孵化
槙野 光
孵化
彼は晴れ男で、私は雨女。
彼と会う日はいつも曇り空だった。
大学の映画サークルの飲み会で、彼とたまたま隣になった。同じ地区出身で、B級映画を好む。年も同じで趣味も同じ。意気投合した彼と、出会ったその日に付き合い始めた。
彼は、優しかった。唯一欠点を上げるとしたら、ラフな格好や暗色を好む私に、パステルカラーの可愛らしい格好をそれとなくねだるところ。
それ可愛いよなあ、とか。美梨に似合いそうだなあ、とか。
それも別に毎日言うわけじゃなくて。時々、さりげなくふとした時に言うから。私は徐々に彼好みの格好をするようになった。
でも、三ヶ月目を迎えたその日、彼に振られて。
彼の新しい彼女は、彼の幼馴染。
丸みを帯びた空色のパンプスがしっくりとくる可愛らしい女性で、背が高く涼やかな相貌の彼とこの上なくお似合いだった。
その瞬間、膨れ上がった疑問が嫌な形で破裂した。
澄明な空から、陽光が差し込んでいる。大学の中庭で手を繋ぎ歩く彼と彼女の肩が触れ、頬を染めて顔を見合わせる。プラタナスの葉が祝福するようにゆらゆらと揺れた。
私は二階の踊り場の窓から、ふたりが幸せそうに笑う姿を眺めていた。
教科書を入れた鞄の取ってが肩に食い込んで重い。鋭利な刃で切り付けられたように――ひどく痛かった。
例えば彼の好きなチーズに例えるなら、私と彼の関係はマスカルポーネのように早足で、彼女と彼の関係はカマンベールのように持続するんだろう。
白黴が生えたって彼は彼女に慈しむように触れ、そして彼女は彼を受け入れ、ふたりは交歓に溺れるのだろう。
何度も何度も――。
私に触れた、その人差し指で。
彼と別れて、半年。冷蔵庫からマスカルポーネを取り出して蓋を開けると、腐海の森で毛羽立つように白黴に覆われていた。
くん、と鼻を鳴らす。酔っぱらいの吐瀉物みたいな酸っぱい匂いが香った。飲み屋街の路地裏みたいな裏ぶれた腐臭。
私はカトラリーケースから使い捨てのスプーンを取り出し、掘削するように真ん中から手前にほじくり出す。内部は漆喰の壁みたいで、腐敗しているのなんて分からないぐらいに滑らかな白だった。
掘削機代わりのスプーンをシンクに放り投げると、からんと侘しい乾いた音がした。胸の奥に広がった疼きを無視して、マスカルポーネの空いた穴に人差し指を伸ばす。
指先に付いたそれに舌で触れると、それはやっぱり酸っぱくて。慌ててキッチンのゴミ箱にマスカルポーネを投げ捨てた。キッチン台の上に放置していたグラスを手に取って、蛇口のレバーを上げて左に捻る。グラスを満たす透明色の水道水は、あっという間に縁からこぼれ出ていく。レバーを下げてグラスを目の高さまで持ち上げると、水面がたぷたぷと揺れた。グラスの縁からこぼれ落ちた水滴が壁を伝い、右の人差し指を揺らす。仰ぐように口をつけ勢いよく流し込むと、口端から漏れ出た水が顎を濡らした。
無理やり流し込んだ透明色の水は形なんてない筈なのに、喉元を通る度、異物を飲み込んだようになって――苦しくて、景色が滲んだ。
彼は料理が好きだった。和洋中なんでも作れたけど、甘い物が苦手で。スイーツには滅多に手を出さないと言っていたけれど、一ヶ月記念日。スイーツが好きな私の為に、ティラミスを作ってくれた。
初めてとは思えない完璧な姿のそれに首を捻ると、ティラミスだけは昔から作れるんだって笑った。
だらしなく顔を緩ませティラミスを口にする私を、彼はブラックコーヒーを飲みながら見ていた。
それから私は、事あるごとに彼にティラミスをねだった。情事の前。情事の後。彼は仕方ないなあって笑いながら吐息を漏らし、ティラミスを作ってくれた。
彼の作るティラミスが一番好きで、だから冷蔵庫にはマスカルポーネを常備していた。
