タレ目

三坂鳴

第1話 増殖

風呂場に入ったとき、壁や天井に無数の目が貼りついていた。

最初は普通の形の目が多かったが、一部にタレ目が混じっていた。

そのタレ目は、しっとりとした湿度をまとっていて、こちらを嗤うような雰囲気さえあった。

気味が悪くなって廊下へ戻ると、背中に視線を集められたような感触だけが残り、神経がささくれ立つ。


勇気を出してもう一度風呂場に足を踏み入れると、あのタレ目が異常に増えていた。

壁際でうずくまっていた普通の目がいつの間にか駆逐され、代わりにタレ目が群れをなしながらよどんだ空気を揺らしている。

まるで嫌な感情が膨れ上がるように広がり、脱衣場に入り込む隙を与えない。

そして湿り気のあるまばたきが、あからさまに嘲るような音を立てた。

これ以上は耐えきれず、逃げるように部屋を出た。


廊下の向こうにもタレ目がずらりと並び、じっと睨みつけている。

奴らはもはや単なる目ではなく、意思の塊のように脈動し、壁を伝って増殖していた。

暗い廊下で張りつくその無数の瞳が、心臓の鼓動と呼応するように粘度のある視線を注ぎ込んでくる。


何度も立ち去ろうと試みたが、足は廊下を彷徨い続ける。

煮え切らない恐怖に負けそうになりながらも、古い物置部屋で見かけた鏡を思い出した。

すぐにそこへ駆け込み、埃まみれの大きな姿見を押し出すように取り出す。

この鏡が奴らを追い払う切り札になるかもしれないと思うのは、ただの錯覚かもしれない。

それでも、何もしないよりはましだった。


あちこちから滲んでくる湿った視線を避けながら、廊下の中央に鏡を持ち出す。

タレ目たちは、この行動を不快に思ったのか、一斉に身を波打たせた。

そのうごめきは、生々しい体温を伴った生き物が群れているような気味悪さを連想させる。


僕はぎこちない手つきで鏡を立てかけ、あの群れに向けた。

乱れた呼吸の奥で、タレ目たちの視線が鏡を見つめるのがわかった。

いくつかの瞳は自分の姿を映し出されて怯んだのか、かさかさと壁を這って後退していく。

ところが、中には鏡に映った自分を睨み返すように瞼をひしゃげさせ、さらに増殖の勢いを強める者もいた。

まるで目同士が衝突するように、粘膜とガラスが嫌な音を立て合いながら緊張をはらんだ空気が生まれる。


床や柱からあふれ出すように集まったタレ目の群れと、鏡越しに向き合っているうちに、なぜか一部の目が破裂しはじめた。

ぬるりとした黒い液体を滴らせながら、荒々しい振動を残して床の隙間へと落ちて消える。

それでも生き残った瞳は群れを成し、より一層嫌悪を深めたように瞼を裂きながら鏡へ押し寄せた。

僕はしがみつくように鏡を支え、必死にそのまま奴らを受け止めていた。

しばらくして、廊下に敷き詰められていた無数の目は鏡の破片に映りこむ形になり、一部はゆっくりと萎んでいった。

拭いきれないほどの粘液と脂が残り、空気が変な臭いを帯びる。


ざわざわと蠢いていた波が鎮まったかと思うと、壁際に潜んでいた最後のタレ目が、まるでやり場のない憎悪を燃やすような視線を鏡にぶつけた。

その瞬間、鏡の中央にひびが走り、破片が周囲に散らばった。

残っていたタレ目が弱ったように震え、黒い液体を滴らせながらも一斉にうずくまり、やがて消滅した。


ひとまず助かったと感じながら、割れた鏡をそっと床に置く。

破片にはつやつやとした液体の残りがこびりついていて、生温い匂いが鼻を突く。

自分の顔がどれだけ強張っているのか確かめようと、割れた鏡のかけらを手にとってそっと覗き込んだ。


そこに映っていたのは、見覚えのある顔でも、ただ強張っているだけの顔でもなかった。

瞳がゆるんだように垂れ下がり、まるであの目の群れと同じいやらしいまばたきを繰り返しているのがはっきりと見えた。

鏡に映る自分は、濡れたように光るタレ目で、まるで獲物を品定めするかのようにこちらを眺め返していた。

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タレ目 三坂鳴 @strapyoung

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