Rainy Afternoon

佐倉千波矢

Rainy Afternoon

 ブルーグレーの空から、絶えず水滴が落ちてくる。

 朝からの曇り空は、三時間目が始まる頃にいよいよ危うくなり、途中でとうとう降り始めてしまった。四時間目の半ばまでひとしきり降った後は次第に弱まり、今は小雨に落ち着いている。さほど勢いはないので、雨音はあまり聞こえない。

 千鳥かなめは、いつの間にかぼうっと外を眺めて動きを止めていた自分の右手に気付き、慌てて窓拭きを再開した。いつもなら率先してテキパキと済ませる掃除当番だが、どうにも気分がのらない。それでも学級委員という義務感がなんとか身体を従える。雑巾を動かす腕に伴って少し身体が左右に振れ、背中の長い豊かな髪も左右に揺れて、その端を結わえている赤いリボンが小さく跳ねた。

「よく降るなあ」

 溜め息混じりに呟く少女には、普段の生気に溢れた様子は今はない。整ったきれいな顔だちも、恨めしげな表情で少々損なわれていた。それでも切れ長の涼しげな目元には気の強い性格が少し表れている。

「なんだってこう連日雨ばっかなんだろ」

 隣で同じ作業をしているおさげ髪の小柄なクラスメイトに顔を向けた。

「そりゃあ梅雨だからねえ」

 常盤恭子の返答はあっさりしたものだった。幼げな容貌や甘めの声音に反した、あっけらかんとした答え方はいつもどおりだ。

 かなめは雑巾をギュッと握りしめた。

「気象庁の陰謀だわ。さっさと梅雨明け宣言しろっての」

「カナちゃん、それは無理だって。お天気はヒトの力じゃどうにもならないんだから仕方ないよ」

 正論すぎてつっこみようがなかったので、相手にジト目を送ることくらいしかできなかった。梅雨が長引いてるのはなにも気象庁のせいではないことくらい、かなめにもわかっている。ただ単に愚痴りたかっただけだ。もちろん、恭子がそれを承知した上で律儀に正論を返してくることも知っている。

「ったく、かったるいったらないわよ。掃除なんてやる気分じゃないっての」

 かなめの不機嫌さは、なんのことはない、雨天のせいで四時間目の体育が外でのソフトボールから教室での保健学習に変更されてしまったことに起因している。

 なにせ木曜日は、担当教諭がやたらと厳しくて緊張する古典、ほとんど学級崩壊に近い状態になってしまう数学、などといった教科が続くのだ。しかも学級委員というだけで数学教師には八つ当たりまでされた。そういった憂さを晴らすべく、好きな球技を元気いっぱいプレーできたはずの四時間目。その唯一のお楽しみが、「喫煙と健康」だの「飲酒と健康」だの、そんなどうでもいい内容に取って代わってしまったのだ。

 退屈をかこつしかなかったせいで、気分は晴れるどころかすっかりやさぐれモードになってしまった。それに空腹という要因も加わり、不機嫌の度合はマックスになっている。学期末の現在は授業が午前で切り上げられるようになっていて、掃除をしているこの時間はいつもなら昼休みだ。

 要するに、かなめはふてくされていた。彼女にはそういういささか子供っぽいところがある。

「まあまあ、さっさとやればそれだけ早く終わるよ」

 おさげ髪の少女が明るく笑った。かなめの性格を熟知している上、元々穏やかで感情の起伏があまり激しくないため、恭子はいつでも短気な親友を宥める役に回ってしまう。

「わかってるけどさぁ、なんかやる気しないんだもん」

「そうだね。──あ、ほら、カナちゃん、右下のとこ、手垢ついてるよ」

「なにこれ。誰よ、こんなにくっきり手形残してえ」

 かなめはムキになってガラス窓の汚れを落としにかかった。むしゃくしゃした気分をぶつけるように、必要以上にごしごしとこする。

 一度勢いが付きさえすれば早いもので、十分とかからずに教室と廊下の窓をすべて磨き終えた。雨降りで外側はやる必要がないため早く済んだ。

 その頃には教室内の掃除もあらかた終わり、二人が廊下から教室に戻ったときには並べた机を整列させているところだった。本来は中庭の当番だった数人が手伝いに回っていて、人手があったせいか、やはりいつもより早い。

