氏神様の婚約者

檀 まゆみ

氏神様の婚約者


プロローグ  私の婚約者は神様でした


都会の中心から少し離れたこの街には、地域の住民から慕われている神社がある。「お白(しら)様」と呼ばれるその氏神様は、縁結びと子孫繁栄の効果があるとかないとか。                          

高校生の衣緒里(いおり)も縁結びの、いや、縁切りのご利益を願って、ここ数日はお白様に通っていた。なぜかって?

 衣緒里には生まれた時から決められている婚約者がいる。顔も名前も知らされていないその人とは、十六歳になったら会えると両親から聞かされてきた。

「衣緒里、十六になったらおまえの運命の人と会えるわ」

 十六年間聞かされた母の口癖だ。

 冗談じゃない。それが衣緒里の感想の全てだ。会ったこともない人間と婚約? いつの時代だ。時代錯誤も甚だしい。

 もちろん、衣緒里はこの婚約に興味がなかったし、十六歳になったら婚約者の前で婚約破棄を叩きつけてやろうと考えていた。

 無情にも十六歳の誕生日は滞ることなくやってきた。それが今日なのだ。

両親はお見合いがあるから早く帰ってこいと口を酸っぱくして言ったけれど、衣緒里は言いつけに背いて街をぶらぶらと出歩いた。面白くない。そんな気持ちで。

 ゲームセンターでクレーンゲームをして遊ぶ。目当てのぬいぐるみがあったのだ。なかなかうまく行かず奮闘していると、大学生くらいの男子に絡まれた。

「お姉さん、カワイイね。この後、カラオケなんかどう? もちろんおごるさ。その後どこか遊びに行こうぜ」

 衣緒里は無視したが、相手はしつこかった。

「無視なんてひどーい。ねえねえ」

 男がゲームに熱中する衣緒里の肩を掴んで振り向かせようとした時、

「やめてやれ」

 背丈の高いイケメンが止めてくれた。その顔は凛々しく、体躯は細いが筋肉質でシュッとしていて、なかなかの好青年で格好いい。腰まで伸びた髪は脱色しているのか、白に近い銀髪だ。サラサラと揺れる髪を見て衣緒里はドキリとした。

「何だお前」

「私はこのあたりを巡回しているんだ」

「ちっ、覆面の警備員かよ」

 そう言って男はすごすごと退散した。

「あの、ありがとうございます。助かりました」

 イケメンをチラ見しながらお礼を言う。衣緒里はドキドキした。

「お嬢さん、今日はお家の予定があるんじゃないのかな? お嬢さんも早く帰った方がいい」

 イケメンは衣緒里にも帰るよう諭した。衣緒里は麗しいこの顔に免じてゲームセンターを後にした。


 帰ると母に「遅い!」と一喝されたが、すぐに着付けの準備に入った。これからお見合いなのだ。衣緒里はウンザリしながら、ただ人形のように着せられていく。振り袖に袖を通し終えると化粧をされ、髪飾りなどの小物で飾られる。重たい重たい衣装だ。衣緒里の心も同じく重たい。

 タクシーで料亭に移動した。高級そうなそこは、こんな日でなければこの門をくぐることもなかろう。衣緒里はここの料理を堪能することに決めた。お見合いなんてやってられるか。婚約破棄を叩きつけてやるのだから。

 部屋に通されて両親と共に相手を待つ。両親の様子がぎこちなく、何かこそこそと話をしている。

「母さん、やはり辞めたほうが……」

「お父さん、今更よ。十六年も前の約束だもの。覆せないわ」

 横目で二人を覗き見ながら、いたいけな十六歳の娘のために覆してくれよと衣緒里は心で念じた。だがそれは通じないようだ。

 そうこうしているうちに相手方がやってきた。衣緒里は婚約破棄を言い渡す心の準備をした。

 ご両親だろうか、中年の男女の後について入ってきたのは、羽織袴姿の凛々しそうな青年だった。青年の顔もまともに見ずに、衣緒里は彼に向かって叫んだ。

「申し訳ありませんが、この縁談はなかったことにしてください!!」

 あっけに取られる一同を尻目に、さっさと帰ろうとする衣緒里を青年が制した。

「お嬢さん、本気なのかい?」

「もちろん本気で…す……ぅう?」

 んん? 衣緒里は青年を注視した。さっき、ゲーセンで助けてくれた彼ではないかしら? 美しい顔、細めの体躯、スラリと伸びた背。そして腰まで伸びた長い銀髪。

 青年は衣緒里の視線に気付くとニコリと笑って言った。

「僕はこの話を進めてほしいけれどなぁ」

 衣緒里はこの麗しい笑顔に逆らえなかった。


 何やかんやで「後は若い二人で」と言って、両家の両親はそそくさと席を外してしまった。

 青年は雪矢と名乗った。歳は十九だそうだ。苗字はないと言うので、不思議に思って聞こうとしたら唇を人差し指で抑えられた。後頭部が後ろに傾く。

「君が聞きたいことは分かっている。詳しい話は家でしよう。ご両親にはこちらから話しておく」

 雪矢の家に連れて行かれて驚いたことは、そこはお白様の神社だった。

「宮司さんなんですか?」

 衣緒里は神社を見回して尋ねた。社務所以外にここには家と呼べるものはない。

「いや、私はここの主なんだ」

「はあ」

 一人暮らしの宮司なのだろうか。

「お一人で暮らされているんですね。大変でしょう?」

 神社を維持するのは。

「いや、一人ではないんだ。コンとアカがいるし」

 コンとアカ? 色みたいな名前だ。ご家族だろうか。

「コン! アカ! 私の婚約者を連れてきたよ」

 雪矢が声をかけると、そいつらは社務所からではなく、神社の入口からやってきた。門の両脇でどっしりと構えて座る獅子と狛犬がふるふると動き出し、魂のように石像から抜け出した。オウと鳴いてこちらに向かってくる。

 衣緒里は固まった。

「おいおい、雪矢。婚約者様が固まってんぞ。なぁ、アカ」

 と、獅子が笑う。

「そりゃあなた、いきなり私たちを見て固まらない人間なんかいないワよ、ねぇ、コン」

 と、狛犬。

 獅子と狛犬は当たり前のように喋った。衣緒里はまだ口が利けないでいた。

「雪矢。婚約者様、真っ青よ」

「衣緒里? 大丈夫か?」

 雪矢が衣緒里の顔の前で手を振った。意識はあるか? のジェスチャーらしい。

「コン、アカ、人間の姿に化けなさい」

 雪矢がそう命令すると、コンとアカは雪矢の両親の姿に化けた。

「どうだ、カッコ良くなったろう?」

 父親に化けたコンが言う。

「これなら怖くないかしら?」

 母親に化けたアカが聞く。

 カッコ良いとか良くないとか、怖いとか怖くないとかの問題ではないのですが……。衣緒里は心の中で叫ぶが届かない。

「衣緒里、本殿に案内するよ」

 雪矢は衣緒里の腕を掴むと、本殿の扉を片手で開いた。お賽銭箱の奥のそのまた奥に、鏡が鎮座している。

「あそこが僕の家だ」

 家? あれは御神体でしょう??

 雪矢は衣緒里の手を引くと、抱き抱えて浮いた。

 ん!?!? ちょっと待って!! 浮いた。浮いてるよ!?!?

 浮いたまま、鏡の方に向かっていく。

 ぶつかる、ぶつかるよーーー!!


 そのまま鏡に突進する。咄嗟に目を瞑って構えた。が、身体は痛くない。

 訝しく思ってそっと目を開けると、そこは深い森の中だった。

 もう、何が何だか。衣緒里はこの展開についていけない。

「あのう、ここはもしかして鏡の中ですか」

「ああ、察しがいいな」

「鏡は森と繋がっているんですか?」

「いや、ここは天上の世界だ。人間の世界の森ではない。ここは神とその関係者しか入れない」

 神。はぁ。

「神社を囲む鎮守の森のことですか?」

「似ているが少し違うな。鎮守の森は誰でも入れる」

 ではここは時空を超えた場所だと言うのだろうか。

「あなたはいったい誰なんですか?」

 さっきから質問ばかりしているが、衣緒里は勇気を振り絞って雪矢に聞いた。

 答えは薄々分かっていた。……いや、やはり知りたくない。

「おや、ご両親から聞かされていないのかい?」

「両親から? 何を?」

 両親からは何も聞かされていない。

「僕はこの神社に祀られた氏神さ。この土地のものを見守っているんだよ」

 氏神様。

 雪矢は美しい銀髪を風に揺らして微笑んだ。その麗しい笑みは天上のもののそれだった。

「……もしかして、お白様?」

「うん」 

 どうやら私の婚約者は、神様らしい。

衣緒里は再び固まった。


「お白様」

「何だい、衣緒里」

「お白様はどうして人間の婚約者をもらうんですか? 神様同士で結婚すればいいのに」

「本当にご両親から何も聞いていないんだね。それはね……」

 雪矢は少し躊躇ったが

「君はニエなんだ」

 微笑みながら衣緒里に伝える。

「ニエ?」

「生贄のことだ」

「えっどうして……」

 どうして私が生贄なのだろう。衣緒里は戸惑った。衣緒里の心の内を悟ったのか、

「少し、昔話をしようか」

 雪矢は森にあった倒木を神力で動かして、自分がまずそこに腰掛けると、ここに座れと隣をポンと叩いた。衣緒里が座ると昔話を始める。


「百年くらい前だったかなぁ」

 雪矢が話してくれたことは、まとめるとこうだった。

 百年くらい前、衣緒里の祖先は失態を犯した。神社のお祭りで出された御神酒をベロベロになるまで飲んだ祖先は、そのまま本殿に乱入し、あろうことか御神体の鏡を割った。怒った宮司は、このままでは神の祟りがある、百年後までに生まれてくる子孫からニエを差し出して怒りを鎮めよと言ったとか。


「僕はさほど怒ってはいなかったんだけどね。宮司が聞かなくて。御神体はあくまで形式的なものだし、直してもらえればそれで良かったんだ。僕の姿は本来人間の目には見えないものだし」

 ではなんで私には見えるのだという顔をして衣緒里は雪矢を見る。すると、ニコリと微笑んで

「この姿は便宜上のものなのだよ。見えないと人間は不便だろう?おじいさんにも、子どもにも姿を変えることができる」

 そう言って、九十歳の老人にポンと化けたかと思うと、今度は十歳の子どもにも化けてみせた。

「便利だろう?今の姿も、衣緒里に気に入ってもらうために選んだんだ」

 確かに気に入ってはいる。すごく。気に入ってはいるが……。そういうことじゃあ、ない。神様が婚約者だなんて、考えられない。

「僕たち神様はね、百年に一度、ニエをもらうんだ。たいていニエは幼い子どもであることが多くて、それも大人になるまで僕に仕えるだけなんだけど、今回は若い娘で結婚相手だったというわけさ」

「どうしてニエが必要なんですか?」

「神の仕事は孤独だからね。私も人恋しい時があるのだよ。それに人間のことを知るには人間をそばに置かないと」

 そんな事を言われましても。

「僕はニエが衣緒里で良かったと思っているんだ。ここ数日、必死に僕に祈っていただろう?縁切りのお願いを」

 雪矢はクスクス笑って私の頬に右手を添えた。

「思わず笑ってしまったよ。僕に縁結びのお願いをする者は多いけれど、縁切りのお願いとはね。それも相手が僕ときた」

 雪矢はそのまま顔を間近に近づけてくる。

「これはもう、絶対に手に入れよう、ってね」

 そう言うと衣緒里の唇にキスをした。

「!?!?」

 衣緒里は思わず後退る。

「なっ、何するんですか!?」

「親愛の挨拶。人間は好意を寄せるものにこの挨拶をするだろう? 僕も真似てみた」

 ニコニコと笑って言ってのける。お白様はコミュニケーションにおける微妙なニュアンスを理解していないらしい。

「キスは好きな者同士がするものです! 一方的にするものではないんです!」 

「そうなのか」

 雪矢は眉毛を上げて目を見開いた。

「とにかく、私は祖先の話なんて聞いてませんし、婚約破棄を希望します! 神様の事情なんて知ったこっちゃない!」


 次の朝、寝不足の衣緒里はあくびを堪えながら学校に向かった。すると、あの獅子と狛狗がやってきて

「お供するぞ」

「道中危ないものね」

と声をかけてきた。

「あなた達と連れ添うと目立つじゃない!」

 衣緒里は抗議したが、

「問題ない。他の人間には我々はその辺の犬っころにしか見えていない」

 と鼻高々だ。

「なあ、衣緒里、お白様のこと嫌いか?」

 いや、嫌いじゃないけど……。

「じゃあいいじゃないか。雪矢はイケメンで優しい神だ。お似合いだぞ?」

 イケメンは認めるけど……。

「フム、あの顔が衣緒里のタイプなのね」

 えっ、いやいや、そんなことなかったり、あったり……。

 ン?

「あなた達、なぜ私の心と会話できるのよ」

「見くびってもらっちゃ困るな、俺等、神獣だぜ」

 衣緒里はこの珍獣たちに、じとりと視線を送ると、逃げるように校舎に駆け込んだ。

「あっ衣緒里! 今日の夜、会おうってお白様が呼んでいたよー」

 珍獣は何か伝言を叫んだが、衣緒里は無視を決め込んだ。


 下駄箱で靴を変えていると晴臣(はるおみ)が声をかけてきた。

「おはよう、衣緒里」

 晴臣は幼稚園の時からの幼馴染で悪友だ。

「昨日はどうだったの?」

 お見合いのことだろう。勝手に婚約者を決められた挙げ句、理不尽なお見合いをするという話は晴臣にもしてあった。

「どうもこうもなくって。相手がゲーセンで助けてくれたイケメンかと思ったら、お白様で……」

 晴臣はちんぷんかんぷんだという顔をした。

「お白様? 氏神様がどうしたっていうんだ?」

「うん、だからね、婚約者がそのお白様だったのよ」

 今度こそ晴臣はぽかんとした。

「婚約者が氏神様……? 衣緒里、アタマ大丈夫? 婚約が嫌過ぎてイカレちまったか??」

「ちがうちがう、そうじゃなくて……」

 衣緒里は説明をしょうと試みたが、そこでチャイムが鳴ってしまった。

ワリぃ、また後でな、晴臣はそう言うと教室へと去っていった。衣緒里も急いで教室に駆け込む。


 学校から帰ると、早速、衣緒里は両親に詰問した。

「どーいうことっ!!?」

 両親はおずおずとしながら説明を始めた。

「つまり、ひいじいさんがやらかしたツケを、百年踏ん張ったが、とうとうおまえが払うことになったんだ。父さんと母さんも、おまえが生まれた時に初めてこの話を聞かされてな。拒否したんだが、だめだった。一族の穢れを祓えと親戚中から説得されたよ」

 説得されたのかよ。断ってくれよ。

 衣緒里は怒りで煮えくり返りそうになった。

「ねーちゃん、もう諦めてそのイケメンと添い遂げりゃいいじゃん」

 弟の明が面白そうに他人事を言う。

「あんたは生贄にされてないからわかんないのよ! 神様と結婚なんかできるわけないでしょう!?」

 衣緒里は明に向かって怒鳴った。半分は八つ当たりだった。

「ちょっとアタマ冷やしてくるから!」

 そう言って家を飛び出した。


 夜道をトボトボと歩いていると、お白様の神社の近くにやってきていることに気付いた。

 あんな変なのとは関わるまいと思って、避けて通ろうとすると、突然、お白様が空から降ってきた。

「雪矢さん!? 驚かさないでください。心臓に悪い。それにこんなところを誰かに見られでもしたら……」

 雪矢は人差し指を自分の唇にあてて、しーっというゼスチャーをした。

「大丈夫だよ。今、僕の姿は衣緒里にしか見えていない」

 どんな神力を使っているのだろう。

「散歩かい? 僕も一緒していいかな」

 嫌だと言ったらこの美しい顔はどう変化するのだろう。見てみたい気もしたが、それは大人げないと思い、止めた。代わりに衣緒里は返事をしなかった。

 お白様は衣緒里の返事を是と捉えたのか、彼女の横をゆったりとした動作で歩いてついてきた。悔しいが、歩く姿も麗しい。

「そういえば、今日は洋服なんですね。神様って着物なのかと思ってた」

 つい、衣緒里は声をかけてしまった。雪矢が嬉しそうな顔をする。

「衣緒里に合わせたんだよ。君は制服だけどね」

 雪矢は私の一歩前を歩いた。

「しかしこんな時間に制服姿で出歩くのは危ないなぁ。散歩道を変えよう」

 衣緒里の手を取り物陰に連れて行く。

「ここからなら消えても大丈夫」

 消える?

 不思議に思った次の瞬間、身体がふわりと宙に浮いた。そのまま屋根を越え鎮守の森の木の高さも越えて、夜の空へと舞い上がる。

「わ、わ、何これ!?」

「神力で飛んでいるんだよ。姿は神隠しで消したから、誰にも見えないはず」

 神隠し。さすが氏神様。

 ふわふわと雲のように浮きながら、下を見下ろすと電灯の灯った街が見える。宝石箱をひっくり返した、とまではいかないが、夜の街明かりはキラキラ灯って美しかった。

「衣緒里、上を見てご覧」

 空を仰ぐと星がポツポツと散らばっている。月が静かに東の空で傾く。

「ツクヨミノミコトが僕たちにおめでとうって」

「え、誰?」

「月読(つくよみの)尊(みこと)。月の神様だよ」

「おめでとうって、何が?」

「君と僕とは婚約しただろう?」

「そうだっけ?」

 衣緒里は茶化してみせた。

「そうだよ。天上では今はその話題で持ち切りさ。神が人間の娘を選びたもう、ってね。結構大きな話題になっている」

「ええ、私は了承してないよ」

 衣緒里は頬を膨らませてみる。

「意地張らないで」

 お白様は衣緒里の顔を覗いて頬をつついた。二人とも思わず微笑む。


「おまえたち、仲が良いな」

 空の上のもっと上から声がした。

「誰?」

 問うと同時に、筋肉隆々のマッチョがニヤリと笑いながら現れた。夜空を飛んでいるあたり、きっと神様の一人だろう。雪矢さんの知り合いかしら。

「スサノオだ。雪矢、いや、タカミムスビが妻を娶ったと聞いてな、見に来た」

 タカミムスビとはお白様のことらしい。

「残念ながら、まだ婚約したばかりだよ」

 雪矢は衣緒里の了解なしに、ありもしないことを言ってのけた。

「してません! 婚約!」

 衣緒里は全力で否定する。

「それなら私の嫁に来るか、娘よ」

 スサノオがケタケタ笑いながら衣緒里の手を取る。腕を引っ張り、頬に軽くキスをした。

「ひゃっ」

 衣緒里は驚いて思わず変な声を出してしまった。それにしても雪矢さんにしろスサノオにしろ、神様達って手が早いのかしら……。

 横で見ていた雪矢が慌てて衣緒里を庇う。

「何するんだ! スサノオは女好きだから、いくら『神の祝福』だからって衣緒里に手を出すのは許さない!」

「そんなに怒りなさんなって。タカミムスビは女っ気ないからなあ」

「僕は元々独り神。複数の妻を持つ君とは違う」

「でもとうとう嫁を貰った」

 スサノオは楽しそうに雪矢をからかう。

「今、天上ではおまえさんの話題で持ち切りさ。縁結びの神がとうとう己の縁を結んだってね。人間の嫁がほしいと言い出す神までいるぞ。かくいう俺のことなんだがな」

「僕のことは放っておいてくれよ」

「そうはいかないさ。ククリヒメが泣いていたぞ。お前の伴侶になるのは私なのにって。あの美人を差し置いて娶ったのが、この人間の小娘とはなぁ」

 衣緒里はなぜかムッとした。人間の小娘で何が悪い。

「ククリヒメには恋人がいるだろう? 僕は関係ないよ」

「ククリヒメはおまえさんにぞっこんなんだよ。ま、いいさ。たまには天上にも顔を出せ。皆、おまえに会いたがっている。じゃあな。祝福は確かに授けたぞ」

 スサノオはそう言い残して夜空の彼方に消えていった。


「お白様、タカミムスビって言うんですね」

「うん。天界ではそう呼ばれてる。でも人間界ではみんなお白様って呼ぶね」

「ふうん。スサノオは何しに来たのかしら」

「神の祝福を与えに来たんだよ。まぁ、君を見たかったのもあるだろうけど」

「神の祝福?」

「そう」

「神の祝福って何?」

「うん、そうだな……」

 雪矢は何やら考えごとをしてから、

「ねえ衣緒里、これから天界に行かないか?」

 衣緒里の質問には答えず、そんなことを言い出した。

「天界?どうして?」

「うーん、久しぶりに天界に挨拶しに行きたくて」

 雪矢は何かを隠すようにしどろもどろに説明する。衣緒里は少し興味を持った。天界にはスサノオの他にも神様がたくさんいるのだろう。どんな神様だろう。

「興味あるっていう顔をしているね」

「そんなことな……」

「よし、じゃあ決まりだ」

 雪矢は指を鳴らすと衣緒里の手を引っ張り、空の上のそのまた上を目指した。

「アマテラスに挨拶に行こう」

「アマテラス? あの太陽の神様?」

「そうそう。よく知っているね。さっきのスサノオと姉弟なんだよ。今は夜だから天の岩戸に籠もっているけど、外からでも声はきこえるから」

 雪矢は衣緒里を天界の森に連れて行った。天の岩戸は森の中にあった。夜だからか森は暗く、しんとしていた。

「ここって、鏡の中の森?」

「そう。僕達は天界へどこからでも行けるんだ。天の岩戸はこっちだ。おいで」

 連れられていくと、そこには大きな岩があった。周りには清水が流れる小川がせせらいでいるらしく、清浄な空気を醸し出している。

「アマテラス! 僕の『妻』を連れてきたよ! 衣緒里と言うんだ」

 衣緒里はぎょっとした。

「ちょっとお白様、私、婚約した覚えも結婚した覚えもないわよ!」

「まぁまぁ。天界でくらい僕にいい顔させてくれよ」

「そんなこと言われても……」

 衣緒里達がやり取りをしていると、岩戸の中から声が聞こえてきた。

「それはおめでとうございます。私からも祝福を与えましょう。衣緒里、こちらへ」

 衣緒里はゆっくりと足元に気をつけながら岩戸へ近づく。すると岩が少し開き、中から光が漏れ出でた。眩しくてアマテラスの顔は見えなかった。

「衣緒里に神の祝福を」

 アマテラスはそう言うと、衣緒里のおでこに右手を添えて何やら祈りを捧げた。そしてそこにキスをした。

「これでそなたも今宵から天界の一員です」

 そう告げるとまた岩戸に籠もってしまった。

「何だったの……?」

「神の祝福を受けたんだ。神の祝福を受ければ正式に妻と認められるんだよ、衣緒里。

 特にアマテラスは位の高い神だからね。彼女に認められれば逆らうことはできない」

 雪矢は衣緒里の腰に手を回して自分の方に引き寄せた。

「妻!? 正式に認められたって、『神の祝福』を使って私を騙したの!?」

「ふふ。何とでも言ってくれ。僕は君が気に入っているんだ」

 雪矢は衣緒里の顔をまじまじと覗き込む。

「誰かに取られる前に早いところツバをつけとかないと。天界の神々は浮気症だ。それに人間の男だって油断はできない。君の幼馴染とか、ね」

 そう言うと同時に私の顎を引いて傾かせ、唇をまたもや奪った。

「んん……っ!」

 衣緒里は雪矢を突き離した。

「お白様! キスは好きな者同士でするものだって言ったでしょう? 知らないの?」

「もちろん知っているとも。僕は縁結びの神様だよ。もう何千年も昔から、恋愛の作法は見てきたからね」

 !! 

……この間も、さっきも、知っていて手を出しているのか、この氏神様は。

「それに」

「それに?」

 衣緒里は雪矢の瞳を訝しげに見つめる。

「このキスは『神の祝福』でもあるんだよ。君を我が正式な妻に迎えるための。ねぇ、衣緒里も本当はまんざらでもないんでしょう? 私は神だからね、わかるよ。君の心が嫌がっていないって。それに実際、この顔が好みなんだろう?」

 ニヤッと笑う。図々しくも、勝ち誇って笑うその笑みすら美しいのはなぜなんだ。悔しいが好みなのは間違いない。

 衣緒里の氏神様は、優しそうに見えてなんとも強引な神様だった。


「ちょっと、見せつけてないでもらえるかしら!」

 振り向くと、整った顔立ちと抜群のスタイルを持つ絶世の美女が腕を組んで仁王立ちしていた。

「ククリヒメ。久しぶりだな」

「タカミムスビ、婚約したって噂、本当なの!? まさかそこの小娘じゃあないわよね!?」

 美人は衣緒里を睨んで言った。

「そうとも。その小娘が私の妻だ」

「妻ぁ!? 婚約者じゃないの!?」

「さっきアマテラスに神の祝福を貰った。ついでにスサノオのも。今宵から正式に僕の妻だ」

「なんてこと……! アマテラスの祝福を使うなんて。それじゃあもう覆せないじゃない! タカミムスビ、もしや図ったわね!?」

「何とでも言って構わないよ。僕は衣緒里を手に入れたかっただけなんだから」

「衣緒里? それがその娘の名なの!? 私があなたを好いていることは知っているでしょう? どうしてこんな真似ができるのよ」

「君には恋人がいる。浮気は僕の趣味じゃない。なんたって良縁ご利益の神だからね、僕は」

「……相変わらず冷たいわね。ま、いいわ。そういうところも好いているんだから」

 美人は雪矢に目線を送ると、雪矢の首にしなやかな腕を回した。そうして顔を近づけて唇を吸おうとする。

「あっ、ダメ!!」

 衣緒里は思わず言葉が出た。それを聞き逃さなかったのは、他でもなく雪矢だった。

「衣緒里、何がダメだって?」

 ニヤニヤしながら衣緒里の方を見る。そこはかとなく嬉しそうだ。

「えっ……と、その」

「僕とククリヒメがキスするのは許せない?」

 許せない。だがそんなことは言えない。雪矢が好きだと認めるようで、言えない。

「……」

衣緒里はだんまりを決め込んだ。だが神様にそれは通じなかった。

「衣緒里の心はよおく分かったよ。僕も君が大好きだ」

 そう言うと、ククリヒメの腕をひらりと抜け出し、衣緒里を抱き上げた。

「そろそろ夜も遅い。僕らはお先に帰ろう」

 そのまま地上に向かって降りて行った。


「ねえ、衣緒里」

 お白様の神社の神殿で雪矢は衣緒里に迫る。

「神の祝福を僕にもくれないかな?」

「……」

 それはこちらからキスをしろということか?

「そう。ほっぺでいいからさ」

 自身の頬に指を指してトントンする。期待のまなこで衣緒里を見る雪矢。

「一瞬でいいから」

 一瞬。

「嫌ならまたこちらからするけど」

 !!

