002【凍結】

 薄闇が満ちた街。

 白い切開痕のように、月明かりだけが路地を照らしている。


 ハルツキはシフターのグリップ下部から銀色のデバイスを取り出す。

 機械的な音を立てて展開されるイヤーピースを、片耳に装着。


『神経接続、確立』

『DRIVE MODE、起動』


 世界が、新たな解像度で視界に広がる。


 ハルツキは路地裏の壁を蹴る。

 重力に逆らうように垂直に駆け上がり、住宅の屋根に飛び移る。

 瓦を踏む音が、獣の足音のように規則正しく響く。


 街並みが、青い光の帯となって視界を流れていく。

 高度を上げるごとに、世界の輪郭がより鮮明になっていく。


『視覚情報、処理開始』

 シフターの声が、直接意識に響く。


 一つの建物から次の建物へ。

 シフターが座標を計算する間も、ハルツキの動きは途切れない。

 獲物を追う猫のように、影から影へと身を滑らせる。


 そこにあった。

 街で最も高い尖塔。

 黒い影が天を突き刺すように聳えている。


『建造物情報、解析完了

高度、構造共に街内最大』


 ハルツキは軽やかに尖塔の最上部に降り立つ。

 一瞬の静寂。そして―


「シフター、視覚同期」

「シンクロ開始。マッピングプロトコル展開」


 世界が、データとして再構築されていく。

 街路の構造。

 建物の配置。

 人の動き。

 全ての情報が、青い光の粒子となって網膜に直接描き込まれる。


「あそこか」

 尖塔の真下。

 情報の海の中で、一つだけ異質な存在が浮かび上がる。

 他の住人たちとは明らかに違う動きをする人影。


 記述士が最初に見つけるべきもの。

 SOLARIS所有者の自己投影―


 街の底で蠢く人影に、ハルツキの瞳が釘付けになる。

 完全な対象の特定。最も純度の高い凍結ポイント。


 尖塔から降り立った瞬間、

 世界が歪み始めた。


 建物が蛹のように白く輝き始め、街路は絹糸のように光を纏いながら変形していく。

 まるで巨大な繭が街全体を包み込もうとするように、世界そのものが変容の過程へと突入していた。


 壁が半透明の結晶となり、内側で何かが蠢く。

 道は銀色の糸で編み込まれ、空気は硬質な膜のような粘性を帯びていく。


「所有者の願望か」

 ハルツキは冷たく呟く。


『警告。空間の変容現象を確認』

『物理法則の書き換えが加速中』

シフターの声が、危機感を帯びる。


「くだらない」


 シフターを地面に向け、ハルツキは冷たく詠唱を始める。


『硬質の殻は影となり

光は闇に溶けゆきて

偽りの夢は霧散して

永遠の眠りは覚め

冷たい風は現を運び

世界は在るべき姿へ還る


虚飾よ、永遠の否定を

深き夜よ、偽りの終わりを』


 シフターの青い光が、地面に向かって放たれる。


 まるでガラスが砕け散るように、結晶化した建物が崩れ落ちる。

 銀色の糸は霧となって消え、硬質な空気は夜の闇に溶けていく。


 元の姿を取り戻した街。

 月明かりだけが照らす、ありふれた夜の風景。


 角を曲がった先。

 路地の行き止まりで、対象が立ち尽くしていた。


「なぜだ...この世界は、みんなが望んだ姿なのに」

 震える声を上げる。


「みんな?多数が望んでれば何しても良いのかよ」

 ハルツキはシフターの銃口を向け、接近する。


「待ってくれ。話を聞いてほしい」

 その声には、どこか取り澄ました響きがあった。

「俺だけじゃない、変わりたかったんだ。この息苦しい世界から、抜け出したかった」


「シフター、凍結許可申請」

 感情の欠片も含まない声で、ハルツキは続ける。


「俺たちが間違ってるのか?毎日、同じ場所で、同じ仕事を、同じように生きろって?」

 対象の体が、徐々に透明な結晶へと変わっていく。

「みんな、美しく生まれ変わりたかっただけだ!醜い現実なんて、置き去りにしても良いじゃないか!」


『対象となるトリガーを詠唱してください』

シフターが凍結プロトコルを展開する。


ハルツキは詠唱を開始する。

データを読み上げるような冷たい声で。


『柔らかな繭は光を纏い

記憶は溶けて夢となりて

慈しみの殻は透明となりて

永久の眠りは羽を織り

穏やかな風は空を運び

人の願いは舞い立つ


繭よ、永遠の安息を

深き夜よ、刹那の飛翔を』


「なんで...その想いを...」

対象の声が震える。

「どうして、私の...大切な...願いを」


何者にも触れられたくなかった場所。

誰にも見られたくなかった願い。

それを、まるで実験報告のように読み上げられ―


『トリガー照合開始』

シフターの声が響く。

『当該世界との符合を確認...』


「違う!やめろ!そんな冷たい視線で...俺たちの願いを...!」

 震える声には、暴かれた聖域への悲痛な響きが混じる。


『トリガー照合、完了』

『凍結許可、承認』


 対象の目に、深い絶望の色が浮かぶ。

「待て…待ってくれ...!まだ...まだ変われる!」

 その声には、現実への拒絶が滲んでいた。

「この物語の中なら...!この世界の中なら...!」


 ハルツキは無言でシフターを対象の額に押し当てる。


「戻りたくない!現実なんて...!」

 震える声が、夜の闇に響く。


「お前は這いつくばったまま、夢見るだけの虫だ」


 引き金が引かれる。


「未熟な蛹は、永遠に蝶になんかなれない」


『凍結完了』


 対象の体を包む光の中で、透明な結晶が内側へと溶けていき、永遠の眠りの中で、再び蛹の姿へと戻っていく。


『物語の停止を確認。30秒後にこの世界は凍結します』

『帰還プロトコル、起動』


 カウントダウンが始まる。

 シフターの声が響く。

『30』


 最初は、かすかな霜の結晶が石畳を這うように広がっていく。

 建物の壁を白い氷が駆け上がり、窓という窓を曇らせていく。

 街灯の明かりが、凍てついた光となって固まっていく。


『20』

 声が遠くなっていく。


 街の喧騒が最初に消えた。

 次に風の音が氷となって落ちる。

 街は霜の森となって立ち尽くす。


『10』

 シフターの声も、まるで氷の向こうから聞こえるように、かすかに、

そして―

 消える。


 完全な静寂の中、色彩が凍てついた白へと変わっていく。

 まるで時間という概念さえも、氷漬けになったように。


 ハルツキは静かに目を閉じる。

 口元が動き、何かを呟くが、その振動は既に自身にも届かない。


 世界は、永遠に凍りついた標本として、そこに在り続ける。

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