 相良宗介も手伝い組の一人だ。教室の後方で、女子の一人に指示されてバケツを持ち上げ、無愛想になにか受け答えしている姿がかなめの目に入った。

 彼の仏頂面は、別に与えられた役割に不満があるわけではなく、デフォルトの表情にすぎない。そもそもどんな任務も文句一つ言わずに忠実にこなす性格である。たとえ単なる掃除当番であってもだ。

 中の水を捨てに行くのか、バケツを提げた宗介が廊下へと出て行く。その背中を目で追っていたかなめは、小さく溜息を吐いた。

「今日はソースケが騒ぎを起こさなかったのだけが救いか」

「相良くんもやっと慣れてきたのかなあ。なんにもない日がちょっと増えてきたよね」

 二人はそれぞれの席に戻った。たまたま恭子が日直だったので本日最後の業務として日誌に記載を済ませる必要があり、かなめはだらだらと帰り支度をしながら、親友の仕事が終わるのを待っていた。

 そのうちに他の区画の掃除に出ていた者が続々と戻ってきた。すぐに下校する者は少なく、教室はいきなり人口密度が高くなった。三々五々集まっておしゃべりに興じ始める生徒が多かったのと、部活などの校内活動が始まる時間まではまだ間があるせいか、普段なら放課後は大慌てで教室を去っていくような運動部の連中も混ざっているからだ。

 ふと、脇を通っていく男子生徒の会話が耳に入った。正確には、話の中に出てきた「ヨーコ様」という固有名詞に反応したせいで、ただの音声としてスルーしていた内容が急に意味を持ったといったところか。

 見て確認しなくても、小野寺孝太郎と風間信二の二人であることは声でわかる。

「ひどいや、オノD。寝返ってたなんてさ」

「いや、だってヨーコ様って実に俺好みのお姉様だったんだよな。一目惚れっての? ネットで写真見た瞬間に俺は恋に落ちたね」

 なぜか背後で立ち止まってしまった二人の会話は、いやでもかなめに届いてしまう。収まっていた不機嫌さがもう一度戻ってきた。

「なーにがヨーコ様よ。不愉快なこと思い出させないで欲しいわね、まったく」

 ぶつぶつと口の中でつぶやく。数日前まで参加していたオンライン・ゲームで、便所紙呼ばわりされた我が身を振り返ってしまった。そもそもの元凶を作ったのが「ヨーコ様」だ。その名のせいで小腹が立ってくる。

「あ、相良くん。聞いてよ! オノDってば、一度死んで出直した後は、ヨーコの側近になってたって言うんだよ」

 宗介が水場から戻ってきたようだ。気配が近付いてくるのがわかる。

「裏切り行為は感心せんな、小野寺」

 生真面目な反応に、孝太郎はからからと笑う。

「まあまあ、固いこというなって。それよりあの野伏と僧兵、相良と椿だったんだってな。よくも俺のこと瞬殺してくれたな。おかげで俺は、ヨーコ様に膝枕してもらい損ねたんだからな」

「えっ!? そんな約束してたんだ」

 少し高めの信二の声には、羨ましさが露骨に表れていた。かなめは「おいおい」と内心ツッコミを入れた。あんなに敵視していた相手だってのに、男ってこれだから……。

「膝枕とはなんだ?」

「誰かの膝を枕代わりに頭をのせて寝っ転がることだよ。相良くんはやってもらったことってない?」

「記憶にない。そうやる目的はなんだ?」

「膝枕そのものが目的だって! 女の柔らかいけど弾力のある魅惑の太腿に、頭をのっけるんだ。さぞかし気持ちいいだろうなあ。く~、頬をすりすりしてみたい! ついでに耳かきってのもありだよな。それこそ男冥利に尽きるってもんだ。そうしてもらってる時間って、きっとイヤなことぜ~んぶ忘れちまって心底くつろげるんだろうな。極楽気分、至福の時、幸せの極致を得られるんだぜ。うん、これぞ究極の癒しってやつだね」