 衣緒里は根負けして、雪矢の頬にチュッとやった。

 満足そうな顔をした氏神様は衣緒里の頭を撫でると、おやすみと言った。鏡の中に帰らず、神社の本殿で眠ってしまった。幸せそうな顔をして眠っている。

 取り残された衣緒里は、眠るお白様の横で一人、今後の人生に頭を悩ませながら夜を明かしたのだった。





第一章  天界の神々は個性的


「聞いたぞ、雪矢の妻になったんだって、衣緒里!?」

「やっぱり衣緒里は雪矢のこと好きなのね! 嬉しいワ」

 朝、神殿の中で目を覚ますと、コンとアカが入ってきて嬉々として出し抜けに言った。

 衣緒里は起きたばかりの目をこすりながら、

「天上で神の祝福を受けただけよ。この地上ではいつもと何も変わりないわよ」

 軽く捉えたが、

「そうは行かないよ」

 雪矢が起きてきて衣緒里の希望的観測を打ち砕く。

 自慢の銀髪をボサボサにしながらあくびをする寝起きの氏神様は、それだけで色気があって麗しい。見惚れていると目が合った。

「アマテラスの祝福を受けたんだ。地上でも制約があるに決まっているではないか」

 氏神様は挨拶代わりに衣緒里のおでこにチュッとやると、

「君はもう現実世界でも正式に僕の婚約者だ。くれぐれも人間の男にほだされたりしないように。特に幼馴染とかな」

「なんで晴臣?」

「僕は君達が小さい頃から見てきたんだぞ。伊達に縁結びの神をしているわけじゃない。あいつの気持ちくらい手に取るようにわかる」

 そう言って、

「仕事をしてくる」

 鏡の中に入っていった。


 学校に着くと、幼馴染の晴臣が声をかけてきた。

「昨日は悪かったな。で、お見合いはどうだったんだ?」

「うん。結婚することになったよ」

 衣緒里が意外なことを言ったので、

「は? 一昨日までと打って変わってどうしたんだよ。お見合い、嫌じゃなかったのか?」

 晴臣は驚いた顔をした。

「嫌だったけど、神様の祝福を受けて、結婚することになった」

「神様の祝福? 婚約の誓約か何かか? しっかし展開が急だなあ。それで相手は?」

「うん、お白様だった」

「うん。ん?」

「氏神様と結婚することになったの」

「うん、衣緒里、大丈夫か? 熱は?」

「ない」

「……衣緒里、ちょっと話が見えないんだが」

「つまりね、私は生贄で……」

 これまでの経緯を説明すると、晴臣は信じられないという顔をした。

「それじゃあ神様と結婚したっていうのか!?」

「結婚したって言っても、形式だけで何もないけどね」

 晴臣はしばらくの間押し黙っていたが、唐突にこんなことを言い出した。

「今日の帰り、神社に行こう。俺もお白様に会いたい」

「いいけど」

「じゃあ放課後、校門のところで待ってるから」


 放課後、衣緒里と晴臣は連れ添って神社にやってきた。

「雪矢さーん」

 衣緒里は本殿に向かってお白様を呼んだ。だが、お白様は姿を現さなかった。

「なんだ、いないじゃないか。やっぱり衣緒里の妄想だったか。

 なあ、衣緒里、婚約が嫌でたまらなくて、神様と結婚する妄想が働いたんだろう?」

 晴臣が慰めるような顔つきをする。

「帰ろう。神様は空想の世界の存在だよ」

 そう言って衣緒里の手を引いた。その時、

「誰が空想だって?」

 雪矢が本殿の扉を開けて制止した。

「衣緒里おかえり。またチンチクリンな者を連れてきたな」

「あなたが雪矢さんですか? チンチクリンで悪かったですね。ここの氏神だと言うのは本当ですか?僕は衣緒里の幼馴染です。彼女のことなら小さい頃からよく知っています」

「おや、言ってくれるね。私は間違いなくここの主だよ。私も小さい頃から衣緒里を見てきたよ。彼女のことなら、君の百倍よおく知ってるね。たかだか十数年生きただけの人間の小僧に衣緒里の何が分かるというのかい?」

「へええ?何千年神様やってるのか知りませんけど、あなた方は所詮、実体のない存在。幽霊と同じじゃないですか。人間の女性に手を出さないでもらえますぅ?」

 二人はバチバチと火花を散らす。

「衣緒里、お暇しよう!」

 晴臣は衣緒里の腕を引っ張って、神社の敷地から出て行った。

 まったく、いけ好かない氏神だ。晴臣は衣緒里を奪われた焦りと怒りでいっぱいだった。


次の日の土曜日、衣緒里は晴臣の家にお邪魔していた。

「あら、久しぶりね。衣緒里ちゃん」

 晴臣の家に招かれると、晴臣の母親が出迎えてくれた。

「衣緒里ちゃん、お見合いしたって本当?」

「えっと、本当です」

「あら残念。昔は晴臣のお嫁さんになるって、衣緒里ちゃん言ってたのにね」

 晴臣のお母さんはクスクス笑った。冗談なのだろう。

「それは子どもの頃の話で……」

「ふふ、分かってるわ。そういえばアルバムを整理していたの、見る?」

 アルバムは晴臣の生まれた時の写真から始まっていた。幼稚園の写真で衣緒里が登場した。衣緒里はなかなかの悪ガキで、あの頃は晴臣に悪戯を仕掛けては泣かせていた。

「衣緒里もこんな悪ガキの時があったっけ」

 晴臣は懐かしそうにアルバムをめくる。

「お、お祭りの写真があるぞ」

 小学生の時の写真だろう。商店街主催の、お白様の神社の境内で行われたお祭りだ。アーケードの広場で大量の風鈴が揺れている写真もあった。

「雪矢さんはこんな小さな頃から私たちのことを知っているんだろうか」

「いや。生まれた時から知ってたろうよ。なんたって氏神様だ。ここいら一帯の氏子を見守るのが仕事だ」

 晴臣が面白くないという表情で言った。

「神様が相手なんて分が悪い」

 何やらぶつぶつと独り言を言う。晴臣はアルバムの次のページを開いた。中学生の写真だった。

 その時、チャイムが鳴った。晴臣の母親が応対に出ると、

「衣緒里ちゃん、お迎えよ」 

 と、呼ばれた。衣緒里が出ていくと、袴姿の雪矢がそこにいた。

「衣緒里、帰ろう。用事があるだろう?」

「あっ、おまっ」

 晴臣が何か言いかけたが、雪矢が神力を使ったのか、それ以上追っては来なかった。

 雪矢から何やら殺気を感じる。男の家に上がるなと念力で送ってくる。面倒くさいなぁと思ったが、仕方がないので衣緒里は帰ることにした。

 とぼとぼと帰路を歩いていると、雪矢が衣緒里の肩を軽く叩いた。

「人間の男にほだされるなと言ったばかりだろう?」

 とお説教。

「晴臣は幼馴染だよ」

「向こうはそう思っていない」

 お白様、めんどくさい。心でそう言ったら

 コツン

 頭を小突かれた。

「衣緒里、神社に行こう。今日は結納があるだろう、忘れたとは言わせないよ?」

 もちろん覚えている。だから晴臣の家に逃げ込んでいたというのに。


「やぁーだってば!」

「嫌も嫌も好きのうち!観念して着替えなさい! ……それとも僕が着付けてやろか?」

 ニヤリと笑って不遜なことをしれっと言う。

「結構です!」

「それならアカ、手伝ってやれ」

「はいはーい」

 雪矢の母親に化けたアカが衣緒里の着替えを手伝う。

「できたワよ。とってもキレイ」

 アカはウインクをして褒めてくれた。

「相手が神様でなければなぁ」

「あら、雪矢は神様の中でも穏やかで心の広い良い神様よ。その辺の人間の男よりずっといいと思うけど」

「そうは言ってもねぇ。それに結納って言っても、私はニエなんでしょう?わざわざ結納品を我が家に贈る必要ある?」

「そこが雪矢の良いところね。ただのニエなら、衣緒里を差し出すだけで済ませてもいいんだけど、ちゃんと人間式の婚約をやろうというんだから。愛されているわね、衣緒里」

 そうなのだろうか。あの氏神様のやることはよく分からない。どちらにしろ、神様と結婚するなんてこと承知してないけれど。本当は半分くらい諦めがついてきていたが、意地を張って心でそう呟いた。

 

「ねーちゃん、もう観念したら? 雪矢さん、ねーちゃん好みのイケメンじゃん」

「明!」

 襖の向こうから声がした。結納の儀式に参加するためにやってきたのだろう。

「そうそう。私達も神様と結婚なんて……と思っていたけれど、なかなか人間味溢れるいい神様じゃないの。イケメンだし」

「お母さん!」

「お前みたいなじゃじゃ馬、貰ってもらえるうちに嫁いでおけ! お前こそ、人間の男では手に負えん!」

「お父さん!」

 この薄情な家族は何なんだ。衣緒里は頭を悩ませた。

 逃げよう。そうだ、逃げちゃえ。

 思い付いた衣緒里は、裏口を回って外に出ようとした。だがそこには羽織袴姿の雪矢が立っていた。

「衣緒里? 何してるんだ? 会場はこっちじゃないよ」

「あっ、えと、うん、忘れ物!」

「忘れ物? 何?」

「えーっと、ちょっとね……」

 衣緒里は二階に駆け上がった。

 さてどうしたものかと二階の窓から外を眺めていると、下の路地をちょうど晴臣が通ってくる。

「晴臣! 晴臣ってば!」

 衣緒里は二階の窓から晴臣を呼んだ。気付いた晴臣は衣緒里のいる窓の下までやってきた。

「何してるんだ、衣緒里?」

「うん、晴臣、ここから飛び降りるから受け止めてよ」

「は?」

 草履を片手に、窓から晴臣に向かって飛び降りた。晴臣は尻もちをつきながらも衣緒里をキャッチしてくれる。

「ありがと。助かった」

 お礼を言うと、晴臣の手を引いた。

「遊びに行こうぜ」


 二人は街のゲーセンに来ていた。太鼓を叩いて対戦するが、晴臣が一枚も二枚も上手だった。

「あー、また負けたぁ」

「なぁ衣緒里、その格好でゲーセンは目立つぞ」

 確かに二人は目立っていた。特に振り袖姿の衣緒里は場違いもいいところだ。

「これじゃあ、お白様にすぐ見つかっちゃうわね。晴臣、どこかに連れ出してよ」

「そうだなぁ、じゃあ裏山にでも行くか?」

 裏山は学校の裏にある。広い森林公園になっていて、ウォーキングやハイキングにくる人も多い。子どもの遊び場もあり、二人が幼い頃はここでよく遊んだ。

 裏山に来ると、

「懐かしいなぁ、この遊具」

 晴臣が遊具に手を添えて感慨深げに言う。

「ブランコなら乗れるかしら」

 衣緒里はブランコに腰掛けると勢いをつけて地面を蹴った。身体が前後に揺れ、ふわりふわりと宙を行く。

 晴臣も隣のブランコに乗った。二人でギコギコとブランコを漕ぐ。

「なぁ、衣緒里。あの氏神様のこと、好きなのか?」

 晴臣が突然、聞いてきた。

「すっ、好きじゃないよ!」

 衣緒里は驚いて反射的にそう答えた。本当は心の半分くらいは好きになっていたのだけれど。

「結納、嫌なら俺がここから連れ出してやろうか? 神様が追って来られない場所まで」

「え?」

「俺、小さい時からおまえのこと好……」

 その時、衣緒里は調子に乗っていた。今度はブランコに立ち上がって乗り、もっと勢いをつけて漕いだ。身体が宙に持っていかれそうな感覚を味わう。

「衣緒里、危ない!」

 晴臣が声をかけた瞬間、衣緒里は手を滑らせ、身体はブランコから離れた。落ちるーー。

 たが落ちなかった。雪矢に支えられた衣緒里は虚空で停止していた。

「衣緒里、探したぞ」

「雪矢さん」

「そこの小僧に何やら唆されていたが、聞いてはいけないよ」

「唆すって、あんた。俺は子どもの頃から衣緒里のことが好」

 雪矢さんは神力で晴臣の言葉を止めた。何やらモゴモゴと口だけ動かす晴臣。

「それ以上は言わせない。私も衣緒里のことをずっと見守ってきたさ。衣緒里のことを好きなのはおまえだけじゃない」

 神力をかけたまま、雪矢は衣緒里を抱いて浮き上がる。

「行こう、衣緒里」

「結納の続きをやるの?」

「それはアカとコンに任せてきた。君に化けたアカと、僕に化けたコンが上手くやってくれているよ」

「じゃあ何をするの?」

 雪矢は大きく微笑んで上を向くと、空の彼方へと向かった。天界を目指しているようだ。晴臣はあっけに取られた表情で、小さくなっていく二人を見つめ続けた。


「どこへ行くの?」

「景色のいいところ」

「何をするの?」

 雪矢はその質問には答えずに

「衣緒里に伝えたいことがあるんだ」

 そう言ってそのまま上へ上へと上昇していく。雲が切れたところで、見たことのある景色、天界に着いた。

「僕は用事がある。この辺りで待っていてくれ。すぐ戻るから」

「えっ? お白様、ちょっと……」

 雪矢はさっさと消えてしまった。

「あら、衣緒里」

 声をかけてくれたのはアマテラスだった。長い黒髪を腰まで垂らし、耳の脇の髪だけ円状に束ねた髪型をしている。束ねた所に花飾りをつけており、なんとも可愛らしい。この間は眩しくて顔を見られなかったが、今日はちゃんと見える。控えめな顔つきの日本美人だ。だが顔つきに反して体つきは大きく背が高い。天界一の神様の貫禄を醸し出している。

「アマテラスさん。先日は『神の祝福』をありがとうございます」

「いえ、いいのよ。私も嬉しいの。タカミムスビが伴侶を連れてきてくれるなんて初めてのことだもの」

 タカミムスビとは雪矢さんの別名だ。

「雪矢さん、今まで伴侶はいなかったんですか?」

 何千年も生きている神様だ、伴侶の一人や二人いてもおかしくない。

「タカミムスビは作らなかったわねえ。縁結びの神様なんだから、自分の縁を結ぶのは簡単でしょうに」

 どうして長い間独り身を通してきたのだろう。作ろうと思えば作れるはずの伴侶を携えず。

「アマテラスさん、タカミムスビの話を聞かせてください」

「あら」

 アマテラスはふふふと笑った。

「夫となる方の昔話なんて聞かせていいのかしら」

 そう言いながらも楽しそうだ。

タカミムスビは三兄弟の二番目として生まれたの。いずれの神も強力な力を持っているわ。それから、この天界が荒れた時は率先して平定してくれたりね。普段は穏やかだけど、いざという時は頼もしい神様なのよ。衣緒里は彼を夫にできて果報者ね。

 雪矢の天界での評判はすこぶる良いらしい。

 その時、アマテラスに声をかける男が現れた。

「アマテラス! 久しぶりだな」

 筋肉隆々のマッチョがこちらに向かってくる。

「スサノオ。あなた地上に行ったきり何してたのよ」

「そりゃあ、姉さん、俺の嫁を探してたんだよ」

 マッチョは衣緒里を見つけて相貌を崩す。何だか嬉しそうなのはどうしてだろう。

「先日はどうも、お嬢さん」

「こちらこそ。『神の祝福』をありがとうございます」

「いいんだ、いいんだ」

 スサノオはニヤけながら衣緒里の手を引っ張って抱き上げる。

「えっ、なんですか!?」

「天界を案内してやろう。タカミムスビは今不在なのだろう?」

「スサノオ! 衣緒里はタカミムスビの妻ですよ! はしたない真似はおやめなさいな」

 アマテラスがスサノオの袖を引っ張って注意する。

「ええ〜っ、ちょっとここいらを一周してくるだけだよ、いいだろう?」

 浮気者のスサノオは強引に衣緒里を連れ去った。


 衣緒里は天界の花畑に来ていた。

「きれいだろう? ここには地上では咲かない花がたくさん植えられているんだ」

 確かに虹色や透明の花が混じっている。花畑ははるか彼方の地平の向こうまで続いている。どこから風が吹くのか、花は一斉に同じ方向に靡く。

「あれは?」

「ん、どした?」

「あの天上に咲いているのは?」

「ああ、あれはシラユキゲシだ」

「シラユキゲシ?」

「天上でも上空の崖の上に咲くんだ。神でも見に行くのが大変なんだ。なにせあの花には神力が通用しない。誰かが地上から移植したとかしないとか、そんな噂があったな」

 衣緒里はその花に見覚えがあった。昔、お白様の神社に咲いていた。最近は見かけなくなったけれど。

「私、あの花を見に行きたい」

「えっ? あの花はやめときなよ。崖の上で危ない」

「大丈夫」

 衣緒里はスサノオを無視して崖をどんどん登った。心配したスサノオもついてくる。

「ひゃー、神力が使えないって本当なんだな! 俺も地道に登るしかないなんて」

 崖は登るほど行き先が狭くなっていく。衣緒里が登るごとにカラカラと土が崩れる。

「衣緒里、止めよう。こいつは危ない」

 スサノオはしきりに止めるが、衣緒里は進んでいく。一番上までくると、そこにはシラユキゲシが群生していた。

「この花……」

 この花は確か……。


 幼稚園の頃だったろうか。晴臣と近所で遊んでいると、お白様の神社の森で群生しているのを見つけた。

 きれいだきれいだと騒ぎ、手折ろうとした衣緒里。社務所から出てきたのは若い宮司らしき男だった。この花が気に入ったのかと聞かれ、衣緒里が頷くと、

「手折るのはあまり良くないんだ」

 そう言って紙細工で作られたシラユキゲシを二つ取り出し、一つを衣緒里の髪に挿してくれた。もう一つは一緒にいた晴臣に渡された。

 あの人は確かーー。

「雪矢さん……」

 そうだ、雪矢さんだ。今と変わらぬ顔貌に背格好。歳を取らぬということは、やはり神様だからだろう。

 雪矢さんは私があんなに小さい頃から、あの神社で地域の人々を見守ってきたのだ。いや、もっともっと昔から、彼は自分の氏子を見てきたのだろう。


「わお、すごい群生。この花は地上の花だな。衣緒里。一本手折っておまえに贈ろう」

 スサノオが花に手をかけようとした瞬間、

「ダメよ。この花は」

 衣緒里がすかさず止める。

「なぜだい?」

 スサノオは怪訝な顔をした。

「その花はダメだよ、スサノオ」

 タカミムスビこと雪矢も現れてスサノオを止める。

「タカミムスビ? なぜダメなんだ? 可愛い衣緒里に似合うと思ったのに。それに俺はこの女が気に入った!」

 スサノオは衣緒里を抱き上げた。連れ去ろうというのだろうか。シラユキゲシの群生の中心でスサノオが浮こうとした。だが、神力が通じない領域のためか、浮くことができない。

「スサノオ、衣緒里を返しなさい」

「やだ。俺も人間の嫁がほしい。衣緒里を譲ってくれよ」

「ダメだ。君にはクシナダヒメがいるだろう。さあ、衣緒里を返して」

 雪矢とスサノオはしばらくの間黙って睨み合っていたが、凄む雪矢に負けてスサノオはしぶしぶ衣緒里を腕から下ろした。名残惜しそうに衣緒里を見つめている。

「そんな目で見てもダメだよ。衣緒里は私の妻だ」

 雪矢がスサノオを睨むので、スサノオは衣緒里を攫うことを諦めた。

「衣緒里はおまえだけのものだって言いたいんだろ。わーったよ。俺は退散する」

 スサノオは崖を猛スピードで駆け降りて行った。


「衣緒里、話があるんだ」

 雪矢は衣緒里の手を引いて、シラユキゲシが一番良く見える高台に連れて行く。

「ねえ、雪矢さん。このシラユキゲシの花畑は雪矢さんが作ったの?」

「そうだよ。地上にだけ咲かせておくのは勿体ないと思ってね。けれど地上の花は地上の環境でしか咲かない。だからここは神力が通じない場所に変えたんだ」

 雪矢はしばらく花畑を見つめてから、衣緒里に約束したいことがあるんだと言って、真剣な眼差しで衣緒里を見つめる。

「天界でも人間界でも、僕は君を必ず妻に迎える」

「……でも」

「衣緒里の心は今、半分は不承知で、半分は承知しているんだろう?」

 なぜそれを知っているのか。神様は私の心を見抜いている。

「衣緒里の心が承知に変わるまで待つよ。何年でも。神にとっての数年なんて、一瞬のことだ」

 雪矢は衣緒里の耳の上の髪にそっと口吻を落とした。

「君のことが大好きだ」

 そのまま雪矢は衣緒里を優しく抱きしめた。衣緒里は返事もできずに優しい温もりに包まれたまま、ただシラユキゲシが揺れるのを見つめていた。


***


それから一週間が過ぎた土曜日の午後、満身創痍のスサノオが雪矢を尋ねてきた。頭をポリポリと掻くスサノオは、くたびれた老犬のようで、何だか情けなく見える。

「人間界に来るなんて、何の用だい」

「うん、そうだな……。あ、衣緒里はどこだい?」

「出かけているよ。ショッピングだとか」

「そうか。……なあ、タカミムスビ。何か欲しいものはあるかい?」

 この男が欲しいものを聞いてくるなんて珍しいこともあるものだ。何か裏があるに違いない。それに欲しいものだって? そんなもの。

「衣緒里に決まっているじゃないか」

 スサノオは面食らった。まじまじと雪矢を見返す。

「そういうのは君の方が得意だろう? 縁結びの神よ」

「そうかい。じゃあクシナダヒメの櫛が欲しいかな。あれはプロポーズするのに縁起が良い」

 クシナダヒメと聞いてスサノオは目を泳がせた。何か言いたそうな表情をするが、なかなか言い出さない。クシナダと何かあったのだろうか。

「君の妻君は元気にしているかい?」

クシナダヒメはスサノオの妻だ。長くてまっすぐな紫色の髪が美しい五穀豊穣の神様である。身体は小柄だが、神力は強い。嫉妬深いのが玉に瑕だが。

「あ、いや、実はだね……」

 歯切れの悪いスサノオに、雪矢は喧嘩でもしたのかカマをかけてみたところ、本当に喧嘩をしてしまったらしい。 

「タカミムスビ、助けてくれ。クシナダが出ていってしまったんだ」

 スサノオは泣きそうな顔をする。雪矢はどうせまたこの男が妻の機嫌を損ねたのだろうと想像したが、一応、理由を聞いてみることにした。

「分からないんだ。クシナダにプレゼントを贈ったばかりだというのに。何がいけなかったのだろう」

「ちなみに何を贈ったのだ?」

「新しい竹の櫛を。前の物が古くなったから」

「ふうん」

 雪矢は考えた。スサノオは衣緒里のことをいたく気に入って、自分も人間の妻が欲しいとねだった。いくら新しいプレゼントを貰っても、新しい妻を迎えられたら、たまったものではないだろう。

「もしかして、新しい櫛と新しい妻を重ねたのではないのか?」

 新しい櫛を受け入れること、つまり、新しい妻を受け入れろと、そういう意味で捉えられたとしたら。

「ひええ。そんなつもりはなかったんだ。最近機嫌が悪いなって思ったから、何かプレゼントでもと思ったまでで」

 それはおまえが新しい妻が欲しいなどと言ったからだろう。雪矢は呆れた。

「古い櫛を自分になぞらえて、もう用済みとまで思い詰めていたらどうするつもりだ?」

 更にスサノオを追い詰める。スサノオは黙ってしまった。顔面蒼白だ。

「確かに人間の妻が欲しいとは言ったが。ほんの戯言だったんだ」

 それは本人に言わないと。

「なあ、タカミムスビ。おまえは縁結びの神だろう。俺たちの縁を取り持ってくれよ」

「衣緒里には縁切りのお願いをされたけどね」

 スサノオはええっと雪矢を見返す。おまえ、そんなことまでしてんのかよ。

「やれなくはないけど」

「えええ……それだけは勘弁して」

 できる限りのことは努力してみるとだけ約束して、雪矢は腰を上げた。

「どこに行くんだい」

「商店街。君にも準備を手伝ってもらうよ」

スサノオには商店街の手伝いとクシナダヒメの櫛を貰い受けることで、雪矢は仕事を請け負うことにした。


夕方の商店街は活気付いていた。雑貨屋、コーヒーショップ、おもちゃ屋、地産地消の八百屋、大きな本屋にデパートもある。そこかしこで人が行き来し、衣緒里と晴臣は人混みを避けるようにしアーケードの端を歩いた。

「寄りたいところはあるか? 俺は参考書を買いに行きたい」

「そうね。夏祭り用の新しい髪飾りが欲しいかな」

「夏祭りか」

 晴臣は雑貨屋を探しながら歩く。

「なぁ、衣緒里。今年も二人で夏祭りに行かないか? 氏神様には内緒で」

 名ばかりとはいえ婚約者を持つ娘を連れ出して良いものか晴臣は迷ったが、思い切って誘ってみた。例年は二人で過ごしてきたイベントなのだ。

「うん、いいよ」

 衣緒里はあっけなくも了承する。晴臣のことを意識はしていないらしい。晴臣は若干がっかりしたが、気を取り直して先を行く。約束は取り付けられたのだ。

衣緒里が一つの店舗の前で立ち止まった。見るとそこは古物商らしく、骨董品が所狭しと並んでいる。

「ここに入ろうか」

 衣緒里が入りたそうにしていたので、晴臣は率先して店のドアを引いた。

「いらっしゃいませ」

 出迎えてくれたのは、小柄で長い紫の髪を背中で束ねた可愛らしい女性店員だった。ネームプレートには「櫛名田」とあった。

 店内には年代物らしき古い家具や時計、小さな絵画などが壁にもカウンターにも埋め尽くされている。

「何かお探しですか」

 店員はにこやかに聞く。夏祭り用の髪飾りを探していると告げると、アクセサリーのコーナーに案内してくれた。

「こちらはかんざしのシリーズ。こちらは櫛のシリーズです。櫛がお勧めなんですよ」

「櫛? アクセサリーになるんですか?」

「ええ。かんざしのように髪の毛に挿すのよ」

 店員はにこやかにいくつかの櫛を取ってくれた。衣緒里が一つ手にとって観察する。掌ほどの小さなそれは、半月の形をしている。持ち手の部分に鳥と柊の模様が彫ってある、細かい細工が見事な品物だ。年代物なのと、細工が精巧なためか、おいそれと買えるような値段ではない。

「衣緒里、それが気になるのか? 買ってやろうか?」

 晴臣も値段を見て驚いた。高校生が手を出せる代物ではなさそうだ。

「衣緒里……? あなたは衣緒里さんというのね?」

 店員は晴臣の言葉を確かめるように衣緒里に詰め寄る。先ほどのにこやかさは消え、真剣な、ともすれば必死な形相が窺い知れる。魔物に取り憑かれたような、そんな顔だ。衣緒里は「はい」とだけ返事をした。「そう」と店員は呟いた。

「衣緒里、行こう」

 空気の異変を察した晴臣が衣緒里を呼び寄せて店を出た。


「おかしな店員だったな」

 晴臣が両手を頭の後ろに組んで呆れたように言う。衣緒里も怪訝な顔をした。気を取り直して別の雑貨屋に行こうと晴臣が言ったので、衣緒里も賛成した。確かデパートの中に出店しているはずだ。二人はデパートに向かう。

 行く道の途中でカラカラという涼しげな音が聞こえてきた。それは大量の風鈴の音で、アーケードの一角の広場に設置させている。まだ準備中のようで、作業をしている人影が見える。

「雪矢さん! スサノオも」

 百個余りの風鈴が広場に垂れ下がっている。夕方の風を受けてカランカランと大音量を奏でている。風鈴を垂らす木枠を雪矢とスサノオで準備しているのが見えた。

「すごい! いい音!」

「衣緒里。いいところにきた。しかし小僧まで一緒なのか」

 雪矢は衣緒里の肩を押して風鈴の鳴る一番いい場所へ案内した。晴臣のことは当然のように無視をして。

「もうすぐ夏祭りだろう。その準備に駆り出されているんだよ」

 風鈴の音を聴いて、衣緒里は懐かしい気持ちになった。毎年、この音を聴くと、夏が来たと実感する。

「この風鈴には何かご利益があるの?」

 衣緒里が何気なく聞く。

「ああ、魔を払うんだ」

 魔を? そう言えばさっきの店員は少し様子がおかしかった。思い詰めた表情をして私を見つめていたな。ネームプレートでは櫛名田さんと言ったけ。衣緒里が雪矢に伝えると、雪矢の顔色が段々と曇った。

「衣緒里、その店に案内して」

四人は先ほどの骨董店に戻った。だが女性店員はすでに姿を消しており、好々爺の店主が奥で座っているだけだった。

店を出てスサノオがクシナダヒメを探していることを説明すると、衣緒里と晴臣はなるほどと納得をした。それと同時に、浮気者のスサノオを軽蔑するような目つきで衣緒里は見やった。スサノオは衣緒里の胡乱なまなざしにタジタジである。

「クシナダヒメは逃げてしまったし、彼女の捜索は長くなりそうだな」

 雪矢は上空を見上げてため息をついた。


***


夏祭りの当日は快晴になった。

衣緒里は雪矢に内緒で晴臣と遊びに行く約束をした。雪矢に知られると面倒なので、その話はしていない。口が裂けても言えそうにない。

 当日の夕方は、衣緒里は友達と出かけるとだけ言って出てきた。雪矢は快く送り出してくれた。

「今日は遅くなるかも」

「夏祭りに寄るのかい? 今日は花火も上がるだろう?」

「うん。友達と一緒に顔を出すつもり」

 何とか誤魔化して出てきた衣緒里だった。


衣緒里は黄色地に白い花を散らした浴衣に、白い帯を締めている。

 髪飾りは迷いに迷った。新しいものは手に入らなかったし、昔、雪矢に貰った紙細工のシラユキゲシをかんざしに加工したものなら持っていたが、古いものなので挿すべきか悩んだ。けれど結局はそれを付けることにした。

 晴臣と並んで商店街を歩く。縁日も開かれており、屋台が立ち並んでいる。晴臣がりんご飴を買ってくれた。

「汚さないようにな」

 晴臣は横目で浴衣姿の衣緒里をチラチラと見た。いつも見慣れた制服姿と違い、白い花を散らした浴衣と白い帯は衣緒里によく似合っており、可憐で清楚だ。かんざしがお祭りのライトの光にキラキラ照らされている。

「その格好、よく似合ってる」

 そんな言葉がつい口をついた。

「ん、ありがと。晴臣も浴衣似合ってるよ」

 衣緒里はりんご飴をかじりながら晴臣に向かって笑った。衣緒里の笑顔を眩しく感じた晴臣は誤魔化すように話題を変えた。

「そろそろ花火の席を取りに行こうか」

 会場は混雑していた。だから二人は川沿いの山を登って本来は観客席ではない『特等席』を確保した。間に合ってよかったねと言う衣緒里に、晴臣が真剣な表情をして衣緒里を覗き込む。遠くから花火の見物客の騒がしい声が聞こえてくる。

「俺さ、おまえのこと……」

「え?」

 晴臣は衣緒里を見つめながら、顔を近づける。ほとんど息が聞こえてきそうな位置だった。

 その時、二人の横で最初の花火が打ち上がった。歓声が上がる。夜空の濃紺に白、赤、黄、青、と色とりどりの華やかな光が咲いては散っていく。

「あ、花火! 晴臣、見て見て!」

 衣緒里がはしゃいだその時だった。

「お楽しみのところ悪いが、娘よ、おまえの心を貰っていくぞ」

 衣緒里の目の前に突然姿を現したのは、雪矢が探していたクシナダヒメだった。紫の髪を逆立てて、クシナダは衣緒里に顔を近づける。衣緒里の口を自分の口で塞いで呪いの息を吐く。

