第5話「いざ、試験当日! そして運命は…」

実はその朝、シオンはいつもより早く家を出た。

漢字検定1級の試験当日、約束の集合時刻よりだいぶ余裕を見込んだのに、心臓の搏動(はくどう)が尋常ではない。

眠ったようでほとんど眠れず、脳裏にはこれまでの修行の光景が朧気(おぼろげ)に揺れている。


駅前でタイガと合流すると、彼は赤いハチマキを巻いていた。

「な、なんだその出で立ちは?」

シオンが愕然(がくぜん)と問いかけると、タイガは気まずそうに鼻の頭を掻いた。「いや、こうでもしねえと気合いが入んねえんだよ。だってお前らの漢字修行、正直、俺の常識を超えすぎてて……最後は根性頼りだろ」

確かに珍妙な姿だが、その胸に宿る熱意は隠せない。シオンは半笑いになりながら、「まあ、ジンクスなんてそんなもんだよな」とうなずいた。


しばらく歩くと、今度はカグヤが小さな枕を抱えて待ち構えている。

「何それ……?」

タイガがぎょっとした顔をするが、カグヤは冷ややかに肩をすくめた。

「試験の合間に少しでも脳を休ませるための道具よ。短時間の微睡(まどろ)みが記憶の定着を高めるって聞いたから、準備しておいたの」

「なるほど。徹底してるな」

あまりに真剣すぎて、シオンまで焦りを覚える。

しかしカグヤは視線を外し、「あなたたちもせいぜい怺(こら)えてちょうだい」と小声で言い放った。

彼女なりの気遣いかもしれない。


リリカとスバルも加わり、五人で会場へ向かう電車に乗る。

静かな車内で、彼らの胸には緊張が滔滔(とうとう)と押し寄せていた。

リリカは祖父の古書を大事そうに抱え、スバルはカバンにぶら下げたお守りをそっと擦っている。

タイガは「腹減った……」とぼやくが、誰もまともに取り合わない。

シオン自身も心が上ずっているのを自覚していた。


電車を降りた途端、シオンは試験会場から放たれる独特の緊迫感に圧倒された。

そこここに「1級」の文字が印刷された受験票や問題集を片手にした人々がいて、その空気からしてもはや“並み”の試験ではない。


「まさにラスボスって感じだな……」タイガがぽつりと呟くと、カグヤは小さく頷き、「ええ、今さら逃げられないけどね」と目を細めた。

恐れよりも、“未知”に惹かれるわくわくさえ宿っているようだ。


実際、1級は“常識外”と呼ぶにふさわしい難度だった。

熟字訓(じゅくじくん)や当て字まで網羅され、たとえば「海月(くらげ)」「猪口(ちょく)」など、日常にない単語が平然と並ぶ。

さらに、難読四字熟語も容赦なく登場するらしい。「五風十雨(ごふうじゅうう)」「鷹視狼歩(ようしろうほ)」「鞭辟近裏(べんぺききんり)」――一度書けと言われても、どの画から取りかかるか迷うほどだ。

故事成語やレア熟語も例外ではなく、普通の国語辞典では引ききれないような単語が出題されることも珍しくない。


「怖いくらいだよな。読むだけでも混乱しそうな熟語がズラッと並ぶんだぜ?」

タイガが眉をひそめると、リリカは淡い笑みを浮かべて、「でも、それこそが1級の醍醐味よ。自分が知らない世界がまだまだあるって、ちょっとロマンを感じない?」と語る。

その声には、祖父譲りの古書への愛着と、漢字という“海”を自由に探検できる喜びが混ざっていた。


会場の椅子に腰を下ろしてからも、シオンの耳には周囲の受験者の声が断片的に飛び込んでくる。

「最近は読み書き中心とはいえ、難読当て字が多いらしいぞ」

「四字熟語は大幅に増えたって聞いたな……意味まで知らないと厳しいとか」

「準1級じゃ満足できなくなったから、ここまで来ちまったよ」

皆それぞれ不安と期待を抱いているのが伝わってくる。

カグヤは席に座ったまま目を閉じ、これまでの地獄のような修行を思い起こすように静かに呼吸を整えていた。


やがて試験官の合図で問題用紙が配られると、教室の空気がビリビリと張り詰める。シオンが紙面を開いた瞬間、そこには日常を大きく逸脱した漢字の山が怒涛の勢いで迫ってきた。

