淡島木初 2
「おそい」
トイレから出た私に、不意に声がかけられた。
人気がないと思っていたから、完全に油断していた私は、パニックで完全にフリーズした。親しい友人でも不自然に感じる間、たっぷり停止した。後ろめたさが全身からにじみ出ている。
「わかったぁ、泣いてたでしょ? 捨てられたかもって」
首を回すと、含みのある笑みが向けられていた。もみあげを斜め一直線に切りそろえた、ショートヘア。ツンとした険のある雰囲気とは逆に、間延びした話し方。そのタレ目は見透かすように、私をからかっている。いつもつるんでいる
彼女はユヒトのことも知っているし、最近会ったことも話してしまった。
とっさに試験薬の入ったバックを後ろに回す。
「……まだ、授業中じゃ」
「とっくに終わったし。いっしょにカフェ行こーっていったやん」
視界の端に表示された時刻を確認すると、ホームルームから一時間は過ぎていた。トイレのなかで落ち込みすぎて時間を忘れていた。不二村と餃子の玉将に行こうと誘われていたのを忘れていた。よく食べる不二村は玉将のことを、カフェと呼んで帰りにはよく立ち寄っていた。
「ごめん、それ、やっぱ、なしで」
「いいけど。すぐいじけんのやめな」
「いや、うん。まあ、そんなカンジ。おっけー」
誤魔化すことも茶化すこともできなくて、むやむやと口をもごつかせる。
「手、洗った?」
「うん」
「じゃ、帰ろ」
差し出された手。
手を繋ぐ。ふつうのこと。
その手にはNFCチップが埋まっている。私の手にも。
「ん、引っ張れって」
「ああ、うん」
掌を触れないように、指先だけで慎重に。引っ張り上げ、すぐさまパッと放した。不二村は不審そうに私をみたが、なにも言わなかった。
駅までの道のりを、私と不二村は不自然な距離を空けて歩く。周りに目を向ければ、手を繋いで歩く人たちばかり。特に中高生の女子に多い。彼氏彼女はもちろん、友達同士でも、手を握り合っている。手を握っている人々は、傍目には無言で歩いているようにみえる。
街中は静かだ。仲が良いほど、口は不要になる。
掌に埋め込まれたNFCチップによる、近距離間通信コミュニケーションツール『クローズ・トーク』。だれに聞かれることもなく、ふたりだけの秘密の会話ができる。発話に使う脳の働きを感知して、声を解することなく、直接脳と脳のやりとりができる。
クローズ・トークでの会話にはある噂がある。秘密の会話では、隠し事ができない。嘘をつくことができない。そして、他人の脳内を覗き見ることができる。公式には否定されているけれど、SNSではいくつもの実体験が報告されている。
絶対に、バレちゃいけない。私がゾンビ、だなんて。
電車に乗り込むと、不二村から自然と手を差し出された。
それに気づかないふりをして、右手で髪をいじった。目線はずらし、スマートコンタクト上で動画に集中しているフリをした。
不二村の視線が肩にあたっているのを感じる。
電車が走り出すと、何事もなかったかのように声を通して、私に話しかけてきた。
「あのあとユヒトから連絡あった?」
不二村は動画を眺めながら、器用に意識だけをこちらに向けて会話する。慣れているとスマートコンタクトの仮想コンソールの操作を視線と瞬きだけでできる。会話していても視線が噛み合わないから、手を繋いでなくともすぐに分かる。
「ううん。なにも」
動画を開いていると酔いそうで、私はブラウザを閉じた。
揺れる電車の、ドアと座席の隙間に身を寄せる。誰もこちらを、私を視ていないけれど、肌の外にも広がる触手を持っていて――その透明な触手がひしめき合っていて、私を触って、互いに触り合って距離を測って――車内を埋め尽くして窒息しそうだった。電車って、こんなに苦しいものだったっけ。
「寝てるみたい。いつも通りだよ」
なんでもない風を装って答えたつもりだった。
