淡島木初 3

「いただきます」

 食卓には鍋と皿が無造作に置かれていた。いつ洗ったのか忘れたマグカップには、色とりどりのインスタントスープのスティックが押し込まれている。流しには朝にパパが使った食器が放置されている。今日はまだ水に漬けられているだけマシ。ママは朝早いから、宵のうちから眠そうにしている。

 いつも通りだ。

 私はぼんやりと返事の来ないチャットの画面を眺めながら、スプーンを機械的に口に運ぶ。

 家出してユヒトのところに転がり込んで、一晩帰らなかったあと。帰った私に両親はいつも通りだった。大声で怒鳴られることもなく、位置情報を検索した形跡もない。ただ小言をいくつか並べられただけ。喧嘩ははじめてじゃなかったけれど、家出ははじめてだった。ふつうだ。翌朝には菓子パンが並んでいて、レパートリーの少ない夕食が待っていて。ただ何もなかったように、リビングには継ぎ目のない日常が補修されていた。

 夕食時、ぼんやりとテレビを見ているママ。

 ママは家ではスマートグラスを外して、モニターでワイドショーを眺める。ママは内容に興味なんかない。無音の食卓が耳に触るから。

 ワイドショーには、死後の権利を訴える、ゾンビ権利団体のデモが映し出されていた。

「ママはどう思う?」

「どうって何が?」

 ママは眠たそうにこちらをみた。

 夕飯は週に二度あるカレーの日。具材はいつも少ない。レトルトパックにカット野菜を入れただけのもの。時々、色気を出して、自分で切った素材が入っていることもある。ママの気分次第。今日は大きさの不揃いなモロヘイヤが入っていた。以前に嫌いだから入れないでと、何度言ったことか。ママはモロヘイヤの野菜としての品格を買っている。値段じゃなくて、そういう話をSNSか、パートのおばさんから吹き込まれたのだ。

「何がって、今言ってたじゃん。ゾンビだよ」

「どうって、何よ?」

「なんかキモくない? もちあげたりしてさ、死ぬのがいいみたい」

「さぁね。昔にもああゆう活動団体? みたいなのはいっぱいいたから。そういう流行りなんでしょ」

「なんとも思わないの? だって、職場のパートさんとかが、ゾンビかもしれないんだよ。伝染されたらどうするの?」

「どうするって、どうもないでしょ。だって、なんの症状もないって。死んだ後のことなんか、わかんないわよ」

「死ねなかったら!」

 語気が強くなる。食事時なのに口数が多い。自分が喋っても、母から言葉を引き出せるはずもないのに。そもそも、何を言ってほしいのかさえはっきりしない。察してほしいのか、慰めてほしいのか。中途半端だ。この間は放っておいてほしいと叫んでいたのに。興味がないなら干渉するなと。

「ちょっと。迷惑でしょ? カラオケじゃないのよ」

 母は突然の叫びに、耳を抑えた。迷惑そうに、近所のことだけを気にして。母はなぜを考えない。理由など知りたくもないのだ。母は耳を塞いだ。話は終わりだ。明日も朝早くから仕事があるから。仕事を休むパートの穴埋めをしないといけないから。スーパーの品出しがあるから。シャッターの鍵を開けるのは社員の仕事だから。だから。だから。だから、なに? 私のことはどうでもいいの? 私の話より、会社の上司や、パートの愚痴や世間話が大事なの?

 体の中に言葉が溢れて、つっかえて、爆発寸前で。

「ごちそうさま」

 流しに皿を片付けると、そのまま玄関に向かった。

「コンビニ行くなら、洗剤買ってきて。なんでもいいから。帰ったら皿洗いなさいよ」

 私に行くところなんかない。


 チャットルームを見る。瞼を閉じる。目を開く。閉じる。ユヒトへのメッセージは既読にならない。コンビニに行くふりで二度目の家出をした私が行ける場所は限られている。

 ユヒトはどこにいるかもわからない。溜まり場に行っても、ユヒトはおろか仲間の一人も会えない。もぬけの殻になった、廃墟の一室に腐りかけたゾンビだけが、誰かがいた証拠をくり返していた。老朽化して崩されもせず放置された団地の一室。ここはもう捨てられた場所なのだ。

 私も。捨てられたのだ。

「あんた、名前は?」

 ぜー、ヒュー。

 ゾンビは繰り返すだけ。壊れた音楽プレイヤーみたいに、生前の記憶をなぞるだけ。それって、終わらない夢に囚われているみたい。毎日、楽しかったはずの思い出をなぞっている。白濁して、虫がたかって、落ち窪んだ目には、みえているのかしら。ユヒトがいて、仲間がいて、盗んだ酒、危ない薬、居場所のない子たちが寄り集まって、やせ細った安心感をより合わせて。家って呼んで。おままごとだ。