 あんたは膝枕フェチかい。かなめは、今度は孝太郎に内心でツッこむ。

「要するに膝枕というのは、男が気分の良さを味わうために女にやってもらうというわけなのだな? リラクゼーション法の一種ということか?」

 意外にも、孝太郎の妄想話に宗介が反応を示した。様子が気になって、かなめは肩越しに振り返り、ちらっと横顔を窺う。

「そうそう、リラクゼーション、ヒーリング、うん、名付けて膝枕セラピー!」

「ふむ」

「とにかく、だ、男のロマンとか、永遠の憧れってやつの一つなんだ」

 宗介は、遠い目になってしまった孝太郎から信二に視線を移して意見を求めた。

「ロマンかどうかはわかんないけど、女の人の膝をかたどったクッションが売ってたりするくらいだから、憧れてる人は多いかもしれないね」

 答えながら信二がなぜか顔を赤らめる。理由はすぐに孝太郎によって暴露された。

「他人事みたいに言ってるけどよ、風間はそのクッション、持ってるんだぜ」

「オ、オノDこそ、僕ンちに来るたびに使ってるじゃないか」

「でもあれって、後で余計に寂しくなるのはなぜだろうな」

 少年たちの無邪気な──のかどうかよくわからない──やりとりに、かなめは口角をひくつかせた。ホントに男ってバカばっか。

「あ~あ、やっぱ本物がいいよな」

「そりゃあね」

「ヨーコ様ぁ~」

「もう諦めなよ」

「そうはいっても期待が大きかった分、諦めきれないものがあるんだな。……あ~あ、この際誰でもいいから可愛い女の子にぜひともお願いしたいもんだよ」

「頼んでみればいいではないか。本校は容姿に恵まれた女生徒の割合が高いのだろう?」

 宗介の単純明快な提案に、孝太郎は大袈裟に溜息を吐き、信二は苦笑する。誰でもいいと言いつつ、可愛い女の子に限定している矛盾には三人とも気付いていないらしい。

「付き合ってる娘(こ)もいねーのに、誰に頼むんだよ。同じ学校に通ってるからって理由で、膝貸してくれる女なんていやしねえよ」

「そうだよ。よっぽど親しくなきゃ、ね」

「そういうものなのか。俺も試してみたいのだが、ふむ、親密にしている女に頼むのだな」

 いきなり宗介が振り向いた。

 様子を窺っていたかなめは、しっかり視線がかち合ってしまった。瞬間、相手の目が少しばかり輝いた……ような気がした。

「ちど──」

「イヤよ! 冗談じゃない。なんであたしが」

 かなめは握り拳を作って仁王立ちになり、全身でおもいっきり拒否を表わす。宗介は思わずたじろいだ。

「……まだ何も言っていないが」

「膝枕しろってんでしょ?」

「なぜわかった?」

「今の話の流れでわかんないはずないじゃない」

「では千鳥、改めて協力を要請する。ぜひ膝枕を──」

「だからイヤだって言ってんでしょうが」

「しかし戦闘時に全力を発揮するには、オフ時に充分にリラックスしておく必要があると先日マオが言っていた。俺にはリラックスという状態がよくわからないのだ。だから──」

「だったらマオさんにしてもらえばいいでしょ! あたしは断固としてパス。そんなふうに期待に満ちた目で見ないでよね」

「しかしだな──」

「黙んなさい! オノDと風間くんも、ソースケに変なことふきこまないでよね。あたしが迷惑するんだから」

 腰に両手を当てて反り返ったかなめが睨みつけると、宗介に続いて二人も勢いに押され、

「あ、いや、その」

 と口ごもった。

 かなめはさらになにか言い募ろうと口を開きかけ、だがそこで周囲の様子に気付く。クラスメイト一同が興味津々で成り行きを見守っていた。いつから視線を集めていたのやら、右を振り向けば男子生徒たちが、

「膝枕だとさ」

「相良、大胆すぎ」

「千鳥が膝枕してやるシーンなんて想像つかねえな」

「やっぱ相良と千鳥ってできてんのか?」

「なんか怪しいよな」

 などと言い合い、左を振り向けば女子生徒たちが

「ねえ、相良くんの顔、あれで期待に満ちてたわけ?」

「カナちゃんにはそう見えるみたい」

「いつもどおり無表情だと思うんだけど」

「相良くんの微妙な表情の変化って、読みとれるのカナちゃんくらいだもんね」

「それってやっぱ特別ってこと?」

 などと言い合っているではないか。

 顔が火照るのを感じた。それをごまかそうと、宗介たちに向かって「あっちいけ、しっしっ!」と言わんばかりに野良犬でも追い払うような仕草をする。

「ほら、バカな話してないで、とっとと帰る!」

「千鳥、まだ交渉とちゅ──」

「ンなもんはとっくに決裂よ!」

 かなめは彼の机の上にのっていた学生鞄を投げつけた。

 鞄の持ち主はなんとかキャッチしたが、体勢を立て直す間もなく学級委員の少女に追い立てられる。すぐに三人組は廊下へと押し出されてしまった。

 扉をぴしゃりと閉めたかなめが振り返り、教室内をぐるっと見渡すと、クラスメイトたちは慌てて目を逸らし、元のおしゃべりに戻ったり、荷物を取り上げて下校する様子を見せたりなどする。

