2話 恋子 其の一

「はぁ……。今日も文さんからのお呼びがかからない。いったいどうしちゃったのかしら」


 新月の夏の夜。給仕間から客間へと続く、渡り廊下の手すりに両肘をかけて、恋子は溜息混じりに呟いた。湿度を帯びた夏風が恋子の頬をするりと撫でてゆく。恋子は通り過ぎた夏風を、手探りで探すように、自分の頬をすっと触れた。


「文さん……。今までも締切に追われて、ひと月くらい空けたことはあったけど……。こんなにお呼びがかからないことなんて、今までなかったわ」


 時は明治十六年。東京神楽坂の花街が、旦那集の社交場として華やかに軒を並べていたこの時代。老舗の置き屋、月琴楼は今日も賑わいを見せていた。ここは俗に言う、文化人と呼ばれる客達が多いことで知られている。画家、詩人、役者、そして作家。


「あーっ、いたいた。ちょっと恋ちゃんいつまで油売ってるの。次のお座敷から、お呼びがかかっているわよ」


「はぁーい。いまゆきまぁーす。えーっと、お座敷はどこの間にゆけばいいですかぁ」


 恋子は月琴楼の売れっ子芸者だ。特に文豪、池田文彦からは、恋子が半玉の頃から寵愛を受けている。もっとも二人は親子ほどの歳が離れているので、父が我が娘の成長を見守るような関係であるのだが。

  

「恋ちゃん。次のお座敷は梅の間よ。さぁ手を出して」


「女将さん。ちょっと考え事していたら、つい時間が経ってしまって。すみません」


 そう言って恋子は、彼女を呼びにきた月琴楼の女将に、左手を差し出した。女将は彼女の手を取って、渡り廊下をゆっくりと歩き始めた。


 恋子は目が見えない。


 三歳の頃の事故が原因なのだが、その時の記憶は事故のショックで失われてしまい、本人は何故失明したのか覚えていない。しかし持ち前の器用さと天性の明るさ、そして池田文彦のお抱えという看板もあり、文化人たちからのお呼びが絶えない。


 ところが最近、文彦から声がかからない。もう三カ月も。


「恋ちゃん。考え事って、文さんのことかしら」


 女将は恋子の浮かない表情を察して、声をかけた。


「はい……」


 恋子は俯きながら小さく答えた。


「女将さん。文さんは今日も来ていないですよね。女将さんの方へは、何か連絡とかはありませんでしたか」


「それがねぇ、全然ないのよ」


「そうですか……。私、なんだか心配で」


「そうねぇ。かといって、お店から連絡を入れるというのも、憚るものだから。どうしたものかしら……」


 その時、女将は文彦の忘れものを預かっていることを思い出した。文彦が「ずっと探していたものが見つかった」と、上機嫌だった時のことだ。泥酔して、ハイヤーを呼んで帰って行ったのだが、その時に一冊の古びた本を忘れていたので、女将が預かっていたのだ。


「そうだっ。文さんの忘れものをずっと預かっているのよ。なんだか、綺麗な果物の絵が描かれた本なんだけど、それを返しに行くついでに、ちょっと様子を見に行って来てくれないかしら」


「はいっ。ゆきますっ」


「それじゃあ、また後でね。明日は文さんのところへ行ってもらうから、今日はこのお座敷が終わったら帰っていいわよ。本を渡すから、勝手口で待っていてね」


「はいっ。ありがとうございますっ」


 恋子は梅の間に導く女将の手を、ぎゅっと握り締めた。

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ブルーフルーツは月より甘く 茂流 @shigenone

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