第五夜 永い時の中で


 これは昔、私が総合病院へ勤務していた頃の話である。


 そろそろ最期を迎えるだろうという老人に、妻を名乗る若い女性が見舞いへ訪れていた。

 看護婦たちは、やれ愛人だ財産目当てだと噂をしていたのをよく覚えている。短く切られた黒髪はその顔をより小さく見せ、スラリとした艶かしい手足を今風なワンピースから覗かせる。

 何より凛とした切れ長の紅い瞳は、既婚者の私も思わず目を奪われるほどの妖艶な女性だった。

 その老人といえば、かつては海外を飛び回り、大きな財を成した地元の名士であるが、最後は家族でなく金に釣られた女だとは、なんとも哀れなと思っていたものだった。


 しかし、その愛人とやらも随分熱心に見舞いに来ており、季節の花に果物と病室に彩り、老人の体調が良い日は手を引いて庭を散歩するなどしている。

 その様子は仲睦まじく、確かに良い夫婦——のように思えるのだ。


「ずいぶん仲がよろしいですね」

 私は付き添いとして来ていた女へ、一度そのように話をしたことがある。

「ええ、とっても」

 女は顔をほころばせる。老人は、薬が効いて、穏やかに眠っていた。


「こんなに年齢差があると言うのに、この人にはとっても良くしていただいたわ」

「確かに、その年齢差ではご苦労もあるでしょう。これからのことにご心配はありますかね」

 今思えば不躾な質問だったかもしれないが、女はそのような私の問いに、

「いいえ。長い人生の中で、一瞬でもきらめく時間が有れば、きっと生きていけますから」

 と愛おしそうに老人の寝顔を撫でていた。


 寒くなると、いよいよ老人の容態も悪くなり、女はつきっきりで老人の部屋へ泊まりこむようになった。

 あれだけ噂していた看護婦たちがたちも、その様子にむしろ女へあれこれ気にかけるくらい逼迫した様子であった。

 臨終の時まで、女は老人の手を握っていたという。




 さて、日々に追われそんな患者のこともすっかり忘れていたある日、偶然にも新しい後輩となった若い医師が、その老人の遠い親族であることを知った。

 酒の席で彼は、先生には世話になってようで、などと恭しく話し出す。私は、歯がゆい気持ちで彼に勧められた地酒を口に運んだ。


「思わぬ縁だなぁ。やはりあれほどの名士というのは親戚も多いのだろうか」

「はは、一応は華族の流れを汲むらしいですから。しかし、あの旦那様自身にはお子さんもおらず、ご兄弟もすでに亡くなられた聞いています。そのおかげと言ってはなんですが、遠縁だというのに私の母へ財産の一部が回ってきて、こうして医者として仕事にありつけているわけです」

「おや、そうなのかい。しかし、奥様がいたのではなかったかな」


 彼と話ながら、私はあの愛人らしい女性のことを思い出し、すっかり気になってしまった。どうにか婉曲に尋ねれないものかと話を続ける。

「奥様は、墓を整えると役目を終えたように亡くなったと聞きました。そうだ、これ、写真を持っているんです」

 すると彼は、手帳から一枚の古い写真を取り出した。


「僕の小さな頃、その旦那様の結婚式に招待された時の写真がありまして。この縁で今の自分があるのですから、こうしてお守りにしているのです」

 ご立派なお屋敷を背景に、何人かの若い男女が揃って写っていた。真ん中にいるのがかつての老人の若い頃だろう。なかなか男前である。そして。

「そして、この左端に並んでいらっしゃるのが、その隣が奥様ですね」


 私は酒とともに言葉を飲み込んだ。

 そこに移る奥様というのは、あの愛人らしい女そのものであった。髪は長く、白無垢を身に纏っているが、この妖艶な切長の紅い瞳は間違いない。


「再度聞くかもしれないが、お子さんはいらっしゃらないのだね」

「え、ええ」

「この奥様の親族は?」

 彼は、変なことを聞くなという顔をしつつも、戦争孤児らしいと答えてくれた。


 なんということだ。それではこの女、愛人ではなく本当に奥様であったわけだ。

 いや、それ以前に——長い間ずっと変わらぬ姿のままだということになるではないか。


 しかし、それが本当なら、この旦那が死ぬまで妻として付き添っていたことになる。

 私は女の言葉を思い出した。もしこの現実離れした突拍子もない話が本当であれば、なんといじらしい物怪なのか。

 ひょっとすれば、女は今も、死んだふりをしてどこか知らない土地で永い人生を歩んでいるのではないか。きらめく一瞬の時間を胸にして。


 そう考えると、私は老人を少し羨ましく思うのだ。

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