「カナちゃん、お待たせ~。あれ、どうかしたの? なんか顔が赤いよ」

 何事もなかったかのように、恭子がにこにこしながら近寄ってきた。

「なんでもない」

「膝枕くらいしてあげれば?」

「キョーコ、あんたってわかっててそういうことを……」

「もうカナちゃんったら、ホント素直じゃないんだから」

「このアマは~!」

「ほらほら、カナちゃん、二時からやる『蝙蝠剣客』の再放送を見るんでしょ? そろそろ帰らないと」

「うっ、そうだった」

 うまく丸め込まれた気もするが、気に入りのB級娯楽時代劇を見損なうのもなんだったので、素直に従っておくことにする。

 二人は連れだって教室を出た。日誌を提出するために職員室を経由して、昇降口近くの階段を下りる。

 一階にはなにやら人だかりができていた。大勢の生徒たちが昇降口の方向を遠巻きにしているせいで、廊下はラッシュアワーの電車の車内と同等の混み具合だ。

 かなめと恭子は顔を見合わせた。

「なんだろね?」

 親友のもっともな疑問に、かなめは渋い顔になる。一五分ほど前に教室から追い払った男子生徒の無愛想な顔が思い浮かんだからだ。

「ちょっとイヤな予感がするんだけど」

「まだ相良くんと決まったわけじゃないでしょ?」

 恭子は背伸びをして様子を窺おうとしたが、小柄な彼女には生徒たちの背中が高い塀になってしまう。お下げ髪をぴょこぴょこ跳ね上げた甲斐もなく、人垣の向こうは望めない。女子としては長身のかなめにもさっぱり様子はわからなかった。

「なにかあったの?」

 最後尾にいた一年生の女子に尋ねてみる。

「ケンカみたいですよ」

「ついさっきまで怒鳴り合う声が聞こえてたよね。実力はどっちが上だの、レギュラーがどうのって」

「そうそう。部活のことでなんかトラブってたみたいです」

 かなめはホッとして小さく溜息をついた。どうやら彼ではないようだ。

「よかったね、カナちゃん。相良くんじゃないみたい。部活やってないもんね」

「……そ、そうね」

 考えていたことを言い当てられたかなめは、自分の親友は読心術でもできるのかと疑った。恭子に言わせれば、「カナちゃんはわかりやすいから」といったところなのだが。

「え~と、とにかくなにがどうなってるのかはっきりさせないとね」

 宗介でないならないで、ケンカとあっては黙って見過ごすわけにはいかない。生徒会役員としての使命感が、旺盛な野次馬根性と共に、彼女を動かした。

「はい、ごめんなさいよ。ちょっと通してね」

 人垣をかきわけて進む。生徒会副会長であり、いろいろな意味で校内の有名人であるかなめを知らない者はいない。声の主が誰であるか気付くと、生徒たちは慌てて道を空けてくれた。

 すぐに最前列にでられた。昇降口を見渡すまでもなく、一番手前、つまり一年生のエリアにある靴箱の一つが、手前に四五度ほど傾いており、それを数人の男子生徒が支えている状況が目に入った。

 その男子の集団に見慣れた横顔を見付けて、かなめは今度はウンザリしたせいで大きな溜め息を漏らした。

「あれえ、相良くんがいるね」

 恭子はちゃっかりかなめのすぐ後についてきていた。

「それにオノDと風間くんもだ。どうしたんだろ」

「…………」

 かなめは片手を身体の前で強く握りしめて、わなわなと震わせた。靴箱が正常な状態に戻される様子を見届けてから、辺りに散らばった上履きやらスニーカーやらローファーやらを器用に除けながら、ずかずかと前進する。

「ソースケぇ! あんた、またやったのね!」

 ドスの利いたアルトの声と共に、ハリセンの振り下ろされる軽快な音が昇降口に響き渡った。

 左頬にバッテン傷のある男子生徒が後頭部に打撃を受けてうずくまった。

「痛いぞ、千鳥」

「ったく、あんたはどうしてそう進歩がないのよ! 先週あれほど言い聞かせたでしょ!」

「いや、爆破はしていない。これはだな──」

「言い訳はいい。ちゃんと片付けときなさい!」

 なまじきれいな顔立ちをしているかなめは、怒ると般若っぷりに凄味がでる。能面についてまるで知識のない宗介でも、現在の彼女の顔を写した面だと説明されれば、どんなものか想像がついただろう。

