最終話 私の小さな幸せ

 桜の花が散る道を大勢の大学生が歩いている。鞄を提げながら談笑し、胸を張って歩いている。彼らは入学式を終えたばかりなのだ。

 晴れ渡った青空にポツンと浮かぶ太陽が、彼らを等しく照らしていた。

 上喰も今日できた友人達と校門前まで歩いた。これから遊ぶ段取りを決めていたのだが、スケジュールの都合で明日に持ち越しとなった。

「じゃあな、大地!」

「また明日な!」

「おう、お前らじゃあな!」

 彼らと別れた上喰は、ここから離れた駐車場へ向けて歩き出した。逮捕された母親の代わりに面倒を見てくれている親戚が、車の中で自分を待っているのだ。

 上喰は白い花びらが雪のように降る道をてくてくと進んでいく。二人の友人ができたという幸先の良さを感じつつも、ふと思わずにはいられなかった。

(噛田なら、今のスーツの自分を見てどう思うだろう)

 もし入学式に来てくれたら、友達ができたと言う話を聞いたら、彼はどんな反応をしただろうか。だが確かめる術はない。

「最後まで邪魔しやがって」


 噛田は飛び降りた時、上喰を庇って死んだのだ。地面へ激突する寸前、噛田が上喰を強く抱き寄せ、両腕で頭を包み込んだ。直後に鈍い音と衝撃が頭上を襲い、体が地面に打ち付けられる。

 全身に痛みと、それを上回る程の絶望が駆け巡っていた。

「噛田」

 奴の名を呼びながら顔を上げた途端、息が止まった。噛田は上喰の横でうずくまり、頭部から血を吹いていた。右半身も潰れており、腕や足が逆方向へ曲がっている。衝撃で顔から飛び出た右目が、血溜まりの中でぬらぬらと光っていた。

 噛田は助からない。素人でも見て分かった。

「何でだよ」

 彼の無事な方の手を握る。

「何で、何で……っ!!」

 パニックでそれ以上言葉が浮かばない。だが、目の前で死にゆくお節介者に、何でもかんでも言わずにはいられなかった。

「殺人鬼の方が死んでどうすんだよ!ターゲットを消すって約束しただろ!?」

「ごめん。ついうっかり」

 噛田がこちらを見た。

「怪我はない?」

「馬鹿野郎」

 上喰は辺りを見回した。携帯は遠くに転がっていた。

「救急車、呼ぶから」

 そう言って取りに行こうとしたが、足が動かない。噛田が足首を掴んでいた。

「話を聞いて」

「助かった後で聞いてやる」

「お願い……」

 噛田が血を吐く。顔は真っ白で血の気がなく、その時がすぐそこまで近づいていた。

「君はこの先、何度も絶望するかも知れない。そんな時は、私を思い出して憎んでほしい。最後まで君を欺いた私を」

 上喰は無言で首を横に振った。

「もしその怒りが、憎しみが君の生きる原動力になれたなら……それこそが、私の小さな、幸せ……」

 言い終えると同時に、噛田の頭が垂れた。脈は止まっていた。

 上喰は服が汚れるのも構わず、彼の躯を抱きしめた。噛田の躯から消えゆく温もりを、何一つ忘れないために。

 やがてしばらくしてから、上喰はすっかり凍りついた噛田から離れた。

 地面に広がる血溜まり、その上でうずくまる男と奥に転がっている携帯、そして奴を見下ろす自身のか細い息遣い。その時にようやく実感が湧いてきたのだった。

 これは夢でも何でもないと。


 風が足元を吹き抜ける。気づけば上喰は桜の木の下で立ち尽くし、涙を流していた。

「いけね」

 頬を何度も拭い、誰かに見られていないか辺りを見回した。幸い通行人は誰も自分を気にかけてはいなかった。

(何が絶望した時、私を憎んで生きてほしいだ)

 上喰は吐き捨てるように呟いた。

「俺は絶望しない」

 お前が死に際に得たのが小さな幸せなら、俺はもっと上にいってやる。お前の分まで幸福になってやるから、地獄から指咥えて見てろよ。

 そして俺が死んだら、お前の元へマウントしに行くからな。

「待ってろよ、噛田」

 上喰は鞄を持ち直し、歩道を勢いよく走り出す。花びらの群れが風で吹き飛ばされ、空を優雅に舞っていた。

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私の小さな幸せ 桜橋 渡(さくらばしわたる) @sakurabasiwataru

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