そういえばこの間見かけた彼女は、大学の食堂でティラミスを食べていたな。コーヒーカップを前にした、彼の向かいで。
ふと、指先から力が抜けた。空っぽになったグラスが手から滑り落ちる。雷鳴が轟くような甲高くて鈍い、歪な音。反射的に見下ろし、たっぷりと時間を掛けてしゃがみ込む。床に飛び散ったグラスの破片をひとつ、またひとつ拾っていくと、人差し指の腹に綺麗な一文字の亀裂が入った。じわじわと肉の合間から緋い血が膨らみ、濃くなっていく。口を開けて人差し指を舌に乗せると鉄臭さが滲み、流し切れないマスカルポーネの香りと混ざり合った。
ふらつく足で、キッチンのゴミ箱からマスカルポーネを取り出す。空いた穴に人差し指を伸ばし、傷口を隠すように指の腹でたっぷりとマスカルポーネを掬う。舌に乗せると、鉄臭さと酸っぱさが鼻腔にまで迫り上がった。口を閉じて唾液で滲ませると吐き気が込み上げてきて、何度もえづきそうになる。その度に下唇の内側を噛み、封をするように両手のひらで唇を押さえつけた。
やがて喉元を通ったそれは、胃の腑へと落ちていく。
私は眦に浮かんだ涙を抱えたまま下腹部に手をやる。何も生まれない反吐が出るようなそれがやがて排出されていくのだと知っていても、このどうしようもない衝動を手放したくなかった。
床に転がった白黴のマスカルポーネ。シンクに散らばった嘔吐の跡。口端からみっともなく垂れる涎。滲んだ脂汗をそのままにトイレに駆け込んで便器に座り、ふと引き違い窓に手を伸ばし隙間を作ると、合間から薄曇りの空が見えた。
下腹部に手をやり、前屈みになる。
人差し指を舌に乗せ唇を引き結ぶと、鉄臭い香りと酸っぱい香りが再び鼻腔を掠める。私はえづきながら唇を再び両手のひらで押さえつけ、涙に染み込んでいく衝動を必死に飲み込んだ。
しばらくして、トイレから出てスリッパを脱ぎ捨てた。四つん這いになりながら小ぶりの箒とちりとりでグラスの破片をかき集め、傷だらけになりながら新聞紙に包む。
割れたグラスは、マスカルポーネの入ったゴミ箱の中。
結んだゴミ袋を持って、裸足のまま玄関へと向かう。内鍵を捻り扉を押し開き遠くを見ると、どっち付かずの曇り空が広がっていた。
右は、鈍色の空。
左は、灰褐色の空。
私はドアノブから手を離し、ゴミ袋を放り投げるように三和土に置いた。そして、彼の目から隠すように眠らせていたお気に入りの真っ黒なスニーカーを靴箱から取り出す。足を滑らせるように履いたスニーカーは、少しだけ冷たくなっていた。
靴紐を硬く結び、扉を開け一歩踏み出す。
目を瞑り大きく胸を膨らませ、長い吐息を漏らす。喉元を通り舌に触れた二酸化炭素は、濁るような痛みを伴っていた。
吐き出して、ゆっくりと目を開ける。視界に入った空気は透明で。
私はもう一度目を瞑る。そして目を開けて、胃の腑の空気を吐き出すように今度は深い吐息を漏らす。
足を踏み出すと、こもった熱がスニーカーを覆う。
涙が滲み、私はティラミスを丸呑みできるぐらい口を大きく開けた。
「――ばーか!!」
叫ぶと、見上げた雲がびびったように散乱し流れていった。眼前にある一軒家の塀の向こうから犬の甲高い声が響く。ふっと小さな笑いが口から溢れて、はっとした。人差し指を唇で食むと、乾き始めた傷口が舌に触れる。
薄れていく、鉄の味。
唇から抜いた人差し指はてかてかと濡れていて、私は服の裾に人差し指を擦り付けた。そして手の甲で目元を拭い、顔を上げる。
前方は行き止まりだ。
さあ、右と左どっちに行こう。
見上げた空に、犬の鳴き声と鳥の鳴き声が響く。
ああ、私はもう――自由だ。
孵化 槙野 光 @makino_hikari
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