返事を書こう
長尾たぐい
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正月三が日の最終日、
二十年前に夫の
夕方に配達される郵便物を取りにいくために、倹子は薄手のダウンを羽織って部屋を出た。エレベーターに乗ってエントランスまで降りていく。
ドアが空いた先、郵便受けの周りでは倹子と同じ背丈ほどの少年たちがたむろしていた。彼らは倹子の姿を認めると「田村のおばちゃん、あけましておめでとう」と口々にいつもと違う新年式の挨拶をした。皆、倹子の勤め先の小学校に通っている子どもたちだった。
「明けましておめでとう。今年も皆、なるべく好き嫌いのないように。お残しはせんようにな」
ルイ、ユウノスケ、お前たち二人は特にね。倹子に名指しされた二人は「俺おせちに入ってる花の形のニンジンちゃんと食ったから」「オレ餅食ってれば家で怒られないもん」とマスクをしていない口をとがらせ、それぞれ抗議した。その言葉に周りの少年たちがわいわいと茶々を入れる。
「おばちゃん、一月のイチ押しデザートは何?」
その脇で、甘いものに目がないリュウセイが尋ねてきた。彼らの通う小学校の給食は学校の敷地内で作られている。いわゆる自校式給食だった。倹子はそこで調理師として働き、ときたま子どもたちに馴染みのない
「栗きんとん」
倹子がそう答えると少年たちはブーイングをした。つまらん、おせちでさんざん食わされた、俺サツマイモきらーい。
「あたしの自信作にケチつけんじゃないよ」
倹子がキッと視線を走らせると、少年たちは顔を見合わせてから、仕方ないかとばかりにそれぞれ反応する。その仕草に倹子は鼻を鳴らして「楽しみにしときな」と不敵に笑いながら、郵便受けのダイヤルを回して配達物を取り出した。
少年たちと別れ、部屋に戻った倹子は
年賀状の差出人は、倹子が大学の夜学に通いながら、そして結婚や出産の後もしばらく働いていた輸入食品会社の若奥様――もうそんな呼び方が相応しくないのは倹子も分かっている――だった。「時間というものは何かを奪う一方で、何かを与えてくれるものだと痛感する一年でした」と、相変わらず美しい筆跡でそう綴られていた。去年、彼女から年賀状は受け取っていない。その代わりに一昨年、倹子は喪中はがきを受け取っていた。そこにあったのは彼女のひとり娘の名前だった。倹子の娘と三つ違いで、ふたりはたいそう仲が良かった。
娘の嘉代子は
その理由を倹子は分かっている。
「あたしは洋菓子の本場で絶対パティシエールになる」
倹子は自分の娘が幼い頃から何になりたかったのか知っていた。勤め先から倹子が持ち帰った、外国のさまざまな甘いものを見て目を輝かせる娘の姿は、あの会社で働くことで得られる喜びのひとつだった。
けれど、嘉代子の夢は康明によって否定された。
嘉代子が消息を絶ったのは「女ごときがそんな大層なことを」と罵倒した父親の、そして娘の夢を知っているくせに夫の言葉に頷き「夢なんて見るだけ無駄よ」と言った母親の
あの時の年嵩の親類たちは皆もう、とうに三途の川を渡った。残った若い者との交流は絶え、友人にも亡くなった者や連絡がつかなくない者が大勢いる。倹子の番がいつ来るのかは分からない。ただ、あのいつも居丈高に振舞っていた自分の夫の命を、ああもあっさりと奪っていった「死」が自分の近くまで来ていることは、彼女にも理解できた。
嘉代子は私を弔ってはくれない。そう思う倹子の心の中には、雲の立ち込める明け方に家を出ていこうとする、ベージュのコートを纏った嘉代子の後ろ姿だけが今も浮かぶ。どんな表情をしているか倹子が知る