「んぐっ……!」

 苦しむ衣緒里の肩を後ろから掴む晴臣。勢いをつけたせいで晴臣は後ろにひっくり返る時、足を捻った。

「痛ッ」

 クシナダは満足気に笑う。

「我が夫、スサノオをたぶらかした罰だ」

クシナダは衣緒里の髪に向かって櫛を挿す。骨董屋で見つけた鳥と柊の細工が美しい櫛である。だがそれを挿した勢いで紙細工のシラユキゲシが潰れた。

「これは呪いの櫛だ。娘は今からどんな異性にも心が動かない」

クシナダは高笑いするとすうっと目の前から消えた。

「衣緒里、しっかりしろ!」

 意識のない衣緒里を晴臣は揺さぶる。衣緒里は息をしていなかった。晴臣は迷ったが、人工呼吸を試みる。

「小僧、何をしている?」

 突然、雪矢が上空から現れた。

「氏神!」

「衣緒里がどこに行くかなんて、神力で見れば一発さ。こんなところで小僧に襲われるなんて。危ないところだった」

「氏神、それどころじゃない! 衣緒里が息をしていない」

「何?」

 雪矢は衣緒里の口元に手をかざす。息をしていないことを確かめると、呪文を呟きハッと喝を送った。衣緒里が呼吸していることを確認する。

「もう大丈夫だ。今は眠っているだけだ」

雪矢は衣緒里の髪に挿されたクシナダヒメの櫛と潰れたシラユキゲシのかんざしを見つけて複雑な表情をした。

「可愛い衣緒里。懐かしいかんざしが台無しだね」

 衣緒里を抱えると、浮かび上がる。

「ちょっと待て、氏神! ……!? 痛っ」

 晴臣は連れ去ろうとする雪矢を止めようとしたが、自分は足を挫いていることに気づいた。衣緒里を庇ったときにやったのだ。

「おいおい、小僧は足を挫いているのか。しょうがないなぁ」

 雪矢はやれやれと言って、右腕に衣緒里、左腕に晴臣の二人を抱きかかえた。

「二人とも、しっかり掴まっていろよ」

 そう言って浮き上がる。空は打ち上げ花火の色鮮やかな光が散乱し、衣緒里達を照らし出す。

「このままでは見つかってしまいそうだな」

 雪矢は神隠しで三人の姿を消し去り、瞬間移動で神社まで飛んだ。


「手当が必要だな。コン、アカ、冷やすものを持ってきてやりなさい」

「はいはーい」

 コンとアカが冷やしたタオルと氷を運んでくれた。社務所の縁に衣緒里を寝かせ、晴臣を座らせると、雪矢は丁寧に手当を施した。

「すみません、手当までして頂いて」

 晴臣が詫びる。雪矢は礼には及ばないと片手を挙げて首を振る。

「僕の氏子に怪我があってはいけないからね。無病息災。健康長寿。おまえも僕の大切な氏子の一人だ」

「衣緒里のことで俺を嫌っているんじゃないんですか?」

「それとこれとは別だな。ところで衣緒里のことなんだが。クシナダに襲われた時、何をされた?」

「魂をもらう、どんな異性も心が動かなくなると言って櫛を挿されました」

「そうか、それでは何らかの影響がありそうだ」

 雪矢は寝ている衣緒里を上から見つめた。瞼がぴくりと動いて衣緒里が目を覚ます。雪矢は衣緒里の頬に掌を添えた。

「触らないで」

衣緒里は冷たい声で拒絶する。どうやら男嫌いになってしまったらしい。一瞬だけ雪矢と晴臣に目を合わせたが、

「私、雪矢さんとも晴臣とも一緒にいたくない」

 断固として言い放つ。

「そうも言っていられないだろう?」

 雪矢は衣緒里の腕を強引に引き寄せると、その唇に唇を重ねた。衣緒里の吐く吐息を吸い尽くす勢いで口内を弄る。晴臣はギョッとして目を剥いた。

 衣緒里から呼吸を奪い尽くした雪矢は、吸ったその息を全て吐いた。紫の煙が吹き出す。雪矢はまた、ペッと地面に唾を吐いた。黒い塊がシュワシュワと溶けていく。

「呪いは解いたぞ」

呪いの櫛を衣緒里の髪から引き抜き、今度は本当のキスをしようと頬に唇を寄せる。だが衣緒里はなおも雪矢を拒絶した。雪矢は眉根を寄せて怪訝な顔をする。呪いは解けたはずなのだが、これは衣緒里自身の意思ということか? それとも呪いは解けていないのか。

雪矢は悩んだが、しばらく様子を見ることにした。

「せっかくクシナダの櫛が手に入ったというのに、まさかこんな使われ方をするとはなあ」

「どういう意味? クシナダヒメの櫛にはどんな効果があるノ?」

 アカが不思議そうに聞き返す。

「元来はね、この櫛には恋愛に効く特別な力が宿るのだよ。僕はこの櫛で衣緒里にプロポーズしようと思ったんだけどね」

「ふウん」

 さあ、もう遅い。お開きにしよう。雪矢はそう言って晴臣を自宅まで送り届け、衣緒里を神社の家の客室に寝かせた。


「ねえ、アカ」

 次の日の朝、衣緒里はアカに話しかけた。

「私ね、本当は呪いにかかっていないの」

「え!? どう言うこと?」

「呪いが解けていないフリをしていただけ。ちょっと思うところがあって」

 思うところ? とアカが聞き返す。衣緒里はアカとコンに協力してもらいたいことがあるから、コンを呼んでもいいかとお願いした。

 アカは衣緒里の意図が組めずにいたが、それでもコンを呼んでくれた。

「つまり、衣緒里はクシナダヒメを懲らしめたいんだな?」

「うん。クシナダヒメとスサノオの痴話喧嘩に私だけでなく晴臣や雪矢さんまで巻き込んで、流石に許せない」

「で、協力するのに俺達は何をすればいいんだ?」

 衣緒里はコンにはスサノオを、アカにはクシナダヒメを神社に連れてきて留めておいて欲しいと説明した。

「衣緒里は何をするノ?」

「私? それは秘密。その時になったら分かるわ。それからコンにはスサノオに頼んで欲しいことがあるの」

 衣緒里はウインクをひとつした。内緒話が終わると、アカとコンはそれぞれの仕事に取り掛かった。

「さて、と。私は着替えるかな」

 衣緒里はクシナダヒメに渡された呪いの櫛を自分の結い上げた髪の毛に挿した。呪いのことさえなければ、細かい細工が美しい工芸品のような櫛である。

「これでいいわね」

 独り言を言うと、部屋からそっと出た。リビングで天界からスサノオを連れて戻った雪矢に会ったが、何も言葉は交わさなかった。どうやらクシナダヒメと仲直りするようスサノオを説得していたらしい。

雪矢も衣緒里に声はかけなかった。無視をされたことで、衣緒里は呪いのせいで男が嫌いなのだと思い込んでいたからだ。スサノオの相手をしていたコンはこれは作戦の一貫なのだろうと見守ることに専念した。

しかし天界から連れてこられたスサノオの反応は違った。

「衣緒里! どうしたんだい? その櫛はクシナダのものだろう? 似合っているじゃないか」

 そういうと衣緒里に近づいて、ハグをしようとした。

 ちょうどその時、アカが連れてきたクシナダヒメが姿を現した。

「スサノオ! これはどういうことだ? わたくしがいながら若い人間の娘に鼻の下を伸ばして!」

「クシナダ! いや違うよ、これは……」

 スサノオが言い訳をしようとしたが、衣緒里はすかさずスサノオの首に手を回し、彼をじっと見つめた。潤んだ瞳は艶っぽく、スサノオを虜にせんと言わんばかりだ。

「スサノオ様? 私を妻にしてくださるんでしょう?」

 衣緒里はスサノオに顔を近づけた。まるでキスをするかのように。

 スサノオは予想外のことに一瞬たじろいたが、抵抗はせず、衣緒里の思うままにさせた。彼の目は美しい妙齢の娘の瞳に魅入っている。

意義を唱えたのは他でもない雪矢とクシナダヒメだ。

「衣緒里!? 君はどんな男にも靡かないのではないのか? なぜスサノオに言い寄るのだ!? 呪いは昨日解いたはずなのに」

 雪矢は衣緒里の突拍子もない行動に驚いて、衣緒里の真意に気付けない。衣緒里の心を読む余裕がない。

「わたくしがどんな殿御にも目もくれない神力をかけたはず! わたくしの夫であるスサノオに色目を使うなんて!」

クシナダヒメも怒りの感情に流されて、衣緒里の作戦に気付けないでいた。それどころか、慌てて衣緒里の行動を止めようとした。だがしかし、

「動かないで!」

 衣緒里は身体を反転させると、スサノオの首に自分の華奢な腕を回し、クシナダヒメの櫛を首の横に垂れ下がるスサノオの髪の毛に当てた。

「衣緒里!?」

 神々は同時に叫ぶ。

「クシナダさん、この呪いの櫛は挿せば異性に興味がなくなるのよね? ではスサノオの髪に通そうと思うのだけど」

そう言うと衣緒里はジリジリと櫛の歯をスサノオの髪に当てる。

「やめよ! それは許さぬ! 私は神力でお主を吹き飛ばすこともできるのだぞ!?」

「その前にこの櫛がスサノオの美しい髪を滑るのが先でしょうね」

 衣緒里はニッと笑った。勝ち誇ったように。そしてスサノオの髪に櫛をするりと挿した。

 クシナダヒメはスサノオに駆け寄って、スサノオにしがみつく。

「スサノオ! わたくしが分かるか? そなたの妻だ!」

 スサノオはじろりと妻を一瞥した。

「クシナダ?  確かに私には妻がいるが、だからと言って気安く触れないで欲しいな。下がってくれ」

 クシナダは呆然とした。自分でかけた呪いが自分に跳ね返ってしまったからだ。彼女はその場で膝を崩した。そうして後悔の言葉を口にした。

「こんなことになるなんて。わたくしが悪かったわ」

「自業自得でしょう」

 衣緒里が冷たく言い放つ。

「もうこれで浮気者のスサノオはいなくなったわ。少しは人の痛みを分かってくれたかしら?」

「もう充分だ」

 クシナダヒメは泣いた。一通り泣いた頃、彼女はふと気づいた。

「だがおかしい。衣緒里、どういうことだ? そなたは呪いにかかっているはずなのに、なぜスサノオに色目を使ったのだ? 殿御は苦手なはずでは?」

 衣緒里は可笑しそうに笑った。

「だって呪いなんかかかってないわ。雪矢さんが解いてくれたもの」

「では、スサノオの態度は一体?」

 クシナダヒメがスサノオの目を訝しげに覗く。

「ごめんごめん。クシナダが暴走しているから協力して欲しいってアオに頼まれてさ。俺はこの通り正気さ」

「わたくしを騙したのか」

 呆然としながらクシナダヒメは問うた。

「悪いとは思ったけど、今回のおまえさんはやりすぎだ」

 そう言うとスサノオはクシナダヒメの額をコツンと小突いた。

「もう懲りただろう? さあ、天界に戻ろう。世話をかけて悪かったな、タカミムスビよ」

 スサノオは仏頂面をしたクシナダヒメを抱えるようにして空に昇って行った。


「嵐が去ったな」

 雪矢が衣緒里の横に立って言った。

「結局、スサノオとクシナダヒメの痴話喧嘩に巻き込まれただけだったのね」

 衣緒里は大きなため息をひとつついた。それにしても。今回は雪矢を騙すような形になってしまった。そのことを衣緒里は申し訳なく感じた。

「ねえ、雪矢さんの欲しがっていたものって、この櫛でしょう? 今回のお詫びにあげる。呪いはもう解けているんでしょう?」

「え? ああ。しかし実はこれは僕が衣緒里に贈りたかったものなんだ」

「ええ? 私に?」

「ああ。この櫛を贈った相手と結ばれるというご利益があるんだよ。衣緒里からもらえるなんて是非もないことだが、本当は僕がプロポーズ代わりに渡したかったなぁ」

 そうは言うものの、雪矢は嬉しそうに櫛を受け取った。雪矢は綺麗な長い髪をしているから、この櫛が役に立ちそうだ。衣緒里は雪矢の艶やかな銀髪を見ながら笑った。

「それにしても衣緒里、僕は心臓が縮むかと思った。スサノオにあんな色っぽい目を向けるなんて。本当にスサノオのことが好きになったのかと勘違いしたよ」

「それじゃあお詫びに今度は雪矢さんにもやってあげるわね」

「え?」

 衣緒里は雪矢に向かって微笑むと、そのまま近所の散歩に出かけてしまった。

「どう言う意味だ……?」

 困惑する雪矢をアカとコンが嬉しそうに見上げている。

鎮守の森の木々が爽やかな緑色を濃くし始める時期。縁結びの神様に恋の予感が訪れる頃合いである。





第二章  氏神様は誘拐される


風がぐんと秋めいてきた頃、衣緒里の学校では学園祭の準備が本格化していた。衣緒里のクラスでは晴臣のクラスと合同で演劇を出し物として催すので、大道具係の衣緒里は授業が終わるとトンカチで舞台装置を組み立てる。

「衣緒里」

 俳優役の晴臣が新しい木材を運びながら、トントンと小気味よくトンカチを叩く衣緒里に話しかける。演技の練習の合間に大道具を手伝っているのだ。

「お白様、今不在なんだって?」

「雪矢さん? うん、そうなの」

 縁結び神社の主であり、この地域の氏神様である雪矢はというと、出雲大社に用事があるからと出かけている。なんでも神様が集まって縁結びの会議を開くらしい。

 しつこくアプローチしてくる粘着質な雪矢をあんなにうっとおしく思っていたのに、いざ不在となると何だかその存在が恋しいのは勝手すぎるだろうか。

「神無月だからかな」

 晴臣が木材をのこぎりで切り分けながら言った。

「神無月?」

「今の時期のことだよ。全国の神様たちが出雲大社に集結していなくなるから『神無月』って言うんだ。逆に出雲では『神在月』と言うらしい。古典で習ったろう?」

 習ったかしらと衣緒里は訝しんだが、記憶力の良いこの幼なじみの言うことは正しいのだろう。

「雪矢さんがいないなら、衣緒里はあの神社に一人で住んでいるのか?」

 女子高生の一人住まいは危なかろうと思いながら晴臣は訊ねた。

「ううん、今は実家に戻ってるの。ほんのひと月くらいのことだけど、しばらくは家族と水入らず」

 と言っても、婚約者として雪矢に衣緒里をどうぞどうぞと差し出した家族に、衣緒里は一抹の恨みを持っていた。ほんの少し。だから実家に帰っても完全には寛げない。家族と談笑していても、どこかで私は売られたのだという思いがよぎるのだ。

「ねえ、晴臣。帰りに商店街に寄って行かない? 今日はアルバイトがないし、学園祭で使うものの買い出しもしたいし」

 クシナダヒメが働いていた骨董品店はクシナダヒメが天界に帰ってしまったので、新たに店員を募集していたのだ。そこに衣緒里が応募した。

「骨董品。神社といい、衣緒里は歴史あるものに縁があるな」

 晴臣はそう言いながら、のこぎりで切り取った部品を衣緒里の横に置く。衣緒里はその木材の部品を丁寧に組み立てると小気味よく釘を打つ。

「なあ、それなら、その骨董品店にも寄ろう。衣緒里の職場を見てみたいし」

「もちろんいいわよ」

 衣緒里は快諾した。


 帰り道、骨董品店に寄り道すると、年代物の琥珀のついたループタイを首に垂らした初老の店主が嬉しそうに出迎えてくれた。

「衣緒里ちゃん、こちらは彼氏かい?」

 彼は晴臣を見て微笑む。

「あ、いえ。晴臣は幼馴染なんです」

「そうかい」

 店主はやはりニコニコしながら晴臣の方を向いた。

「なかなかの好青年だ」

 老人は晴臣に向かってそう言うと満面の笑顔を向けた。

 晴臣は愛想よく笑ったが、衣緒里の言葉に内心複雑な気持ちになった。やはりただの幼馴染なのか。だがそのことは顔に出さなかった。

「お邪魔します。こちらには流石に古いものがたくさんありますね」

 晴臣は年代物の家具を見回した。家具の他にも店内にはアクセサリーや時計、小さな絵画など小物も取り揃えられており、それらが所狭しと壁にもカウンターにも並べ立てられている。

「好きなだけ見ていっておくれ。ここには長い年月をかけて集めた物たちを置いているんだ」

 店主が嬉しそうに言う。おそらく愛情を込めてここの品を集めてきたのだろう。

「こちらにはアクセサリーも置いてあるんですね」

 晴臣はアンティークの指輪を見つめていた。衣緒里に似合いそうだ。

「ああ、女性に人気なんだよ。でも恋人への贈り物として男性が買っていくことも度々ある」

「晴臣、指輪に興味あるの?」

 衣緒里が覗き込んで聞く。

「あ、いや。えっと、今度の演劇に使えそうと思って」

 晴臣はしどろもどろになりながら、手に取っていた赤い石の指輪を元の位置に戻した。

「その指輪は『赤い情熱』という名前がつけられています。中央の赤い石からそう名付けられたのでしょう」

 店主が恭しく説明してくれる。

「必要なら小道具として買っていく? 値段が許すなら」

「あ、いや、いいよ。小道具の係が用意してくれるものとバッティングしてもいけないだろう?」

「それもそうね」

 衣緒里は訝しむこともなくあっさりと答えた。

 店内を一通り見て回ると、二人は店主にお礼を述べて店を後にした。


 自宅に帰ると衣緒里の母親が出迎えてくれた。母は衣緒里を雪矢に差し出したことを後ろめたく思っているのか、今までよりも妙に優しい。何かに付けてあれこれと世話を焼きたがる。

「おかえり。今日、昼に晴臣君のお母様に会ったわ。晴臣君、演劇で主役を張るんですってね」

「うん。学校中の女子が騒いでいるよ。晴臣、あれですごくモテるから」

「あんたは演じる側を選ばなくて良かったの? そうしたら母さん達、学園祭当日に観に行けるし、雪矢さんも衣緒里の晴れ姿を見て喜ぶんじゃないかしら」

 雪矢さんことお白様贔屓の母は、出雲に出張中で最近出会えていない彼の話題を振る。

「うーん。私は縁の下の力持ちのほうが性に合ってるし」

「そうかい」

 母は少し残念そうな顔をしたが、気を取り直してお茶を出してくれた。こういう気遣いは以前にはなかったのだ。

「ねーちゃん、あの神社でイケメンとうまくやってんのか?」

 弟の明がお菓子を頬張りながら生意気な口をきく。

「うまくも何も、お白様の口車に乗せられてこの家を追い出した当本人はあんたたちでしょ。どうにかやっていくしかないじゃない」

 衣緒里はムッとしながら明からポテチを奪う。何だよと抗議を受けたが、意に介さなかった。明のポテチを全部食べ尽くしてやると、母の淹れてくれたお茶を一気飲みする。それから部屋に戻って私服に着替え、お白様の神社に向かう準備をした。

 スクールカバンから台本を取り出しリュックに移し替えると、

「神社に行ってくる。夕飯には帰るから」

 そう言い残して、早足で出かけていった。


「悪いな」

 晴臣がお白様の神社の境内で先に待っていた。

「台詞合わせに付き合ってくれてサンキュ」

「演技の練習くらいどうってことないよ」

 衣緒里は台本を取り出してリュックを木の根元に放った。

『この身が滅びる前に、そなたに形見を残そう』

 晴臣は突然舞台の台詞を吐いた。すでに暗唱しているらしい。

「もう始めるのね」

 衣緒里は台本をペラペラとめくる。最後の方の場面のはずだ。

『滅びるなんて言わないでくださいませ、わたくしはどこまでもお供いたします』

 衣緒里は棒読みで応える。

『君を連れて行くことはできない。代わりにこの指輪を受け取ってくれないか?』

 晴臣は骨董品店で見つけた、あの赤い指輪を取り出した。

「えっ?」

 衣緒里は驚いたが「続けて」と言う晴臣に従って、おとなしく指輪を受け取った。

『そなたによく似合う』

 晴臣は衣緒里に近づくと接吻する真似をした。

「ねぇ、このシーンて本当にキスをするの?」

「いや、キスしているように見える角度で演技をする」

「ふうん。やはり学園祭でチューは問題あるものね」

「だろうなぁ」

 晴臣は衣緒里の華奢な指にはめられた赤い指輪を注視した。そしてそのまま唐突に衣緒里の手を取り、自分の方へ引くと、手の甲にそっとキスを落とす。瞳だけ伺うように見上げながら衣緒里を見つめた。

「きゃ、え、晴臣?」

 衣緒里は突然の幼なじみの行動にただ見つめ返すしかできずにいた。

二人はお互いを見つめたまま動かない。晴臣は握った衣緒里の手をまだ離そうとしなかった。

 これは演技の続きだろうかと衣緒里は台本を頭の中で巡らせる。だがそんなシーンはなかったように思うのだが……。

「晴臣」

 意を決して衣緒里が晴臣に話しかけた。

「何をしている」

 その時、怒声が頭の後ろから聞こえてきた。

 見つめあう二人が驚いて振り向くと、コンが人間で言うところの仁王立ちをして立っている。獅子の姿で力強く晴臣を睨みつけるコンの姿には迫力があった。何も言わなくても怒っていることは明白だ。

「コン」

 衣緒里はコンを認めると、逃げ道を見つけた気持ちになった。晴臣の手をそっと振り解き、コンに近づいて首に抱きつく。コンは衣緒里を抱きとめると優しい目つきに変わった。

「衣緒里。衣緒里には雪矢という婚約者がいるんだ。他の男に身体を触れさせてはいけないよ。指一本たりとも」

 頬から鼻先で衣緒里の顔をワシャワシャと撫でる。大事なものを愛おしむように。そして今度は晴臣に向かって吠えた。

「小僧、俺は雪矢からこの神社の留守を預かっている。雪矢がいないからとて衣緒里に手を出すのは許さん」

「手を出すって」

 晴臣が言いかけた時

「コン、落ち着いて。私たち、演技の練習をしていただけなの」

 衣緒里が援護した。


「つまり、お主らは学園祭の出し物の練習をしていた、と」

「そう」

「衣緒里にチューしてタというのは?」

 異変に気づいてやってきたアカも不思議そうな顔で問う。

「それも演技」

 晴臣がしれっと言う。本当は手の甲にキスする場面などないのだけれど。

「うむ、そうか。ならば致し方ない。それはそうと、それなら神社の境内ではなく社務所を使えばいい。外はほの寒いだろう、なあ、アカ」

 コンはアカに同意を求めるように話題を振った。

「そうヨ」

「俺たち、その練習とやらに付き合ってやるぜ」

「えっ」

 晴臣があからさまに嫌そうな声を出した。

「なんだ、不服なのか?」

 コンが眉根を寄せる。実は晴臣は衣緒里と二人きりになるチャンスを狙って練習に誘い出していたので、二心のある身としては面白くない提案である。

「まさか小僧、衣緒里に近づこうなんて考えてないだろうな」

「あっ、えっと」

 晴臣は衣緒里の方を見た。卑しい心を衣緒里だけには知られたくない。衣緒里は目が合うとニコッと笑って、

「そんなことないわよ。私、晴臣は幼馴染だと思っているし」

 そう言って晴臣を守ったつもりだったが、当の晴臣には心臓にグサリときた一言だったことは言うまでもない。

 晴臣は顔を真っ青にしたが、ゴホンとひとつ咳をして気を取り直す。

「わかった。お言葉に甘えてここで練習させてもらうよ。コンとアカも手伝ってくれ」

「お安い御用」

「まかせて」

 二人と二匹は社務所の角にある集会室へ移動した。


 コンとアカは演技力があった。

「だって私たち色んな人間に化けるのよ。演技なんてお茶の子サイサイだわヨ」

 アカはふふんと得意げに鼻を鳴らした。

「俺なんか、頼まれて雪矢の代わりに宮司の仕事をしているぞ。もちろん雪矢ことお白様の姿でな」

 コンはポンと雪矢の姿に化けて見せた。得意げだ。衣緒里はそんなコンの姿を目の当たりにして、十日ほど離れている本物の雪矢を思い出した。恋しい思いが込み上げる。それと同時に恋しがる自分に驚いた。

 私はお白様のことが好きなのだろうか? 衣緒里は自問自答する。

「ねえコン、その姿でいられると本当に雪矢さんがいるみたいで落ち着かないわ。元の姿に戻ってちょうだい」

 衣緒里はほとんど懇願するように頼んだ。コンは戸惑いながらもまたポンとやって元の獅子の姿に戻った。

「そろそろ夕飯の時間だわ。帰らないと」

 衣緒里は落ち着かない気持ちを変えるため、そんなことを言い出した。実際、夕飯の時間にはあと三十分ほど余裕があったのだが。

「それなら送っていくよ。俺の練習に付き合ってもらったわけだし」

 晴臣が申し出る。

「何を言う。小僧など信用ならん。俺が送って行くぞ、衣緒里」

 コンは衣緒里と晴臣を二人きりにさせまいと必死だ。

「コンはこの神社を守る使命があるでしょう?」

 衣緒里がそんなことを言うものだから仕方なくコンは折れた。

 コンとアカは神社の鳥居のところまで二人を見送った。そして二人が道の先を行って見えなくなると、本来の持ち場である入り口の両脇にでんと構え、石像に同化した。


「ねえ、晴臣?」

 二人は薄暗い夜道をゆっくりと歩く。家路に向かって。

「うん?」

「誰かに会いたくて寂しい思いをしたことってある?」

「どうしたんだ急に? ……そうだなぁ、幼い頃ならそういうことも多かったんだろうけど、例えばお袋とか親父とかがいない時とか? そういう時にそんな思いをしたんじゃないかな。覚えていないけどな」

「そっか」

「……もしかして衣緒里は雪矢さんがいなくて寂しい、とか?」

「えっ、やだ。そんなんじゃないよ」

「そうか」

 衣緒里は否定したが、晴臣は何となく衣緒里の心に察しがついた。

「そうだな、もし衣緒里がいなくなったら、俺は寂しいよ」

「急にどうしたの」

 衣緒里は意外なことを言う晴臣にクスリと笑った。

「急でもないさ。衣緒里がいなくなったら泣いちゃうかも」

「またまた」

 二人は顔を見合わせた。

「ほら、着いたぞ」

 玄関の前で晴臣は衣緒里の背を押した。

「また明日な」

「うん、それじゃ」

 手を振ると晴臣は小走りで自分の家へと向かった。


 部屋着に着替える時、衣緒里は演技で使った赤い指輪を晴臣に返し忘れたことに気づいた。後でメールしよう。ハンカチで包んだ指輪を手提げカバンにしまった。

 お風呂場の湯船に浸かりながら、衣緒里は考えた。

 晴臣は私がいなくなったら泣くと言った。冗談だろうと思ったが、実際は冗談ではないのかもしれない。なぜなら雪矢のいない毎日が日に日にきつくなってくるにつれて、泣きたいような切ない気持ちに囚われ、涙が出そうになるのだ。

 衣緒里は湯船に潜るとブクブクと泡を立ててみた。涙を誤魔化すために。誰のために誤魔化すというのか。自分のため? でも何のために?

