっ」

 火星への移住計画は、長い間、人類の悲願だったが、まだ実現は遠い。老紳士の話が本当ならば、誰もが飛びつきたくなる話だろう。

「でも……なのに、死ぬのですか?」

 そこが不思議だ。強力な免疫を獲得できるのに、死んでしまうとは、どういうことなのだろうか?

「仮説だけどね、一年以内に死んでしまうのは、地球で暮らしているからだろうね。地球環境で生存できる耐性を肉体が放棄する、ということなのかもしれない」

「なるほど。……火星で生存できる肉体に変わり、地球では1年も生きられなくなる、ということですか?」

「おそらくね」

「その1パーセントの人間を……特定できる方法はあるのでしょうか?」

「生体検査をすれば特定できる。火星の採掘場で働くためには、それにパスしなければならないだろう? その1パーセントの体質を持つ人間でなければ、採掘場で働くことはできない。ゆえに、採掘場で働いた経験のある者は、その1パーセントの該当者なの」

「……それで、あなたはなぜ、下級層の僕に、そのような秘密を教えてくださるのでしょうか?」

「君、イガシラ・コウサクの息子だろう?」

 言葉に詰まる。僕は老紳士を凝視した。

「29年前の雇用名簿に、君のお父さんの名前が残っていたんだ」

 老紳士は楽しそうにバッグの中を探る。

「これ、渡しておくね」

「何ですか? これは」

 黒い筒状の、何か。──医療器具だろうか?

「これで血液が採れるの。ほら、そこにスイッチがあるだろう? そうそう、それを押すと注射針が出てくるって仕組みでね、血液採取する量も計算してくれるの。君はただ、相手の腕に針を刺すだけでいいの。容器に血液を入れてしまえば、自動的に抗体を作ってくれる便利アイテムさ……といっても、まだ、試作品なんだけどね」

「どうして、これを僕に?」

「まあ、要はさ、もし君がお金に困っていて、該当者の血液採取をして抗体を作ってくれたら、私が買い取ってあげるってこと」

「僕に、父を殺せと?」

「君のお父さん、余命わずかでしょう?」

 老紳士は連絡先が書いてあるカードを渡してきた。殴りたい衝動に駆られたものの、それを突き返すことはできなかった。

「いやあ、その気になってくれたみたいで、嬉しいよ」

 老紳士は右頬の傷を歪ませて、再び笑った。

「体に黒いシミが浮き出てきたら、そろそろ死ぬってことだから。血液を採取するのは死んでからでもいいけど……でも、早めに頼むよ。早めにね」 


 そのときの僕は、どんな顔をしていただろうか?


 明日食べるのにも、困る日々だった。老紳士の提案に憤りを感じたはずだった。けれども、結局、火星の採掘場の作業員として採用されるため、僕は生体検査を受けた。




 単車で走るのをやめ、一旦休憩し、老紳士に連絡してみたものの、繋がらなかった。老紳士への湧き立つ殺意を鎮めるため、道沿いの大きな岩に腰掛ける。まだまだ続く道をしばらく眺めていると、こちらに向かって来る単車に気がついた。その色には、覚えがあった。

 この道で、対向車など見たことがなかった。何だか予感がして、休憩を切り上げると、リュックを背負って単車で走り出す。近くで対向車線を走る単車を確認するため、スピードをさらに上げた。すると、ふらふらと危うい走りをしている赤い大型二輪車をはっきりと確認した。

「リョウタ──!?」

 思わず叫んだ。その運転手は、乗り物ごと道の真ん中で転倒した。僕は乗っていた単車を停めて、すぐさま駆け寄った。

「大丈夫か? リョウタ!?」

「タロウ……?」

 ヘルメットを脱がすと、やはりリョウタだった。大きな怪我はなさそうで安心したが、顔色が悪そうだ。

「ハハッ……俺はラッキーだな」

 リョウタは満足そうに微笑み、弱々しくグローブを外す。その手には、かつてともに働いていたときにはなかった、黒いシミが広がっていた。

「最後にこうして……タロウに会えた」

 リョウタは力を振り絞り、着ているジャンパーのポケットを探る。

「これ、やるよ」

 リョウタに渡されたのは、見覚えのある黒い筒状の医療器具だった。

「もしかして……右頬に傷のある黒メガネの紳士に会ったのかい?」

「ああん? 紳士だあ? あんなのはただのクソジジイだ」

 思い出すのも嫌そうに、リョウタは顔をしかめた。

「……あの野郎、俺が99を2度飲んだことがあると話したら、それをブッ刺して、俺から血液を抜き採りやがった。まあ、すぐに取り返したけどな」

「……で、そのクソジジイは、今、どこに?」

「そいつを取り返すとき、勢い余って殺しちまった」

「……そうか」

 リョウタはぺろりと舌を出し、いたずらっぽく笑った。脳裏に老紳士がよぎり、出番がなくなった拳銃を撫でる。

「タロウはさ……俺が99を飲もうとしたとき、止めようとしてくれただろう?」

「……うん」

「クソジジイの話を聞いていたら、気づいたんだ。あのとき、お前は俺を助けようとしてくれていたんだって」

 リョウタは道路に座り、上半身を起こした。そのとき見えた首にも、黒ずみは広がっていた。

「あんなクソジジイにはやらない。……けど、お前にはくれてやる。タロウと俺は、親友だからな」

「たった三ヶ月の付き合いだぞ? それなのに、親友って……連絡先だって、交換しなかったのに」

「と言うわりには、嬉しそうに見えるけど? うん? ……って、そういえばお前、さっきからタメ口じゃないか?」

「ああ……」

「ハハハッ、やっとタメ口で話してくれた」

「リョウタ……」

「バカ! 泣くなよ。水分は貴重なんだぜ」

 そのとき、自分が泣いていることに初めて気がついた。父が息をしなくなったときでさえ、涙なんて、出なかったのに。

「あとな、単車もやる。お前の単車、ボロボロだもんな」

「……僕にとっては、いい相棒なんだけど」

「何だよ。お前の相棒は俺だろう? なあ、タロウ?」

「……わかった。二つとも、ありがたくもらっておく」

「タロウの好きに使え。どう、使おうが……お前の……勝手だ」

 黒いシミがリョウタの顔を覆っていく。出会ったときのようにリョウタの手を握ろうすると、ぐしゃりと砂が散る。変わり果てたリョウタは、それでも笑っていた。

「じゃ……あな、タロウ」

 リョウタの体が砂の塊に変わる。強風が吹くと、リョウタだったそれが風に吹かれて、空に連れて行かれた。視界が滲んで俯くと、涙がぽたりと落ちた。それを、大地が吸っていく。

 譲り受けた黒い医療器具をリュックに入れて立ち上がり、僕の単車に別れを告げて、道路端に寄せた。そして、リョウタの赤い単車を起き上がらせる。転倒はしたが、自分が乗っていたものよりずっと状態が良かった。

 空を見上げると、まだ日は高く、空は青々としていた。

 その青は、リョウタと見た火星の色と、よく似ていた。



〈了〉

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罪と砂塵 正野司 @masanosano

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