「ッチ、またか。ねえ、あの馬鹿とどうにかなるつもりなら、まともな生活を覚えさせたほうがいいよ。もしくは、一回通報してぶち込んでやるとか。待つ気があるなら、だけど」
不二村は怖い。
彼女は何も言わなくても、ユヒトと関係をもったことに気がついた。彼女は私の隠し事に気付いてしまうかもしれない。
彼女が私を視なくても、私は彼女から目を離せない。不二村と話して、すこしもよそ見をできない。ユヒトとのチャットルームは押し黙っている。無口で、告げ口はしない。でも、不安な私を慰める声掛けもしない。
「そんなんじゃないよ。ユヒトとはそんなんじゃない」
「ヤンチャなやつに憧れるのも程々にしときなね」
「だから、そんなんじゃ……」
電車が駅への到着を告げる。憂鬱な慣性に引っ張られてたたらを踏む。開いた扉から新しい憂鬱が乗り込んでくる。私は視線を向けないようにしながらも、新しい気配に身を細くした。無意識に開いた出入り口から顔をそむける。視界の飛び込んでくる仮想空間の広告に集中して、意識を逃がそうと試みた。
『#通報』
私の視界に、赤いタグが飛んできた。現実と覆いかぶさるSNSの投稿だ。
視線が集まっている。透明な触手が一斉にざわめいた。
乗り込んできたのは、ひとりの男性客。ヨレヨレのスーツで、真冬に着るような分厚いロングコートを羽織っている。髪が抜け落ちた頭、隙間から除いた襟元は茶色く染みていた。軽く足を引きずりながら、やっとのことでつり革に捕まる。眼の前に立たれた女性客は、嫌悪を浮かべたしかめ面を隠そうともしない。熟成された、夜明けの繁華街を連れ歩いているような、二日目の吐瀉物みたいなニオイがした。女性客はすぐさま立ち上がり、逃げていく。周囲の人達も次々と席を立ち、夕暮れの電車にエアポケットができる。
不二村をみた。彼女は男にピントを合わせていた。
コンタクトを通して、録画をしているのだ。
彼女だけじゃない。何人ものひとが意識を男性客にフォーカスする。
私の視界にもSNSの投稿が溢れていく。現実に重なった、リアルタイムの感情たち。動画には男性客が映し出されている。不二村は、周囲の乗客たちはそれを無感情な目で、工場の流れ作業のようにアップロードした。簡素な文章とともに。
『#通報』
寄せられた感情が付箋となって仮想空間に貼り付けられていく。男はタグまみれになり、ミノムシのように投稿に覆われていく。多くの人の不快感を被せられていく。
不二村は投稿を終えると、すぐさま私の手を掴んだ。
「行こ」
私の視界には、映し出された人々が溢れている。『#通報』された人々の関連投稿が寄ってくる。大量に、目撃者たちから、『#通報』のタグを押し付けられて、一行にも満たない言葉とともに。掴まれた手が、硬く逃げ出すことのできない、手錠のように私を繋いでいた。
「フジムラ……」
「行くよ」
不二村は私の手を引いて、隣の車両に移っていった。
振り返ってみた男性客はひとりで揺れていた。手首ごと、彼の鞄が床に落ちた。
がら空きの車内でも、男性客は座ろうとしない。生前、彼がまだ生きた人間だったころ、彼の周りは座る隙間もないほどの満員電車だった。
男性客は野良ゾンビだった。周囲に保護者はいない。野良の、ひとりでに歩く、生きた死体だった。いずれは保健所に回収されて、引き取り手がおらず、事件性がないことが確認されれば、手続きを経て、荼毘に付されるだろう。その前に腐りきってしまうかもしれないけれど。
自宅でうっかり死んでしまったのだろうか。
誰にも感染したことを言えず、死後の処理を任せる相手もいない。
身体は動き回り、腐っていき、通報される。
ゾンビだ。
死ねばウィルスに身体が支配される。
いずれ、私もこうなる。
不二村の目を視た。彼女の視線はすでに仮想空間に向けられて――彼女だけじゃない、この生きた人間たちでぎゅうぎゅう詰めの車内の、誰も、彼のことを覚えていない。意識からはじき出された。