 お風呂上がり、のぼせた頭で布団に転がり込む。本当は以前、自分の部屋があった時はベッドで寝ていたのだが、表向きとはいえ婚約をして家を出たため、自分の荷物はほとんど全て神社の家に運んでしまったのだ。だから元自分の部屋は物置とされていて、ベッドは処分されてしまっていた。今は客間で寝泊まりをしている。

「寂しいなぁ」

 雪矢さんに会いたい。こんなことを聞いたら、きっと雪矢は大喜びするだろう。衣緒里には僕が必要なんだね、と。それを愛おしいと感じた。衣緒里は泣いた。布団をかぶって静かにすすり泣いた。

 それから急に立ち上がると、夜具から着替えて外に出た。カバンひとつだけ手にして。そうしてお白様の神社に向かう。入り口にはきっとコンとアカがいるだろう。見つかったら心配されるかもしれないが、雪矢のいたお白様の神社に戻りたかったのだ。

 夜道を走ってお白様の神社に向かう。けれど予想に反して鳥居のそばにコンとアカはいなかった。こんな時間に動く獅子と狛犬に化けているのだろうか? 訝しながら本殿に向かう。そこからは誰かの低い声が聞こえてきた。男性のようだ。コンとアカの声もする。

 預けられた鍵で開けて入ると、黒髪の雪矢がいた。会いたかった相手が目の前にいる。喜びが込み上げる。

「雪矢さん?」

 だが、衣緒里は気付いた。いや、違う。この人は雪矢よりも少し背が高いし、身体付きもがっしりしている。

「どなた?」

 衣緒里はか細い声で聞いた。声は思いの外震えた。


 男は無愛想に振り向いた。外見は雪矢とそっくりだが、雪矢のような柔和さはない。代わりに切れるような冷たい眼差しを衣緒里に突き刺す。男は衣緒里を一瞥すると

「そなたが衣緒里か?」

 名乗る前に質問した。衣緒里が小さく頷く。

「私はアメノミナカヌシ。タカミムスビの兄だ」

 そう自己紹介を付け加えた。

「アメノ…ミ…? 雪矢さんのお兄さん?」

 衣緒里が名前を覚えきれずにいると

「別称では玄矢と呼ばれている。玄矢でよい」

「玄矢さん」

 失礼だとは思ったが、衣緒里は玄矢をジロジロと観察した。顔は雪矢そのものである。雪矢より少し高い身長と艶のある黒髪、がっしりとした体躯を除けば、雪矢と言ってよい。

「それで、なぜ玄矢さんがここに? 雪矢さんは今、出雲に行っていていないんですよ」

「ああ、分かっている。だが雪矢は今、出雲にはいない。拐われたんだ」

「拐われた?!」

 衣緒里が素っ頓狂な声を出した。アカが心配そうな顔つきで衣緒里を見上げる。

「ワタシたちもそれを聞いて心配しているのよ。雪矢の行方がわからないって」

「誰に拐われたんですか?」

 衣緒里はむしろ冷静だった。雪矢さんが拐われたって? あの人がおいそれと拐われるような神様ではない。きっと何か事情があるのではないか。

「おそらく拐ったのは一番下の弟のカミムスビだ。紅矢と呼ばれている」

「紅矢さんはなぜ兄である雪矢さんを拐う必要があるんですか?」

「さて、そこまでは私にも何とも」

 玄矢は困ったような表情をした。眉根が寄る。そんな悩まし気な顔さえ美しいのは雪矢と同じだ。

「私、雪矢さんを助けに行きます。アカ、アカは私に化けて学校に通ってほしい。お願い」

「それくらいお安い御用だけど、衣緒里一人で行かせられないワよ。コンを連れて行ったら?」

「コンはこの神社の留守を守らないといけないでしょう?」

「それはそうだが……」

 コンは煩悶している。衣緒里に付いて行きたいが、神社も守らねばならない。

「コン、神社はワタシが守るワよ。学校に行っている間は難しいけれど、できる範囲でここの仕事をこなすワ」

「アカ。……分かった。では頼むよ」

 コンは衣緒里に付いていくことに決めた。

「衣緒里よ。天界に行くのならば雪矢に縁の深い品物を持ってくるが良い。雪矢にもらったもの、あげたもの、何でも良い。それが道しるべとなろう」

「探してきます」

 衣緒里は本殿に供えられていたクシナダヒメの櫛を掴んだ。

「用意はできたか? 行くぞ」

 玄矢の元に戻ると、獅子姿のコンの背に乗って一緒に天界へ昇った。 

「雪矢に縁の深い品をこちらへ。神力をかけて雪矢の居場所を探ろう」

 衣緒里は櫛を玄矢に手渡した。

 玄矢は何やら魔法のような呪文を櫛に向かって唱えた。すると櫛に宿った光が天界の方向を示した。

「やはり雪矢は天界に連れ去られたようだな」

「紅矢さんも一緒なんでしょうか」

 心配そうに衣緒里が聞く。

「ああ、おそらく。急ごうか」


 二人と一匹は無言のまま空の上のそのまた上を目指す。長い沈黙の後、玄矢が口火を切った。

「それにしても、雪矢は物好きなものだ」

 宙を舞いながら玄矢は衣緒里に声をかけてきた。

「物好き?」

「いくらニエとして差し出されたからとはいえ、我々神からしたらそなた達の時間感覚で言うところのほんの数年、四、五年しか生きぬ娘に執着するとはな」

 衣緒里は何も言えなくなった。

「そんな娘を妻にしてどうするというのだ。衣緒里。そなたは寿命を生きるだろう。だがその一生が我々の一瞬であることをどう思う?」

「どうと聞かれても………雪矢さんがそれを承知なら」

「承知だろうとも。だが私は心配なのだ。一瞬で亡くなる妻を娶ることに。おそらく紅矢も同じ思いだろう。我々は絆の深い兄弟なのでな」

「私の命が神様にとって短いことが、雪矢さんが拐われたことと何か関係があるのですか?」

「さぁてな」

 玄矢は大きく息を吐いた。コンは二人の会話をヒヤヒヤしながら聞いていた。今まで誰も口に出さなかったことを玄矢が指摘したことで、雪矢と衣緒里の関係に影響が出てしまうのではないかと危惧していた。

「ああ、着いたぞ。紅矢の、カミムスビの離宮だ」

 そこは和風というよりは洋風に近い建物で、周りの庭園もイングリッシュガーデンの装いをしていた。女性が好みそうな景観である。

「紅矢! 私だ。玄矢だ。お主に用があって参った」

 すると洋館の扉が開き、真っ赤な髪をした美しい女性が現れた。いや、女性に見えた。

 華奢な体つきに雪矢より少し低めの身長、そして雪矢そっくりの美しい顔立ち。女性と見間違える程、繊細な美しさを纏ったその神様は雪矢の弟のカミムスビであった。

「俺様に何の用だ?」

 だが紅矢の口の聞き方は男性のそのものだった。

「雪矢を探しにきた。主が隠しておろう? 雪矢の縁の品がここを示しておる」 

 紅矢は櫛を一瞥すると

「ちえっ。兄さんは仕事が早い。そうさ俺だよ、犯人は」

「雪矢さんに会わせてください」

 衣緒里は紅矢の目をまっすぐに見て言った。

「あんたが衣緒里? 未だに兄さんと結婚したことを認めていないんだろう? 会ってどうするのさ」

 衣緒里はグッと言葉を飲んだ。

「……確かに結婚のことについては私に考える余地を頂いている最中です。でもそれとは別に雪矢さんは私にとって大切な存在です。会わせてください」

「……だってよ、兄貴」

 紅矢が後ろを振り向くと、おずおずと顔を出したのは雪矢だった。

「雪矢さん! 会いたかった」

 衣緒里は雪矢に向かって走り、抱きついた。

「衣緒里。僕に会いたかったって?」

 雪矢は満面の笑みで抱き留める。ぎゅうぎゅうと衣緒里を抱きしめ、頬にキスの嵐をお見舞いする。コンも嬉しそうに二人の再会を見つめている。

「雪矢さん、紅矢さんに誘拐されたって本当? 結構あっさり見つかっちゃって」

「誘拐したのは本当さ。そしてその誘拐はまだ終わってないんだ、衣緒里」

「え?」

 紅矢の言葉が終わらぬうちに、紅矢は神力を発動する。止めようとしたコンが吹き飛ばされてしまった。

「コン!」

 衣緒里が駆け寄ろうとしたが、無駄だった。雪矢と衣緒里は紅矢の神力で作られた薔薇の檻に閉じ込められてしまった。

「紅矢さん、どういうつもりですか?」

「どうもこうもないさ。おまえ達の関係がちっとも進展しないんでね。こちらが手助けしたまで。おまえらは結ばれるまでその檻から出られないから覚悟しな」

 紅矢は楽しそうにクツクツと笑っている。いたずらっ子のようだ。

「えっ、玄矢さん! 助けてください!」

「すまんな。実は私もグルなのだ。衣緒里、そなたは一瞬の命しか持たぬのに、雪矢への気持ちを悠長に引き延ばしておる。そんな時間はないことに早く気付いてほしい」

 衣緒里は懇願の顔で雪矢を見た。

「雪矢さん……」

「衣緒里。仕方がない。これから二人の時間をたんと楽しもうねえ」

 ニコリと微笑むその顔は優美で神秘的、天上のものそのものだ。雪矢は嬉しそうに衣緒里を抱きしめうなじにキスを落とす。ニヤケが止まらない。

 衣緒里は気付いた。雪矢もグルであることは明白であった。


***


 話は十日ほど前に遡る。

「やぁ、雪矢。娶った人間の妻とはどうなんだい? よろしくやっているかい」

 真っ赤な長い髪をポニーテルにして酒を飲む男が、下卑た笑いを浮かべて雪矢を揶揄う。その言葉遣いに似合わず、彼の顔は雪矢とそっくりで耽美な造りをしているが、身体付きは華奢である。女性のようにしなやかに動く指先で酒の肴をつまむ。

「紅矢。かわいい弟よ。もちろん順調だよ。衣緒里は僕のことが大好きさ」

 雪矢は酒をちびりとやりながら惚気話をしようとした。多少の誇大表現はあるかもしれないが、酒の席だ、許されよう。

「雪矢よ、嘘をついてもすぐにバレるぞ」 

「玄矢兄さん」

 長い黒髪のがっしりとした体躯の男がピシャリと言い放つ。この男の顔も雪矢そっくりである。


 ここは出雲。紅矢ことカミムスビと、雪矢ことタカミムスビ、それから玄矢ことアメノミナカヌシは一年に一度の大会議のために出張に来ている。人間の運命や縁結びを全国の神が集まって決めるのである。

 今は宴会の最中で、神々は酒を浴びるほど飲んで出き上がっている。あちらこちらでどんちゃん騒ぎである。

 そんな中、三兄弟は雪矢の恋の行方を肴に席を同じくした。

「衣緒里はねぇ、僕を好きではないと言ったかと思えば、僕の抱擁を拒否しなかったり、幼馴染の男と出かけたかと思えば、昔、僕のやったシラユキゲシのかんざしをつけていたり。僕を翻弄してやまないんだ。そういうところがまた可愛くてだな……」

「つまり真正面から好かれてはいないということではあるまいか? それとも衣緒里は幼馴染の男が好きなのか?」

 紅矢は雪矢が気にしている核心を突いてくる。

「そんなことはないぞ。衣緒里は僕の熱い接吻を拒まないし、最近は抱きついても文句を言わなくなったしな」

「雪矢、それはどれもおまえからのアプローチじゃないか。衣緒里から何かされたことはないのか? それにおまえのアプローチは今の御時世、セクハラって言われるぞ」

 玄矢が痛いところをつつく。

「なぁ、雪矢兄、衣緒里と夫婦になったとは名ばかりで、本当は何にも進展してないんだろう?」

 紅矢も雪矢の色恋事情に薄々気付いたようだ。

「今回の会議で人間の娘と結ばれるよう嘆願してやろうか? 神として」

 紅矢の言葉を受けて玄矢は憐れむような目で雪矢を見た。雪矢は紅矢をキッと睨みつける。

「いやいや、縁結びの神が自分の縁も結べないなんて名折れもいいところだ。自分で何とかする」

「そうは言っても雪矢よ、人間の寿命はせいぜい百年。我々にとっては一瞬だぞ。添い遂げようと思っている間に相手が死んだらどうするのだ」

 身も蓋もないことを言われた。玄矢の言葉に雪矢はウッと小さく息を吐いた。

「悪いことは言わない、我々兄弟に任せてよ」

 紅矢は何やら悪巧みを思いついた顔つきでニヤニヤし始めた。

「衣緒里を天界に誘き出して、雪矢と二人きりの空間に閉じ込めよう」

「え、どうやって?」

 雪矢はいたずらを考えついた子供のような顔をする紅矢の目をまじまじと見つめる。

「拐かしは好かないが、雪矢の未来のためだ。ここは一肌脱ごう」 

 聞き役に徹していた玄矢が酒をぐびっとやりながら雪矢の背中をポンと叩いた。

 三柱の神々は丸くなって集まり、縁結びの謀略を図り始めた。


「……と、そういう訳なんだ」

 雪矢はニコニコしながら経緯を説明した。衣緒里と二人きりになれて上機嫌なのである。

「どういう訳よ! 納得できる訳ないでしょう!!」

 衣緒里が薔薇の檻の中で叫ぶ。投げる物があったら飛んできそうな勢いである。

「神様のコンプラ意識ってどうなっているの!?」

「衣緒里、神の世界に法は通じない。よって法令遵守なぞも存在しないのだよ」

「そんなの昨今、流行らないわよ!」

 衣緒里はそれでも神様に向かって噛みついた。

「おおーい、人間の娘」

 紅矢が檻の外から声をかける。面白い動物を見つけたような興味深げな目つきで衣緒里を観察している。

「この檻は閉じ込められた二人が結ばれないと解放されない仕組みになっている。怒っている暇なぞないぞ」

 ケタケタと笑う紅矢も何やら嬉しそうである。兄の恋路に一役買って出られるのが余程誇らしいのか、ホクホクの笑顔だ。

「お邪魔しちゃ悪いから俺はもう行くけど、雪矢兄、うまくやれよ」

 そう言うとさっさと去ってしまった。

 衣緒里と雪矢の間にしばらく沈黙が続いた。

「お白様、まさかこんなところで私を襲ったりしないわよね?」

 衣緒里が念を押す。貞操の危機であるからだ。

「二人が結ばれないと出られないんだよ、衣緒里」

 慰めるかのように雪矢が甘く囁く。そうしてジリジリと距離を詰めてくる。焦った衣緒里もジリジリと後退りをする。

 話しは平行線を辿った。再び沈黙が流れた。

 いきなり雪矢が衣緒里の前髪に触れる。衣緒里はビクッとして顔を上げた。身体が反射的に雪矢を遠巻きにする。

「衣緒里、逃げずとも良い。何もしない。……会うのは十日ぶりだな」

 唐突な話題を雪矢が口にした。 

 衣緒里は雪矢の何もしないという言葉を信じて良いのか逡巡したが、信じることにしてため息を漏らす。ほっとしたのだ。

「……そうですね」

「ここのところずっと学園祭の準備をしていたのであろう?」

「はい」

「僕がいなくて寂しくなかったかい」

 雪矢は微笑んでいる。いつもの優しいお白様だ。寂しくなんかない。一瞬、そう言ってやろうと思った。けれど。

「寂しかったですよ」

 けれど衣緒里は正直だった。

「……甘酸っぱいな」

 雪矢は目を細めてそんな感想を述べた。

「衣緒里がこんなに正直だと、僕は切ない気持ちになる」

 泣き笑いの表情の雪矢に衣緒里の心の警戒が解けていく。今の雪矢さんは何だか可愛らしい。

「おいで」

 胡座を描いた体勢で膝をポンと叩くと、雪矢は優しく衣緒里を誘った。

「僕も寂しかったよ、衣緒里。ハグをしよう」

 衣緒里は素直に雪矢の膝の上に乗る。背中から雪矢の腕が回ってくる。強く抱きしめられた。覆い被さるようにして、雪矢は衣緒里のうなじにやわらかく唇を付けた。

「ね、衣緒里」

「うん?」

「身体を重ねなくても二人が結ばれる方法があるんだ。試してもいいかい?」

「どんな?」

「僕の気持ちは固まっているだろう? だからあとは君の気持ちだけだ。君から僕の頬にキスをしてくれればこの檻から出られる。もちろん、愛を込めてね。偽りの接吻では檻は開かない」

 衣緒里はしばらく黙り込んだ。黙って自分の気持ちと向き合った。雪矢と離れ離れになって泣くほど寂しかったのは本当だ。会いたかったのも。会えた今、抱きしめられて愛おしい衝動に駆られていることも。

衣緒里は決心した。雪矢の顔に自分の顔を寄せる。それからそっと顔を傾け、目を瞑ってその唇に自分の唇で軽く触れた。

 雪矢は驚いていた。目を丸く見開いて衣緒里を見つめる。喜びよりも驚きの方が大きかった。だがすぐに気を取り直し、衣緒里を抱き寄せ、長くて深い接吻を与えた。

 薔薇の檻は天井から崩れた。外には笑顔の玄矢と紅矢が立っている。コンは嬉しそうな顔をして衣緒里を見上げる。雪矢に抱かれた衣緒里は不思議な気持ちで彼らを見つめた。


「衣緒里。せっかく天界に来たんだ。シラユキゲシを見に行こう」

 雪矢は衣緒里の手を引いてシラユキゲシの花畑に連れてきた。玄矢と紅矢、コンも一緒だ。相変わらずシラユキゲシはその真っ白な花弁を風に揺らして、天上の彼方で静かに生息していた。

「衣緒里」

 雪矢はしばらく花畑を見つめてから衣緒里に向き直った。

「渡したいものがあるんだ。本物のシラユキゲシを手折ることはできないから、代わりにこれを」

 衣緒里の前で跪く。雪矢は白い花飾りの付いた銀細工のかんざしを差し出す。その花飾りは、昔、お白様に貰った紙細工のシラユキゲシに似ていた。

「君の好きなシラユキゲシを象った。古い物は壊れてしまっただろう? これを君に贈りたい。」

 雪矢は衣緒里を見つめた。衣緒里も目を逸らさずに見つめ返す。 

「僕は君を愛している。大好きだよ。いつか天界だけでなく地上でも本物の夫婦として君と生きていきたい」

そう言って、衣緒里の耳の横にかんざしを挿す。そうしてかんざしを挿したあたりの髪にそっと口吻を落とした。

「返事は急がない。良い応えを期待しているよ」

雪矢は微笑んでみせた。


「さぁてと、ひと段落したし、そろそろ出雲に戻ろうか」

 紅矢が頭を掻きながら雪矢と玄矢に呼びかける。

 実は神様たち、出雲の大会議である神議(かみはか)りを抜け出してきていたのだ。一年に一度の大会議。議長であるオオクニヌシに見つかったら大目玉を食らうだろう。

「えっ? 会議はもう終わっている頃じゃないんですか?」

 素っ頓狂な声を上げたのは衣緒里である。

「どうしてそう思うのだ?」

 玄矢が訝しげに問う。

 衣緒里は晴臣から出雲の神在月について聞かされていた。

 いわく、およそ一週間、会議が開かれること。

 いわく、会議の前と後には神様の送迎のため、神社でお祭りがあること。

「でもおかしいんです。雪矢さんはひと月の出張だなんで言っていたし」

 ぎくりとしたのは他でもない雪矢だ。

「雪矢さんが出かけたのは十日程前で。そろそろ会議が終わってもいい頃でしょう?」

 衣緒里からのキスに悦びに浸っていたのも束の間、雪矢は早速尻に敷かれ始める気配を感じた。

「い、衣緒里。神様にも付き合いというのがあってだね」

 しどろもどろに言い訳を募る。

「ほら、人間にもあるだろう? 出張前や後に休みを取って遊びに出かけること」

 見る見るうちに衣緒里の顔色が変わっていく。

「まさかコンに神社の仕事を押し付けて、フラフラ遊ぶつもりだったって言うんじゃないでしょうね!?」

 怒号は天界の山の向こうまでこだました。衣緒里の勢いに皆が気押された。普段は冷静な玄矢も呆気に取られて口をぽかんと開けている。

「衣緒里、俺ならいいんだ。雪矢の代わりも悪くないし」

 コンが雪矢のフォローにあたる。

「衣緒里、落ち着いて。遊び歩いてる訳じゃないんだ。俺ら兄弟、年に一度久しぶりに会うから逢瀬を楽しんでいただけなんだよ」

 紅矢も後押しをする。酒をべらぼうに飲み交わしながら、他でもない衣緒里について下卑た噂話をしていたとは絶対に隠さねばならない。

 衣緒里はじとりとした目つきを三兄弟に向けたが、コンの言葉を立てることにした。

「……まぁ、コンがいいなら別にいいけれど」

 雪矢はほっと胸を撫で下ろした。本当はシラユキゲシのかんざしを発注しに、天界一の職人のところを訪ねていたことは、もう少しあとで明かそう。そんなことを考えながら。


 衣緒里を連れて出雲に戻ると、ちょうど神議りの最中で出雲のお社の中は白熱していた。やれ誰と誰をくっつけろ、誰と誰は相性が悪いからやめろだの、神様同士が議論している。

「人間の私が参加して良いものなの?」

 社の外で衣緒里が不安そうに聞く。

「大丈夫。君は僕の妻だから」

 そう言って雪矢は衣緒里を社の中へと引っ張った。

「おや、三兄弟。しばらく見なかったがどこに行っていたのだ?」

 会場を眺めていた議長のオオクニヌシが、組んでいた二の腕を解く。雪矢たちを見つけて心配そうに聞いた。

「あ、ちょっとお腹を下したので厠へ。兄たちは付き添いです」

 紅矢がヘラヘラしながらお腹を抑える。

 神に厠へ行く習慣なぞあったろうかとオオクニヌシは一瞬思ったが、度重なる議論で頭が混乱していたのでそれ以上は追及しなかった。

「我々も会議に戻ろう」

 雪矢は空いている座布団の席を見つけると、そこに衣緒里を呼んで一緒に座った。

 玄矢と紅矢もそれぞれの持ち場へ散った。

 

 議案の諮り方はアナログ方式だった。神々は各々の地元の男女のお見合い写真を持参している。それを床いっぱいに広げてくっつけたい相手を探すのだ。地元同士でも良し、遠方でも良し、相性の良いカップルを探すのである。

 面白いのはくっつけるのは恋愛の相手だけとは限らないことだった。家族となるべき相手や学校の友達、職場の同僚などもどんどん見繕っていく。いわゆる「ご縁」というものの正体が、この会議なのだ。

 「ご縁」の結び方は簡単である。写真と写真を背中合わせにしてくっつける。宙に浮かせて二枚の写真が剥がれなければご縁があるし、写真が離れてしまえばご縁がない。それだけだ。

 雪矢もたくさんのお見合い写真を持参していた。その中から一枚を取り出すと、

「どれ、僕がまず始末、いや、ご縁を与えたい男がいるんだが、良い相手はないものか」

 そう言って、他でもない晴臣の写真を取り出した。

「ちょっと雪矢さん、それ晴臣じゃない」

 しーっと、雪矢は人差し指を衣緒里の可愛い唇に当てて制した。

「この娘さんなんかいいんじゃないかい」

 目の前に座っている神が埋まっていた写真を引っ張り出す。

「いや、うちの氏子はなかなかの器量良しでな」

 左隣の席の神もお気に入りの一枚を推す。

「どの娘も良さそうですね」

 雪矢はほくほくしながら、それでも至極真剣に晴臣の相手を探した。衣緒里に懸想する小癪な小僧を、今こそ処分してやる、そんな気持ちで。

 そもそも、一昔前、この二人に幼馴染の縁を結んだのが間違いであった。雪矢は回想する。衣緒里がまだ幼子の頃、友人に良いだろうと、ここ出雲で晴臣との縁を結んだ。二人は共にすくすくと成長し、良き友人として育った。だが小僧の方が衣緒里に懸想をし始めた。そんな間違いは早急に正さなければならない。

「この子と相性がいいんじゃないか?」

 右隣の神が一枚の写真を指す。それはなぜか紛れ込んでいた衣緒里の写真だった。

「幼馴染のようだし、相性も良い。何よりこの男が娘を好いておる」

 朗らかになんの悪気もなく勧めるこの神を、雪矢は憎々しげに睨む。

「ダメだダメ。この娘はダメだ! 絶対にダメ。まったく、どこから写真が紛れ込んだんだ。氏神としてこの男は娘に合わない!」

 衣緒里の写真をひったくる。私情を存分に挟みながらも断固として譲らない雪矢に、右隣の神はムッとしたのか、ムキになって衣緒里を推した。

「いやいや。この娘とは絶対に相性が良い! 一度、写真をくっつけてみようじゃないか」

 そう言って、衣緒里の写真を強引に奪い、晴臣の写真とくっつけてしまった。

 どうせ剥がれ落ちるに決まっている。

 雪矢は楽観していた。人間界でこそ婚約者の身分だが、衣緒里は自分の正式な妻なのだから。

 しかし予想に反して写真は剥がれなかった。雪矢以上に驚いたのは衣緒里だった。

 「どうして!?」

 それに答えたのは左隣の神だった。

「おや、この二人は贈呈の儀を済ませておるようだ」

「贈呈の議!?」

「贈呈の議だと!?」

 衣緒里と雪矢が同時に叫ぶ。

「ふむふむ。最近男が指輪を娘に贈っておるな」

 左隣の神はほっほっと笑って顎鬚を撫でた。

「衣緒里、どういうことだ?」

 雪矢が衣緒里の両肩を掴んで迫る。

「どういうことって、どういう意味?」

 衣緒里は困惑しながら聞き返す。

「贈呈の議は好いた者に神の贈り物をする儀式のことだ。その贈り物を受け取るとご縁が結ばれる。何か小僧からもらったのか?」

 雪矢は忌々しげに回想する。年頃になってからの二人を見張ってはいたが、そんな特別な物のやり取りはなかったはずだ。あいつ、いつの間に衣緒里にプレゼントなんかしたんだ?それも神議りでご縁が結ばれるほど強力な神の贈り物を。

 あまりの迫力と強く絡む指から逃れようと、衣緒里はのけぞった。よろめいたせいで、座布団の後ろに置いておいたカバンに身体ごと乗りかかった。

 その時、何かが転がり出てきた。

 ハンカチに包まれた、赤い石の付いた美しい指輪がきらりと覗いた。





第三章  幼馴染は告白する


「おやまぁ、『赤い情熱』ではありませんか」

 正面に座っている神が珍しげにしげしげと指輪を見つめる。

「赤い情熱?」

 雪矢は指輪を拾い上げると、輪の部分を親指と人差指で挟んで持ち、くるくると回したり、灯りに透かしたりして石を観察した。そうして最後には深いため息を吐く。

これは。

 これは縁結びの女神、ククリヒメの指輪ではないのか。そんなものがなぜ衣緒里のもとに? 雪矢の表情がどんどん険しくなっていくのが衣緒里には分かった。

「雪矢さん、この指輪がどうかしたの?」

 雪矢は指輪を自分の懐に仕舞い込んだ。

「衣緒里、これをいつどこで受け取ったんだ? どうして好きでもないやつの贈り物なんか受け取るんだ?」

 雪矢の心は早くも嫉妬に支配され始めている。

「ちょ、ちょっと待って。これは贈り物なんかじゃないわ」

 衣緒里は状況が飲み込めないながらも反論する。

「どういうことだ?」

「学園祭の芝居の小道具よ。演劇の練習で使っていたのを返し忘れただけなの」

 どんなシーンだったんだと更に詰問すると、

「形見にこの指輪を贈るのよ。結婚式みたいに指にはめてもらうの。だから私への贈り物なんかじゃないわ」

 衣緒里は身の潔白を主張するように必死に説明した。

 してやられた、と雪矢は思った。小僧がこの指輪の効力を知ってか知らずかは分からない。だが縁結びの女神の意志を持つ指輪を贈る時の、形式的な条件は満たしていた。つまり、心の中で愛を唱えながら愛しい女の指に指輪を付けてやるのである。

「気に食わないな」

 そこにいない晴臣を刺さんばかりの勢いで、雪矢は言い放つ。

「衣緒里、これは小道具なんかじゃない。『情熱の赤』は縁結びの女神の意志を持つ石だ」

「女神の意思を持つ石?」

 何よそれと疑問を呈する衣緒里をよそに、困ったことになった、と雪矢はひとり考える。神議りで晴臣と衣緒里のご縁が結ばれた以上、人間界で二人の距離が縮まるのは必至である。衣緒里と晴臣は程なく良い関係を結び始めるだろう。雪矢の意に反して。

 このままでは衣緒里は天界では雪矢と、人間界では晴臣と結ばれることになる。さながら二重婚の体を成すことになってしまうのだ。

 そして問題なのは、神々の世界では重婚が許されていることだ。雪矢がいくらこの構図を問題視したとて、どの神もよくあることと捨て置くだろう。

 そんなのは許し難い。それではいけないのだ。衣緒里は雪矢だけの妻でなければ。衣緒里にとって雪矢が唯一無二の伴侶でなければ。つい昨日、手に入れたとばかり思った衣緒里を、雪矢は絶対に他の男に渡したくなかった。

「コン、コンはいるか?」

「はい、ここに」

 コンは社の外で忍耐強く待機していた。神議りが終わるまで雪矢と衣緒里を護衛するつもりで。

「コン、僕の代わりにここに居残って会議を続けておくれ」

「えっ!? 神獣である俺が決めていいことなのか!?」

「よい。おまえに委任する。ご縁なぞ誰が決めても同じこと」

「ええ〜」

 流石にそりゃないっすよ〜とコンは渋ったが、緊急事態だからと雪矢に説得されて、嫌々ながらも引き受けることにした。

「僕と衣緒里は人間界に戻る。戻ってこの歪なご縁の関係を正さなくては」

 もちろん、雪矢と衣緒里の正しいそれに。雪矢は衣緒里を携えて急いで地元に戻った。

 

衣緒里を自宅へ送り届けると、雪矢は晴臣の帰り道を待ち伏せした。

 芝居の稽古があるせいか、いつもより遅い帰宅の晴臣は、晩秋の夕方の真っ暗な道を向こうからひとり歩いてくる。

「おい、小僧」

 雪矢は憎らしい思いを隠して、できるだけ冷静を装って声をかけた。

「顔を貸せ」

 だが物言いは物騒になった。

「お白様?」

 もう帰ってきたんですか、ひと月は出張中と聞いていたけど、などと晴臣は口ごもりながら、仁王立ちに腕を組む雪矢の前で立ち止まる。

「どうしたんですか、こんな時間に。学校の衣緒里はアカに成り代わっているし、二人とも一体何をしていたんですか?」

 晴臣はこの二日間の衣緒里の不在と雪矢の行動を問いただす。

「衣緒里は今、彼女の実家にいる。何も心配するな。私は出張を抜けてきた。おまえに用があってな」

 俺に? と晴臣は怪訝そうに雪矢を見つめる。

「何の用だと言うんですか。もし衣緒里のことだと言うのなら、俺は諦めるつもりはありませんよ。いくら相手が神様でも」

 氏神に向かって畏敬の念も何もないな、と雪矢は思ったが、今の晴臣にとって自分はただの男なのであろうと考え直した。雪矢にとって晴臣が氏子ではなく、やはり一人の男であるように。

