最終話 「漢字の向こう側へ」

翌週の月曜、朝から雲行きが怪しく、驟雨(しゅうう)が校庭を叩きつけるように降っていた。

試験から十日以上が経ち、それぞれがやきもきした思いを抱えていたが、ついに漢字検定1級の結果が学校へ届くという噂が広がっている。

シオンは昇降口を入ってすぐの掲示板に目をやると、既に数名の生徒が貼り出された封書を覗き込んでいた。

しばらく様子を見ていると、リリカが傘を畳みながら駆け寄ってくる。

「見た? どうやら成績通知書がまとめて担任に渡されてるみたい。あとで呼び出されるかもね」

彼女の声には上品な冷静さがあったが、その瞳はどこか落ち着きを欠いている。


廊下を歩いていると、カグヤが傘を片手にこちらへ近づいてくる。

外の雨に濡れた黒髪が首筋にしずくを落とし、まるで叢雲(むらくも)のように艶めいて見えた。

彼女はチラリとシオンを見たあと、無言のまま少し先を歩き出す。リリカは笑みを含んだ視線でその様子を眺めている。

「気になるなら、声をかけてあげれば? 今朝からずいぶんそわそわしてるみたいよ」

リリカがそう囁くと、シオンは気恥ずかしさに軽く頬を抑える。

自分もまた、忸怩(じくじ)たる思いを抱えていた。

試験の出来は微妙で、合否の可能性に胸が乱されているのは事実。

けれどそれ以上に、先日からのカグヤとの妙な空気を持て余していた。

あの夜、月を見上げながら交わしたささやかな視線の温かみが、頭から離れないのだ。


朝のホームルームが終わり、担任の先生が成績通知書を大切そうに抱えて教室へ入ってきた。

その瞬間、教室全体がざわめく。やがて名前が呼ばれた生徒たちが順に前へ出て受け取っていくが、漢字検定1級を受けたのはシオンたち数名だけらしく、とくにクラスメイトの視線が集中していた。

「神木、烏丸、下鴨、そして留学生の摩天くん、あと……虎尾は別室で待機って言われてるわね」

先生が戸惑い気味に告げると、シオンはなんだか胸騒ぎを覚える。

タイガは別の教室か。

実は漢字検定の受験票の名前にミスがあったとか、そういう話をしていたのを思い出す。


一足先に職員室へ呼び出されたシオンとカグヤ、リリカ、スバルは廊下で結果の紙を開く。

まるで一斉に宝箱の蓋(ふた)を開けるようだった。

「やった……合格……」

リリカの瞳が潤んでいる。

彼女の紙には鮮やかに「合格」の文字が印字されていた。

スバルも、日本語がたどたどしいまま「僕……合格。漢字……燃えた」と呟き、手の震えを抑え切れない。

カグヤは紙をじっと見つめていたが、そっと息をついて小さく頷く。

合格通知のその文字が、彼女のこわばっていた表情をわずかに崩している。

シオンは……受験番号の横に書かれた結果を見て、一瞬頭が真っ白になる。

合格だ。

恐る恐る紙面を撫でても消えることはなく、現実としてそこに刻まれている。


「俺……受かったのか……」

そのつぶやきに、カグヤが薄く笑みを刻む。

「どう? あなたのロマン、ちゃんと形になったでしょ」

シオンは喜びより驚きが先立ち、言葉が出ない。

たとえぎりぎりだとしても、あの苛烈な修行と試験を乗り越えた結果がここにあるのだ。

浮足立ってしまいそうになるが、ふとタイガのことを思い出す。

「……そうだ、タイガは?」

四人が声を合わせて探し回ると、別室の前のベンチでタイガがうなだれていた。

顔を上げると、思いのほか晴れやかな苦笑いを浮かべている。

「残念ながら不合格だってさ。でも、正直ほっとしてる。俺、漢字なんてやっぱりよく分かんねえし。けど……悔しくはない。意味不明なくらいの勉強量だったのに、よくここまで付き合ったなと思うと自分を褒めてやりたいよ」