もしここでくしゃみや、咳をしてしまったら。握られた不二村に、熱があることを悟られてしまったら。疑われたら。私がゾンビ感染者だとバレてしまったら。
気疲れのせいか、つい立ったままウトウトしてしまった。
気付いたら私の眼の前に、あの男性が立っていた。
吊り革につかまって、目玉のない、暗い眼窩で見下ろしている。
『ヴォ゙ー』
私の喉からは腐ったうめき声が吐き出された。
寝言に慌てて周囲を見ると、腐った死体が所狭しと詰まっていた。
車両には死体専用と書かれている。
連結部は硬く閉ざされて、小窓から人間たちの視線。コンタクト越しの、仮想空間を通した視線。誰も、直接私たちを見ようとはしない。
『#通報』
その中には不二村の姿もあった。
電車は切り離される。死体が詰まった車両は置いてきぼりにされ、人間の乗った車両はどんどん離れていく。いかないでと伸ばそうとした手は、ぼとりと関節から崩れて落ちた。
熱を感じて、振り向くと、そこは火葬場で、車両はいつの間にか棺桶に変わっている。
私は意識が明瞭なまま、炎にあぶられていく。
石鹸みたく白く固まった脂が溶け出す。硬直していた筋繊維がほぐれて、姿勢が保てなくなっていく。意識はあるのに、身体は動かない。逃げ出すこともできず、助けを呼ぶ声は、不快な呻きに変わる。
脂が爆ぜる。熱は尖った切っ先を肌深くに突き立てる。
私は痛みを叫ぶことも許されない。
全身を貫かれ続けている。痛みは太く、鋭さを増して体に入ってくる。
地獄が続く。地獄が続く。
いつになったら終わる? いつになったら死ねる?
だれか私を殺してくれ!
お願い、殺して!
お願いだ、殺してくれ!
身体は魂の檻だった。
無慈悲な炎は、私に怒りを向けてくる。
微動だにしない、無力感に膝を砕かれる、巨大で重い、岩盤のような理不尽だ。
私がなにをしたの? 私のなにが悪かったの?
こぼれた涙は蒸発した。
私じゃない。
私が望んだことじゃない。
この身体を出してくれ!
この身体から、私を、誰か、連れ出してくれ!
誰か! 誰か!
誰か助けて!
「きぃ? キウイ!」
身体が震えた。
頬に冷えた指先が触れていた。
「疲れてる? 立ったまま寝るとか、器用過ぎ」
不二村が私を覗き込んでいた。私は壁に身体を挟み込むようにして意識を失っていた。眠るつもりなんて少しもなかったのに。
「変なこと言ってなかった? 寝言とか」
「そうやん、みせたげるわ」
不二村はぼうっとしている私の掌を握り、自分の視界のログを共有してくる。とっさのことで、その手を躱すことができない。
『よだれ、垂れてた』
クローズ・トークでは会話だけでなく、スマートコンタクトに録画された映像や、画像も共有できる。
『え? サイアク!』
不二村からみた、私の寝顔。半開きの口からは半透明の粘液が糸を引いて、制服に染みを落としている。慌てて擦ったけれど、すっかり乾いた白い跡が消えない。まるでナメクジが這ったあとのように。
脳内で粘液が、腐敗のイメージと結びつく。
反射的に車両の先に野良ゾンビの姿を探してしまうけれど、そこにはもう日常の帰宅ラッシュの風景があるだけだった。臭い立つサラリーマンも、人混みのエアポケットもない。不安が見せた悪夢だったのだろうか。日常にはなんの痕跡も残されてはいなかった。
『落ち込んでるかもだけど、大丈夫だよ』
不二村がクローズ・トーク越しに言う。
『うん』
握られた手があつい。体温のある人間の手だ。
私の手は冷え切っている。まるで、死んでいるみたい。
手は強く握られ、私は振りほどくことができない。
『わかってる。親友だもん』
親友だから。
不二村にだけは絶対に、バレてはいけない。
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