記述士選考最終試験
001【蛹】
白く冷たい光に満ちた空間。
等間隔に並ぶ透明な試験室が、まるで実験動物のケージのように立ち並ぶ。
ハルツキは無意識に瞳孔を縮め、ガラス越しの景色を視界に収めていた。
十七の試験室。
十七人の受験者。
それぞれの部屋で、それぞれの試験が、同時に進行している。
隣室では二十代の男が震える手でシフターを握り、その向こうでは中年の女性が額に汗を浮かべている。
個々の反応は異なれど、全ての受験者が同じ種類の化学物質を放出していた。
恐れという名の、生理反応。
防音ガラスの向こうの光景は、音もなく進む無声映画のようだ。
しかし、ハルツキの耳は、微細な振動として伝わる他者の心拍をありありと捉えていた。
不規則に乱れる心拍。
標準値を超える体温。
基準値を逸脱する発汗量。
その中で、十四歳の少年の生体反応だけが、完璧な平衡を保っている。
心拍数60。
体温36.5度。
瞬きの間隔7.2秒。
「これより、記述士選考最終試験を開始します」
アナウンスの残響が0.8秒。
防音設計の試験室に不自然な反響特性。
ハルツキは無意識に首を傾け、壁の向こうに隠された観察室の存在を把握していた。
机上のモニターに、映像が映し出される。
人間の死体。
祈りを捧げるように、胸の前で合掌し、膝を胸に抱え込んだ姿勢。
人体は完全にガラス化していた。
クリスタルのような透明度。
指先から足先まで、完璧に成形された工芸品を思わせる。
硬質で冷たい外殻の向こう側に、内臓や骨格の痕跡はない。
内部では赤褐色の液体が静かに沈殿している。
モニターの光に照らされ、ガラスの表面に繊細な干渉縞が浮かび上がる。
映像は途切れることなく再生され続ける。
液面下、沈殿した赤褐色の深みで、溶解した組織の一部が、
まだ、かすかに、拍動を続けていた。
「この映像は、発見から30分後に記録されたものです」
試験官の声が響く。
「現在も、この状態は継続しています」
かつて人だったものが、透明な容器と成り果てる―
この現象の異質さに、他の受験者が息を呑む気配が伝わってくる。
「被害者の人定事項について説明します」
試験官の声が続く。
独り暮らしの会社員。三十代後半。
円満な退職届を提出した翌日に発見。
周囲との交流は最小限。
部屋からは、未開封の配達物が複数。
通信端末の履歴は全て業務連絡のみ。
光熱費の使用状況から、昼夜逆転の生活が伺える。
「二体目の被害者も、同様の生活パターンでした」
デスクワーク中心の在宅勤務。
飲食店の利用履歴以外、外出の形跡なし。
モニターの映像が切り替わる。
同じように祈るような姿勢で発見された第二の犠牲者。
しかし、こちらは既に拍動反応は確認されていない。
より進行した状態なのか、それとも―
ガラス越しに、受験者たちのデータベース検索の音が震えるように響く。
「社会的孤立」
「現代的空洞化」
「存在の希薄化」
キーワードが次々と入力されていく。
他の受験者たちは必死にメモを取っている。
データベースを検索する音が、ガラスの向こうから振動として伝わってくる。
彼らの焦りは、間違いなく正しい。
このまま放置すれば、新たな犠牲者が出る。
しかし、そんなものは必要なかった。
全ては、その場で、瞬時に、理解できた。
ハルツキの指先が、かすかに震える。
それは直感、あるいは確信
「質疑応答に移ります。何か質問は?」
十七の試験室のうち、十四の手が上がる。
生体反応の乱れは更に酷くなっていた。
焦り。
不安。
迷い。
それらの感情が、ガラスの壁を震わせている。
彼らはまだ理解していない。
トリガーが解き放つのは―
硝子細工のような繊細な美しさ。
光を屈折させる透明な殻。
深い眠りの中の安らぎ。
新たな姿への憧れ。
永遠の変容への願い。
誰にも触れられない静謐。
許されざる飛翔の痛み。
心の奥底で眠る解放。
声にできない祈り。
誰も触れてはならない。
決して侵してはならない。
人の心の最も深い場所に沈む、神聖なる真実。
「ああ、またこの配列か」
他の受験者たちは息を潜めている。
人の心の深淵を覗き込むことへの畏れが、彼らの体温を微かに上昇させていた。
「神聖さを願う利己的な願望が、感情の羅列を、わざわざ混雑させてるだけだ」
実際は規則的なデータでしかないものを、人は自らのバイアスで歪め、混沌とした深淵に仕立て上げる。
moon childの瞳には、その自己欺瞞的な作為さえも、観察対象の一部でしかなかった。
シフターを頭部に押し当てる。
起動音と共に、青い光が瞳に映る。
「あの、試験官さん?質問の前に―」
ガラス越しの受験者の一人が声を上げる。
「トリガーの特定は...まだ...」
「シフター、トリガー入力」
ハルツキの声が、実験データを読み上げるように冷たく響く。
『柔らかな繭は光を纏い
記憶は溶けて夢となりて
慈しみの殻は透明となりて
永久の眠りは羽を織り
穏やかな風は空を運び
人の願いは舞い立つ
繭よ、永遠の安息を
深き夜よ、刹那の飛翔を』
シフターのディスプレイが青く明滅し、トリガーの照合を開始する。
その声が途切れる前に、ハルツキの意識は既に現実を離れていた。
透明な試験室も、他の受験者も、全ては遠い世界の残響に過ぎない。
今、この瞬間に必要なのは―
凍結。
それは、優しく誰かの世界に死を与えること。
まるで、変容を夢見る蛹を永遠の眠りに就かせるように。
シフターが青い光を放ち、意識が深い闇へと沈んでいく。
これが、記述士の仕事。
これが、殺意の模倣。
完璧な仮面の下で、十四歳の少年は、静かに微笑んだ。
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