 私は妄想する。ゾンビがみている夢を私もみてみようとする。

 リーダーの年長らしい男が今日の戦利品を分ける。名前はたしか、サトって呼ばれてた。きっと非合法な仕事でもやってきたのだろう。ヤクザの下請けの下請けみたいな、詐欺の受け子とか、運転役とか、そんなことを。弱い子らは、そいつ心配しつつも甘えるしかない。罪悪感と、守られている喜びと、いつかくる破滅を見ないようにしている。ユヒトはリーダーの下で働き、下の子達の面倒も見る兄貴分。新入りに目をかけていう。

 ここは俺達の『家』だ。

 だれにも犯されない、俺達だけの安全な世界だ。

 朽ち果てたネバーランド妄想。

 マイ、ホーミー。そんなものどこにもない。

 聞き古したヒップホップのリリックみたいに、家、仲間、夢。が、くり返し、くり返し。

 ぶっつり、途切れた。

 ふと手を見ると、私の手は緑色のカビに覆われた、ドロドロに、溶けかけの、骨が覗いて、うめき声が、どこにも行けない、肉が崩れて、這いずることしか。ユヒトは? 家族は? いるのはうめき声をあげて、土に帰ってしまいそうな泥人形ばかり。右を見ても、左を見ても、ゾンビ、ゾンビ。腐った人間だらけだ。だれが誰かもわからなくなって、ただお腹は減って。私は隣の肉に噛みついた。腐った肉だった。私の茶ばんだ犬歯が突き刺さって、歯茎から抜け落ちた。それでも私は噛みついた。だって、お腹が減るんだもの。食べたい、食べたい、タベタイ。

 噛みついた肉には、なんだか見覚えのある形の異物がくっついていた。

 きらきらの銀色の、噛み切れない、十字架のアクセサリー。

 なんだか、見覚えがある。思い出せない。溶けていく。だんだん私が煮崩れていく。

 お腹が減った、お腹が減った。どれだけ食べても空腹だ。

 ああ、当たり前だよね。

 私のお腹はどこにも見当たらない。内臓はばらまかれて、下半身なんて見当たらない。お腹なんか、どこにもない。

 ――、叫び声で目が覚めた。自分の叫び声で。

 ひどい夢。

 いつの間にか寝落ちしていた。ここしばらく気が休まることがなかったせい。学校でも、家でも。

 ゾンビは相変わらず、ソファに座って帰ることのない家族を待ち続けていた。

 私は待ち続けていた。夜が更けて、時折病んだ風の音しか聞こえなくなって、埃っぽくて、寒くて震えても待ち続けた。

 チャットルームを開く。閉じる。開く。閉じる。とじる。とじる。

 膝を抱えて暗がり睨みつける。じっと、石のように固くなった。これからどうしようだとか、ユヒトになんて言おうだとか、なにも考えられなくなっていた。思考は窒息して、ただ、誰かが私をどうにかしてくれるのを待ち続けていた。

 待った。ひらく。とじる。待つ。ひらく。とじる。とじる。とじる。

 ティロン!

 頭のなかにしか響かない、チャットルームの通知音が響いた。

〈フジムラ〉『からだ元気そう? なんか、帰り具合悪そうやったけど。今日親いないから泊められるぞ』

 私は凍りついた。不二村には言えるはずない。まして、こんな状態でふたりきりで会うだなんて。早く返さないと不審がられる? あの子は勘がいい。検査もせずに感染に気付く方法は存在しない。殺しでもしない限り。でも、それでも。絶対なんてものはない。

〈キウイ〉『今夜はへいき。明日病院いってみる、やし、休む』

 病欠は名案に思えた。時間稼ぎにしかならないが、一日二日程度なら、私に興味のない両親は何も言ってこない。その間に、ユヒトに会わなくちゃ。

〈フジムラ〉『マジ? そんな言って、ユヒト探しに行くなよ〜』

 後ろを振り返る。割れた窓ガラスから外を、遠くの街明かりをみる。昼間の視線がフラッシュバックする。誰かが、何処かから、私を監視しているのではないか? いまも、私の姿がネットに配信されているのではないか? 誹謗中傷が飛び交い、タグを貼られ、もう人間の中では生きていけないのではないか――被害妄想が膨らみ続ける。

 ぜー、ヒュー。

 ゾンビが落ち着けよというように、苦しげな息を吐いた。ここには私とゾンビしかいない。ここにはだれもいない。だれもいないんだ。

〈フジムラ〉『ちゃんと、病院いきな。やばかったら絶対に言えよ』

 不二村はいい奴だ。面倒見がいいし、あれこれ察してくれることも多い。身内だと思ったら素っ気なさそうに構ってくる。私が犯罪を犯しても、力になってくれるだろう。例えば、ユヒトや親や、だれか知らない出会い系の相手をやってしまったとしても。でも、それは私が仲間だからだ。人間の、仲間でいるからだ。

 不二村はどんな私でも受け入れてくれる?

 私がゾンビになっても?

 打ち込んだ文字を送り出すことはできなかった。

〈キウイ〉『👍️』

 名前も知らぬゾンビの喘鳴が背中をさするようだった。

「ちがう……私はちがう」

 だれだってそうだ。

 仲間じゃないものに、自分とは違う生き物に容赦はしない。

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