全部白くなる

日生 良

全部白くなる

 いつまでもずっと、一緒だから――


 おぞましい言葉に追いやられて、私はいつも目を覚ます。

 そうして「今のは夢だったのだ」と自分に言い聞かせて、深呼吸。目覚めたあとのほんの少しの平穏に縋るのが、私の日常だった。

 もう何年も、私はそうしてきた。


 暗くて寒い。体も、心の底も。

 全てが冷えすぎて、今にも死んでしまいそうだった。

 乾燥した足の肌はひび割れ、そこがじくじくと膿み始めている。虐待によるダメージもあるだろう。

 痛みは日を追うごとに強くなり、今では体を少し動かすだけで顔をしかめてしまうほどになっていた。


 もちろん、薬はない。気休めの痛み止めさえも。

 私の傷を心配する者もいない。

 助けを求める声すら発していないのは私自身なのだから、何も与えられないのは当然なのかもしれないけれど。


 寒々しい空気に覆われた地下の部屋で、ぼんやりと思う。

 今この瞬間が一番、幸せだと。

 このまま誰にも看取られることなく、ずっとひとりでいることが出来たのなら、それは私にとって、最大の幸福である――と。


 私はひとつ深く息を吐いてから、ゆっくりと音をたてないように、寝返りをうった。

 視線の先にはきっと小汚い天井があるはずだ。だが、暗闇のおかげで見ることはない。

 家主のいなくなった蜘蛛の巣も埃をまとって部屋の角に陣取っているのだろうけれど、それも幸いなことに、私は見ないで済んでいる。


「もうすぐ――」


 帰ってくる。

 私を脅かす邪悪な存在が。

 ひとりでいることで少しだけ忘れることが出来ていた、痛みと苦しみを再び感じることになるのだろう。


 私は「どうにかして逃げなければ」と一瞬思うものの、「でもそうやっていつも失敗してきたではないか」との考えが頭をよぎる。

 そうだ。私は何年も何年も、失敗し続けた。

 失敗した分、罰は厳しくなり、とうとう歩けなくなった。

 最初から逃げなければ、今もまだちゃんとした人間として生きていたのかもしれないのに。


 私は、世間一般的には誘拐犯と呼ばれる男に攫われたようだ。

 そうして、現在も攫われ続けたままだ。

 どこかの家の地下らしき場所に閉じ込められ、暗い毎日を過ごしている。


 窓はないが、きっと雪が降っている。

 男のいない静かな時間帯。目を閉じて耳をそばだてると、小さく小さく、雪が重なる音が聞こえる。

 雪の音が聞こえるたびに、私は祈る。

 いつか雪が、私の闇を消してくれますように、と。跡形もなく忽然と白に呑まれ、真新しい毎日が私に与えられますようにと。

 ありえないと心の中で嘲笑いながら、私はいつも通り、ゆっくりと目を閉じたのだった。

 目を開けていても閉じていても、見える世界は闇なのだけれど。


 ある日、そんな私だけの暗闇の世界に、ひとつの命が生まれた。

 私が産んだわけではないが、私が生んだに違いない。だって地下には私しかいないのだから。

 命は私の足の怪我を大層心配しているようで、痛みが和らぐようにとあれこれ尽くしてくれようとしている。

 けれど私の心は死んでいるから、命――そいつを悪人だと決めつけた。

 痛む足を無理して動かし、そいつを蹴りつけ、それでもなお私を気遣ってくれる様子のそいつに向かって近くの物を投げつけた。


「私が心配なら上から薬でも取ってこれば?」


 久しぶりに大声を出した。

 まだ叫ぶ気力が残っていたのか、と自分自身に驚いた。

 とっくの昔に、涙と一緒に枯れ果てたと思っていたのに。


 そいつは私に従った。

 厳重に施錠してある金属の大扉を潜り抜け、消毒液と薬と包帯をたっぷり持ってきた。

 そうして、私の傷を丁寧に丁寧に治療したあと、適度に固定して楽にしてくれる。

「治療道具がないと怪しまれるから、残った道具は元あった場所に戻して」と言うと、それにも従った。