「おまえに返す物があるんだ」

 雪矢はククリヒメの指輪を晴臣に向かって放り投げる。

「これは……」

 衣緒里の指にはめてやった指輪。なぜ雪矢から返却されねばならないのか。

「芝居の大事な小道具なのであろう?」

 雪矢はわざとそう言った。晴臣から衣緒里への愛の贈り物であることを知りながら。

 晴臣はしばらく雪矢を冷たい視線で見つめたが、考え込んだ末、指輪を衣緒里に再び返すことを諦めた。衣緒里には芝居の練習の一環で渡した。まさか贈り物だとは伝わっていないだろう。

「……そうですね、芝居の小道具です」

「そうだろうとも」

「今回は、この指輪を衣緒里に渡すことは諦めます。でも」

「でも?」

「いつか必ず本当の意味を明かして渡します」

 晴臣は決心すると、そのまま何も言わず、雪矢の横をすり抜けて闇の彼方へ走り去った。


「雪矢さん!」

 自宅にいるはずの衣緒里が雪矢を見つけて声をかけてきた。

「衣緒里。遅くに一人で出歩いて、危ないじゃないか」

 雪矢は駆け寄ってきた衣緒里を抱き止めると、家族は? と聞いた。

「雪矢さんの家に戻るって出てきたの。寂しかったし」

 寂しかったしーー。雪矢は胸が締め付けられる思いがした。可愛い可愛い衣緒里。このまま全てを奪ってしまおうか。

 雪矢さん? と聞くやわらかい声が、黙り込んでしまった雪矢の意識を戻す。雪矢は衣緒里を抱えると、ふわりと浮いて神社に向かった。

「秋口とはいえ、寒いだろう? 僕の家で暖まろう」

 雪矢に抱えられて神社の家の前に戻る。玄関の扉を開こうと階段を駆け上がったその時、

「久しぶり、タカミムスビ。あなたの未来の伴侶のお出ましよ」

 女性の声が雪矢を呼んだ。縁結びの女神、ククリヒメだった。ナイスバディの女神様は上空から地上に降り立った。

「神議りはどうしたのだ」

「そちらこそ。私は神議りより大切な縁結びの仕事が入ったから、抜け出してきたのよ。私の指輪を贈られたのはその小娘かしら?」

 衣緒里を値踏みするように上から下まで眺める女神様。

「贈られていない。あれは手違いだ」

 雪矢が即座に否定する。

「手違い? 確か形式は間違っていなかったはずよ」

 ククリヒメは衣緒里を眺めながらフーンと鼻を鳴らす。

 天界で会った時はただの小娘だと軽んじていたが、目を見開いてククリヒメをじっと見つめる衣緒里は小動物のようだ。可愛らしい娘だと、ククリヒメは衣緒里を気に入った。いい仕事ができそうだ。

「衣緒里は僕の妻だ。他の男と結ばれるはずがない」

 結ばれることがあってはいけないのだ。雪矢は主張するけれど、ククリヒメは頭を横に振った。

「タカミムスビ、その娘の地上でのお相手はあなたではないはずよ」

「いや、この地上でも僕は衣緒里の婚約者だし、いずれ伴侶となる」

 雪矢は断言した。必ずそうすると心の中でも誓う。

「そういう訳にはいかないわ。あなたの伴侶は私と決まっているし。それに私の指輪が贈られたのよ。正しい相手と結ばれないと。ね、お嬢さん」

 ククリヒメは目を細め、美しい微笑みを衣緒里に向けて投げた。それから衣緒里にそっと近づくと、白い手で衣緒里の柔らかい頬を撫で、そこに神の祝福のキスを与えた。それは他でもない、晴臣とのご縁の祝福だった。


***


 ククリヒメが訪ねてきてからというもの、雪矢は荒れていた。

 ククリヒメは何かに付けて衣緒里と晴臣をくっつけようと画策したからである。その度に雪矢はギリギリのところで駆けつけ、いい雰囲気になった二人に割って入って邪魔をした。


 激しい通り雨が突然降った帰り道、連れ添って歩いていた衣緒里と晴臣は、商店街の裏に並ぶシャッターの軒先に駆け込んだ。

 この雨はククリヒメが雨の神に頼んで降らせたものだった。

「衣緒里、もっとこっちに寄って。そこじゃ濡れてしまうだろ。風邪を引くぞ」

 晴臣は右肩を濡らしている衣緒里の腕を引いて、自分の方へ引き寄せた。肩と肩が充分に触れ合うくらいの距離まで。

「これ、使いなよ」

 フェイスタオルを取り出して衣緒里に手渡す。

「ありがと」

 お礼を述べると、有り難くタオルを濡れた肩に滑らした。

「髪もびしょびしょだ」

 晴臣はそう言うと、衣緒里からタオルを奪い、衣緒里の頭頂に当ててわしゃわしゃとかき混ぜた。

 きゃ、と衣緒里が小さく驚きの声を出す。けれど晴臣のされるがまま、髪の毛を拭いてもらった。

「晴臣も髪の毛、濡れてるじゃない」

 今度は衣緒里が晴臣の頭を撫でつけた。

 髪を拭いながら、背伸びをして上目遣いで自分を見上げる幼馴染を晴臣は眩しく感じた。一生懸命に手を動かす衣緒里を見下ろしながら、指先で軽くその頬を撫でる。

「何?」

 と無邪気に聞く幼馴染の頬をつねり、晴臣は舌をべえと出した。

「おもちがここに」

 などと冗談を飛ばす。何よもうと、衣緒里も晴臣をつねろうとしたところで、雪矢が血相を変えて飛んできた。

「何をしている!?」

 ゼイゼイと口で呼吸をしながら、衣緒里を晴臣から奪い返す。

「濡れているなら僕が乾かしてやる」

 神力であっという間に湿った衣緒里を乾燥させる。

「さあ衣緒里、早く帰ろうね。悪い虫と一緒にいてはいけないよ」

 そう言って雪矢は神社までひとっ飛びした。ぽかんと口を開けたまま空を見上げる晴臣を一人取り残して。


 またある時は、学園祭の準備中の二人を邪魔した。

 衣緒里が大道具を組み立てていると、振動で脇に立てかけてあった木材が衣緒里めがけて倒れてきた。これも実はククリヒメが神力をチョチョイと使って動かした。晴臣が側にいることを見越して。たまたま通りかかった晴臣がとっさに助けに入り、衣緒里と木材の間に滑り込んで庇った。

「ありがとう晴臣。助かったわ」

「いいんだ。怪我はないか?」

 そう問う晴臣の腕は、木材のささくれで擦れたせいか、赤い血が滲んでいた。

「大変」

 衣緒里が救急箱を持ち出して手当する。

「演劇の主役の体に傷を付けてしまったわね」

「どうってことないよ。本番までには治るだろ」

 衣緒里がそうっと優しく絆創膏を当てる。私のためにありがとうとお礼を述べながら。

「小さい頃は、衣緒里がよく怪我をしていたな」

「そうだっけ?」

「うん。腕にも足にも。顔にだって傷や青あざを作って。おてんばだったな」

「やだもう」

 苦笑いしながらも、口に手を当てて衣緒里は大きく笑った。晴臣はそんな衣緒里の前髪をそっとかき上げた。

「おでこの傷、もうないか?」

「お医者さんに綺麗に縫ってもらったから」

 衣緒里の額には、そうと言われなければ分からないくらいの小さな傷跡が残っている。

「俺があの時気をつけていてやれば良かった」

「晴臣のせいじゃないよ」

 晴臣は衣緒里の額を優しくなぞる。

「衣緒里……」

 人目を忍んで傷跡にそっとキスをしようとした時、雪矢がまたもや飛んできて出しゃばった。

「何をしている! 小僧!」

 晴臣から衣緒里を剥ぎ取ると、今日はもう早退させていただきますと通りかかった教師に告げて、衣緒里を連れ去った。


「あのねえ、タカミムスビ。私の仕事の邪魔をしないでちょうだい?」

 両腕を腰に当てたククリヒメが、はぁーっとため息を漏らしながら談判する。そんな姿も色っぽい。タカミムスビこと雪矢は知らん顔を決め込んでいる。

「君がどんなに衣緒里と小僧を結ぼうと画策しても、僕は必ず止めてみせる。なぜなら、衣緒里の伴侶は僕だと決めているのだから」

 雪矢は断固としてククリヒメの要求を跳ね除ける。

「あそう」

 ククリヒメは呆れ顔だ。

「あなたがどう思おうと勝手だけどね。でも衣緒里と晴臣の仲は確実に進展させるわよ。見ていて」

 ご縁結びの女神様は邪魔をされて余計に奮い立った。


 学校で晴臣に助けられて、衣緒里は思い出していた。額の傷を作った幼い日のことを。

 あの日、衣緒里は学校の裏山で友人たちと隠れん坊をして遊んでいた。晴臣も一緒だ。晴臣は最初、衣緒里と一緒に隠れることを望んだ。あの頃の晴臣は衣緒里よりも身長が低く、性格もまだまだ甘えん坊だった。そんな晴臣を衣緒里はあちこちに遊び連れ回した。

「今日は一人で隠れるのよ」

 そう言って晴臣を突き放した衣緒里が隠れたのは、低木が連なる木立の中で、木と木の間に小さな身体を捩じ込んで身を潜めていた。

 すると、頭の上で鳥が苦しそうに鳴く声が響いた。落下途中で木に引っかかった雀が、羽をバタバタと震わせて鳴いている。

 決心するより身体が動く方が早かった。衣緒里は木によじ登り、小さな掌で雀を掬った。

「おまえ、怪我をしているんだね」

 雀は衣緒里の掌の中で暴れ回る。

「分かった、分かった。離してやるから暴れないで」

 衣緒里は小さな雀を地上に運び届けようと試みたが、雀は衣緒里の掌から逃れようと必死にもがく。一際大きく雀が羽ばたき掌から解放された瞬間、反動で衣緒里は木から落下してしまった。

 どすんという大きな音を聞いて、隠れん坊に参加していた晴臣が駆けつけた。

「衣緒里ちゃん!」

 衣緒里は小枝の先で額を切っていた。

「衣緒里ちゃん、血が出ている……。すぐに大人を呼んでくるから!」

 晴臣は担任の教師を連れて戻った。

 あの後の晴臣がいじらしかったな、と、衣緒里は思い返す。晴臣は隠れん坊に行きたいと誘った自分を責め、また衣緒里と一緒に行動をしなかった自分を悔いた。衣緒里ちゃんごめん、と何度も何度も謝られた。

晴臣のせいじゃないのに。

 衣緒里は思い出してクスリと微笑む。あの後から晴臣は逞しくなっていった。行動を起こす時、率先して先陣を切ったのは衣緒里だった。それがいつの間にか晴臣に変わった。衣緒里ちゃん衣緒里ちゃんと甘えて、どこに行くにもくっついてきた晴臣。それが衣緒里と呼び捨てにし、どこに行くにも騎士のように守られるようになった。

 晴臣はいつから私のことを好いていてくれたのだろうーー?

 衣緒里は過去を回想する。最近だろうか? それとも中学の頃? まさかあの隠れん坊の日がきっかけで?

 晴臣はあの日から、いつでも衣緒里に優しかった。家族のように衣緒里を守った。兄のように親しく思っていると言ったら、晴臣は傷つくだろうか? 衣緒里の晴臣に対する感情は、雪矢に対するそれとは明らかに違った。

 晴臣と離れていても、寂しいとは思わない。信頼しているから、離れていても安心していられる。

 雪矢と離れたら、居ても立ってもいられない。会いたくて会いたくて、たまらなく切ない。


「衣緒里」 

 物想いに耽っていると、雪矢が声をかけてきた。

「何をぼうっとしているんだい。今日は怪我はなかったか?」

 雪矢は衣緒里の手を取り、腕まくりをさせて見えている部分の肌を隈なくチェックした。

「良かった。傷はなさそうだ」

 衣緒里の顔を覗き込んで、顔色を伺う。額の古傷に雪矢が気づくと痛ましげにそこにキスをした。

 けれど空想に捉われたままの衣緒里は何も反応しなかった。

「衣緒里?」

 雪矢は衣緒里の態度を怪訝に感じた。少し、心を覗いてみる。

「……晴臣のことを考えているのか?」

 思わずきつい口調になった。

「あいつのことなど忘れて……」

 言いかけて衣緒里が否定する。 

「晴臣は私の大切な幼馴染なの。忘れるなんてできない」

 雪矢は停止した。衣緒里を凝視する。

 衣緒里のこの態度は、ククリヒメの仕業なのかと勘ぐった。だがそうではなかった。衣緒里にとって、晴臣への信頼は絶対であった。

「衣緒里」

 雪矢は動揺した。目の前がぐらぐらと歪む。神ともあろうものが、だらしないーー。最初に雪矢が考えたことは、自分の不甲斐なさを責める言葉だった。そうして衣緒里の言葉を反芻する。

「大切な幼馴染」「忘れるなんてできない」

 まだ十六年しか生きていない衣緒里は、人間の一瞬でしかないその生の中で、あの小僧への信頼を育ててきたのだろう。翻って、自分と衣緒里はそのような強固な心の結びつきを持てているのだろうか?

 思えばいつでも雪矢が一方的に衣緒里を求めた。

 その華奢な身体を抱きしめるのも、柔らかな唇にキスを与えるのも、いつも雪矢からだ。拒否をされないから受け入れられているのだとばかり思っていた。だが。

たが、衣緒里は果たして自分のことを愛してくれているのか。信頼してくれているのか。確信が持てない。

「……聞き捨てならないな」

 雪矢は遠慮がちに、しかしはっきりと衣緒里に向かって不満を伝える。

「僕にはそんなことは一度も言わないのに。衣緒里は余程、晴臣を慕っているんだね」

 大切だとか忘れられないだとか、雪矢は一言もそのような言葉をかけられたことがない。雪矢の言葉には激しい嫉妬が滲んでいた。ひねくれた物言いが衣緒里の心をえぐる。だから衣緒里は、もう何も言えなくなってしまった。

 黙ったまま自分の言葉を否定してくれない衣緒里の様子を見て、雪矢は衣緒里が晴臣を愛しているのではないかと思い違えた。腹の底がギリリと痛む。泥のような嫉妬が身体中から湧き上がる。

 衣緒里からしてみれば、人間の姿の雪矢と出会ってまだ数ヵ月しか経っていない。晴臣とは幼い頃からの付き合いだ。信頼の仕方に差があっても致し方ないだろう。

 だが雪矢にとっての衣緒里は、いずれ自分の伴侶となる者として生まれた時から見つめてきた。母を求める赤子の衣緒里も、おてんばをして木から転げ落ちる幼子の衣緒里も、成長して凛と立つ女性の衣緒里も、どんな衣緒里も知っている。どれも愛らしい雪矢の衣緒里だ。だからこそ嫉妬もするし執着もする。

 ずっとずっと見守ってきたというのに、ここに来て他の男に奪われるのかーー。 溝は深かった。

 しばらく二人はどちらも言葉を発さなかった。

 二人の不穏な空気を嗅ぎつけて、助太刀にやってきたアカとコンだが、あまりの空気の悪さに遠慮して遠巻きに見守っていた。

「私、もう寝るね」

 先に口を開いたのは衣緒里だった。

 この居た堪れない場を逃げ出すために、隠れるように足早に自室へと下がってしまった。

「衣緒里……」

 けれど雪矢はこれ以上衣緒里を追うことができなかった。追えば嫉妬に狂った自分を更にさらけ出すことになりそうだから。

「雪矢、衣緒里はけしてあなたのことが嫌いなわけではないノよ。だから、ゆっくりと関係を築いていけばイイじゃない」

「そうだよ。衣緒里は天界ではタカミムスビの正式な妻だ。衣緒里がそれを望んだ。自信を持てよ」

 狛犬のアカと獅子のコンは、落ち込む主人の傍らにそっと近寄ると、雪矢の首筋を鼻で擦って慰めた。


 衣緒里と雪矢の不仲を知って、ククリヒメは今こそチャンス到来だと密かに笑った。

 今度こそ衣緒里と晴臣の距離を縮めよう。神議りで自分に課せられた仕事は、この二人の仲を取り持つことだ。そうしてその暁には、自分と雪矢が結ばれるだろうーー。

 ククリヒメは手始めに衣緒里と晴臣が二人きりになれるよう陰ながら補助することに決めた。今度こそ邪魔が入らないような状況を用意しなければ。そしてできることなら、女神の指輪も再び晴臣から衣緒里に贈らせて、二人の仲を進展させたいところだ。

いかにして二人を結びつけようか。雪矢に仕事を邪魔されていたククリヒメは闘志に燃えていた。


***


 学園祭の準備は着々と進んでいた。

 ほとんどの舞台装置が完成し、俳優たちも台詞を全て暗記するまでに至っている。あとは本番までに作品の精度を上げるのみとなった。

「衣緒里、小道具を仕舞うのを手伝って」

 衣装を身に着けた晴臣が大道具の手入れをしていた衣緒里に呼びかける。

 二人は小道具を両手いっぱいに抱えると、倉庫に向かった。倉庫の中は湿っていて、埃とカビの匂いがした。どのクラスも共同で使うので、棚中に小道具が並んでいる。

「これはあっちだな」

 晴臣は衣緒里が抱えている短剣やら王冠やらを、手際よく指定の場所に仕舞っていく。

「あ、衣緒里、扉を閉めないで。ここの扉は壊れていて、閉めてしまうと内側からは開かなくなるんだ」

「分かった。気をつける」

 そういうわけで衣緒里は扉を閉めずに晴臣を手伝った。

 ところが大きな風が突然吹き、扉は勢いよく閉まってしまった。二人のやり取りを聞いていたククリヒメが風の神に頼んだのだ。

 まじかよ、と晴臣が鼻白む。誰かいませんかと衣緒里が叫ぶが、誰も通りかからない。災難なことに、スマホは圏外を示している。

「学校で寝泊まりすることになるなんてなぁ」

 晴臣は諦めた口調で床の上に腰を下ろした。

「ここは寒いね」

 隙間風がドアの四方から吹きすさぶ。ククリヒメが神力で冷たい風を送っているのだ。

「衣緒里、俺は衣装のマントを羽織っているから暖かいんだ。嫌でなければ一緒に包まろう」

 衣緒里は一瞬、ためらいを見せたが、身体を冷やす冷たい空気に音を上げて、晴臣の傍へおずおずと近づいた。

「もう少しこっちにきて。恥ずかしがらなくていい」

 二人は寄り添って一枚のマントを共有した。

 肩と肩を合わせてお互いの体温を与え合っていると、相手の鼓動が身体を伝って来るのを衣緒里は感じた。

 そうしていると、懐かしい気持ちが蘇る。

「……いつだったかな、小さい頃にも一緒に毛布に包まったこと、あったよね」

 妙な居心地の悪さを紛らわすため、衣緒里がとつとつと語り始める。

 冬の寒い日曜日。二人は晴臣の家で「探検ごっこ」をしていた。家中のあちこちを探り歩くのである。

 廊下の寒さに震えた二人は、寝室から毛布を見つけてきて引っ張り出した。二人で頭まで包まって、架空の洞窟の中を探検する。そうして遊び疲れた二人は、そのまま眠ってしまったのだ。

「あの時も寒いねって私が言ったら、晴臣が毛布を見つけてきて、一緒に包まろうって、温めてくれた」

「そうだっけ」

「うん」

 晴臣の優しさは今も昔も変わらない。

「衣緒里はあったかいな」

「晴臣こそ」

 衣緒里は晴臣の肩に頭をもたれかけた。晴臣も衣緒里の頭に自分の後頭部を乗せる。

 二人はそのままうとうとし始めた。


 ククリヒメは静かに口角を上げて二人を見守る。そうして今度こそ正しいご縁が結ばれるようにと祝福のキスを投げた。今晩こそは邪魔させない。

 雪矢に見つからないよう、ククリヒメは倉庫にバリアを張って二人の存在を隠した。

 帰りの遅い衣緒里を心配して、雪矢は神力を使って居場所を突き止めようとした。けれどもククリヒメのバリアのせいで、衣緒里を探し出せずにいた。

「微かに学校から衣緒里の気配がするのだが。小僧の気配も一緒だ。どこで道草をしているのだろう」

 雪矢はひとり、衣緒里を求めて近所を彷徨った。近所中を駆け巡っていた雪矢は学校の前にやってきた。やはりここから微かに衣緒里の気配がするのだ。

 雪矢は男性教師に化けて、既に閉まっている学校の門を飛び越える。

 あんな醜い喧嘩をした後で、衣緒里にどんな顔をして会えと言うのか。雪矢は悩んでいた。だがそれよりも、今は衣緒里を探し出すことの方が先だ。

 十一月の夜風は冷たい。この寒さで衣緒里が震えていなければ良いが。雪矢は衣緒里の身を案じていた。


 倉庫に閉じ込められた衣緒里と晴臣は肩を寄せてうとうとと眠ってしまった。隙間風が吹く中、お互いの体温が心地良かったのだ。

 近づく足音で先に目を覚ましたのは晴臣だった。

「誰か来るぞ」

 晴臣が衣緒里の肩を軽く揺さぶって起こす。

 足音は段々とこちらに近づいてくる。巡回に来ていた守衛がやってきたのだ。

「すみません、ここを開けてください!」

 二人はドアを叩いて必死に叫んだ。しかしあろうことか守衛は倉庫の見回りを飛ばしてしまった。ククリヒメの神力がそうさせたのだ。

「どうしよう……」

 衣緒里が晴臣を見上げながら不安げに呟く。

「大丈夫。朝になれば人が増える。誰かに気づいてもらえるさ」

 小さくうずくまって震える衣緒里の肩を、晴臣は横から抱き寄せ、頭を撫でて懸命に励ました。


 雪矢は手始めに衣緒里の教室を覗いた。

「誰かいるか? ……衣緒里?」

 だが誰もいなかった。

 学園祭の準備のためか、衣装や台本が出しっぱなしになっている。物が散乱していて騒がしいのに、物音ひとつしない教室は昼間のそれとは違う景色で、しんと静まり返っていた。

 他の教室や図書室、音楽室、美術室、理科室、体育館等も次々に見て回る。どこも真っ暗で静かで、夜の学校は不気味な雰囲気を醸し出していた。明るいのは守衛室と職員室だけだ。そこだけは煌々と光が灯っている。だがどの部屋からも、雪矢の愛しい婚約者は姿を見せない。


 衣緒里と晴臣は再び一つのマントに身を寄せた。

「……寒い」

 白い息を吐きながら両手を擦り合わせて暖を取ろうとする衣緒里を、晴臣は黙って見ていられなくなった。

「これ、衣緒里が羽織ってろ」

 晴臣は二人で共有していたマントを衣緒里に与えた。

「だけど晴臣が……」

 言いかけた衣緒里を制して、いいからとマントを押し付ける。

 衣緒里が風邪を引くといけない。晴臣は自分のことはそっちのけで、そんなことを考えていた。しかし初めは寒さくらいと強がっていた晴臣も、十一月の夜風に白い息を吐き始めた。

「晴臣、寒いでしょう?」

 衣緒里は晴臣の両手を自分の両手で包んだ。体温が晴臣の冷えた拳に伝わっていく。晴臣はどきりとした。それでいて衣緒里の手を振りほどけずにいた。

 自分の手を擦る、衣緒里の華奢な指先。はぁーっと暖かい息を吹きかける時の衣緒里の唇。大丈夫? と言って上目遣いでこちらを見る大きな瞳。

 晴臣は堪らなくなった。

「衣緒里。衣緒里に受け取ってほしい物があるんだ」

「うん?」

 晴臣はズボンのポケットから「赤い情熱」の指輪を取り出す。

「これは」

 ククリヒメの指輪。女神の意思を持つ石。

「衣緒里、ゴメン。前に嘘をついた。これは小道具じゃないんだ。俺が衣緒里に贈りたくて手に入れた指輪だ」

 衣緒里は「赤い情熱」をじっと見つめる。贈られれば恋愛が成就するというククリヒメの指輪。

「これを、衣緒里に受け取ってほしい」

 晴臣は衣緒里の冷えた指先を温めるようにして自分の手に取った。小さな爪で象られた細い指先は寒さに震えている。

「小さい頃から、ずっと見てきたんだ、衣緒里を」

 晴臣が切なげな瞳で衣緒里を見つめる。衣緒里の瞳を覗くと、視線を彷徨わせてゆらゆらと瞳が揺れている。晴臣は寒さで震える指で、衣緒里の左の薬指にそれをはめた。それから自分の頬に衣緒里の左手を当て、慈しむようにその手を握った。


 倉庫の上から二人のやり取りを見ていたククリヒメはにやりと微笑んだ。

 この恋が成就すれば、私の仕事も完成だーー。


 しばらく二人の間に沈黙が流れた。

「……ごめんなさい、晴臣。私、受け取れない」

 衣緒里は左の薬指にはめられた指輪をそっと抜き取って晴臣の掌に返す。晴臣はなお、衣緒里の瞳を見つめ続けている。やはりそうだったかと、どこかで納得しながら。

「衣緒里は雪矢さんが好き?」

「……うん」

「いつから?」

「……分からない」

 ずっと傍にいた。幼い頃からずっと守ってきた。その幼なじみが今、自分の手から離れようとしている。

「雪矢さんのどこが好き?」

「……分からない。……ただ」

「ただ?」

「雪矢さんがいないと堪らなく寂しくて恋しい。こんな気持ちは初めて」

「……そうか」

 きっと俺にはそんな思いは向けてもらえないのだろう。晴臣は目頭が熱くなるのをぐっと堪えた。

 二人が見つめあっていると、ドアの向こうから大きな声がした。

「ククリヒメ!? ここで何をしている? もしや衣緒里がこの中にいるのか?」

 雪矢の声だった。

「雪矢さん!」

 その声に一番に反応したのは衣緒里だ。

「衣緒里、そこにいるんだね! すぐに開けてやるからな」

 扉の解錠はあっけないほど簡単だった。

 外に立っていたのは教師の姿をした雪矢と仏頂面のククリヒメだった。ククリヒメは二人の恋路がうまく行かず不貞腐れている。

「雪矢さん、変装までして迎えに来てくれたの?」

「ああ、衣緒里。無事で良かった」

 雪矢は衣緒里を晴臣から引き離すと抱き寄せた。大事な宝物を愛おしむように抱き締める。

「帰ろう、衣緒里」

 雪矢が衣緒里を連れて飛び立とうとした時、バタリと晴臣が床の上に倒れ込んだ。見ると呼吸が荒く、汗をかいている。

「晴臣!」

 衣緒里が駆け寄って晴臣の身体を起こそうとする。晴臣の身体は熱を発していた。

 雪矢は仕方ないなという顔をして、片方の腕で晴臣を背負った。もう片腕には衣緒里を抱え、神社の社務所へと戻る。ひとっ飛びだ。

 晴臣を客間に寝かせると、アカとコンを呼んで、晴臣の両親に知らせに行かせた。

 客間に寝かされた晴臣はたどたどしい動きながらも起き上がろうとする。

「すみません、お世話になって」

 雪矢は寝てろと晴臣へ合図を送る。晴臣は遠慮がちにそれに従った。

「どうして俺を助けてくれるんですか? 衣緒里の恋敵なのに」

 自分のことなど放って置かれても不思議ではないのにと晴臣は考える。

「以前にも同じ質問をされたな」

 雪矢はフッと笑った。

「おまえは衣緒里を庇って寒さに耐えていたのだろう?」

 晴臣は答えなかったが、無言は是を表した。

「それにおまえも私の大切な氏子だ。病気になってもらっては困る」

 そう言うと、雪矢は晴臣の額に手をかざして何かを呟いた。

「何をしたの?」

 一緒に付いてきていたククリヒメが不思議そうに聞いた。

「神の加護を与えたんだ。これで明日には熱が下がっているだろう」

 車で迎えに来た両親に晴臣が連れて帰られると、ククリヒメは衣緒里に向かって囁いた。

「あなたはタカミムスビのことが好きなのね」

 衣緒里は頬を赤らめて小さく頷くと、照れ隠しにアカをぬいぐるみのようにして抱く。

「私、もう帰るわ。結局、晴臣と衣緒里をくっつけることには失敗しちゃったわけだし。それが娘の意思ならどうしようもない。私の恋路もうまくいきそうにないし」

 ククリヒメは衣緒里に神の祝福のキスを与えると、秋の夜空へと昇って行った。誰との祝福か、ククリヒメは明かさなかったけれど、衣緒里にはそれが雪矢とのものだと分かった。


「衣緒里」

 ふわりと背中から雪矢が衣緒里を抱き締める。

「……この間は悪かったな。嫌な物言いをした」

 頭頂にキスを落とすと、そのまま雪矢は衣緒里の髪の毛に顔を埋めた。

「ううん。いいの」

 晴臣を助けてくれてありがとうと衣緒里は笑った。

「僕は衣緒里が笑っていてくれれば、それでいいんだ」

 例えそれが恋敵を助けることであっても。

これからも嫉妬はするだろう。その度に衣緒里に嫌われるかもしれない。それでも僕はこの女性を自分の腕の中にしまっておきたいんだ。他の誰にも取られないように。

 雪矢の想いは風に乗って秋の寒空へ溶けていった。





第四章  氏神様は微熱の乙女を手に入れる


衣緒里の住む街は突然の雨に振られた。

近所の仕事に出かけていた雪矢は冷たい雨に打たれて、衣緒里が中学生だった頃のことを、ついこの間のことのように思い出した。

 雪矢が衣緒里を神の伴侶として意識し始めた頃の話である。

 

