4話 御茶ノ水の神父
明智香子と中村警部は神田に来ていた。
『御茶ノ水
歴史ある礼拝堂と修道院が並んでいる
「ここの神父は
中村警部が説明する。
「それで……」
と、香子は開かれた門の奥に目を遣った。怪人ジュークは孤児院の支援のために、振込先をここに指定したのだろう。
「それにしても……」
と中村警部の横で、野呂刑事が首を竦めた。
「あの馬車は、一体?」
彼が視線を向ける先。街路樹に隠れようとしても隠れられない位置に、一輛の馬車が停まっている。
香子は
「気にしないでくださる」
明智家の執事の
香子は幼い頃に両親を亡くし、小林を父代わり、家政婦の文代を母代わりとして育った。だから、心から心配してくれているのは解るのだけど、もう成人を過ぎているというのに、過保護過ぎて困る。
気持ちを切り替えるよう、香子は顔を上げ足を踏み出す。
「参りましょう」
礼拝堂の中は、およそ信仰というものに関心がない香子でも、凛と背筋を伸ばさずにいられない空間だった。
左右に並ぶ長椅子を、ステンドグラスからの淡い陽射しがほのかに照らす。所々細く開いた窓から吹き込むやわらかな風が心地好い。
中央の
ブーツで赤絨毯に踏み出せば、正面のステンドグラスの
――しかし、この
香子は周囲を見渡す。
礼拝堂内には誰もいない。孤児院の子供の声もここには届かず、静寂だけが辺りを包んでいる。
「神父へ連絡はしたのだろうな?」
中村警部が睨むと、野呂刑事は慌てた様子で手帳を開いた。
「た、確かに、午後二時にお邪魔すると」
「少し早く着いたようね」
香子は懐中時計を確認する。
「待たせて貰いましょう」
三人並んで長椅子に座る。
しばらく黙ってステンドグラスを見上げていたが、そのうち居心地が悪くなったのか、野呂刑事が香子に顔を向けた。
「あの、ひとつ訊いてもいいですか?」
「何?」
「こんなにお美しいお嬢様が、なぜ探偵なんていう物騒なことを?」
途端に中村警部の叱咤が飛ぶ。
「野呂! おまえな……」
「構いませんよ」
香子が軽く微笑むと、野呂刑事は胸を撫で下ろした。
「私の両親が幼い頃に亡くなったのはご存知?」
「え、えぇ、まあ……」
「父は子爵だったんですけど、子供は女の私一人なので、爵位は途絶えました。しかし、父をよく知る
「日下部伯爵といえば、帝国評議会で活躍しておられるあの御方ですか」
中村警部に香子は頷く。
「えぇ。
「それで、倫敦は
野呂刑事は興味津々に身を乗り出す。
「とても興味深い場所でしたわ。科学技術は
香子の言葉に、野呂刑事は恐縮する。
「それは兎も角。最も感銘を受けたのが、警察の捜査に対する考え方です。自白を重視する日本とは違い、科学的に証拠を集めて犯人を特定しますの」
「それはそれは……」
「冤罪を防ぐ素晴らしい方法だと思い、日本にも広めたいと警察官になる試験を受けに行ったんですけど、女だからと会場に入れて貰えませんでした」
「…………」
「だから探偵となって、科学捜査を推進していきたいんです」
気まずそうに首を
「参りましたな……」
「し、しかし、これから我々が、女性捜査官の活躍の場を作っていけば良いのではありませんか」
このちゃらんぽらんな刑事は、時々正論を言うから厄介だ。
女が社会で活躍するには、この国の在り方を変えていかねばならないだろう。それは我々女の役割である。
それに……
香子は顔を前に戻し、基督の肖像に目を向ける。
私が探偵となった、本当の理由を云っていない。
この聖域で嘘を
☩◆◆──⋯──◆◆☩
「お待たせしましたかな」
黒い
「いや、急にお伺いしたのはこちらですから――東京特務警察の中村です」
「部下の野呂です」
二人と握手を交わした後、須永神父は香子に顔を向けた。
「そちらのご婦人は?」
「探偵の明智と申します」
一歩下がった位置から、香子はじっと神父を見つめる――この神父が入って来た途端、先程感じた
しかし、そんな香子の様子に気も止めず、野呂刑事が口火を切った。
「本日お伺いしたのは、
と、彼は一枚のカードを示す――怪人ジュークの置き手紙だ。
「この口座番号は、こちらのもので間違いありませんかな?」
中村警部の問いに神父は頷く。
「はい、確かにうちのものですが」
「失礼ですが、『怪人ジューク』なる人物に心当たりは?」
「いえ……そんな名は初めて聞きました」
「でしたら、なぜその者がおたくの口座番号を知っているのでしょう?」
須永神父は動じる様子なく答える。
「当教会では、広く募金を募っております。孤児院の運営というのもなかなか大変でして。匿名でも少額でも気軽にご寄付頂けるよう、募金の案内に口座番号を記載しているのです」
「なるほど……」
案の定とばかりに、中村警部と野呂刑事は顔を見合わせた。
「それがどうかなさいましたか?」
不審顔の須永神父が訊くと、中村警部は愛想笑いを浮かべた。
「実は、怪人ジュークなる賞金稼ぎからの寄付が近々、この口座に振り込まれますので、そのご連絡に」
「何と……!」
須永神父は心底驚いた様子で目を丸くした。
「それは有り難いですが……受け取らせて頂いて問題ないものでしょうか?」
「制度上問題ありません。孤児院の運営にお役立てください」
中村警部と野呂刑事は一礼すると、礼拝堂を後にする。
香子もそれに従ったのだが、通りに出たところで足を止めた。
「私は
二人が駅に向かうのを見送り、香子は反対方面へ足を向けた。
通りの向こうの馬車の
――
中村警部たちと会話中、彼は長い詰襟の腰にぶら下げたロザリオをずっと触っていた。
それだけなら手癖ということもある。
――しかし。
礼拝堂に入った途端に子供の歓声が消えたのが、
ステンドグラスの窓は処々開いていた。
それなのに外部の音声が聞こえなくなったのは、その音声自体がなくなったと考えるより他にない。
通りを逸れ、裏路地へ踏み入れた処。そこで香子は脚を止めた。
「…………やっぱり」
前後を囲む子供たち。数は十人。
白いシャツに黒のニッカポッカで揃えた子供たちは、光のない目を香子に向ける。
「死ンデ……」
「スグニ終ワルカラ……」
機械のような声がボソボソと迫ってくる。
香子は一息ついてから答えた。
「止めなさい。でないと、酷い目に逢うのはあなたたちよ」
「死ンデ……!」
子供たちが一斉に、ニッカポッカのポケットからナイフを取り出した。
次の更新予定
東京ファントムウォーズ 山岸マロニィ @maroney
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。東京ファントムウォーズの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます