ある看護師の診療記録
注射は嫌いだ。
駆血帯で縛られて、浮き上がった血管は寄生虫のようだ。コリコリと私の探る指を避ける。血管の生きが良くて嫌いだ。同期生にやたら注射のうまい子がいた。自分の腕にしろ、他人の腕にしろ、むやみに練習したがったからはじめから怪しかった。差し出される利き腕とは逆の、左腕。とっさに彼女の腕を掴んでまくり上げると、ビンゴ。彼女は「昔のことだよ」と笑って誤魔化した。常習者なのは明白だった。けれど、厄介だったのはそのことじゃない。よく指先の震えを抑えられたなと感心したぐらいだ。
彼女はテロリストだった。
私の血管を貫いた針は、彼女の血管を貫いた針でもあった。
流行後に行われた検査で、同期のほぼ全員が感染者であったことが判明した。その頃には、彼女はとっくに看護学校をやめてしまっていた。
危険思想。試験では見逃される項目だった。彼女と学んでいた頃はまだ感染症の流行前で、海外で発見された新種のウィルスというぐらい。病院関係者でも重く受け止めている者は少なかった。危険性の低さも油断を誘った。だから、見過ごされた。日本に感染者がいるなんて思われていなかったのだから。検査項目は存在しなかった。致死性はなく、感染しても自覚症状がなく、わざわざ血液検査をしなければ発見することもできない。今でこそ簡易キットができたけれど、ちょっと微熱ぐらいで検査することなんてない。入学試験には思想の審査を導入するべきだと思った。
入口の扉が開き、来院を伝える日に焼けたチャイムが鳴った。
私は過日の記憶から意識を浮かび上がらせた。
「こんにちは」
今日何人目かの患者は高校生の女の子だった。
うつむきがちで、他人の視線を伺う、ともすれば挙動不審な佇まい。右手にナイロン製の絶縁手袋をはめている。まだ手袋をするほど寒くない。右手に埋め込まれた個人IDを読み取られないようにするための対策だ。そんな格好をしていればみずから後ろめたいことがあると喧伝しているようなものなのに。
「こちらに手をかざして、受付をお願いします」
読み取り機を示すが、女の子は動かない。左手で右手を握り込み、寒さに身を縮めるような姿のまま。怯えた小動物のように。つまり、そういう客だ。
「あの……この病院では記録が残らないって本当ですか? IDの既往歴に残らないって」
後ろめたい事がある子はうちにやってくる。口が硬いとか、裏の人間を見ているとか、闇医者だなんて噂がSNSで流されている。患者に対して守秘義務があるのは当然だし、立地が悪くて、通りから隠れたところにあるというだけで流れた迷惑な噂だ。もちろん、薬の横流しなんてしてないし、非合法の治療もやっていない。例の感染症が流行りだしてから、ウチのことを利用する客が明らかに増えた。検査だけの子もいるし、不安で泣きついてくる子もいる。
「記録はIDに保存されているわけではありません。セキュリティの強固なサーバーに保存されています。国の機関であっても、本人の承認か捜査令状でもなければ、開示されません。医師に対しても、情報開示を拒否することもできます」
「それって、どうあっても記録されるってことですよね」
頑なになっている。こういう子に理屈で安全性を説いても響かない。そもそも安全の存在を疑っているのだから。
「サーバーがハッキングされて、情報が漏洩したら? 前例もありますよね? 国の方針なんていくらでも……国の偉いやつが命令を出したら? その、違う人種を見つけ出して、排除する命令を出したら? 軍隊が従ったら、誰が止められるの?」
私に聞かれてもね。もちろん、すべての出来事にありえないとは言えない。こんなご時世だ、他人事ではない。
私はため息を吐いて、折れることにした。先生もそういう客が多いことを知って、見て見ぬふりをしている。
「わかった。なら、身分証は提示なしってことね。その分、医療費は自己負担になるけど、いいのね? わかっていると思うけど、いつも病院にかかるときはIDを通して、保険が適用されているから医療費は3割負担で済んでいるの。ただの検査でも普段の3倍の値段がかかる」
女の子は頷いた。
「あの……ちゃんと、調べてください」
女の子が差し出したのは簡易検査キット。コントロールライン、テストライン、共に線が現れている。陽性だ。
受付に名前を書いてもらうこともなく、女の子を奥の診察室に通した。コーヒーを飲んで休憩していた先生が、眉をあげて私をみた。
「そういうことです」
「採血」
近頃普通の客が減って、ますます闇医者らしくなっていくことに、大いに鼻を鳴らした。不満だろうが、ウチを頼ってやってきている子を放り出すこともできない。私を雇ったときがそうだったように。差別や偏見を取り除くのは容易ではない。だから、医者ぐらいは感情に左右されずに立っていないと。そう告げた先生は随分と情に流されているようだった。
処置室に通して、女の子を座らせる。
「調べました。ネットでは、正確じゃないって。三割は外れるし、ただの風邪にも反応するって」
「ネットの情報を鵜呑みにするんじゃなくて、きちんと病院に来てくれてよかった。結局調べても、不安が増すだけじゃない? なにも知らないよりかえって厄介で、知識が恐怖を頭の中で膨らませていくのよ。どこまでいっても確信は得られないわけだし、悪循環だね。アルコール消毒は大丈夫?」
女の子は小さく頷いた。
女の子の腕を縛り、アルコールで皮膚を拭く。日光を浴びていない、異様に血色の悪い腕だ。まるで死体でも相手にしているよう。硬く、冷たい。あの子の腕を思い出す。
「苦手なんです、注射」
「気が合うね。でも、安心して。看護師は痛くない注射のやり方を練習するから」
女の子は針の先から視線を外さない。みてしまうタイプの子だ。
小さい子には気を紛らわせて注射するのが一番いい。緊張感や針先が患者に想像させてしまう。痛みの想像だ。注射の痛みで泣く子は少ない。大抵、注射をする前から泣き始めている。恐怖だ。頭のなかで増幅された恐怖が、注射を必要以上に恐れさせる。注射針が人命に害を与えるほどの痛みをもつなんてありえない。
影だ。恐怖は火によって大きく伸びた影。火を育てるのは人間の想像力。恐怖の本体は、小さな小さな針先だ。感染症に対する恐怖も同じことだ。
「痛いのは平気」
「じゃあ、なにが苦手なの?」
「身体の中に、自分じゃない異物が入ってくるのが怖い」
「きちんと滅菌消毒されたものだから、心配しないで」
女の子は小さく首を振った。
「言いたくないとは思うけど、一応問診も必要だから聞くね。感染の初期症状――発熱や倦怠感、咳なんかの自覚症状はあった?」
「一週間ぐらい前に、三十七度五分の微熱が。だるさも少し」
女の子の視線が針先に注がれている。
差し込んだ瞬間、筋肉がこわばった。
「お母さんとの仲はいい? 家族円満?」
「いえ……母親は娘には関心あるみたいですけど、私には興味がありません」
「そう」
採血管の透明な容器に、暗色の血液が吸い上げられていく。
細い腕だ。栄養失調のような。
「怖いよね」
私はテロの被害者だった。
感染拡大初期、そういったある種の思想を持つ人々による感染テロが相次いだ。同期だった彼女は自分を刺した針で、同期の子を刺し貫き、そして逃亡先で自殺した。彼らの主張によると、彼女はまだ死んでいない。私も、街中で彼らの集会で彷徨う彼女の死体を見かけた。血色が悪く、身体が欠け、不規則に揺れていた。
彼らは恐怖を克服したと主張している。SNSで、デモで、セミナーで。感染者に対して、脳死の判定を下すのは難しい。ゾンビ・ウィルスが脳内発火の真似事をするからだ。医療従事者は特別、判断を迫られている。死に瀕しているほど、ゾンビ・ウィルスにすがる人は多い。
彼らは主張する。人類すべてが感染するべきだと。
人類はついに、死を超越するときが来たのだと。
「気休めかもしれないけれど、あまり深刻に捉えすぎないでほしい。あなた自身が感染者でも、そうでなくても。他の感染者に対しても、過剰になりすぎないで」
彼ら思想をもった人々だけじゃない。感染者は不安に駆られる。世間の感染者に対する差別的な風潮が、感染者の恐怖を増大させている。歩き回る死者のもつ、視覚的な衝撃は計り知れない。まるでゾンビ映画のゾンビたちが、生きた人間に群がるように。感染者はウィルスを広めようとする。不安な人々は寄り添い合う。性行為による伝染はあまりにも容易だ。
「感染症はいずれ克服される病気に過ぎない。数年後には間違いなく新薬が開発される。すぐに対処法が確立される。撲滅だってあると思う。一時の不安に煽られて、取り返しのつかないことをしないでほしいの」
「強いんですね」
女の子の腕から針を抜き、針跡を圧迫する。強く、なにか伝わるものがあってほしいと願いながら。
「私、ちょっぴり絶望してるんです」
女の子はすっきり微笑んだ。折れてしまいそうに、か細い笑みを浮かべて。
「もう死んだって逃げられないでしょう?」
女の子は帰っていった。来院したときと、なにも変わらぬ表情で。
自分の仕事に疑問を抱くことは多い。患者を癒す万能薬はない。病が侵すのは身体だけではないから。
感染者数のカウントが、またひとつ増加した。
だれの手も握らない死者たちは 志村麦穂 @baku-shimura
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