タイガの言葉に、シオンは胸がいっぱいになる。

書き込み式の問題に苦戦しながらも、最後まで走り続けた姿を間近で見てきたからだ。

「お前、一度も逃げなかったもんな。ちゃんと最後まで俺たちに付き合ってくれて……ありがとう」

シオンがそう口にすると、タイガは照れくさそうに頷く。

「イカれた漢字オタクどもの熱量が意外と居心地よかったんだ。……これからも、俺はお前らを応援する。まあ、1級は真っ平ごめんだけどな」


それから放課後、同好会の部室へ戻った五人は、リリカが用意したお祝い用のお菓子を囲んで穏やかに過ごしていた。

思わぬ合格報告が続いたことで、いつもに増して笑い声が絶えない。

ただ、カグヤはどこか落ち着かない様子で窓の外を見つめている。

シオンはそんな彼女にそっと近づき、視線を同じ方向へ向けた。

「どうした? やっと目標を達成できたんだし、喜んでいいんだぞ」

するとカグヤは横目でシオンを見て、小さく首を振る。

「違うわ。喜んでるわよ、もちろん。でも……これで終わりじゃない、と思うの。せっかく1級を取れたっていうのに、まだ私の知らない漢字が、もっともっと無数にあるでしょう?」

シオンは思わず笑みを漏らす。

「俺も同じことを考えてた。合格がゴールじゃなくて、ここからが本当の冒険なんじゃないかって」


二人が小声で話していると、タイガが口を挟む。

「おーい、なんかもう次の特訓を考えてるのか? 勘弁してくれよ!」

リリカは微笑みながら、「私も、祖父の蔵にまだ読めていない古書がたくさんあるの。これからゆっくり探検しましょう?」と声を弾ませる。

スバルは相変わらず無言だが、嬉しそうに頷いて紙に新しい文字らしきものを綴っている。


「漢字なんて日常じゃ使わないだろう?」と周囲から思われるかもしれない。

だけど、彼らはそんなこと気にしない。

むしろ、その常識から外れていることこそが最大の魅力だと知ってしまったのだ。

カグヤが窓の外に目をやると、さっきまで降っていた驟雨がやみ、薄日が射し始めている。

雨の雫で濡れたグラウンドが淡い輝きを放ち、まるで彼らの未来を照らす舞台のように見えた。

シオンはその光景を確かめるように眺め、それからカグヤに向かって自然に笑いかける。

まだぎこちなさは残るものの、その笑顔にはしっかりと“次”へ踏み出す意志がある。


「これからも、俺たちのロマンは続いていくんだな」

大仰な言葉を吐くシオンを、カグヤは横目で睨むようにしてから、けれど口元を少し緩める。

「ええ、たぶん終わらないわ」

リリカとスバルも楽しげに頷き、タイガは溜息混じりに「まぁ、そいつも悪くない」と呟いて肩をすくめる。


厚い雲は晴れ始め、午後の光が窓から部室を満たしていく。

テーブルの上に広がる古書やノート、そして合格証が並ぶ光景は、どこか言葉にならない高揚感をもたらす。

自分たちが選んだ不思議な漢字の世界――それは単なる試験合格に留まらず、その先へ延々と続いていく道なのだと、誰もが感じていた。


これから先、どんな珍妙な漢字に出会うか。

新たな目標や、さらなる無茶な修行が彼らを待ち受けているに違いない。

しかし、誰もが心の底で思っている。ならばこそ漢字は面白い、と。

カグヤが微かに笑みを浮かべ、シオンはそれに応えるように胸を張る。

彼らの視線の先には、無盡蔵(むじんぞう)のロマンが広がっている。

必ずや、あの唐突無稽(とうとつむけい)なる修行を共に凌駕(りょうが)した紐帯(ちゅうたい)があれば、いかなる幽邃(ゆうすい)なる難字といえども踏破し得るという予感が胸奥に漲(みなぎ)った。

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漢字狂乱ロマンチカ ― 漢検1級に向けた青春 三坂鳴 @strapyoung

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