 気圧(けお)されて一歩後退した彼に変わって、孝太郎と信二が間に入った。

「違うって、千鳥。相良は──」

「オノD、一緒にいたならなんで止めないのよ」

「いや、だから、千鳥さん、これは相良くんじゃ──」

「風間くんもよ! あ~もう! 二人も同罪。ソースケを手伝いなさいよね」

 援護射撃はまるで効果がない。相手の勢いに負けておろおろするばかりだった。宗介が諦めた様子で手近に転がっていたスニーカーを取り上げると、二人もそれに倣った。

「キョーコ、行こ」

「放っといていいのかなあ?」

「いいの!」

 少女たちは自分たちの靴が収まっている二年四組の靴箱に向かった。

「ったく、懲りもせずに毎度毎度同じことやらかして」

 かなめは、昇降口を出てから、傘を広げながらドアのガラス越しに冷たい一瞥をくれる。

 いつの間にか片付けには他に四、五人の男子生徒が加わっていた。制服の袖のラインから一年生と知れる。普段なら宗介の起こす騒動の後始末を自発的に手伝うような物好きはいないので「変なの」と思わなくもなかったが、深く考えずに校門に向かって歩き出す。

「ねえカナちゃん、なんだかいつもとは様子が違ってなかった?」

 恭子が首を傾げる。

「爆破はしなかったみたいだけど、靴箱倒してるなんていつもどおりじゃない」

「そうかなあ」

 かなめは、納得していない様子の恭子の表情には、あえて気付かないふりをした。



 残り物でチャーハンを作ったかなめは、遅い昼食を取りながら最近気に入っている時代劇を見ていた。前半が終わってCMに変わってすぐ、PHSの着メロが鳴り出した。発信者を確認すると宗介だ。先刻の昇降口の件だろうと察して、無視することにした。そのうちに電話は鳴り止んだ。

 CMから後半に切り替わったと同時に、PHSが今度はメールを受信した。一応受信フォルダを開いたが、予想どおり送信者は宗介だったので、そのメールは即座に削除する。

 ドラマがクライマックスとなり、黒装束の主人公が悪人共をばったばったと斬り捨てる立ち回りの最中、PHSがまたも着メロを流し始めた。かなめはどうせ宗介からだろうと放っておいたが、なかなかメロディーが鳴り止まないので、切ってしまおうとPHSを取り上げた。そこで発信者が恭子だと気付き、慌てて通話ボタンを押す。

「キョーコ?」

「うん、そうだよ。まだ『蝙蝠剣客』やってる?」

 画面は殺陣が終わり、すでにエンディングシーンに移っている。

「もう終わるとこだからいいよ。なに? どうかした?」

「あのね、さっきの昇降口の靴箱なんだけどね」

「やだなキョーコ、それはもう──」

「カナちゃん、ちゃんと聞いて!」

「な、なに?」

 恭子の強い語調に、かなめは少したじろいだ。いつもの少々舌足らずな甘い話し方は変わらないが、真剣であるのはよくわかる。

「あの靴箱ね、倒したの相良くんじゃなかったの。近くに一年生の子たちいたでしょ? あの子たちだって」

「え」

 帰宅後も気になっていた恭子は、孝太郎に電話して聞き出したという。

 彼の説明によれば、あのときの経過はこうだ。

 教室をかなめに追い出された三人は、部活や生徒会の活動もなかったのでそのまま昇降口に行った。すると、一年生数人がなにやら揉めているのに出くわしたのだ。

 その顔ぶれがバスケ部の後輩たちだと気付いた孝太郎は様子を窺った。一学期で引退する三年生の替わりとしてレギュラーや準レギュラーに選ばれた者と、補欠になった者とが対立しているという構図とわかり、先輩として仲裁に入ろうとした矢先、一年生たちの言い争いが掴み合いに発展してしまった。

 即座に孝太郎と宗介は割って入ったが、ちょうどそのときに靴箱が倒れかかってきた。突き飛ばされて靴箱に背中を打ち付けた一人が、仕返しに飛びかかろうとしたはずみだ。不運にもワイシャツのハンガーループが、靴箱の蓋の取っ手に引っかかったためだった。