その頃はまだ、ニエとなる衣緒里に対して雪矢はさほど執着がなかった。十六歳の誕生日を迎えてニエとして差し出されても、すぐに解放してやろうと考えていた。だが、ある日を堺にその思いを覆すこととなる。

 分厚い雨雲が空を覆う冬の日、雪矢は小学生の男児に化けて衣緒里の様子を見守っていた。ニエとなる少女の成長を見届けるのは雪矢のささやかな楽しみのひとつであった。

 少女は中学生になっていた。制服に身を包み、冷たい冬の帰り道を堤防沿いにひとり歩いている。

 今日は晴臣はいないのか。いつも連れ立って歩くというのに。雪矢は今が衣緒里に近づくチャンスだと思った。だがそんな雪矢に不運が襲った。

 少女が出くわしたのは、ランドセルを蹴られていじめられる雪矢こと小学生の男児だった。男児は三人の悪童に囲まれていた。真っ白な髪の色が悪目立ちしたのだ。

「おまえ、見かけねー奴だな! 真っ白な頭して気持ちワリぃ!」

 男児のランドセルを投げ捨てて、今まさに彼の背中を蹴り上げようとする一人の悪童。その悪童に向けて、衣緒里は自分の片方の靴を投げつけた。靴は悪童の後頭部に命中する。靴が堤防を転がって川に落ちる。

「何すんだよ!」

「あんたこそ何してんのよ! 大人を呼ぶわよ!」

 衣緒里は果敢にも悪童たちに食ってかかった。取っ組み合いの喧嘩をしそうな勢いである。悪童たちは衣緒里の方が年長なのを見越して、やれ馬鹿だのやれクソだのと悪態をつきながらも、悔しそうに散り散りに去って行った。

「あんたも! やられてばかりいないで、ちょっとはやり返しなさい!」

 衣緒里は地面に転がっている雪矢を立たせると、ランドセルを背負わせてやった。膝頭についた砂埃をポンポンと叩いて払う。

 雪矢はお礼を言い終えると、衣緒里を振り返りながら、とぼとぼと前を歩いた。雪矢があまりにゆっくり歩くので、衣緒里が追いついて一緒に歩く格好となった。

「ね、私の靴知らない? さっきので失くしちゃったみたい」

 衣緒里は片方の足をソックスのままで歩いていた。

 とんでもないおてんば娘だ。

 雪矢は心で苦笑いをした。しかしこの娘は正義感が強い。神の伴侶としての条件は良い。

 颯爽と歩く衣緒里を早歩きで追っていると、雨がパラパラと降り出した。次第に強くなって、大振りになる。

「あなた、濡れているじゃないの。傘は持っていないの?」

 突然の雨に気を取られていると、衣緒里が濡れそぼった小学生の雪矢に声をかける。かく言う衣緒里もずぶ濡れである。衣緒里はさっと雪矢の腕を掴んだ。

「寒いでしょう? 私もよ。どこかで雨宿りしましょう」

衣緒里は雪矢をお白様の神社に連れて行った。

 まさか自分の神社で雨宿りすることになるとは。雪屋は再び苦笑いをした。衣緒里は気づいていない。

 雨は止む気配がなく、神社の縁で雨をしのぐ衣緒里は、雪矢を隣に座らせて寒くないようにと自分のコートを脱いで包み込んだ。

「あなた名前は何て言うのかしら?」

 雪矢はボソボソと口を動かすだけで、言葉にはならない。名を明かして良いものか迷ったのだ。

「名前がないと不便だわ。そうねえ。あなたの髪、雪のように真っ白だから、ユキ、なんてどう?」

 当たらずとも遠からず。雪矢は三たび苦笑いした。

「おねえちゃん」

 雪矢は思い切って衣緒里に話しかけてみることにした。

「うん?」

「ここは寒いでしょう? 中に入れてもらおう。僕、ここの神社の人と知り合いなんだ」

 二人は有り難くもストーブのある社務所に侵入した。

 雪矢が問題ないから、と言うので、衣緒里は恐る恐る侵入に付き合うことにした。

 面白い娘だ。悪童にはあんなに果敢だったのに。不法侵入にはこんなにオドオドするなんて。

 社務所には誰もいなかった。雪矢が手慣れた様子でストーブに火を着ける。二人は並んで座り、燃え盛る火に手を当てた。身体の芯まで染み入るような暖かさだ。

「ここはお白様の神社よ」

 衣緒里が男児に教えるように呟く。

「うん。おねえちゃんはお白様のことはよく知っているの?」

 未来の婚約者殿に聞いてみる。

「ううん。縁結びの神様だってことくらい。あとは父と母がここでお参りをして結ばれたとかなんとか言っていたわね。本当かどうかは知らないけれど」

 それは本当の話だ。お参りをした後、出雲の縁結び会議で衣緒里の父と母は見事に結ばれたのだ。

「ユキはここの神社のこともお白様のことも詳しそうね」

 それはなんたってここの神社の主なのだ。

「ねえ、ユキ」

「うん?」

「私ねえ、十六歳になったら見ず知らずの人と結婚することになってるの。参っちゃうよね」

 知っているとも。何を隠そう、その相手が僕なのだから。

「私のところにはお白様のご利益は来ないみたい」

 残念そうに少女は頭を傾ける。

「おねえちゃんは、その人のこと、嫌いなの?」

 幼子のうるうるの瞳で見上げて聞いてみる。その威力はいかなるものか。衣緒里はうっと唸ったが、気を取り直してこう語った。

「嫌いとか好きとか言う前に、会ったこともないから、よくわからないかな」

 では嫌われているわけではないらしい。よかった、よかった。

 僕の大人の姿を見せると、みんなイチコロなんだけどなぁ。ここで姿を現せないのが残念だ。

「もしかしたらものすごく優しくてカッコいいイケメンが待っているかもしれないよ? 楽しみにしておいたら?」

「イケメンかぁ」

 衣緒里はちょっと興味を引かれたようである。

 そうか。イケメンに弱いのか。それならお見合いの当日はとびきりの美形に化けてやろうじゃないか。雪矢は衣緒里の弱みを知ってほくそ笑んだ。


 二人が雑談をしながら暖まっていると、雨が止む気配がした。雪矢はさっと立ち上がり外へ駆け出した。長居は無用なのである。

「バイバイ、おねえちゃん、ありがとう」

「えっ、ちょっ……」

 衣緒里が追いつく前に、雪矢は白猫に化けて鎮守の森の木に登って隠れた。上から衣緒里を見下ろす。

 しばらく男児を追って走って行った衣緒里だったが、見つからないと分かると、とぼとぼと向こうから引き返してくる。衣緒里は雪矢のいる木の下で足を止めた。そしてふと木の上を覗く。衣緒里と白猫雪矢は目が合った。

「……もしかしてユキ?」

 衣緒里のその一言に雪矢はギクッとした。

 なぜ分かったのだ? この娘の勘は恐ろしい。

 その拍子に木から滑り落ちそうになる。何とか木の枝につかまったものの、躰が宙を浮いたままだ。ここで変身できれば楽に地上に降り立つこともできようものを。白猫雪矢はどうしたものかと思案する。と、そこに

「ユキ! 大丈夫!?」

 衣緒里は木をよじ登って、白猫雪矢を腕に抱えて助け出した。

「もう安心よ」

 だが今度は衣緒里が滑った。きゃっと言う間もなく、衣緒里は落ちた。雪矢は大人の姿に変化した。

 衣緒里を抱き抱えて地上に降り立つと、静かに衣緒里を起こそうとする。だが衣緒里はショックで気を失ってしまったようだ。

 神社の縁に衣緒里を寝かせて、アカとコンに両親を呼びに行かせた。その後の処理は二匹に任せよう。その間、雪矢は衣緒里の頭を膝の上に乗せて、まだ幼さの残る顔をまじまじと眺めた。

 おてんばで、勇敢で。優しくて、そして放っておけない娘。

彼女の成長をもっと見ていたい。

 雪矢は衣緒里をいたく気に入った。衣緒里が自分の婚約者だなんて、なんて運が良いのだろう。成長した暁には、この乙女を必ず娶ってみせる。雪矢は心に固く誓った。

 人間の男女に化けたコンとアカが衣緒里の両親を連れてやってきた。

 雪矢は衣緒里の前髪をそっとかき上げる。小さな傷が残るすべらかな額だ。そこに優しくキスを落とすと、両親に気づかれないよう鳥に化けて上空へと逃げ去った。


***


「雪矢さん?」

寝巻き姿の衣緒里がベッドから身体を起こして、過去の回想に浸っている雪矢を呼ぶ。衣緒里は風邪を引いてしまった。先だって冷えた倉庫に閉じ込められたためだ。

 神社の家で雪矢に看病されながら、衣緒里は学校を休んで自室のベッドの上でゆったりと療養しながら過ごしている。

 自室から出られない衣緒里の為にと、雪矢が外の木々に紅葉を散らしてくれたので、景色は窓枠いっぱいに赤と黄色で満たされている。どこからかやってきたモズが木の上でキチキチチと鳴いている。雪矢が人間界の鳥を真似て創り、この森に放ったのだ。

「熱はもう下がったようだね」

 体温計を衣緒里から受取ると、雪矢は衣緒里の額に手を添える。冷たい掌の感触が伝わり、ひんやりと気持ちが良い。雪矢は衣緒里の目を覗き込んで、体調の良し悪しを測っている。 

 衣緒里は上目遣いで雪矢を見上げる。雪矢は目を細めて衣緒里に笑いかけると、体温計を仕舞うために机の引き出しへ向かう。

 引き出しを引く。中を覗いて元ある場所へと戻す。長い指先が引き出しを押す。引き出しは音を立てることなく閉まる。その所作ひとつとっても優美で、動くたびに絵になりそうな麗しさがある。

 雪矢さんは美しい。

 歩くたびに長い銀髪が揺れる。艶のあるその髪は、どんな手入れをしているのだろう、衣緒里の知る髪の毛の中で一番の輝きを放っている。整った顔立ちは衣緒里を見つけるたびに相貌を崩す。そのほころんだ笑顔は老若男女のどんな人をも魅了するだろう。

 まさに神様なのだと衣緒里は思った。

 その神様の妻になった。天界での出来事とはいえ。自分はこのひとに相応しいのだろうか。

 衣緒里は雪矢と離れたくなかった。出会って数ヶ月だというのに、雪矢のいない夜は寂しくて涙が頬を伝うのを止められないのだ。

 ーー相応しくなくてもいい。一緒に過ごせるのなら。私はこのひとが好きなのだ。


 衣緒里が雪矢に見惚れていると、雪矢は運んできたお粥をお盆から取り上げ、匙で掬って衣緒里の目の前に差し出した。

「はい、あーん」

 満面の笑みで匙を衣緒里の口元に持っていく。

「ちょ、ちょっと待って雪矢さん。それは恥ずかしい……」

 衣緒里は渋ったが、雪矢が匙を衣緒里の唇に当てるので、衣緒里は否応なしに雪矢の手からお粥を与えてもらうことになった。

 雪矢はご機嫌だった。愛しい乙女子を自分の手の内で思い切り可愛がれる喜びを堪能していた。微熱で伏している衣緒里は格別に可愛かった。

 少し汗を滲ませた白い素肌、蒸気した赤い頬、うるうると潤んだ黒い瞳。それから汗で湿った黒髪が白い首筋に張り付くのも何とも言えず良かった。話をする時、唇からも熱気を吐き、それがまた堪らなく病床の乙女の色香を醸し出す。

雪矢はわざと「神の加護」を弱めて衣緒里に与えた。加護を完全に与えてしまうとすぐに回復してしまう。それよりも朱色の差した頬の衣緒里を少しでも長く満喫していたかったのだ。

 食事を終えると食器を脇に避けて、雪矢は衣緒里のベッドに腰掛けた。銀色の髪がふわりと揺れる。

 雪矢は衣緒里の顔に近寄ると、両手でその頬を包み込んだ。

 衣緒里の肌は汗で湿ってはいたが、すべすべとして張りがあった。そうして雪矢は衣緒里の餅のような頬を軽く摘む。

「『おもち』って言いたいんでしょ?」

 衣緒里は不貞腐れて頬を膨らます。それこそ本当の餅のように。

「……あの小僧にも頬を摘まれていたな」

 夕立の商店街の時のことだろう。雪矢は覚えていたのだ。雪矢は衣緒里の頬を軽く摘んだり突いたりして遊んだ。

「この肌に触れるのは私だけだ。二度と誰にも触らせない。例え幼馴染であっても」

 そう言って弄んだ頬の横にキスを落とす。衣緒里はくすぐったくなって、片目を瞑った。その瞼にも雪矢はキスをした。

「幼馴染と言えば」

 雪矢が追い討ちのキスを耳たぶに施しながら、これが本題だと言わんばかりに付け加える。

「衣緒里は小僧から『情熱の赤』の指輪を贈られただろう?」

「ククリヒメの指輪のこと?」

「そう。受け取らなかったのは良しとして。他の男から贈られたというのが気に入らない」

 閉じ込められた倉庫で晴臣が衣緒里に指輪を贈ろうとしたことを雪矢は知っていた。知っていたので対抗心が芽生えたのだ。

「……衣緒里。僕からも贈り物をしたい」

「雪矢さんにはもうシラユキゲシのかんざしをもらっているわ」

「夫婦の証をあげたいんだ。こちらの世界でも、僕が衣緒里の正式な伴侶だと主張したいんだよ」

 雪矢は衣緒里の腕を引き寄せて完全に身体を起こさせる。ベッドに腰掛ける形になった衣緒里の汗ばんだ手を取ると、左の薬指を自分の指でさすった。それから爪の先を口に含んで甘噛みをする。

 衣緒里は身体をよじって抵抗する。

「くすぐったいわ」

 それでも雪矢は止めなかった。

「天界でも貴重な神の石を探して指輪にしようか? それとも人間界で流行りの金剛石(ダイヤモンド)の煌めく指輪が良いかい?」

 どんな指輪がこの小さな指先には似合うだろうか。その指輪を衣緒里がはめた時、彼女は自分の伴侶だと雪矢は胸を張って宣言できるのだ。

 けれど雪矢には不安があった。

 天界では罠に嵌めるような形で妻に迎えた。一度目はアマテラスの祝福を使って。二度目は兄弟と共に謀って。

 それでも「天界」という限定した場所での出来事だから許されたのだろう。果たして衣緒里はこの世界で自分を受け入れてくれるのだろうか? 衣緒里が実生活を営むこちら世界で。衣緒里がずっと「婚約者ではない」と否定し続けた人間界で。

「それならシラユキゲシの指輪がいいわ。かんざしとお揃いになるし」

 雪矢は一瞬、思ってもみなかったという意外な顔をして衣緒里を見つめた。

「本当に?」

「え?」

 念を押して聞いてみる。

「本当にいいの? ……ねえ衣緒里、それって僕の求婚に応えてくれるってこと? こちらの世界でも僕のお嫁さんになってくれるの?」

 衣緒里はどうしてそんなことを聞くのという顔をしたが、次の瞬間、

「うん。もちろん喜んで」

 額に汗を滲ませ、瞳を潤ませながら、それでも笑顔でそう答えた。雪矢の顔がほころぶ。

「衣緒里が高校を卒業したら、結婚しよう」

 この約束が反故にされないように誓いの儀式を済ませてしまおう。策士の氏神様は衣緒里を抱き寄せると

「絶対だよ」

 と囁いて、約束に、と衣緒里の唇にキスをしようと近づいた。神力が及んだ誓いのキスを。

「風邪が移るよ」

 衣緒里が雪矢の唇を指の先で押さえて制止する。

「大丈夫、移らないよ。忘れたのかい。僕は神様だよ」

 衣緒里の伴侶はもう一度、乙女の唇に自分の唇を近づけて重ね合わせた。約束のキスを完成させるために。

「んっ」

 キスをされた瞬間、衣緒里の目の端に窓枠の紅葉が映った。窓の外からシジュウカラの鳴き声がするのを、遠くの意識で衣緒里は聞いた。ピチピチピチと、それは雪矢が鳥に鳴かせた二人を祝福する約束の音だった。


***


秋晴れの清々しい空の下、衣緒里の学校では学園祭が始まった。

 学園祭では露店を出店できるので、普段は運動場として使われる広場が今日はここ

かしこから食べ物の匂いが充満していた。

 串焼きやたこ焼き、りんご飴に玉せん、ピザやラーメン等、色とりどりである。生徒が出店しているものもあるし、地元の商店街がキッチンカーで出店しているものもあり、賑やかである。

 衣緒里はクラス合同の出し物が始まるまで、雪矢と連れ立って校舎の外の露店を見て回った。友人に出くわすたびに雪矢のことを聞かれ、恋人だと紹介するのが、なんともくすぐったかった。

 雪矢はというと、恋人だと紹介されて至極ご満悦そうにしていたが、「正式な婚約者です」という一言を付け加えるのを絶対に忘れなかった。

 衣緒里と晴臣のクラスは合同で演劇を催すことになっている。

 晴臣はこの劇で主役を張る。衣緒里は大道具係だから、裏方だ。

 舞台のある体育館には大勢の父兄がやってきていた。衣緒里と晴臣の両親ももちろん来ている。雪矢は衣緒里の作った大道具を見るのを楽しみに席を陣取った。それから珍しいことに、雪矢の兄弟の玄矢と紅矢も一緒に参観に来ていた。


「ねえ大変!誰か王女役ができる人はいない?」

「どうしたの?」

「王女役の子が盲腸で緊急手術が必要だって、出られなくなったの」

 助監督が慌てて代役を探し回っている。

「衣緒里ならセリフが全て頭に入っているぞ」

 主役の出で立ちに着替えた晴臣が突然言い出す。それを聞いて血相を変えたのは衣

緒里だ。

 晴臣のセリフ合わせの練習に付き合った結果、衣緒里は王女のセリフを全て覚えて

はいる。それに加えて、アカとコンがやる気を出し、なぜか裏方の衣緒里に演技の特訓を施

した。だから、この場合の適任は衣緒里しかいなかった。いなかったのだが。

 衣緒里は練習もなしに舞台に立つことに恐怖を感じた。

「大丈夫。王女のシーンはクライマックスのほんの少しだけだから」

 晴臣の励ましもあって、衣緒里は渋々承諾した。クラスの皆のためである。

 衣緒里が代役を務めることが発表された時、予定外の配役に雪矢や衣緒里の両親は

驚いたが、晴臣の両親と共に手を叩いて喜んだ。

「あの子が王女様だなんてねえ」

 母はおてんば娘ができるかしらと心配する。

「いやいや、案外似合うかもしれんぞ」

 父は娘の晴れ舞台にほくほくだ。

「後で差し入れを持って行ってやろう」

 弟の明が誇らしげに胸を張る。

「終わったらしっかり労ってやらなくては」

 雪矢は衣緒里の勇姿を楽しみにした。

 玄矢と紅矢は雪矢の伴侶を見守ることにした。それと同時に、雪矢が敵対視している幼馴染の「小僧」にも興味があった。面白い舞台になりそうだ。兄弟は顔を見合わせた。


 舞台が始まった。観客は八割ほど埋まっている。舞台袖から観客席を眺めて衣緒里は驚いた。どうやら晴臣は女生徒に大変人気が高いようなのだ。

 観客席には晴臣の親衛隊なるものが一定の席を占領していた。晴臣が舞台に登場しただけで、黄色い歓声が湧き上がる。差し入れのお菓子やお弁当が山のように届いた。

「すごいね、晴臣」

「うん?」

 晴臣は汗を拭きながらスポーツドリンクを片手に取る。

「晴臣って人気者なんだねえ。モテるんだねえ」

 衣緒里はすっかり感心している。

「人気者になるより好きな女にモテたいけどな」

 晴臣は目を逸らして呟くように漏らすと、衣緒里の頭をポンポンと軽く叩いた。

 開始のベルが鳴り、俳優たちが活躍する華々しい舞台が再開した。舞台は滞りなく進行し、終盤を迎えた。衣緒里の登場する場面だ。

『この身が滅びる前に、そなたに形見を残そう』

 王女の方に振り返り、王子役の晴臣は凛々しくも切ない演技をする。

『滅びるなんて言わないでくださいませ』

 衣緒里が初めて立つ本番の舞台で王女の演技をそつなくこなす。

『足手まといには決してなりません。ですから殿下、どうか私も連れて行ってくださ

い』

『君を連れて行くことはできない』

 王子は苦しそうな表情を観客に向ける。

『代わりにこの指輪を受け取ってくれないか?』

 エメラルド色の石のついた指輪を取り出すと、王女の指にゆっくりと授ける。

『そなたによく似合う』

 指輪に視線を落とした王子は王女の目に視線を移しじっと見つめる。王女も目線を

外さない。

 二人はしばらくの間、お互いを見つめ合った。突然、王子が王女を引き寄せて抱きしめる。

 観客からきゃっという声が聞こえてくる。

 抱き合った二人はやはり黙ったまま見つめ合う。照明が二人に絞られる。舞台が段々と暗くなる。切ないショパンのピアノ曲が流れ始めた。

 王子は片手を王女の肩に乗せ、もう片方の腕を王女の首の付け根にまわした。それから自分の後頭部を傾け、ゆっくりと王女に近づけて彼女の顔を覆い隠す。

 それはまるで本当にキスをしているかのように見える角度だった。

 ……いや、晴臣は本当にキスをした。

 衣緒里にしか分からない程度にそっと。唇が触れるだけの軽さで。事故だと言われたら、否定できないような距離で。たった一瞬。

 だから、驚いたのもそれを知っているのも衣緒里だけだった。

「は、る、……?」

 晴臣?と言いかけて、舞台上であることに気づく。思わずセリフにはない言葉が突いて出た。

 客席からため息と黄色い歓声が上がる。ため息は一般客で、黄色い歓声は主に女生徒のものだ。キスシーンに反応したものだろう。 


「なっ」

 雪矢は思わず立ち上がって抗議をしようとした。だが上演中だったため、玄矢と紅矢に止められた。

「キスをしたふりくらいで大人気ない」

 兄弟は雪矢を諌めた。衣緒里の勇姿を見届けろ、と。

 憤る雪矢を客席に押し付けるように座らせて、兄弟はやれやれとため息をつく。だが雪矢は気づいたのだ。

 ーーあの小僧、どさくさに紛れて衣緒里の唇に触れやがった……!

 よりにもよって、神の婚約者に手を出すとはいい度胸である。衣緒里は小僧の告白を断っているはずだ。あいつも諦めが悪い。

 雪矢は衣緒里の出番を見届けると、席を立った。そうして急いで楽屋に向かう。

 晴臣には一言、がつんと言ってやらなければ気が済まない。衣緒里は私のものだ、と。私の衣緒里に手を出すな、と。

 無事に演技を終えた楽屋の晴臣は、クラスメイトだけでなく、多くの女生徒に囲ま

れていた。人の波で近づけそうにない。

 その人混みの中、晴臣だけではなく、衣緒里も囲まれていた。

 雪矢は最初、好演した衣緒里を労うため友人たちが集まってきているのだろうと思

った。だがよくよく会話を聞くと、不穏な空気が漂っている。

「あなた晴臣様の何なのよ」

「晴臣様に気安く近寄らないでもらえる?」

「大した演技もできないくせに」

「晴臣君のそばにいるからって、調子に乗らないで頂戴」

 いわく、鬱陶しいだの、目障りだの。女生徒たちは衣緒里を囲って口々に衣緒里を貶める。

 舞台を降りた衣緒里は晴臣の親衛隊に目をつけられたのだ。当の衣緒里は呆れているのか、何も言い返さずに様子見を決め込んでいる。

「あ、お白様!」

 雪矢を見つけた衣緒里は助かったとばかりに雪矢を呼んだ。

「衣緒里」

 目が合うと、衣緒里は心底面倒くさそうな顔をして見せた。

「お白様、行こう。走るわよ!」

 衣緒里は雪矢の手を捕まえると、ぐっと引いて楽屋から抜け出した。

 衣緒里と雪矢は露店が並ぶ広場のところまで走って逃げ出した。人混みに紛れたので、女生徒たちも追うのを諦めたようである。

「災難だったな、衣緒里」

「ううん、平気。ありがとう」

衣緒里は王女の舞台衣装のまま出てきてしまった。長いスカートが歩くのに邪魔を

する。

「お姫様をリードするのもいい気分だ」

 雪矢は衣緒里の手を引いて朗らかに笑う。手を繋いで人混みの中を歩くと、突然、雪矢が立ち止まった。

「衣緒里」

 振り返った雪矢にチュッと唇を吸われる。露店が立ち並ぶ、人混みのど真ん中で。

「ゆ、雪矢さん?」

 こんなところで、と言いかけて、衣緒里は上目遣いに屈む雪矢の真剣な眼差しに射

抜かれた。

 雪矢は衣緒里の顎を親指と人差指で引くと、そのまま親指で衣緒里の唇を拭った。

「消毒だ」

 舌を出してペロリとその親指を舐める。

「もうっ」

 恥ずかしいから止めてと言いかけて、数人の女生徒が追って来るのが視界に入った。

「……しつこいなあ」

 衣緒里と雪矢は学校の裏山に逃げ込んだ。

 草木が茂る人影のないところまでやってくると、

「衣緒里、飛ぶぞ」

 雪矢は衣緒里を抱き上げて空を飛んだ。神隠しで姿を消して。鎮守の森へと連れて行く。


 森は静かだった。

 小路を行くと、オミナエシが黄色い花を地面いっぱいに咲かせていた。さわさわと風に揺れるそれは、胸ほどの高さまでに成長し、秋の日差しを受けて穏やかに生息している。

 衣緒里は目を細めてオミナエシを眺めた。

「しっかし小僧にあれほどの人望があるとは知らなかったなあ」

 衣緒里がぼうっと考え事をしていると、雪矢が驚いたと言って、オミナエシの前でし

ゃがんで座る。

「私もびっくりした。晴臣ってば、女生徒にあんなに人気だったのね」

 振り向いた衣緒里も雪矢の隣で腰を曲げた。

 ーー晴臣。

 晴臣はどうしてあの時キスなんかしたのだろう? 晴臣の告白は断ったはずだ。それともあれは事故だったのだろうか。好きだから好きと伝えた、そういうことなのだろうか?

 衣緒里は考えたが、考えてもわからないことだったので、これ以上悩むのをやめる

ことにした。 

 どこからか金木犀の匂いが微かに立ち込める。穏やかな時間がしばらく流れた。

「こんなところにいたのか、雪矢」

 玄矢と紅矢が空からやってきて、雪矢の横にタンッと降り立った。

「やあ、衣緒里。いきなりの代役なのになかなかうまく演じていたな」

 玄矢が衣緒里を労う。

「おや、舞台衣装のままなのかい?」

 紅矢が馬子にも衣装と衣緒里をからかう。 

「ちょっと逃げてきたの。だから着替える暇がなくて」

 腰を上げてスカートのホコリを払う。

 誰から? と聞かれたので衣緒里は幼なじみの親衛隊、とだけ答えた。

「なぁ雪矢。衣緒里に渡すものがあるだろう?」

 紅矢が肘で雪矢の腕を突く。

「ん? ああ。ゴホン。二人きりの時に渡したいんだ」

「渡したいものって?」

 衣緒里が期待のこもった目で雪矢を見るので、雪矢は困ってしまった。大切なもの、と雪矢は衣緒里の耳元に手を添えて囁いた。

「後で分かるよ」

 ウインクをひとつ飛ばす。その姿が色っぽくて麗しい神様だ。

「渡すなら特別な場所がいいだろう」

 玄矢が雪矢に提案する。どうやら玄矢は雪矢の贈り物が何か分かっているらしい。

「あの場所はどうだろう?」

 あの場所、と言われて、雪矢は思い当たった。

「……それなら天界に行こう」

 雪矢は衣緒里を誘って空を昇った。そうして天界に降り立った。玄矢と紅矢も一緒

だ。天界に着くや否や、雪矢は顔見知りの神に早速声をかけられた。

「おや、タカミムスビではないか。久しぶりだな」

「サルタヒコ!」

 細く均整の取れた体付きの美丈夫が雪矢に声をかける。切り揃えられた短髪は栗色だ。サルタヒコと呼ばれた彼は、先導の神様である。

「その娘は彼女かい?」

サルタヒコは衣緒里を上から下までじろじろと見つめた。

「僕の伴侶だ」

 ムッとした雪矢が衣緒里を背中に隠す。

「へぇぇ」

 サルタヒコは衣緒里に近づくと、衣緒里の周りをぐるりと周って見定める。それから衣緒里の髪を一房掴むと、その髪に軽く口付けをした。

「可愛いな。俺の好みだ」

「何をする!」

 雪矢は咄嗟に衣緒里を庇った。スサノオのことがあったので気が抜けないのだ。

「おい、ヒコ。衣緒里に手を出すんじゃない」

 横で見ていた玄矢が助け舟を出す。

「サルタヒコよ、この間の出雲の神議りのことで相談があるんだ。ちょっといいかい」

 紅矢も話題を逸らそうと躍起だ。サルタヒコはフッと笑って、衣緒里から手を離す。

「まぁ、いい。せいぜい寿命の短い人間の娘を大切にすることだ」

 サルタヒコは肩越しに後ろ手を降って雪矢の兄弟とともに神殿のある方へと去っていった。

「……衣緒里はモテるなぁ」

 雪矢がやれやれとため息をつく。

「そうかしら?神様にとって寿命の短い私を相手にすることはお遊びでしょう?」

「他の神はそうかもしれないけど、少なくとも僕は本気だよ、衣緒里」

「分かってるわ。ありがとう」

 衣緒里が微笑む。雪矢はそんな衣緒里に心を奪われる。雪矢は衣緒里を抱き上げると 

「衣緒里、目を瞑っていて」

 ある場所へと運んだ。


「ここは……」

 そこは雪矢が天界に作ったシラユキゲシの群生地だった。

「衣緒里にこれを」

 雪矢が差し出したのは、シラユキゲシを象った指輪だった。花の中央にダイヤモンドが埋

め込んである。指輪は天界の光を受けてキラキラと輝いた。

「綺麗。しんしんと雪が降るように輝くのね」

「ああ。僕の名に因んで職人に作ってもらったんだ。雪が降るようにキラキラと、と」

 雪矢は指輪を手に、跪いた。

「衣緒里、何度でも言うよ。君のことが大好きだ。衣緒里の寿命が尽きるまで、僕の傍に居てほしい」

 衣緒里に向かって、指輪を差し出す。

「私も雪矢さんの傍にずっと一緒に居たい」

 雪矢は衣緒里の左手を取ると、手の甲にそっと口付けをした。

 そうして指輪を衣緒里の薬指に授けた。

「これからも末長くよろしくな」

 雪矢は衣緒里の頭頂にもキスを落とした。

「ところで、衣緒里」

 雪矢は衣緒里の両肩を掴んで、目線の高さまでに腰を落とした。

「僕ね、探しものをしてこようと思うんだ」

「探しもの? 何の?」

 衣緒里は雪矢の目を見つめながら聞き返す。

「人間の寿命を延ばす神の果実」

「どうしてそんなものを?」

「衣緒里とずっとずっと一緒に居たいから。食べるかどうかは衣緒里に任せるよ。それに簡単に手に入るものではないしね」

 だから、と雪矢は続ける。

 しばらく旅に出る。二、三年は帰って来れないかもしれない。この指輪を僕だと思って、待っていてほしい。

 プロポーズを受けた直後、衣緒里が雪矢から告げられたのは、突然の別れだった。


「二、三年って……」

 どうしてそんなに長い間?

