第5話 水星の気持ち

 カーテンの隙間から差す微かな光が寝ていた私の瞼をこじ開けた。

 どんなに悩んでも自己嫌悪に陥っても、人はお腹が減るし眠くもなる。なんて格好悪い生き物なんだろう。

 明かりのない自室を薄暗く照らす月を一目拝もうと私はカーディガンを羽織ってベランダに出た。

 青白く茫々とした光さえ今の私には眩しすぎて、思わず目を逸らして下を向いたら電信柱の影にうごめく人影に気づいた。

 人気ひとけのない夜道でこちらをじっと見つめるその人物は不審者――ではなく。

「日菜……?」

 直後スマートフォンが鳴る。電話の主は他ならぬ日菜だ。

「ちょっと散歩しない?」

 こんな時間に散歩だなんて、何を考えてるんだって叱ってやりたかった。外へ出る気力もなかった。今は日菜と二人でいたくなかった。

 でも日菜のお願いを私は断ることができなかった。ちょっと待っててと声をかけて急いで着替えると、家族に気づかれないようそっと玄関から外へ出た。

 しばらくは無言だった。ただ夜の町を言葉もなく歩いた。見慣れたはずのいつもの景色が色と光を失っただけで、全く別の世界に迷い込んだ気分になった。

 ところどころに立っている街灯と隣を歩く日菜だけが今の私を安心させる要素だった。

「みなせ、変だったよね」

 どれだけ時間が経ったのか、ようやく日菜が口を開く。

「ごめん。でも今日は」

「今日だけじゃなくてさ」

 その場しのぎの言い訳を遮って日菜は続けた。

「ずっとおかしかったよね、みなせ。明日香が来て少ししたくらいからかな。いつか話してくれると思って黙ってたけど、心配してたんだよ」

「そんなことないよ」

「気づかないわけないでしょ!」

 とっさに口をついて出た誤魔化しを日菜は叱るみたいに否定した。

「馬鹿にしないで。みなせが一番近くで私のことを見てくれたみたいに、私だってずっと一番近くでみなせのこと見てたんだから。気づかないはず、ないよ」

 その顔はどこか怒っているようにも見えた。だけどきっとその怒りは、私にも、他の誰かに向けたものでもなく。

「ごめん。ごめんね、みなせ。頼りない幼馴染でごめん。いつも助けてもらってるのに、いざという時助けてあげられなくて、ごめん」

 私のことを抱きしめて涙声で謝る。

「でも、力不足でも、迷惑でも、足を引っ張っちゃうかもしれなくても、それでも私はみなせのために頑張りたい。頼ってもらいたい」

 日菜にぶつけられたたどたどしい本音が、どんな筋の通った理論より私の心を楽にしてくれた。

「ふふっ、なにそれ。凄いジコチュー」

 やっぱり日菜は太陽だったね。だってこんなにも簡単に私の中のモヤモヤを吹き飛ばしちゃうんだから。

「だってぇ」

 私は日菜を抱きしめ返す。柔らかくて心地良い感触も、腕の中にすっぽり収まる小さな体も、鼻をくすぐる香りも、間違いなく日菜のものだ。

 こんなに近くに日菜がいる。私のことを心配して、夜中に駆けつけてくれて、私のことを一番近くで見てくれて。

 敵わないなあ。だってずるいくらい、私の一番ほしいもの、一番必要な時にくれるんだから。

「……日菜の言う通り、ちょっと悩んでた。とーってもくだらないことだけど。くだらなすぎて絶対教えられないけど。だけどね、それはもう解決したの。だから大丈夫。ありがと、日菜」

「ええっ、私まだ何もしてないよ」

「ううん。もう十分してもらったよ」

 言葉で伝えられないから、私は代わりにもっとぎゅっと日菜の体を抱きしめる。

 服越しに熱が伝わってくる。熱い。人ってこんなに熱かったんだ。

 ああ本当に――

「日菜、あったかいね……」

「みなせこそ……」

 私、水星で良かった。だって誰よりも一番、この熱を近くで感じられるんだから。

「……さっ、いこ。せっかくの機会だし、夜の町を探検しないと損だよ」

 世界が生まれ変わった気がした。まるで日が昇ったみたいに明るく色づいて見えた。

 この素敵な景色をもうちょっとだけ、日菜と一緒に見ていたかった。

 だから私は怪訝な顔をする日菜の手を引っ張って夜の散歩を続けることにした。

 晩秋の西の空に、小さな星が優しく瞬いていた。

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水星の気持ち あめのあいまに。 @BreakInTheRain

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