 不幸中の幸いで、体育会系ばかりが居合わせたので、反応は早かった。傾いた靴箱はとっさに皆が支えて完全に倒れることはなく、シャツが引っかかった少年も下敷きにならずにすんだ。

 そしてちょうどその場面にかなめと恭子は居合わせたのだ。

「だから相良くんはぜんぜん悪くないの」

「……そうみたいね」

「うん。そういうことだからね、カナちゃん」

「……うん。連絡ありがと」

 電話を切って、かなめはソファに転がっていたクッションを抱え込んだ。

「……どうしよう」

 宗介はなにもしてなかったんだ。そりゃ、日頃の行いがあるから、早とちりしたのって無理ないけど。……ううん、やっぱりあたしがいけなかった。ソフトボールができなかったくらいで不機嫌になってたから。くだらない膝枕の話なんかで不愉快になってたから。だから説明しようとしていた彼らの話を聞こうともせずに、宗介の仕業と勝手に思いこんでしまった。タイミングが悪かったのだ。……違う、悪いのはやっぱりあたしだ。

 PHSを手に取り電話帳を表示する。だが思い直して立ち上がった。電話よりも直接会って謝ったほうがいい。

 一歩踏み出したとき、玄関の呼び鈴が響いた。かなめは足を止めて、壁のインターフォンのモニターを覗き込んだ。

「ソ、ソースケ」

 モニターに映っていたのは、訪ねるつもりでいた当人だ。

「千鳥、切らずに聞いてくれ」

「なんなのよ!」

 心の準備が間に合わなかったかなめは、きつい調子で返事をしてしまい、内心でまた後悔した。宗介は気にする様子もなく、いつものむっつり顔のまま続ける。

「君が電話に出ないので直接来た。メールも入れたが念のためにな。緊急呼集がかかったので、俺は今から出かける」

「あ……仕事なのね?」

「肯定だ。二、三日中には戻る。それまで身辺に気を付けてくれ。以上だ」

 言うだけ言うと宗介はモニターから姿を消した。玄関を離れたようだ。

 かなめはリビングを飛び出た。短い廊下を走り、サンダルに足をつっこんで共用廊下に飛び出る。手摺りから下を見下ろすと、ちょうど少年がエントランスから走り出すところだった。

