寿美矢文水 3
黄泉の国の食卓に箸はない。染みひとつないテーブルクロスも、UFO型の気取ったスープ皿もない。配色や食材におけるカットの概念、ハートのソースもない。あるのは充満した臭い。仄暗いダイニングに満ちた、時間と生と死の臭気。
「もうお腹いっぱいなの?」
涼子は私を心配した。叔母らしい、体ふたつ分距離の開いた、親しすぎない気遣いだ。以前はこうした関係性が心地よかったことを覚えている。私が何もかも知りすぎてしまうまでの話。
彼女は私にデザートの皿をすすめた。鼻でわかる。生地が生焼けのスコーン。付け合せの赤いジャムは熟れすぎて喉が傷むだろう。
並べられたシルバーのカトラリー。言の葉の道具箱から、先の尖っていないものを選ぶ。それでいて、あなたを痛めつけられるものを。涼子の現実を引き裂いてしまうことなく、痛みを与え、彼女が少しでも悔いるように。
「好みじゃないんです。いつも、味が。おばさんの料理がまずいんです。不味くて、臭い。だから、たくさんは食べたくないんです」
叔母の、困ったえくぼに深い影が落ちる。
小さなキャンドルの橙色の穂を、不快な風が揺らした。痰が絡んだ、苦しげな喘鳴だ。私を非難しているらしい。口うるさい。ただのしかばねのくせに。
「最近はずっと吐き気が強くて。濃い味や臭いの食べ物はきついの。スーパーで買った、人工甘味料たっぷりのグミのほうがマシです。新鮮なフルーツとかもいいです。あなたの手が加わってないものが」
少しも嘘ではない。近頃は鼻が特に敏感で、神経質な胃と相部屋だった。証拠にポケットからベタベタの砂糖菓子を取り出した。体温で表面が溶けて、くっつき、粘っこい。喉に絡む甘さ。手料理なんか、臭くて食べられない。
「困ったわ。最近お料理を習うようにしているの。発酵食品がね、教えてもらって作ってみたのよ。糀と混ぜた調味料なんか、旨味が増しているって評判なんだけど」
悪気のない笑みだ。邪気のない、善意の顔。
私のきらいな、ひどく臭った善良さ。
叔母はいう。良かれと思って。あなたのために。助けたいの、と。
私は、眼の前の女をひどく傷つけたいと思っている。めちゃくちゃに切り刻んでやりたいと思っている。教えてやりたい。あなたの優しさは、もうとっくに腐り落ちているんだと。けれど。この人は私の怒りを受け止めるにはもろくなりすぎた。肌も、節々も、内蔵も、腐りきっていて、強い衝撃を与えてしまったらバラバラになる。私に残る、ほんの一握りの情。情けなさかもしれないし、かつては愛情だったものの残骸かもしれない。私を包み込む苦しみのほとんどすべてが涼子からもらったものだというのに。それにつけられた名前が愛情だなんてこと知りたくもないのだ。
「お願い。あと一口でいいわ。こんなに痩せてしまって、かわいそう。体型が気になる時期なのはもちろん承知よ。でもね、病気になんてなってしまったら大変。大切な、姉さんの大切なあなたなんですもの」
再び嫌な風が吹いた。風は涼子の言葉に同意を示す。ふたりして、私をたしなめる。その鬱陶しさに気が付かないふりをして。
ああ、本当に。
哀れで、かわいそうで、素敵だったおばさん。
あなたが私や私の母さんを愛していなければ、私は怒らずに済んだのに。
皿に盛られたスコーンに手を伸ばす。たった一口齧りとる。
「ありがとう。嬉しいわ」
想像通り、ひどく生臭い。
噛みちぎった断面から、クリーム色の生地が垂れる。まるで。
そう、まるで、丸々と太った蛆を潰してしまった、内蔵や体液と遜色ない食い物だった。
たっぷりと腐った、死者の食事だった。
「ごちそうさま」
いつも通り。私の残飯を片付ける従兄の姿があった。
噛み砕いて粘液まみれになった残飯が、穴の空いた内臓から糸を引いて床に溜まっていく。ねずみが走っていく。蝿の羽音がまとわりつく。腐敗臭がリビングに詰まって、窒息しそうだ。手入れの行き届いていない従兄の体。
従兄が笑う。喉を鳴らして、耳障りな喘鳴を響かせる。気管に粘液が絡んで細くなるから、ぜえぜえと不快な風が鳴るのだ。
「うん。ありがと。でも、アサヒくんはなんでも美味しいっていうから参考にならないのよ」
どうやら、従兄は叔母の手料理を褒めたらしかった。従兄は叔母が本気で受け止めてないと不満に思い、直接手を繋いで伝えようとする。かつてそうだったように、掌から脳を繋いで、会話を試みようとした。
叔母は、従兄が伸ばした手をするりと躱す。偶然、お茶を注ぐふりをして。気付かないふりをして。
いつも通り。孝行息子の従兄は私の素行を咎め、マザコン気味の従兄は叔母の料理を食べすぎて褒める。拳ひとつ分のすれ違いの間をおいて。いびつな隙間を残して。いつも通り。
叔母は不安定なひとだったから、従兄は気を使いすぎるほど使いすぎて、この家のなかには先の尖ったものがひとつも置かれていない。現実という名前の、切っ先の鋭い、危険な道具は取り除かれて、甘く爛れた酸っぱい臭いの充満した洞窟だ。
ほんとうはわかっているくせに。みたくないのだ。
従兄が笑う。
叔母が微笑む。
ここは死者の国。生者の腐敗と、死体と食事。
部屋の隅の暗がりで、私は食べたものを吐き出した。
振り返ると叔母が私をみていた。じっと、虚ろな瞳で、私を見つめていた。瞬きもせずに。涼子はそれを口にしない。その言葉を言ってしまえば、その鋭い切っ先が自らを切り裂いてしまうことを知っているからだ。
どうした? 凶器は鋭いぞ。私に向けてみろ。
「ごちそうさま」
もう一度。吐き出して。
そんな勇気もないくせに。
卑怯なひと。
そうして腐りきっていつか土に還るそのときまで、口を閉ざしていればいい。
見て見ぬふりをし続けろ。そうやって苦しめばいい。
私があなたに苦しめられているように。
でも、いいよ。
まだ、あなたはそのままでいて。腐り切るまで、あなたのままで。
あなたがそうして現実から逃げているお陰で、私は生きていられる。私は怒りを抱き続けられる。あなたは私の怒りであり続けてくれる。いつでも新鮮に、生きていることを思い出すことができる。この、屍人だらけのなかにあって。私だけが。
「おやすみなさい、涼子さん」
「……」
リビングには亡者のうめきが満ちていた。
後ろ手にそっと扉を閉めて、苦しみを永遠に閉じ込めた死に蓋をした。
私は黄泉にいる。死者の国に生きる、唯一の怒れる生きた人間だ。
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