郵便物を仕分けていくと、最後になめらかな感触の薄黄色の封筒が残った。消印には倹子の全く知らない地名が印字されている。宛名は封筒に印刷されており、裏に差出人の名前はない。一方で、
中から出てきたのは、もう長いこと倹子が目にする機会のなかった、しかし数十年前には何度も計算ドリルの上で、原稿用紙の上で、漢字のプリントの上で見てきた丸っこい癖字が綴られた一枚の便箋だった。
――あけましておめでとう。
年始の挨拶から始まった嘉代子からの手紙は、この三十年にあったことが淡々と記されていた。
家を出た後は、ヨーロッパの国を回りながら美波と頻繁に連絡を取っていたこと。イタリアに定住してしばらく経った頃に、彼女づてで康明が死んだと知ったこと。二人の子供を産み、そして育て上げたこと。一昨年、美波の訃報を受けて日本に帰り、葬儀で若奥様に会ってこのマンションの住所を教えてもらったこと。今年は美波の葬儀で再会した友人が営む民宿に年末から泊まり、年を越しながら宿泊客に菓子を振舞う予定であること。
――チーズの扱いには慣れたはずなのに、栗きんとんがお母さんの味にならないのがくやしい。
あまり長くはない手紙の文面の最後の一文は、そう締められていた。
洋食好きの康明に合わせて、倹子が作る田村家のおせちは洋風だった。ローストビーフ、野菜のゼリー寄せ、カモのコンフィ、白身魚のフライ。赤ワインで煮込んだ黒豆に、クルミがたくさん入った田作り、そして、マスカルポーネチーズを練り込んだ栗きんとん。目を閉じると、壮年の夫と、幼い娘が喜んでそれらを食べる姿が昨日のことのように瞼の裏に浮かぶ。若奥様が年賀状に書いた言葉が倹子の頭を過った。「時間というものは何かを奪う一方で、何かを与えてくれるものだと痛感する一年でした」
倹子は再び炬燵から出て、今度は押入れの中のレターケースの中を探った。はがき、のし袋、ポチ袋……目当てのものが見つかるまでには少し時間がかかった。
炬燵板の上に便箋を広げ、万年筆を握った倹子は、一文字も書き出せないまま長いこと同じ姿勢でいた。手紙を出したところで嘉代子に届くとは限らない。それでも、何か返事を書くべきだと倹子は確信していた。ただ、書くべきことが見つからなかった。今の自分の暮らしについて書いたところで、嘉代子が喜ぶとは思えなかった。謝罪や懺悔の言葉など、なおさらそうに違いない。
迷っているうちに、腹の虫が鳴った。気づけばいつも夕食を摂っている時間になっていた。倹子は万年筆を置き、立ち上がって自分ひとりのために夕食の支度を始めた。といっても今日はまだ一月の三日、冷蔵庫に作りおいておいたものを並べ、温かい汁物を一品手早く用意するだけで済ませることにした。
「いただきます」
ともに食卓を囲む者がいなくとも、倹子が食前と食後の挨拶を欠かしたことはなかった。
食卓にはさまざまな皿が並ぶ。五穀米に鯖缶とカブのスープ、鶏のレバーパテ、赤ワインで煮込んだ黒豆、クルミがたくさん入った田作り、――マスカルポーネチーズを練り込んだ栗きんとん。
倹子はひとつだけ、手紙の返事にふさわしいものがあると気づいた。それはレシピなどという大層なものではない。あるのはほんの少しの工夫だけ。それでも、嘉代子がこれを受け取って、自分のものにして、そしてそれを誰かに振舞ってくれるのなら、これほど幸せなことはない。倹子はそう思いながら、頭の中で手紙に書こうと思っている事柄に思いを馳せる。
材料……サツマイモ・四本、栗・500グラム、水・350ミリリットル、砂糖・400グラムと200グラム、くちなしの実・一個、マスカルポーネチーズ・200グラム、それから――。
〈了〉
返事を書こう 長尾たぐい @220ttng284
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