 呼び止めようかと少し迷ったがやめておいた。急いでいる彼の足を止めるのは憚ら(はばか)れた。だいいち近所迷惑だ。

 野戦服の背中がみるみる遠ざかっていく。

 結局、かなめは謝るタイミングを逃してしまった。



 宗介が戻ったのは二日後だった。

 かなめが登校して間もなく、彼も教室に現れた。先日の件をなんと切り出そうか思案しつつ、気後れしてためらっていると、少年のほうが先に口を開いた。

「おはよう、千鳥」

「お、おはよ」

 自席に荷物を置いた宗介は、疲労を滲ませた冴えない顔をしている。

「あんた大丈夫なの? なんか顔色悪いよ」

「問題ない。睡眠不足なだけだ」

「そう? ならいいけど」

「それより、俺の留守中なにごともなかったか?」

「なんにもなかったよ」

「そうか。それはよかった」

「あのさ、ソースケ──」

 いざ本題に入ろうとしたところで、それを阻むように始業のチャイムが鳴りだした。鳴り止む前に教師もやってきたので、学級委員のかなめは慌てて起立の号令をかける。

 はじまりで機を逸したせいか、その後の休み時間に二人で話をするチャンスも得られないまま放課後を迎えた。かなめはもやもやした気持ちを抱えたままだった。

 掃除当番の役割分担はモップだった。気乗りしないまま義務的に手を動かす。

 窓際まで寄ったときに外を眺めると、中庭はうっすらと白く煙っていた。朝からの雨が少し強まっているようだ。正面に並行して建つ別棟の校舎も輪郭が滲んで見える。

「よく降るなあ」

「そりゃ梅雨だもん」

 独り言のつもりだったが、たまたま近くで床をホウキで掃いていた恭子がそれを拾ったようだ。

「ってこないだも言ったんだよね」

 少女たちは苦笑した。

 恭子が数歩近づいてきた。内緒話というほどではないが小声になる。

「相良くんと話した?」

「……まだ」

「そっか」

 それだけのやりとりでも彼女がなにを言いたいのかが伝わってくる。かなめは気まずさを感じた。

「さ、ちゃっちゃと済ませてとっとと帰ろ!」

「うん」

 二人は掃除に戻った。

 学級委員以下、口うるさい女子が多い二年四組では、さぼる男子は滅多にいない。教室の掃除はほどなく終わった。

 手を洗って戻ると、宗介が自席で帰り支度をしていた。足が止まりかけたかなめの腕を、横にいた恭子が勢いよくひっぱると、さっと少年の傍らに寄る。

「相良くんも終わった? じゃあいっしょに帰ろ?」

「いや、この後、生徒会のミーティングが予定されている」

「あ、それ、月曜日に変更されたの」

「そうか。では帰ろう」

 恭子もいたおかげか、かなめはいつもの調子で何気なく口を挟み、そうできた自分になんとなくホッとした。

 三人で下校するのはさほど珍しくはない。生徒会の活動がなければ少女たちは以前から共に下校していたし、かなめと宗介は家が近所だ。連れだって泉川駅へ向かい、京王線に乗る。国領駅で恭子が電車を降りるまで、普段と変わらない雰囲気になっていた。

 だが、お下げ髪の親友がいなくなったとたん、かなめは居心地の悪さを感じた。少年が無口なのはいつものことなのだが、彼女まで黙りこんでしまった。

 不自然な沈黙の中、次の布田駅で目の前の席が空いた

「座ったら?」

「君が座れ」

「あんたが座んなさいよ。……疲れてるんじゃない? ひどい顔してるもん」

「そうか? 確かにこの二晩はまったく寝ていないからな。だが座る必要は──」

 ない、と言いかけて睨まれていることに気付くと、宗介はすごすごとおとなしく席に着いた。

「いつ帰ってきたの?」

「今朝だ。ちょうど登校時刻だったので学校に直行した」

「ふうん。って、だったらヘリだかヒコーキだか乗ってる間に、寝る時間あったでしょうに」

「宿題が残っていたので処理していた。もっともそれがなかったとしても移動中に眠るわけにはいかない」

「しょうがないなあ」

 かなめは、宗介の膝上に学生鞄といっしょにのっているバックパックをちらっと見る。

「あのさ、お昼、作ってあげるからさ、ウチに寄っていきなよ。洗濯物もあるみたいだし」

「了解。感謝する」

 電車を降りてからは自宅まで歩きだ。ちょうど雨間で、たいした距離ではないとはいえ、徒歩のときには雨が降っていないにこしたことはない。また降り出してこないうちにと足早に家路を急いだ。

 タイミングを計っていたかのように、二人が千鳥宅の玄関に辿り着いた途端、小雨がぱらつき始めた。思わずかなめは傍らの少年に笑いかけた。

「ちょうどよかったね」

「肯定だ」

 いつもどおりの愛想のない返事にかなめはなぜか安堵し、彼に対して感じていた気まずさも消えていた。

 かなめが自室と洗面所に寄ってからリビングに入ると、宗介は所在なげに部屋の片隅に突っ立っていた。「テキトーにやってて」という指示は彼にとって不明確だったようだ。

「手を洗ってうがいをしてくること。それと、洗濯物はかごに入れておいてね」

「了解した」

 命令に従うべく少年は部屋を出て行った。

 かなめはキッチンに立ち、冷蔵庫の中を物色する。

「う~んと、ベーコン、レタス、トマト。よし、そろってる。サンドイッチにしよっと」

 手際よく仕度を始めた。間もなく戻ってきた宗介がキッチンの入り口に直立し、手伝いを申し出て指示を待つ姿に苦笑する。

「もうすぐできるから座ってなよ」

「了解した」

 カリカリに焼いたベーコン、ペーパータオルでよく水切りしたシャキシャキのレタス、厚めにスライスしたトマトを、トーストしてバターを塗ったパンにはさみ終える頃、火に掛けておいたケトルがピーピーと鳴りだした。

「ソースケ、コーヒーが切れちゃってたんだけど、紅茶でいい?」

「構わん」

 飲食のことで宗介がとやかく言ったためしはない。たとえばアメリカ風のサンドイッチにはコーヒー、イギリス風のものには紅茶、などというかなめのこだわりは、彼にとってあまり意味がなかった。そのこだわりにケチを付けるような真似をすることもなかったが。

 できあがったBLTサンドイッチを配膳すると、ほんの少し宗介の口角が持ち上がるのに気付いた。かなめはくすりと笑みを零し、すっかり餌付けしちゃったなあ、などと少々失礼なことを思ってしまった。