 衣緒里は突然の長期の別れに戸惑った。

「黄泉の国へ行くんだ。神力を使うことが難しい場所だ。寿命を延ばす神の果実を探して持ち帰るのにそれくらいはかかるだろう」

 寿命を延ばす?

 でも私は、寿命を延ばしたいとは思わない。

「うん、衣緒里ならそう言うと思ったよ。でもね、僕が望んでいるんだ」

 雪矢は衣緒里の心を読む。いや、読まなくとも表情で考えていることが分かった。

 だから息をひとつ吐くと、花畑の端の段差に腰掛けて、衣緒里の目をまっすぐに見

つめて言った。

「僕の話をしようか」

 僕が神として生きて数千年。今までは伴侶を取らず独り神として過ごしてきた。特

に寂しいとか誰かに傍に居てほしいとか、そう思うこともなかった。

 それなのに、ひょんなことから人間の娘をニエに貰った。

 僕はその娘がとても気に入った。明るく元気で勇敢で、そして誠実な娘だ。

 僕のためにやられたらやり返したり、僕が拐われたら探してくれたり。友人思いで幼馴染みをとても大切にしている。例え僕でも彼の悪口は許さない誠実さを持っている。

 そして人ではない神である僕の求婚を受け入れてくれた、心の広い女性だ。

 衣緒里、君のことだよ。分かるね。

 僕はこの娘とこの先の数千年も共に過ごしたいと願ってしまったんだ。

「分かるかい? 衣緒里の一生は僕にとっての一瞬。一瞬だけしか君を傍に置いておけ

ないなんて悲しすぎる」

「でも……」

 雪矢さんと二、三年も会えないなんて。

 衣緒里はその言葉を飲み込んだ。その代わりこう聞いた。

「雪矢さんにとって、私達の二、三年は二か月くらいのことかもしれないけれど、私に

とってはとても長い」

「僕と会えなくて寂しい?」

「寂しい」

 衣緒里の素直な言葉に雪矢が嬉しそうに目を細める。

「衣緒里にそう言ってもらえるなんて、光栄だなあ」

 雪矢は衣緒里の頭をポンと軽く叩き、そのまま包む。雪矢の手は大きく、衣緒里の

後頭部を簡単に包み込んでしまう。

「衣緒里は長寿なんて望んでいないだろう。普通の人間と同じように大人になって、歳を取って。そういう人生を望んでいるんだろう?」

「うん」

それの何がいけないのだろう。大人になって、歳をとって、寿命が尽きるまで生きる。

「……衣緒里。ごめんね」

 雪矢は済まなさそうに目を伏せる。

「それは、無理なんだ」

「え?」

「神のニエとして捧げられた乙女。神の求婚を受け入れた乙女は、歳を取っても見た目が変わらない。若々しい少女のままなんだ」

「どういうこと?」

「衣緒里はおばあさんになっても今の姿のままということだ。命尽きるその瞬間まで」

 それでは私は化け物ではないのか?

「申し訳ないけれど、衣緒里がこの世で平穏に過ごすには、神の加護なくして成り立

たない」

神の加護?

「僕が便宜的に衣緒里を順当に年相応の姿に化かすか、それとも」

それとも?

「乙女の姿のまま、神隠れして僕と共に過ごすか」

「そんな……」

「どのように生きたいかは衣緒里が決めればいい。だけど僕はずっとずっと衣緒里と

共に居たい」

 寿命を延ばすかどうかは衣緒里が決めてくれていい。もちろん僕はそれを望んでいるけれども。

 雪矢は大きく息を吐くと、よいしょと言って立ち上がった。衣緒里はしばらく何も言えずに雪矢を見上げていた。

「……ねえ、雪矢さん。黄泉の国ってどんなところ?」

 途方もない話を聞かされた衣緒里は今の話題には深く追求せず、不思議に思っていたことを思い切って聞いてみることにした。

「うん? イザナミが支配する死者の国だよ。イザナミの神力が強すぎて、一介の神である僕の神力では刃が立たないんだ」

「イザナミさんは怖い神様なの?」

 雪矢は可笑しそうに小さく笑った。

「いいや。天地創造の素晴らしい神様だよ。ただ、イザナギという夫と喧嘩したものだから、極度の男嫌いなんだ」

「それだと雪矢さんは大丈夫なの?」

「そうだなぁ。女性に化けて黄泉にでも行くかな」

 はにかむように冗談ぽく笑う。

「女性に?」

 それはきっと天女のように美しい神様になるだろう。男性の姿をしていても麗しいのだ。女性になったら天上で一番の美しさを誇るだろう。衣緒里はそう考えた。

「出発は一週間後にしよう。それまでしばらくの別れを二人で惜しもう」

 雪矢はそう言うと、衣緒里の手を引いてシラユキゲシの花畑の真ん中に連れて行った。


 一週間が過ぎて、雪矢は旅立った。

 衣緒里は止めることはしなかった。雪矢の思いを聞いて、できなかったのだ。





第五章  神の果実を探して


 二月の雨は冷たく、雪のように凍える寒さを与える。

 道行く人々の息は白く、色とりどりの傘と重なって、立ち込める白い靄とカラフル

な色彩が対照を成す。

 雪矢が出かけてから二ヶ月が経過した。

「衣緒里。元気ないな。何かあったのか?」

 晴臣が学校の自席でぼうっとしている衣緒里に話しかける。

「もしかして、……その、舞台でのことを気にしているんなら、悪かった。今更で申

し訳ないけれど」

 学園祭の舞台上でキスをされたことを言っているのだろう。衣緒里は一瞬、ポカンとしたが、そのことなら気にしないでと軽くあしらった。今は雪矢の不在の方が心を占めているのである。

「お白様、また出かけているんだ」

 衣緒里は呟いた。

「え、また?神様ってのは仕事が多いんだな」

 晴臣は事情を何も知らない。

「今回は仕事じゃないの。私の寿命を延ばすために、黄泉の国に行っているの」

 衣緒里は今までの経緯を説明した。

「つまり、衣緒里が高校を卒業する頃まで帰ってこない、と?」

「うん」

「衣緒里は寿命を延ばしたいのか?」

 率直な質問に衣緒里は戸惑った。

「分からない。雪矢さんとは一緒に居たいとは思う。雪矢さんが長く私と居たいと言

うなら、叶えてあげたいとも思うけど……」

「けど?」

 晴臣は衣緒里の本心がどこにあるのか探る。

「けど、ただの人間が寿命を延ばすのは、何か違う気がする」

「衣緒里はもうただの人間ではないんだろう? 悔しいけど、神様の伴侶だ」

「そう言われても……」

 神様の伴侶だと言われても、衣緒里にはピンとこなかった。

 好きになった人がたまたま神様で、その人から求婚されたから受け入れた。それだ

けのことだと思っていた。なのに。

「まあ、雪矢さんが帰ってくるまでかなり時間があるし、その間にどうしたいのか考

えればいいんじゃないかな」

 晴臣は衣緒里の背中を軽く叩いて励ました。


 学校から神社に帰宅すると、お白様に化けたコンと狛犬の姿のままのアカが出迎え

てくれた。雪矢が帰るまで、衣緒里は実家に戻らず神社で過ごして待つことに決めたのだ。

「ただいま、コン、アカ」

「おかえりなさい、衣緒里」

「今日も雪矢から音信があったぞ」

 衣緒里は毎日、雪矢から寄せられる音信を心待ちにしている。

 音信は手紙の形をして届けられるが、読んだら一瞬にして消えてしまう。黄泉の国からの届け物は長い間、形を留めるのが難しいらしい。更に残念なことは、手紙は一方通行で、衣緒里からは送る手段がないことだ。

 衣緒里はコンから手渡された和紙をそっと開く。


 衣緒里

 今日も1日、息災に過ごせましたか?

 学校ではそろそろテストの時期が近づいているのではないでしょうか。

 僕は今日、黄泉の国の地獄谷というところを超えました。


 ここは温泉が沢山出ていてとても気持ちの良い場所です。衣緒里と一緒に来られた

ら良かったね。

 明日は山を超えて不束村へ向かいます。この村に神の果実のヒントがあるそうです。

 

 今日も一日、お疲れ様。また明日、お便りを出します。それまで元気で過ごして。

 雪矢


 どうやら雪矢さんは元気に今日も過ごしているらしいーー。

 それを知って衣緒里はほっと安堵のため息をついた。それと同時に、昼間、晴臣と会話した内容を思い出した。

 私は、人間の寿命以上の長寿は望んでいない。雪矢さんの望みとは相反するけれど……。

「衣緒里、元気なさそうだワね」

 アカが顔を俯かせた衣緒里を心配そうに覗き込む。

「雪矢に会えなくて寂しくなったのか?」

 コンが少し茶化して聞いた。

「……私、雪矢さんを追いかける」

『えっ?』

 アカとコンは突然の発言に同時に聞き返した。

「私、人間として普通の一生を送りたい。神の果実は必要ないって、雪矢さんに伝え

なきゃ」

 衣緒里は決心した。

 だが、そうは言っても、天界への行き方が分からない。

 神社の鏡の中の森は天界に繋がっているはずだが、ここから行けるのだろうか。ましてや雪矢が出かけたのは黄泉の国である。それがどこにあるのか、衣緒里にはさっぱり検討も付かなかった。

「それなら俺が手伝ってやろうか」

 地に響く野太い声に顔を上げると、見覚えのある顔がニヤリと笑ってリビングの入り口に立っていた。サルタヒコだ。

「タカミムスビに会いに来たら不在だったなんてな。ところで俺なら黄泉の国のタカミムスビのいるところまで、おまえさんを送り届けてやれるぞ」

「送り届けるって、どうやって?」

 サルタヒコはニヤリと笑うと、側にあった椅子にでんと座って脚を組んだ。

「簡単さ。俺は先導の神だ。俺なら黄泉までひとっ飛びさ」

衣緒里は逡巡した。知り合って間もないというのに、この男にそんなことを頼んで良いものなのだろうか。何の見返りもなくそんなことをしてもらう道理がない。

「黄泉の国まで送ってもらう代わりに、私に何かできることはありますか?」

 恐る恐る、思い切って聞いてみる。

 するとサルタヒコはフフンと鼻で笑うと、手を伸ばし衣緒里の手を取ってその指で弄んだ。

「そんなに警戒しなさんなって。俺はあんたが気に入ってるんだ。見返りなんか考えなくていい」

「そういうわけには……」

どうにも胡散臭いこの男を、衣緒里は信じることができない。

「そうだな。では」

 サルタヒコは衣緒里の腕を掴むと引き寄せ、自分の膝の上に座らせた。衣緒里がきゃっと小さく声を出す。そのままサルタヒコは顔を近づけ、衣緒里の頬に唇で軽く触れる。

「先に礼はもらったぞ」

 サルタヒコはケタケタと楽しそうに笑う。

 衣緒里はキスされた頬に手を添えて怪訝な目線をサルタヒコに向けた。コンとアカはヒヤヒヤしながら二人の会話を聞いていた。雪矢に見つかったらどんな反応をするか目に見えている。

「よし、じゃあ出発しよう。まずは天界に行って黄泉の国の入り口まで行こう」

「アカ、コン、留守番をお願いね」

 衣緒里は二匹の首周りを抱いてしばらくのお別れを惜しんだ。

 

衣緒里とサルタヒコは天界の神々が集まる神殿に来ていた。

「じゃあ早速出発と行こうぜ」

 サルタヒコが船のような乗り物を用意する。

「これに乗って行くんだ。さあ、衣緒里、気をつけて乗って」

 衣緒里が船を恐る恐るまたいで乗ると、サルタヒコは先端に立った。

「スピードを出すからな、落ちぬよう捕まっておれ」

 サルタヒコは天界の更に上空に船を走らせた。色とりどりの花畑やシラユキゲシの群生地が目下に見える。

「わぁ、すごい。天界を旅しているみたい」

 衣緒里は感嘆の声を出す。花畑の次は紅矢の離宮の上を通る。バラ園が見事な花を咲かせており、薔薇の花の甘い香りが鼻腔をくすぐる。更に先に進むと、森林が見えてきた。川がせせらいでいる。アマテラスの天の岩戸があるあたりだ。

 天の岩戸を通り過ぎると草原が見えて来た。

「このあたりは?」

 衣緒里は来たことのない領域に戸惑い始める。

「黄泉の国に通じる洞窟が、この草原を抜けたところにあるんだ」

 草原には何もなかった。平坦な土地にただ短い草が生えて、どこからか吹く風にたなびいている。草原のずっと先に目を凝らすと、岩場のようなものが見えて来た。洞窟のあるところなのだろうか。

 船は草原を越えて、岩場の前で止まった。

「ここが黄泉の国の入り口だ」

 サルタヒコは船から降りると、洞窟の前まで衣緒里を案内した。

「さて、お嬢さん。本当に黄泉の国に足を踏み入れるかい? 引き返すなら今のうちだぞ?」

 サルタヒコに念を押されるまでもなく、衣緒里の心は決まっていた。衣緒里は洞窟に一歩、足を踏み入れた。中は暗く、奥から冷たい風が吹き抜ける。

 風に抗いながら強引に中へと進むと、二十メートルほど行った先に泉があった。泉の上からは光が差し込み、水面が揺れているのが見えた。

「ここは『真実の泉』だ」

 サルタヒコが説明する。黄泉の国を支配するイザナミは偽りの姿でこの国にやってくることを嫌がる。だから入り口にこの泉を設けて、やってきたものの本当の姿を確かめる。

「つまり、私たちは大丈夫ということね」

 衣緒里は泉の水面を覗き込んだ。ゆらゆら揺れる水面に自分の顔が歪んで映る。

 サルタヒコものぞく。彼がのぞくと水面が凪ぎ、化け物のような姿が映った。衣緒里はあっと小さく声を出した。口は真っ赤で鼻が長く、目が鏡のようにギラギラと輝いている。体つきも大きい。衣緒里は一瞬、怯んだ。怪訝な顔をしてサルタヒコを見る。

「俺の本来の姿はコイツなんだよ。今は衣緒里に合わせて人間の姿をしているがな」

 ふうんと衣緒里が鼻を鳴らす。それでは雪矢さんはどんな姿が映ったのだろうと興味が湧いた。

「さあ、足を止めている暇はないぞ。進もう」

「進むって、ここは泉で行き止まりじゃない」

「だから、泉に飛び込むんだよ」

 ええっと驚愕の声をあげた衣緒里だが、先に飛び込むサルタヒコを見て、自分も意を決して飛び込んだ。

 泉は深かった。下へ下へと潜る。だが不思議なことに、下に進めば進むほど、空の景色が濃く深くなっていく。

 衣緒里はサルタヒコの方を見た。サルタヒコは慣れているとでも言うかのようにどんどん進んでいく。

 次第に水は薄くなり、空気の層が分厚くなってきた。呼吸をしてみると、苦しくない。サルタヒコが止まったので、衣緒里も止まった。

「ここは泉の中なの? 呼吸ができるなんてどこに繋がっているの?」

 衣緒里は辺りを見回したが、周りには空の景色しかない。雲があちこちに散乱している。上空は晴れていて清々しいが、地上に行くほど分厚い雲に覆われている。

「ここは黄泉の国の空だよ」

 サルタヒコはなんでもないことのように言う。衣緒里はふと、サルタヒコはここに来たことがあるのではないかと勘繰った。

「ねえ」

「あっ、地上が見えるだろう。早く行こう」

 サルタヒコに聞いてみようと思ったが、衣緒里は後回しにすることにした。今は早く雪矢のところに追いつくのが先だ。雪矢は地獄谷を越えて不束村にやって来ていると手紙で知らせてくれた。そこに追いつくまで、一体どのくらいの日数がかかるのか。

「地上に着いたら、不束村までの道のりを聞かないと」

「なんだ、不束村まで行くのか? 結構遠いぞ」

 二人は空を泳ぎながら地上を目指す。ふわふわと浮いた身体は風に乗って流されていく。

「衣緒里。とっておきの秘密道具があるぞ」

 サルタヒコは自分の髪を掻きやると、栗色の髪の毛を数本抜いた。

「俺の髪の毛に息を吹きかけて飛ばせば、行きたい場所までひとっ飛びできる」

「ひとっ飛び?」

「そうさ。本来なら何週間もかかる道のりを一瞬で行くことができる」

「そんな便利なものを私のために使ってもいいの?」

 サルタヒコは目を細めて衣緒里を見る。衣緒里の手を取ると、手の甲に唇を寄せた。上目遣いで覗き込む瞳はどこか熱っぽい。

「いいさ。俺はあんたが気に入ってるんだ」

 サルタヒコは衣緒里の肩を掴んで、くれぐれも離れないでと念を押して、栗色の髪の毛を口元に持っていき、ふっと吹き飛ばした。すると周りの景色が早回しのようにぐるぐると回転する。衣緒里と武尊は回転の波に乗って、そのまま不束村まで飛ばされた。


「ここが不束村のようだな」

 不束村は雨だった。土砂降りの雨が衣緒里とサルタヒコをびしょ濡れにする。

「おっと、こいつはいけない。どこかで雨宿りしよう」

 サルタヒコが側にあった宿屋の軒先に移動する。雨は止みそうにない。

「なあ、嬢ちゃん。雪矢のこと、そんなに好きなのか? こんなところにまで追っかけてくるほどに」

 サルタヒコが唐突にそんなことを聞いてきた。衣緒里はサルタヒコの目を見ると、何も言わずにこくんと頷く。

「そうか。神と人間の娘。障害は多いが、うまく行くといいな」

 衣緒里の頭をポンと叩く。

「俺、嬢ちゃんのこと結構気に入ってんだ。応援するよ」

 サルタヒコは優しい瞳で衣緒里を見下ろした。

「ありがとう」

 衣緒里は素直にお礼を言った。 

 雨が小振りになる頃、宿屋の中から外へ出かける人がまばらに出てきた。どれも皆神様なのだろうか。人の姿をした者は少なく獣や化け物の姿が目立つ。

「あれは皆、神様達だよ。姿も様々で面白いだろう?」

 サルタヒコが教えてくれる。

 と、そこに、人の姿をした、一際美しい人影が現れた。長い銀髪が揺らめいている。

「雪矢さん!?」

 衣緒里はその人影に駆け寄った。振り向いた人影は驚きの表情を隠さなかった。

「衣緒里!」

 それが衣緒里だと認めるや否や、雪矢は衣緒里を抱きしめた。

「何ヶ月ぶりだろう。懐かしいな」

 雪矢は衣緒里の頭の横にキスをして髪の匂いを嗅ぐ。

「雪矢さん無事だったのね。よかった」

 衣緒里も雪矢を抱きしめる。久しぶりの逢瀬を噛みしめるように。

「サルタヒコさんに連れてきて貰ったの」

「サルタヒコに?」 

 雪矢はサルタヒコを見た。途端に、雪矢の顔が険しくなる。

「サルタヒコ。ここまで衣緒里を連れてきてくれたことには感謝する。だが……」

「だが、素直に喜べないんだろう?」

「ああ。おまえが対価なしに動くとは思えない。求めるものはなんだ?」

「俺を業突く張りのように言いなさんな。だがそうだな、対価ならもう衣緒里から貰っている」

「衣緒里から……?」

 雪矢は嫌な予感がした。

「衣緒里に何を貰ったと言うんだ?」

「そりゃあ、乙女の大切なものさ」

「な」

 雪矢はそれ以上、言葉を継げなかった。代わりに衣緒里に向き直ると、問い詰める。

「衣緒里……サルタヒコに対価として何をやったんだ?」

「何って、サルタヒコさんが私の」

「まぁまぁ、いいじゃないか。俺が何を貰おうと」

 サルタヒコは話を遮った。雪矢に誤解させたままの方が面白そうだと思ったのだ。

「とにかく、俺は確かに衣緒里を雪矢のところまで送り届けたぞ。道中楽しかったな」

 衣緒里のおでこにチュッとキスをした。祝福のキスだ。

「雪矢とうまくやれよ!」

 そう言ってサルタヒコは元来た道を去って行った。


 雪矢は不機嫌だった。

 衣緒里がサルタヒコに対価として与えたものが何なのか、気になって仕方ないのだ。だが、衣緒里に直接聞くのも憚られた。サルタヒコは乙女の大切なもの、と言いおったのだ。

「雪矢さん?」

 悶々とする雪矢に声をかける衣緒里。

「神の果実のことで話があるの」

 衣緒里の真剣な表情に、雪矢も向き直った。

「ここでは雨が降っていて寒いだろう。中にお入り」

 雪矢は自分が泊まっている宿の部屋へ案内してくれた。

 宿泊所は簡素な作りだった。六畳一間の畳敷の部屋だ。押し入れが一つ付いている。煎餅布団の他には何もない。

「むさ苦しいところで申し訳ないけれど」

 雪矢はそう言って笑った。押し入れから座布団を引っ張り出して衣緒里に勧める。

「それで、話って?」

 目は笑っているが、その瞳の奥は真剣な眼差しが宿っている。大切な話だ。

「うん。あのね、雪矢さん。私、やっぱり寿命を伸ばしたいと思わない。自分の与えられた寿命だけで充分なの。雪矢さんには申し訳ないけれど……」

 雪矢はしばらく何も言わなかった。それからふうーっと長いため息をついた。そうして

「そうか」

 とだけ言って、長い間、窓の外を眺めた。

 しばらくの間、沈黙が降りた。雨がザブザブと地面を濡らす、その音だけが響き渡る。

 沈黙を破ったのは雪矢だった。

「実はね、神の果実はもう手に入れたんだ。思ったよりも早く手に入れることができた。ただ」

「ただ?」

「果実を持ち帰るにはイザナミの許しが必要で。そのために舞を奉納する約束があるんだ」

「舞を?」

「衣緒里が神の果実を必要としない以上、持って帰っても仕方ないものだけど、約束は約束だからね。この雨が上がったら僕はイザナミに向けて舞を舞うよ」

 雪矢は舞の一部を真似て見せてくれた。それはそれは美しい所作だった。


 雨は一晩中続いた。

 寒いだろうと言って、雪矢は一枚しかない煎餅布団を衣緒里に譲った。その隣に座布団を敷き詰めて寝転がっている。初め、衣緒里は自分が座布団の上で寝ることを申し出たが、僕はどこでも寝られるんだよ、忘れたのかいと言って雪矢が衣緒里の申し出を断ったのだ。

 次の日もその次の日も雨だった。

「なかなか止みそうにないな」

 雪矢は何か考え事をしているかのように降り頻る雨を見つめている。

「雪矢さん、怒っている……?」

 衣緒里は気になっていたことを恐る恐る聞いてみた。

「怒る? どうして?」

「だって、私は雪矢さんの願いを叶えてあげられないでしょう」

「そんなことで怒ったりはしないよ。ただ……そうだな」

 雪矢は衣緒里の目線を逸らさずにじっと見つめる。大事なことを告げる決意をして。

「……うん。衣緒里が人間の寿命を全うするのなら、僕も人間になりたい、なんて考えてた」

 人間になりたいーー。

「そもそも僕は衣緒里と同じ寿命で生きたいんだ。ずっと側にいたい。衣緒里が先に亡くなった世界で何千年も生き続けるなんて寂しすぎる」

 雪矢の独白は真に迫っていた。愛するものを亡くした後、たった一人で生きていくことは、それまでずっと一人だった生活に戻るのとは雲泥の差だ。亡くしたものの大きさを噛み締めながら、もう手元に戻りはしない面影を追うことはどんなに辛いことだろう。

 衣緒里にはそれが分かったから、何も言えなくなってしまった。代わりにこんな質問をした。

「神様が人間になるなんてこと、できるの?」

「うん……。どうだろう、前例の無いことだし」

「アマテラスさんやイザナミさんに頼んでも難しい?」

「どうだろう? そもそもそんなことが許されるのかという問題もある」

 雪矢は衣緒里を抱き寄せた。冷たい指先を自身の手で温めてやりながら、その華奢な手首を取って自分の頬に当てる。

「僕はこの温もりと同じ時間を分かち合いたいだけなんだ。神であっても、人間であっても、どちらの姿でもいい」

 雪矢は衣緒里の髪を愛おしげに撫でた。手放したくない大切なものを慈しむように、丁寧に優しくその一筋一筋を衣緒里の頭の形のままなぞった。


***


「雨が止まないな」

 分厚い雲がかかる空を見上げて、雪矢はため息を漏らす。雨が上がらないと、イザナミに奉納する舞が舞えないのだ。

「ねえ、雪矢さん。雪矢さんは『神の果実』を持って帰ってどうするの?」

 そうだなあ、と雪矢は考え込んだ。

 本当は衣緒里に食べさせて何千年もの寿命を与えたかったけれど、衣緒里はそれを望んでいない。神である自分が食べて寿命を延ばしたところで、さほど意味を為さない。コンとアカにでも与えるか? けれどあいつらも元はといえば神獣。寿命は神と同じくらい持っているだろう。

「与える相手が思い浮かばないな。嫌がらせで晴臣にでも食べさせるかな」

 雪矢はふふふと笑って不気味な声を出す。晴臣が何千年も一人で生きるところを想像してほくそ笑む。

「かわいそうだからやめてあげて」

 衣緒里が真剣に止めた。

「僕はね、あの小僧が妬ましいんだよ」

 雪矢はため息混じりに自分語りをし始めた。

 衣緒里と同じだけの寿命を持ち、衣緒里と共に同じ時間を過ごすことができる晴臣が羨ましい。自分も人間になれたなら。衣緒里と同じ長さの時間を生きることができたなら。

「イザナミさんに、人間になる方法を聞いてみたらどうだろう?」

 衣緒里が唐突にそんなことを言い出した。実現可能なことがあるのではないかと考えたのだ。

「人間になる方法を?」

「もしくは、人間にはなれなくても、寿命を縮める方法、とか」

 寿命を縮める方法か。

 雪矢は可笑しくなって小さく笑った。元来、人間達は永遠の命を求めてきたというのに、神である自分はそれに反して寿命を縮めたいと願っている。相反する願い。こんなに可笑しいことがあるだろうか。

「そうだな。舞を奉納し終わったら聞いてみるのもいいかもしれない」

 雪矢は窓の外の景色を見つめながらそう言った。外は雨でくぐもり、何の景色も見えなかった。


 翌日、ようやく雨が上がった。

 雨煙が晴れ、美しい山々の稜線が現れた。木々の葉から雨粒が滴り落ち、水溜りに波紋ができる。だが太陽が出ることはなかった。アマテラスが不在だからだ。山の彼方まで曇り空が続く。イザナミの力でほんの少しの光を保っているのだ。

