淡島木初 1

 検査試薬の使い方はパッケージに記載されていた。尿を引っ掛ける必要はなく、鼻の奥に綿棒を突っ込んでかき回し、試薬のくぼみにこすりつけるだけでいいらしい。微熱と鼻水、咳はないが身体の倦怠感が取れない。そんな状態が一週間も続いた明くる日、ネットで検索した内容が夢に出てくるようになった。

 チャットを見返したが、ユヒトへのメッセージは未読のまま。

 検査試薬はネットで買えた。親にも見つからないようにコンビニで受け取って、学校へと持ち込んだ。今更だけど、わざわざ学校で検査するなんてリスキーな真似する必要なかった。下校時に受け取って、どこかの学校以外の、顔見知りと遭遇する可能性のない場所でやればいい話だ。そんなことも考えつかないぐらい、切羽詰まっていたってこと。

 最近気がついたことだが、私はちょっとでも想定外のことが起こるとパニクって冷静ではいられない。傍目には動じないようにみえているらしいけど、頭の中はフリーズして、真っ白になる。顔に出ないだけ。何も考えられないし、何も考えていないから、とっさのクセや衝動を優先した行動に走る。それが間違いだったか、浅はかだったのか。布団の中でじっくりと反省することになる。

 ユヒトとセックスしたのも、とっさの、衝動に身を任せた結果だ。

 近所の、ちょっと素行の悪い、最近疎遠になっていたけど久々にあったら成長していたひとつ年上の男と、たまたま家族と喧嘩して家を飛び出したときにばったり再会して、隠れ家的な秘密基地にふたりっきりになったら、なんかそういう気分になってしまった。そういう、ドラマや少女漫画で百万回みたようなシチュエーションに、自分が遭遇してしまっただけだ。

 私はそれをラッキィと呼ばない。まして、運命なんて論外。交通事故だ。

 箱に入っていた説明書を何度も読み返した。

 試験薬本体の四角い枠の、CとTのどっち側に線が現れたら陰性なのか。線の濃さや色はどんなか。試験薬の精度や誤反応についての項目を何度も指でなぞった。検索履歴には『試験薬 陽性』、『試験薬 誤反応』、『陽性 症状』などと、不愉快な項目が三日分ほど積み重なっている。

 私はトイレの個室で、膝小僧を抱え込んだ。

 迫ってくる。壁が。

 両手で押し返そうと突っ張る。

 押しつぶそうと。迫る。横幅90センチの、プライベートが。

 この壁は、私の心の細胞壁だ。上はがら空きだし、下にも隙間がある。

 今は、壁が迫る。私が縮んでいく。便座の上で膝を折りたたんで、背中を丸める。潰されないように。

 便座は冷たくて、黒ずんだタイルは公衆便所の臭さが染み付いて離れない。思えばあの晩の秘密基地もひどい匂いが染み付いていた。スポンジの上に遊び仲間の乾いたゲロ。新品の油性ペンのニオイ。甘ったるい煙の残り香。黴臭さ。染み込んだ汗。二日酔いのアルコール。夜遊び、火遊び、インモラルなその他色々。なかでも一番鼻についたのが、彼らがつるんでいたグループで飛び抜けてやんちゃだった奴の、腐った身体だ。

 私は便器の上でひたすら呻いた。

 今は授業中で、使われていないプールに併設されたトイレだから、誰が聞いているはずもない。痛くなってきたお腹を抱え、ストレスのせいなのか、病原菌のせいなのかを考えようとした。検索エンジンのチャットAIの返事はすっかり暗記してしまった。感染したとしても、微熱などの初期症状が稀に起こるだけで、ほとんどの人が無症状。潜伏期間が長く、というか生きている間は活性化しない。感染初期を過ぎたら、症状らしい症状が出ることはない。

 一週間前のユヒトの言葉がフラッシュバックしてきた。

「頭の固い連中が理解しないだけ。イメージだけで怖がってんだ。なんも変わんねぇよ」

 ユヒトはすっかり髪を脱色していた。短い金髪。鼻にピアスを開けていた。うなじと手の甲と鎖骨の上にタトゥーが入っていた。仲間の名前とか、自分たちのロゴとか、そういう愛着を肌に染みつけていた。

「ウイはウイだろ?」

 なんか、ありのままを受け入れてくれそうなソイツをかっこいいと思った。

 ユヒトの肌は暖かく、腐ったアイツらも、話を聞けばいい奴だし、襲われることもなかった。なんか、いいじゃんとか。無責任さに気付かずに、頷いていた。

 ユヒトが何をしてくれる? 

 彼にはたったひとりの私さえも、生かしていくことができないのに!

 冷たい便座の上で、頭空っぽだった、勢い任せだった一週間前の自分を呪った。

 二本。CとTの上に赤いラインが浮かんでいる。

 陽性。

 何度調べても、チャットボットは特効薬の存在を教えてくれない。

 死後活性型ウィスル感染症、PA-V-8。

 通称ゾンビ感染症。

 私はゾンビになった。

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