 暗闇の中だ。私はそいつを視認していない。

 けれどもそいつは確かに存在していて、私の味方であろうとしてくれていることはなんとなくわかってきた。

 長いことひとりだった私に、味方が出来た。なんて素晴らしくて、心強いものなのだろう。

 だが私は知っている。「得た存在」は、いつか失う虚しいものであることを。

 もしかしたら、私を安心させておいて最後に裏切る気ではないだろうか。荒んだ心の中で、最悪な瞬間を想像してしまう。


 だから、私はそいつに選ばせた。

 私を取るか、それ以外を取るかを。


 この家にはおそらく、私と男しかいない。男の他に誰かがいたとしても、それは男の味方に違いない。

 お前はどちらの味方なのだ。私が希望の光を見てしまう前に、はっきりさせようじゃないか。

 もし敵なのだとしても、今なら許せる。闇に覆われている今ならば、光を闇に葬ることが出来る。私は絶望しなくて済む。


「殺して」


 と、私は言った。

 誰とは言わない。私をボロボロにした張本人をお前は知っている。

 私が憎んでいる相手をお前は知っている。


「今すぐに」


 そしてお前は、私が今までどんな辛い思いをしてきたのかも知っている。

 この暗闇だけが私の安寧で、外から与えられる何もかもを恐れていることも。


 さぁ、お前はどっちだ。

 これは私の最後の賭けだった。


 そいつは私の言葉に従った。

 いつものように大扉を抜けた。直後に聞こえたのは大嫌いな男の悲鳴だった。

 逃げ回るような足音と、物を倒す激しい振動と、命乞いと、耳を覆いたくなるほどの断末魔が次々と聞こえる。

 しばらくして、男の気配が完全に消えたあと、そいつは地下へと戻ってきた。


 それでも私は信じない。


「私の傷すべてを治して」


 最後の最後まで、徹底的にそいつを疑った。

 曖昧な命令にも関わらず、そいつはふかふかの毛布や綺麗な着替えを持ってきた。照明器具も幾つか持ってきた。


 なんなのだ。こいつは。

 私は戸惑いつつも、照明をつける。

 死んだ男はインテリアの趣味だけは良かったようで、スイッチを入れると、レトロ調のランタンがぼうっと光を発する。

 みるみるうちに部屋が明るくなり、私は数年ぶりに「光」を見ることが出来た。

 光が私の世界を照らしてゆく。――見てしまえばもう、後戻りはできない。


「あなたは、誰」


 私は目の前のそいつに問うた。

 明るくなれば姿が見えると思っていたけれど、そいつは黒いままだった。

 人の形をしている。触れもする。けれど、輪郭以外は見えない。真っ黒に塗りつぶされたマネキンのようだった。


「明るくなっても影だなんてね……」


 影はただ黙って私を見つめる。

 真っ黒ではあるが、体の凹凸はある。目や口の位置もわかる。けれど、そいつは何も話しはしなかった。

 体を使って何かを伝えたり、訴えたりということもしない。


「あなたの目的は? 何がしたいの?」


 何度も聞いた。

 多かれ少なかれ、生き物は欲望を抱く。

 生きるための欲望か、趣味として消費するだけの欲望か――何であれ、下心があって私に協力しているのだと思っていた。


 けれども、どうやら違うようだ。

 そいつははだんまりを続けるばかりで、答えになるような回答を一切しない。

 私は困ってしまって、両手を軽く上げた。お手上げのポーズ、のつもりだ。


 それから私は、そいつに何かを聞くことをしなくなった。ただ命令をするのみだ。

 そのうち嫌気がさして逃げてしまうのではとも思ったが、そいつは私の命令を出来る限り聞きたがった。あれこれ細かな命令も丁寧にこなしてくれる。

 きっと、「消えて」と言ったら、私の前から消えるのだろう。永遠に。

 それを想像して怖いと感じてしまうほどには、そいつのことを気に入るようになっていた。


 我ながら、おかしいことだと自覚はしている。