「うわ……こりゃ本当にすげえ……」

思わず息を吞む。

〈黠鼠(かっそ)〉や〈蹙眉(しゅくび)〉など、普段絶対に使わないような熟語が堂々と並ぶ。

読みを問うだけでなく、書き取りでも罠が潜んでいそうだ。

隣からカグヤの小さな笑い声が聞こえた気がしたが、シオンは焦りを振り払ってペンを走らせる。


――こんなの、まるで未知の深淵だ。

だが、それこそが“1級のラスボス”らしさなのだろう。

熟字訓や当て字、難読四字熟語や故事成語、そしてレア熟語の総攻撃。

半端な覚悟では突破できない最終試練が、ここに凝縮されている。

「でも、これまで俺たちは、めちゃくちゃな修行をしてきたんだから……やるしかねえ!」

息を詰めたシオンは、脳裏に無数の暗記カードと部室での猛勉強を思い浮かべながら次々と回答欄を埋めていく。

ペン先がわずかに震えるのを自覚しながらも、奇妙な高揚感がわき上がるのを抑えられなかった。


1級はやはり“最終ボス”に相応しい。しかし、だからこそ、ここまで食らいついてきた努力と情熱が確かなものになる――そんな妙な確信が、教室の張り詰めた空気の中でシオンを奮い立たせていた。


終了の合図が鳴ると、五人は机に突っ伏しそうになるほどの疲労に襲われた。肩が軋(きし)み、指が震え、頭の中は白濁したようにぼんやりしている。

「お、お疲れ……俺、生きてるのかな」タイガが息も絶え絶えにつぶやき、カグヤは額の汗を拭いながら「本当にしんどかった」と吐息を漏らす。

スバルは「難……淵(えん)深」と片言で呟き、リリカはホッとした表情で「まだ結果はわからないけれど、やりきったわ」とささやいた。


シオンは試験監督の指示に従って筆記用具を片付けながら、不思議な恍惚(こうこつ)と虚脱感が同居しているのを感じる。

全身が鳴動(めいどう)したような疲労に包まれつつ、何かが甦(よみがえ)るような高揚もあった。

「やっと……終わった、か」

そう呟いた瞬間、視界がじんわり滲(にじ)む。

これまでの修行と苦闘が脳裏を駆け巡り、一時的な感泣(かんきゅう)さえ押し寄せそうだ。


会場を出た五人は、誰からともなく顔を見合わせる。

いつもの部室ではない場所なのに、その空気は確かに同好会のそれと同じだった。「どうだった?」

シオンが問いかけると、タイガは深く息を吐く。

「正直、半分も解けたか怪しい。けど、不思議と悔いはねえんだよな」

「私も、半分行ってるかしら……」

リリカが自嘲気味に微笑み、カグヤは静かに目を閉じる。

「精一杯やった。それだけは言えるわ」と低く応じた。


スバルはカバンから篆刻(てんこく)のような文字が刻まれた紙片を取り出し、言葉少なに差し出す。

「みんなで…持って」そこには「昇華(しょうか)」を思わせる独特の書体が記されていた。

「ありがとう、スバル。これ、宝物にするよ」

シオンが言うと、スバルはわずかに顔を赤らめて頷く。


「結果が届くのはまだ先だけど……ちょっと一緒にご飯でも食べて帰らない?」

リリカの穏やかな誘いに、カグヤは「いいわね。今日はたくさん脳を使ったから、栄養を補給しないと」と賛同する。

タイガは「やっと飯か」と歓喜し、スバルも「賛成…僕、空腹」と頬を緩めた。

シオンはそんな光景に目を細めながら、「じゃあ決まりだな」と笑みをこぼす。


その夜、家に帰りついたシオンは、疲れですぐに倒れ込みそうだった。

だが、布団に潜っても目が冴えてしまい、試験の問題や仲間たちの顔が脳裏を巡る。すると、不思議な高揚感がこみ上げてきた。

「ああ、終わったんだ。本当に終わったんだ……」

声に出してつぶやくと、部屋の暗がりでじわりと涙が浮かびそうになる。

しかし、それは悲哀ではなく、欣快(きんかい)に近い感情。

やりきった充足感と、まだ見ぬ未来への期待が入り混じり、胸を熱くする。

これまで培った漢字への情熱は、終わりではなく、また新たな扉の前に立たされているのだろう。


あのマニアックな仲間たちと過ごした日々を思い返すと、半ば狂気じみた修行や挫折寸前の対立でさえも、今では愛しく感じられた。

結果がどうであれ、この体験はきっと彼らの青春の煌(きら)めきそのもの――シオンはそう信じて疑わない。

「合格してるといいな……いや、どんな結末でも、後悔はない」

かすれた声でそうつぶやき、シオンはゆっくりまぶたを閉じる。

疲労の波が一気に押し寄せ、深い眠りが意識を包み込んだ。


夜の静寂のなかで、これまでの修行と試験のすべてが、シオンの意識を満たしていく。

結果がどう転ぼうと、仲間と踏破した道程こそが揺るぎない勲章だと確信しながら、彼はほんのりとした充足感に身を委ねる。

部屋の窓から差し込む僅かな街灯の光が、その勲章をそっと照らしているかのようだった。

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