「どうした?」

「ん~ん、なんでもない。さ、食べよ」

 かなめは紅茶のポットを傾け、琥珀色の液体をカップに流し込んだ。

 昼食は至って和やかな雰囲気だった。いつものように、少年が欠席した昨日の学校の様子を、少女が語って聞かせる。

「あ、そうそう、古典の宿題、出てるよ」

「むう、そうか」

「あたしもまだやってないからさ、あとでいっしょにやろ?」

「助かる」

 宗介はずいぶんと空腹だったようで、多めに作ったサンドイッチをすべて平らげ、調理人をいたく満足させた。普段なら後片づけを彼にも手伝わせるのだが、洗い物が少なかったのもあって、古典のプリントを渡して先にやっているように指示した。

 片付けを終えてから、リビングテーブルの前に二人して移動した。かなめには『蝙蝠剣客』の再放送を見るという最近の日課があったのだ。

 ソファではなく、テーブルとの間の床にかなめが座り込み、宗介はそれに倣った。

 少女は一応シャーペンを手にしたものの、時代劇が始まるとテレビに釘付けとなった。少年の方は、その番組の内容がよく理解できなかったのですぐに視聴をやめて宿題に集中していた。

 CMになって、かなめはお茶のお代わりを煎れに立った。じきに戻ったが、ついさっきまで辞書を繰っていた宗介が、いつの間にやらソファに寄りかかって目を瞑っていた。

「ソースケ?」

 声をかけても少年の反応はない。かなめは茶器をテーブルに置いて彼のすぐそばに膝をついた。もう一度そっと声をかけてみたが、やはり無反応だ。

「宿題、まだ途中でしょ?」

 起こそうとして宗介の肩に手をかけると、彼の上体が傾(かし)ぎ、そのまま倒れ込んできた。かなめはとっさに両腕で少年の身体を受け止める。

「く……お、重い……」

 そのまま腕だけで支えているのは長く続けられそうにない。膝立ちの中途半端な体勢にも無理がある。たたき起こそうと少年の身体を放りだしかけて、だが気を変えた。仕事で徹夜が続き、それでもきちんと学校の授業にまで出た彼に、そこまでの仕打ちはさすがにできなかった。

 その場に脚を投げ出して座ると、かなめは宗介の頭を膝におろす。

(なんか不本意だなあ)

 三日前の教室でのやりとりを思いだしていた。きっぱりと断った膝枕を、結局はしてやるはめになったのはまったくもって本意ではない。

(でも……そうね、これはお詫びよ。靴箱の件のお詫び。そういうことなのよ。うん)

 眠りについていても相変わらず無愛想なままの顔を見下ろしながら、少女は苦笑した。

「おい、こら、寝てるときくらいもうちょっと緩い顔になってもいいんじゃないの?」

 ささやきながら、人差し指で宗介の頬をつついた。するとそれに反応したように身じろいだかと思うと、少年はかなめの腹部に顔をすり寄せ、腰に片腕を回して抱きついてきた。

「お、起きてるの?」

 慌て気味にかなめが相手を引き剥がそうとしても、しっかりと抱きついた宗介はまったく離れてくれない。

「ちょっとソースケ」

 叩(はた)いてやろうかと片手をあげたが、思い直す。彼は冗談でこのようなことをする性格ではない。叩く代わりに、その手を少年の背に当て、規則的な深い呼吸を確認する。どうやら本当に寝入っているようだ。

「ますます不本意だわ」

 あえて声にだしたのは、今の状況が決して不愉快ではないと自覚した反発からだった。

 かなめはテーブルの上のリモコンを取り上げてテレビを消した。画面に背を向けた状態ではどうせ見られないし、なんだか見たい気分でもない。唯一の問題はやりかけの宿題だったが、それも提出は来週だ。

(ま、明日やればいいか)

 テレビの音声が消えたために、外の雨音が耳に届く。窓の外に目をやったが、本降りとなった雨に視界が閉ざされて、一面ブルーグレーに塗り込められている。

 まるで外界から隔絶されたようだ。世界に存在するのが二人だけになってしまった気分になる。だが、次いで胸の中に湧いてきたのは心細さではなく、奇妙なことに甘いせつなさだった。これまでに覚えがない感覚に少し戸惑ったが、少女にとってそれは悪いものではなかった。

 膝上をもう一度見下ろした。少年の横顔からは、心なしか険しさが薄れたように見受けられる。

 かなめは、自分の心が凪いでいくのを感じた。


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Rainy Afternoon 佐倉千波矢 @chihaya_sakurai

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