 けれども今までにない安らぎと、安定した精神を保つことが出来ているのは、そいつのお陰であることは確かだった。

 前は男が家を空けている無の世界が幸せだと思っていた。

 だが、どうやら私も人間だったようで、心を満たす心地よさを覚えてしまっていた。


 私はそいつに、とうとう名前を付けた。

 これといって特徴がなく、目的もなく、欲望もなく――ただ私の命令をこなす、黒い影。

 部屋を覆っていた、私の安らぎの色。


「あなたの名前は、闇」


 全てをすっぽりと覆い隠す、私の闇。

 他人が聞いても名前だとは思われまい。私だけが知っていれば、それでいい。


 私と闇はずっと一緒にいた。

 誘拐犯である家主が死に、空き屋となったであろうこの家に新しい男が住むようになった。

 闇が大扉を塞いだから、新しく入居した男は地下室を知らない。私と闇の存在も知らないで、今日も今日とて、女を連れ込んでいる。


 闇は食料を必要としなかったから、上から私一人分の食料をくすねてくるだけ。

 たまに女が食料の減りが早いと怪しむが、男と軽い喧嘩をする程度で、私の存在を疑うことはなかった。


 私は幸せだった。

 暴力に脅かされることも、体の痛みに苦しむこともない。

 豊かな衣食住を与えられ、眠るのが怖いと思うことも、早く眠りたいと思うこともなくなった。妙な夢を見ることもない。

 そうして、私の願いをかなえてくれる闇もいる。

 たまに、どこまで闇に甘えていいのだろうかと考えたこともあったけれど、闇は一向に何も伝えてこないから、私に全肯定してくれていると思うことにした。


 ある日、上の階の女がひどい悲鳴を上げた。

 怒り狂った男が何かを叫んでいる。どうやら男が殺したようだ。

 男は複数の女を家にあげている様子だったので、それが原因でトラブルになったのかもしれない。

 ――またこの家で人が死んだのか。

 私もこの家に連れてこられた側の人間だけれど、もう何年も住んでいるため、それなりに愛着のようなものを感じていた。

 ここは私と闇の家だ。血生臭いいざこざは止めてもらいたいものだ。


 どうせ放置されているであろう女の死体を処理してもらおうと闇に指示を出すと、闇は小さな小さな命を抱えて戻ってきた。

 女の腹には赤ん坊がいたようだ。女は助からなかったが、腹の命は生きていた、といったところだろうか。

 私は闇から赤ん坊を渡されたが、どうしていいのかわからなかった。

 死体を処理してきて、とは言ったが、腕の中の赤ん坊は生きているし、こいつを殺せと言うことも出来ない。

 結局、私は闇は、その赤ん坊を育てることにした。

 私が産んだわけではないが、私が生んだことにしなければ。だって地下には私と闇しかおらず、産める人間は私しかいないのだから。


 子はすくすくと育った。

 私と闇が育てた。

 私たちは、三人家族になった。


 暗くて寒いと思っていた部屋は明るく、温かくなった。

 じわじわと心の底から湧いてくる幸福に感謝をしながら、日々をゆっくりと味わい、生きる。

 完成された幸せだ。もう何もいらない――そう思っていた。


 けれどもやはり、この世界は残酷なのだ。


「シロちゃん!? ここにいるのね!?」


 ガラスの割れる音と共に、私の名を呼ぶ悪魔の声が家に響き渡った。

 声は老けたが、間違いない。私の母親だ。

 母は家に侵入したらしい。一階部分をうろうろと何往復もして、私を探しているようだった。


「やっと場所をつきとめたわ! やっぱり警察は頼りにならない。お母さんが迎えに来てあげたからね。帰りましょう!」


 私の心は一瞬で凍り付く。

 そうして、腹からぬらぬらとしたどす黒い何かがこみ上げてきた。

 思い出した。私は毎日行われる母親の激しい折檻に耐えられずに家を飛び出し、助けてあげると声を掛けてきた男に誘われこの家に足を踏み入れ、辛い日々を送ることになったのだ。