 イザナミへの奉納は午後から執り行われることとなった。

 雪矢は真っ白で簡素な男物の装束を羽織る。着物の形をしたそれは白に近い銀髪の雪矢をより白く見せた。

「ああ、こわや、こわや」

 午前中にイザナミへの奉納を済ませた一団がざわざわと騒ぎながらこちらにやってくる。

「イザナミは今日はとんと不機嫌じゃ。アマテラスを黄泉の国に呼んで太陽を昇らせることにまた失敗したようじゃ」

 どういうことですかと、衣緒里は一団の会話に割って入った。

「分からぬ。わしらの奉納を気に入ってもらえなんだ。それどころか去れとまで言われてしもうた。あな、こわや、こわや」

「あの、どんなものを奉納したのですか?」

「お稚児だよ。可愛い男のお稚児の舞を差し出したんだが、えらく不機嫌だったな」

 ……男の子の舞。もしかしてイザナミが男嫌いということに関係しているのだろうか。

 どういうことだろうと雪矢も首をひねった。

「ねえ雪矢さん、着替えて」

 衣緒里は思いつきを行動に移そうと、いたずらっぽく笑う。

「いっそ女の人の姿で舞えば受け入れてもらえるんじゃないかしら」

「しかしここではイザナミの力に負けて神力は使えないのだぞ」

「姿を変えることくらいはできるのでしょう? だって今の雪矢さんの姿だって私の好みに合わせているだけで、本当の姿ではないんでしょう?」

そういうわけで、雪矢は女性用の衣装を身に纏うことにした。それどころか、雪矢自身が女性に化けた。

「まさか女性にでも化けるかと言った冗談が本当になる日が来るとはなぁ」

 そうは言っても、女性になった雪矢は天女のように美しい。長く伸びた白い髪、憂いを帯びた切れ長の瞳、細くハの字に垂れた眉。唇は艶やかで、吐く息からは果物の匂いがする。しなやかに伸びた肢体は細く、けれども肉が付くべきところには付いている豊満な身体。

 衣緒里はため息を漏らした。

「私が男だったら一目惚れしちゃうわ。嫉妬するなんておこがましいくらい美しい」

 そう褒めた。

「衣緒里は惚れっぽいんだなぁ」

 なんて言いながらも、まんざらでもない雪矢。衣緒里を引き寄せて抱きしめる。身長は女雪矢の方が高いので、すっぽりと覆われる形となった。

「さて、行ってくるね」


 奉納の舞台は宿屋の前に用意された広場だった。太陽光がないので篝火を焚いて光を演出する。衣緒里は宿屋の前から見学することにした。イザナミは空の彼方から見ているのだという。

 篝火に照らされて女性の雪矢が登場する。

 音楽はない。

 長いヒレのような布を巧みに動かし、まるで衣が一人でに動いているかのような演出をする。その動きが音楽のようで、音のない世界にメロディを紡ぎ出す。

 天女が舞う。

 その踊りは伝統的な日本舞踊というよりは、現代(コンテンポラリー)舞踏(ダンス)に近いものがあった。自由で闊達な動きをする踊りだ。天女が本当に舞い降りたかのような錯覚を見るものに与える。

 白い髪と赤い唇の妖艶な天上の女性。天女と視線が合ったものは惚けてその場に崩れ落ちる。

 踊りの最後は雪矢が舞台から姿を消して終わった。

「良きものを見せてもらった」

 空の上から雷鳴が響いて、イザナミが降りてきた。イザナミは痩せ細った身体付きからは想像もつかない大きな声を轟かす。

「我はいたく気に入った。タカミムスビよ、そなたが男であるのが惜しいな」

 拍手をして満面の笑みで雪矢の舞を褒め称えた。

「さて、そなたが望んでいたのは『神の果実』の人間界への持ち出しだったかの」

 イザナミは衣緒里のいる宿舎の方に目をチラリと見やった。

「はい。ですがその前に、許されるのならば、お伺いしたいことがございます」

「聞きたいことは分かっておる」

 イザナミは雪矢の元に降り立つと、宙に浮いた状態で腕を組んで雪矢を見下ろした。

「人間になりたいのであろう? あるいは人間と同等の寿命が欲しい、と」

「……はい」

 ふうむと親指と人差し指を顎に当てるイザナミ。

「お主はそれで良いのか? 神の座を退いてまで人間と共に生きたい、と」

「……はい」

 イザナミは少し笑った。その笑みは思いの外優しいものだった。今までもこうした申し出をしてきた神々がいたのだろうか。

「よろしい。教えてやろう。美しき舞の礼だ。人間への転生。できなくはない。だが、代償がある」

「代償とは?」

「今までそなたと関わった全ての人間の記憶からそなたが消える。もちろん、人間の小娘との結婚も無効となる」

 つまり、衣緒里の不老も無効だ。 

「記憶のない小娘と、そなたはどう添い遂げるつもりだ? 人間になれたとして、小娘はそなたではなく幼馴染みの男を選ぶかもしれぬぞ。神議りではそのような結果が出ているのであろう?」 

 雪矢はぐうの音も出なかった。

「それでも。それでも私は衣緒里を見つけ出して再び恋人にします。奪われたなら奪い返します。必ず衣緒里を手に入れて添い遂げてみせる」

 雪矢の決心は固かった。

「そこまで心を決めているのか。では教えてやろう、人間への転生の仕方を」

 イザナミは雪矢の側に寄って耳打ちをした。背が高いので雪矢と並ぶと大柄な女神が二人、内緒話をしているように見えた。


***


「さあ衣緒里、人間界に帰ろうか」

 元の姿に戻った雪矢が天女の衣装を脱ぎ捨てる。男の姿になったとはいえ、口紅を落とし忘れた雪矢の姿は天女の姿と重なって色っぽい。

「雪矢さん、紅がついたままよ」

 衣緒里が雪矢の唇を親指で拭った。その親指を雪矢は衣緒里の手首を掴んで舐る。きゃっと小さく驚く衣緒里をよそに、舌を出してニヤリと笑う雪矢は天女とはまた違った男の色気があって魅力的だ。衣緒里は思わず見惚れた。

「そういえば、イザナミさんに神様が人間になる方法は聞けたの?」

 衣緒里は受け取った天女の衣装を畳みながら気になっていたことをそれとなく聞いた。

「ああ。それについては内緒だ。イザナミとの約束なんだ」

 雪矢は神が人間になる方法を教わったが、イザナミはそれについては誰にも話してはいけないと念を押した。

「なによう」

 と膨れる衣緒里を雪矢は愛おしげに見つめる。

 もし、人間になったら。そうしたら、この娘は自分のことをすっかり忘れてしまうのか。悲しみとも絶望とも区別がつかない複雑な感情が込み上げてくる。

 衣緒里を愛したことも、衣緒里に愛されたことも全て忘れ去られて消えてしまう。

 このまま神の姿で居続ければ、衣緒里の寿命が尽きるまで共に過ごすことができる。それで充分ではないのか? たとえ衣緒里の死後、何千年も一人で取り残されたとしても。

 雪矢は自問自答した。考えても答えの出ない問いに頭を悩ます。

「ここから地上に帰るには三ヶ月はかかる。道中には温泉や景色の良い場所があるから帰り道を楽しんで行こう」

 心とは裏腹に、至極明るい話題を雪矢は振った。

「帰るときは流石にサルタヒコさんの髪の毛は使えないわよねえ。フッと飛ばしてひとっ飛び、なんて」

 衣緒里は来る時に使ったサルタヒコの秘密道具を思い出す。

 驚いたのは雪矢だった。

「サルタヒコの技を使えたのかい!? ここでは神力は使えないはずだが。イザナミの力に綻びが出始めているのだろうか」

 雪矢は訝しく思ったが、試しに衣緒里を抱いて飛んでみた。いつもの軽快さはないものの、浮くことができる。これなら歩かずとも衣緒里を抱えて飛んでいけそうだ。

 二人は二ヶ月ほどで黄泉の国を抜けた。


 地上に戻ってきた頃には春になっていた。桜の花が満開を過ぎ、つつじがその香りを空気に満たす季節。衣緒里は高校二年生に進学した。

「衣緒里、おかえり。突然いなくなったから心配していたんだ」

 晴臣が衣緒里の席に来て、机に肘を置いてしゃがむ。衣緒里は突然いなくなったり現れたりするものだから、晴臣としては気が気でない。

「アカが衣緒里の代わりに授業を受けているし、またどこかに出かけたんだな、って」

「うん、雪矢さんを追って黄泉の国に行っていた」

「黄泉の国? また物騒そうなところへ行ったもんだな」

 晴臣は衣緒里の目を覗き込んだ。衣緒里の瞳は伏せられて、どこか心ここにあらずだ。

「元気ないな。何か悩んでいるのか?」

「……最近、雪矢さんの様子がおかしくて」

 黄泉の国から帰ってきてからというもの、雪矢は神社の神殿に篭って何やら考え事をすることが多くなった。どうしたの? と問うても、笑って誤魔化されてしまう。

 雪矢はクシナダヒメの櫛で髪を整えることも多くなった。今まで雪矢が身だしなみに拘る姿を見てこなかったから、異様な光景だ。

「なんだか思い詰めた表情で私を見るの。何も言わずに去ってしまいそうな目。いつか雪矢さんがいなくなってしまうのではないかって、不安になる」


 悲しいことに、衣緒里の心配は当たっていた。

 雪矢は何度か人間になるための儀式を試していた。けれどもその度に、衣緒里との別れを思って完遂できずにいたのだ。

 だが、それも今夜で最後だ。

 新月の晩、雪矢は神社の御神体である鏡の前で居住まいを正し、正座する。鏡の前には小刀と盃が置かれている。

 雪矢はイザナミとのやりとりを思い返す。

 太陽も月もない深夜に、鏡の前で神力が宿る神の髪を切り落とす。それから、「神の果実」を発酵して酒にしたものを一口、口に含む。儀式はそれで終わりだ。

 そうすれば雪矢は神の座を退くことができる。程なく地球上のどこかに飛ばされ、人間としての第一日が始まるだろう。

 雪矢は一人で去ろうとしていた。別れの挨拶を告げることなく。

 別れを惜しんだところで何になる? 明日にはその別れすら衣緒里は忘れてしまうというのに。

 雪屋は一呼吸置くと、決心して小刀を手にする。

 カタ、という音がして、神殿に衣緒里が忍び込んできたのが見えた。こんな夜更けに、どうしたのだろうか。

「衣緒里」

 雪矢は小刀を元の場所に戻し、忍び足で進む衣緒里を包み込むようにして抱き上げた。驚いた衣緒里が雪矢の腕の中でジタバタと動く。

「何をしているんだい」

 衣緒里の胸のあたりに顔を埋めると、風呂上がりの石鹸の匂いが立ち上る。

「雪矢さんの様子がおかしいから、覗きに来たの」

 大きな瞳を震わせて、雪矢を覗き込む。

「おかしくなんかないさ。イザナミに道中無事のお礼を祈っていたんだよ」

 それは雪矢がついた嘘だった。衣緒里に人間になるための儀式を悟られないための。

「あの盃は……?」

 衣緒里が「神の果実」の発酵酒の入った器を見つけた。

「『神の果実』をお酒にしたものだよ。イザナミに供えていたんだ」

 これも嘘だ。

「そう」

 衣緒里は所在なく首に通したネックレスのチェーンを弄んだ。チェーンの先には雪矢から贈られたシラユキゲシの指輪が光っている。学校では華美な装飾品を着けることができないから、お守り代わりに首に通し、肌見離さず持ち歩いているのだ。

 暗闇で僅かな光を受けてキラリと光るそれを見つけた雪矢は衣緒里にひとつお願いをした。

「ねえ、衣緒里。もし、万が一僕がいなくなっても、その指輪を捨てないで持っていてくれる?」

 記憶は消えても、愛の証が消えてしまわないように。

 おかしなことを言う雪矢を衣緒里は怪訝に思ったが

「捨てる気なんてないわ」

 そう言って雪矢を安心させた。万が一のことを言う雪矢に衣緒里は不安が込み上げる。

 雪屋はそんな衣緒里の頭頂にキスをひとつ落とした。最大限の愛を込めて。

「……衣緒里、お別れだ」

 雪矢は小刀を手に取ると、自分の髪に刃を当てた。ザクッという音とともに、雪屋の美しい銀髪が床に散る。全ての髪を切り落とすと、短髪になった雪矢は発酵酒に手を付けた。ザクロの甘酸っぱい酸味が口内に広がる。

 すべての動作はほんの一瞬だった。

 その次の瞬間、御神体の鏡から光が放たれた。光は雪矢を照らし出す。

 衣緒里には何が起こっているのか理解できなかった。あまりの光量に、衣緒里は目を開け続けることもままならなくなった。衣緒里の首にかけられたダイヤの指輪が、鏡の光を受けてキラキラともギラギラとも輝く。

 雪矢は光の中に消えた。刹那のことだった。

 別れを告げることもせず、ひとり静かに去った。

 残された衣緒里は気を失って倒れた。神殿の床で横たわったまま眠る衣緒里は、翌朝、神社に参拝しにやってきた近所の人に発見された。


***


雪矢が去って三年が過ぎた。衣緒里と晴臣は大学二年生になった。

 雪矢と関わった人々は、あの図々しくも優しい氏神様のことは始めからいなかったものとして忘れ、日々は何事も無かったかのように過ぎた。


 晴臣は大学の実習の帰り道、衣緒里を捕まえようと文学部棟にやってきた。歴史学のフィールドワークから帰ってきた衣緒里を見つけて、大学のカフェへと誘う。

 カフェは学生達で賑わっていた。食事を摂る者、勉強をする者、仲間内で会話する者、様々である。

「なぁ、衣緒里。今度の夏休みに旅行に行かないか? サークルの連中と企画しているんだ」

 衣緒里と晴臣は同じ天文サークルに所属している。

「どこに行くの?」

「沖縄を予定している」

「沖縄かあ」

 沖縄の空は美しかろう。それは楽しい旅になりそうだ。衣緒里は期待に胸を膨らませた。

 晴臣と別れると、衣緒里は担当教授のいる部屋へ向かった。今、研究している神社の歴史について助言を得ようと思ったのだ。

 エレベーターが降りてくるのを待つ。

 一階に到着して扉が開くと、一人の男性が箱の中から現れた。

 白に近い銀髪に背の高い、顔貌の整った男性だ。男性は衣緒里を認めると、すれ違いざまに微笑んだ。衣緒里は会釈をしてエレベーターの小さな箱に滑り込む。

 どこかで会ったことのある人だなと、衣緒里は思った。でもどこで?

 教授室にノックして入ると、数人の学生が教授を囲んでいた。大学院生なのだろう。論文の相談をしているらしい。大学二年から教授室に入り浸る衣緒里は珍しいらしく、院生らに衣緒里くんは勉強熱心だなあと揶揄われる。

 衣緒里はお白様の神社について研究していた。

 三年前まではいたという宮司が不在となったその神社は、廃社の危機に瀕している。衣緒里はこの神社が気になった。神社を訪れると何となく懐かしい気持ちになるのだ。

「タカミムスビの神社なら、確かあいつも調べていたよ」

「あいつ?」

「うん。白峰(しらみね)。白峰雪矢。ほら、銀髪の奴」

 さっきエレベーターですれ違った男性のことだろうと衣緒里は推測した。

「今度、白峰に会えたら色々聞いてみるといいよ。彼はあの神社については非常に詳しいんだ」

 教授が雪矢の知識について太鼓判を押した。衣緒里は教授と院生達にお礼を告げて部屋を後にした。

 階段で階下に降りる。一番下の階に来たところで、白峰雪矢と鉢合わせた。

「やあ」

 と雪矢は微笑んで、衣緒里に話しかけてきた。

「タカミムスビの神社について調べている女学生がいるって聞いていたけれど、君のことかな?」

 雪矢は衣緒里の持っている荷物を見た。神社の歴史に関する資料を両手いっぱいに抱えている。

「あ、たぶん私のことです。えっと、白峰先輩、でよろしかったでしょうか」

「うん。雪矢でいいよ、衣緒里」

 衣緒里ーー。

 その呼ばれ方に聞き覚えがあるような気がした。衣緒里は思わず手に持っていた資料をバサバサと床に落とした。初対面なのに名前で呼ばれる図々しさよりも、その響きの懐かしさに衣緒里は囚われた。

「雪矢先輩とはどこかでお会いしたことがあるのでしょうか。懐かしい感じがします」

 衣緒里は思い切って感じたことを話してみた。

 雪矢は衣緒里の落とした資料を拾い上げる。屈んだ状態の上目遣いで衣緒里を見た。

「あるよ。君が覚えていないだけでね」

 そう言ってほほ笑むと、衣緒里の両手に資料を押し付けた。

「その指輪は誰かに貰ったのかい?」

 衣緒里は右手の薬指にシラユキゲシの指輪をはめていた。

「分からないんです。気づいたら持っていて。でもとても大切な物なんです」

「そうか。……今日の帰り、神社においで。タカミムスビの神様の昔話を教えてあげよう」

 雪矢は衣緒里と会う約束を取り付けると、じゃあと言って去って行った。


 家に帰ってから母親に雪矢について尋ねてみる。

「白峰雪矢さんって知ってる? 私の小さい頃に会っていたとか」

 母は怪訝な顔をした。

「さぁねえ。聞いたことないわね」

 とだけ言った。

 晴臣にも電話して聞いてみたが、

「知らないなぁ」

 とだけ返ってきた。


 衣緒里は上着を羽織ってお白様の神社に向かった。月が白く東の空に浮かんでいる。春先とはいえまだ肌寒い夕暮れ時である。

 神社に着くと、入り口のところで獅子と狛犬の石像が迎えてくれる。この石像にも何故か愛着が湧く。

 境内に足を踏み入れると、本殿の鏡の前で雪矢が何やら祈っていた。

「雪矢先輩?」

 声をかける。雪矢が振り返った。衣緒里を認めると優しく微笑み、本殿の外にやってくる。

「何をしていたんですか?」

「宮司の真似事をしていたんだ。この神社は廃社の危機だろう? 僕が継ごうと思ってね。資格は養成所で取れるし」

 雪矢は縁に座って神社の歴史について語り始めた。

「この神社に祀られていた神様の話をしようか」

 この神社の神様は、ニエとして差し出された人間の少女と恋に落ちた。神様は少女の寿命を延ばして自分と同じだけ生きてほしかったが、少女はそれを望まなかった。だから神様は自分が人間になる方法を探した。そうして神様は人間になったんだ。でも寂しいかな、人間になる代わりに少女の記憶は消えた。だから少女は神様を愛したことを忘れてしまったんだ。

 つい最近の出来事のように語る雪矢は、寂しそうに瞳を揺らした。

「神様はね、もう一度少女に愛してもらうために少女の前に現れたんだ」

 雪矢が衣緒里の頬に触れる。温かく滑らかなそれは三年前と同じだった。

「衣緒里、待っていたよ」

 雪矢は衣緒里を見つめた。衣緒里は心臓が早鐘を打つのを自覚した。

 待っていたって、どういう意味? 雪矢の言葉を反芻する。

「何をしてるんだ?」

 声のする方を見やると、晴臣が狛犬の石像の横で仁王立ちしていた。雪矢を見て眉間にしわを寄せる。

「衣緒里、帰ろう」

 晴臣は強引に衣緒里の手を引いて神社から抜け出した。

「晴臣、一体どうしたの?」

「説明がつかないんだが、俺はあの銀髪が気に食わない」

 晴臣はどんどん歩いて衣緒里を近くの公園に連れて行った。

「今日は風が凪いでいるから星が綺麗だな。沖縄に行ったら満天の星が見えるだろう」

 上空を見上げてそんな話題を振る。

「……なあ、衣緒里。今更こんなことを言うのもおかしいかもしれないけど」

 長い前置きをする。

「俺達、付き合わないか?」

 晴臣が鼻先を掻きながら告白する。照れているのだろう。

「俺、おまえのこと昔から好きなんだ」

「晴臣……」

 衣緒里は返事に窮した。ただ黙って晴臣を見つめ返す。

「生憎だが衣緒里は私の恋人だと決まっているんだ」

 振り返ると雪矢が息を切らして立っていた。追いかけてきたのだ。

 シラユキゲシのかんざしを胸ポケットに添え、雪矢は衣緒里に近づく。かんざしを取り出すと、衣緒里の傍に寄り、耳の横にそっと挿した。

「僕は君を愛している。大好きだよ」

衣緒里の耳元でそっと囁く。かんざしは衣緒里が持っている指輪とそっくりだった。

「どうして雪矢先輩が同じものを持っているの……?」

 衣緒里の胸に一筋の記憶が呼び起こされる。 

 それは以前、天界のシラユキゲシ畑で雪矢が同じことをした光景と重なった。

 かんざしを挿して君を愛していると雪矢が言った、あの花畑。

 その時、衣緒里は思い出した。唐突に。そして鮮明に。

「雪矢、さん……?」

 記憶は洪水のように衣緒里を駆け巡る。

 ニエとして差し出された十六歳の誕生日。天界に連れて行かれだまされる形で結婚させられたあの日。天界の神々から祝福を受けたこと。それから雪矢にプロポーズされたシラユキゲシの花畑。衣緒里に長寿を与えようと黄泉の国へ出かけた雪矢。人間になりたいと言い出した彼の瞳。

「お白様!」

 衣緒里は雪矢に駆け寄ると、その腕の中に飛び込んだ。





エピローグ  私の好きな人は神様でした


月が黄金に輝きながら紺色の空に昇っていく。風はなく春先の少し冷たい空気が衣緒里と雪矢を包む。二人は春の夜道を歩きながら雪矢の不在の三年間を振り返った。

「衣緒里に僕を選んでもらえなかったらどうしようかと思っていた。怖かったんだ」

 雪矢は衣緒里の手を繋ぎ、そっと引く。三年分の告白を始める。

「衣緒里と同じ大学に編入するのにも時間がかかった。姿を現すまで三年もかかってしまった」

 夜道は穏やかで、通る人もまばらだ。薄暗い街灯が点々と灯り始める。二人は道端で立ち止まった。

「ゆっくり近づいて仲良くなればいいと思っていたんだ。君には記憶がないからね。でも晴臣がいた」

 衣緒里の方を向いて見つめる。真剣な目だ。

「あいつに君を奪われるなんてごめんだよ。いや、他の誰であっても許せない」

 雪矢は衣緒里を自分の腕の中に誘った。雪矢の胸に頭を寄せると、足元に月影が見えた。

「でもまさか僕のことを思い出してくれるなんて思ってもみなかった」

 雪矢は嬉しそうに衣緒里の髪を撫でた。

「このシラユキゲシのかんざしが思い出させてくれたの」

 衣緒里は雪矢にもらったかんざしを引き抜いて見せる。

「かんざしが?」

「かんざしを挿してもらった時、昔の光景が頭に浮かんだの。シラユキゲシの花畑でお白様が私に挿してくれた時のことを」

「そうか。記憶が戻ったのはもしかしたらイザナミの力に綻びが出ていたからなのかもしれないな」

「どういうこと?」

「神力が使えないはずの黄泉の国で飛んで帰ることができた。人間になる方法も、僕に関わった人間の記憶が消されてしまうはずだったのに、衣緒里には効かなかった」

「私には好都合だったわ。今まで雪矢さんのことをすっかり忘れていたなんて、信じられない」

 二人は顔を見合わせて微笑んだ。衣緒里はくすぐったいようなむず痒いような思いに囚われていた。こんなに愛した人を今の今まで忘れていたなんて。雪矢さんは三年も待っていてくれたというのに。

 雪矢の三年は途方もない三年だった。再び愛してもらえるかも分からない記憶を失くした乙女を追って、ただひたすら自分を抑える日々だった。いつかチャンスをと思っても、どのように近づくべきか慎重にならざるを得ない。他にライバルがいる中で、マイナスからのスタートを切る悔しさはどれほどだったことだろう。

「雪矢さんはもう他の神様達には会えないの?」

 玄矢や紅矢、アマテラスにスサノオ、クシナダヒメ、ククリヒメ、それからサルタヒコ。イザナミもいる。たくさんの個性的な神様達の顔が浮かぶ。

「ああ、残念だけど人間になった僕には天界に繋がる力はない。でも玄弥兄さんや紅矢は元気に過ごしているはずさ。人間の僕は天涯孤独だけど、彼らが見守ってくれていると信じているよ」

 神社に戻ろうと雪矢が誘って、二人は再び夜道を歩き始めた。

「人間として衣緒里の横を歩けるなんて、感無量だな」

 雪矢は衣緒里の手を強く握った。

「このまま空を飛んで行くことはできないけれど、衣緒里と同じ速度で歩ける。それがこんなにも幸せだなんて」

 衣緒里は雪矢の腕を掴むと、うるんだ瞳で雪矢をまじまじと見つめてから

「私も幸せ」

 と呟いた。


 神社の鳥居をくぐると、参拝客なのだろう、二つの人影が本殿の方を向いている。お参りをしているのだろうか、本殿の前でじっとしていて動かない。人影はこちらの足音に気づくと振り返った。その二人に衣緒里は見覚えがあった。

 人間に化けた玄矢と紅矢だった。

「雪矢、衣緒里。二人とも、探していたんだ」

 玄矢がこちらに向かって来る。紅矢がその後を追いかけて付いてくる。

「我らはしばらくこの神社に滞在することとなった」

 玄矢が告げる。

「タカミムスビの神社は今、神様が不在だろう? 代理にカミムスビである俺とアメノミナカヌシである玄矢兄さんが交代で派遣されることになったんだ」

 紅矢が鼻の下を拭って頭を掻いた。

「玄矢さん。紅矢さん」

 衣緒里は二人に駆け寄った。

「玄矢兄さん、紅矢……」

 雪矢は三年ぶりに会う兄弟にゆっくりと近づいた。懐かしさで胸が締め付けられる。

「まさかまた会えるなんて思ってもみなかった」

「アマテラスが行ってこいって背中を押してくれたんだ。まあ、次世代のタカミムスビが見つかるまで、この神社は我らが預かるから安心しろ」

 玄矢が雪矢の肩を叩く。

「ところでおまえ達に懐かしい顔に会わせてやろう」

 紅矢はそう言うと鳥居の方を向く。

「コン! アカ! 姿を現せ!」

 紅矢が叫ぶと石像がオウと鳴く。出てきたのは動く獅子と狛犬だ。

「コン、それにアカ! 元気だった?」

 衣緒里が満面の笑みで駆け寄り、二匹の首にしがみつく。雪矢も嬉しそうだ。

「やあ、衣緒里。雪矢。久しぶりだな」

 コンが雪矢の周りをぐるりと歩く。

「私達のことを覚えていてくれて嬉しいワ」

 アカがぴょんと跳ねて屈んだ衣緒里の頬をくすぐる。

「久しぶりの再会だ。今日は天界で酒盛りといこうか」

 紅矢がほくほくした顔で誘う。

「えっ、私お酒飲めませんよ」

 衣緒里がたじろぐと

「大丈夫。酒以外も用意してある」

 玄矢が優しく衣緒里を気遣った。


 そう言うわけで、四人と二匹は天界の紅矢の別邸に来た。

「おおーい! 俺たちも呼ばれて来たぞ!」

 スサノオが手を振っている。アマテラスとクシナダヒメも一緒だ。

「私達もお邪魔させていただくわ」

 ククリヒメとサルタヒコもやって来た。

「今、天界では恋した乙女を追って人間になった神について話題がもちきりだぞ」

 スサノオが言う。

「流石の俺もそこまではできない。神の地位を降りてまでよく決心したよなぁ」

「無責任だなんていう神もいるが気にしないこと。愛に生きるなんて素敵なことなんだから」

 アマテラスが雪矢にウインクを飛ばす。

 屋敷の中は宴のどんちゃん騒ぎとなった。スサノオとサルタヒコが面白おかしく踊っている。女性陣の神々はお酒を空けて酔っ払っている。

 皆、愉快に大きく笑った。

「あれは?」

 雪矢が真新しい鏡を見つけて玄矢に聞いた。

「新しいタカミムスビのための鏡だよ。ここに保管してあるんだ」

「へぇぇ」

 雪矢が腰を屈めてじっくりと見ようと近づいたその時。

「衣緒里、ちょっとくらいいいじゃないか。飲めよ〜」

 泥酔したスサノオに絡まれた衣緒里が雪矢にぶつかった。その勢いで、雪矢は鏡の方に倒れ込む。

 ガシャンという大きな音がして、起き上がると、鏡は粉々に砕けていた。

「なんてことだ……」

 御神体の鏡を割ってしまった。

「大丈夫だよ。鏡の一つや二つ……ん、いや」

 紅矢が何かを企んだ顔をする。

「衣緒里! 雪矢! これは神のお告げだ。おまえ達から生まれてくる子孫から百年の間にニエを出せ。それで許してやろう」

「ええっ」

 驚いた衣緒里と雪矢だったが、雪矢はすぐに気づいた。それは二人が結ばれるようにと仕組んだ神様の計らいだということに。   

「そうだな。ニエは男の子でも女の子でも良いぞ。きっと二人に似た可愛い子どもが務めるだろう」

 玄矢も紅矢の作戦に気付いたようで、子どもの誕生を楽しみに語る。

「ではわたくしからお祝いに、衣緒里と雪矢にご縁結びの祝福を授けましょう」

 言い出したのは縁結びの神様ククリヒメだ。衣緒里と雪矢に近づくと、おでこにキスを与えた。

 ククリヒメに続いて他の神々も競って二人に祝福を与える。

 衣緒里はキスの嵐を受けながら、雪矢を見やった。幸せそうに笑う雪矢を見て、胸が熱くなる。

 春の夜更け、まだ肌寒いこの季節。天界では神様達が祝福を受けた二人を囲み、楽しくも温かい笑い声が一晩中響き渡った。それは人間と、神様と神獣と、そして元神様による朗らかな大円団の音だった。

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氏神様の婚約者 檀 まゆみ @mayumi01

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