 ぼんやりとしていた記憶は今まで思い出せなかったし、思い出そうとも思わなかった。幸せだったからだ。必要のない記憶だったからだ。


 どうして、今さら私を連れ戻しに来たのだろう。

 男が死んだことで場所をつきとめることが出来たのだろうか。それとも――


「あなたなの?」


 私は闇に問うた。

 闇はやはり、何も言わない。

 ずっと何が目的なのかを頑なに言わなかった。けれども、私の味方であり続けた、私の片割れ。私だけの闇。


「お母さん、わかるの。あなたがここにいるって。不思議よね、第六感的な何かを感じるの! 絶対ここにいるって、わかるの!」


 母の声にめまいがする。

 ここで闇が首を振ってくれれば、「なーんだ」で済んだ。

 あなたが私を裏切るわけないよね。だってずっと、一緒にいたんだもの――そう済ませるつもりだった。

 けれど、闇は一貫して何も言わないし、伝えようともしない。


「結局私は、あなたを知らない」


 何も知らないくせに、闇を信じた私が悪いのだろうか。

 なんだか悲しくなって、怒りもおさまらなくて。私は思い切り大扉を開け放った。

 今まで闇に命じて閉じたままでいた、地下と一階とを繋ぐ、重たい扉。

 力を込めると、鉄の扉はギギギと嫌な音を立てて開き、その音に気付いた母が私を呼ぶ。


 ――ああ、眩しい。

 照明をつけなくても部屋が明るい。

 扉の向こうの光が強すぎて、思わず目を瞑る。暗がりに慣れた私の目では、なかなか照準が合わない。

 私は手や腕で光を遮りながら、素早く階段を登り――私を見つけて走ってくる母親を力いっぱい突き飛ばした。

 母はきょとんとした顔で、首をかしげた。


「地獄から逃げたらまた地獄。その地獄が終わってやっと幸せを手に入れたと思ったら、また地獄(おまえ)――」


 私がまだ小さかった頃だ。

 「あなたのお母さんは愛情深い人なのよ」と、担任の教師は言った。

 重たくて苦痛なのだと訴えても、「愛だから」で全てを覆った。私の痛みや、悲鳴さえも、全て。


 母は嬉しそうに微笑んでいる。

 また”あの頃”に戻れると思っている、無垢で邪悪な微笑みだ。

 私は近くに転がっていた花瓶を投げつけた。

 二番目の男も家具にこだわりがあったようだ。美しいフォルムのガラスの花瓶は、キラキラと、魔法のように割れた。

 外からの光が乱反射して、まるで夢でも見ているかのような光景に思わず息をのんだ。

 ――終わりだ。終わらなければいけない。


「離して」


 だが、花瓶は母には当たらなかった。

 私の狙いは正確で、邪魔が入らなければ綺麗に頭をかち割ったはずだ。


 私の腕を、闇が掴む。

 体温の感じない冷たい手のひらだ。私にはどうしても振りほどけない。


「混乱してるのね。お母さんと一緒に帰りましょう。帰って、一緒にご飯を食べて、一緒にお風呂に入って、一緒に眠って。一緒の夢を見るの」


 母の目は、焦点があっていなかった。

 先程はどうだっただろうか。私が男に誘拐される前は、一体どんな顔をしていただろうか。


「狂ってるよ、あんた……」


 いつから狂っていたのかは、私にはわからない。


「狂ってなんかないわ。私はあなたで、あなたは私だもの――」


 私へ伸ばした母の手が、ガタガタと痙攣し始めた。

 しばらく見ないうちに、母は化け物になっていた。――いいや、最初から化け物だったのかもしれない。

 人はそれを愛と呼び、全てを覆って見ないようにしていただけで。


 闇は腕を掴んでいた手を離し、子を私に渡す。

 腕の中ですやすやと眠る我が子。


 私は、狂ってはいけない。

 私は子を抱えたまま、外に飛び出した。辺り一面、雪景色だった。

 大きく息を吸うと、水の匂いをたっぷりと含んだ空気が鼻孔をくすぐる。懐かしい。真っ白な世界。

 どこに逃げればいいのかわからないけれど、どこにでも逃げられる気がする。

 母の呼び声に無視をして、私は好き勝手に走った。


 たった数分の出来事だったのか。それとも、何時間も走った後なのか。

 私は長年地下に閉じこもっていたこともあり、体力がなかった。とうとう母に追いつかれ、殴られ、髪をひっぱられ、近くの橋まで無理矢理ひきずられた。


「母さんがどれほど心配したかわかる? この親不孝者が!」


 母は私を突き落とすふりをして怯えさせるつもりだったのだろう。母と長年暮らしてきた私には、母のやり口は手に取るように分かった。

 愛だなんだと言って、暴力で人を従わせようとする。そうして離れていくと、愛という鎖で繋ぎとめるのだ。

 母は私の言葉を待っている。

 ごめんなさい。悪いのは私です――それを言ったら、私の母の関係は元通り。母の望む、仲良し親子が復活する。


 私は一度深呼吸をしてから、はっきりと言い放った。


「私を愛しているのなら、今すぐ殺して」


 ――さて、どうなる。

 お別れだ。私はあなたを愛していたよ。


 闇は私を通り過ぎ、母へと近づいた。

 闇と母の背丈は同じで、輪郭、凹凸、関節の太さ、仕草……そのどれもが同じだった。ずっと気付かなかった。

 まるで母の影のよう――そう思った瞬間、闇は母に溶けていった。

 母の狂った顔が和らぐ。まともな人間のそれになり――そのまま、ゆっくりと背中から倒れた。


「ごめんね」


 それだけを残して、橋の下へ消えていった。

 橋の下で母がどうなったのかはわからない。雪の積もる音がうるさくて、世界がまぶしすぎたから。


 気付けば雪が降っていて、私と母の足跡は消えていた。

 真っ新な雪の上を歩き始めると、腕の中の子が目を覚ます。

 私は子を抱きなおして、曇り空を仰いだ。

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