引越しと引きこもり

 二条夫妻のお宅は二階建ての白塗り一軒家、つまり普通だ。

 長袖の陽一さんに先導されてリビングに入ると、忘れて久しい顔があった。


「きみ子さん、ご無沙汰してます」


 頭を下げると気色ばんだ声がかかった。

 

「まあまあ、唯くんおっきくなったわねえ!」

「はい」


 柔和な面立ちで朗らかに微笑むきみ子さんは前掛けをして、荷物の運び込みを休んでいるようだった。

 陽一さんが椅子をひいてきみ子さんの隣に座ると、俺は陽一さんのまえに腰を下ろした。見覚えのある間取りは不思議で、どこも変わっていないように感ぜられる。

 明るいきみ子さんの質問に答えていると、ふと物音が聞こえた気がして天井を見上げた。


「雪音さんはどうですか。ちゃんとご飯食べて、風呂にも入ってますか?」


 すると二人とも複雑そうに答えあぐねてしまい、会話が止まる。陽一さんが長い沈黙の後「そうだねえ」と間をつないできみ子さんを見やった。彼女は言いにくそうだったが、視線を泳がせつつも語ってくれた。

 雪音さんまわりの家事はきみ子さんがやってるのだろう。雪音さんが年頃の娘であることを今更ながらに思い出した。


「あの子もう外に出る気もないんじゃないかって思うの——」


 ある程度話を聞いた後、あいさつしてくると言って席を立つ。

 階段をのぼっていると気が重くなっていった。俺でもわかるほどに状況は悪かったのだ。

 『ゆき』と可愛らしいプレートの前に立ち、控えめにドアを叩く。


「雪音さん、梓川です。入りますね」


 元より返答など期待していない。ためらいを覚えるが、意を決してドアノブをひねった。

 中は真っ暗だった。 

 カーテンを閉めきり、どこもかしこも本が積まれている。目を凝らせばホコリっぽい部屋の奥にもぞもぞと動く物体があるのがわかった。判然としないそれが、ベットに寝転んだ雪音さんであることは自明だった。

 俺はその場にあぐらをかいて座る。もし予想が正しければ、近づくのもフォーマルな印象を抱かせるのも悪手でしかないからだ。

 毛布の隙間から光がのぞいた。


「……だ、だれ」

「三年ほどまえに住まわせてもらったことがあるものです」


 返答はなかった。ただ瞳が見つめてくるのみで、俺は微妙に視線を合わせず壁を見る。

 ここは雪音さんの部屋で、彼女の空間であることは彼女の都合に合わせなければならないということである。それが現状を維持させる第一歩だと確信している。

 ずかずか踏み入って馴々しくするなどもってのほかである。二分か三分かして彼女は床に足をつけた。ぶかぶかのシャツの裾が廊下の光に照らされ、次第に顔も見えるまで近づいてきた。

 俺はなにも言わずただ正面を見つめていた。枯れ枝のように細くなった両足が目の前にあり、どこかすえたにおいが鼻先をかすめる。

 すると雪音さんは膝をおり、俺と目線を合わせてきた。

 ほおはこけ、目元のくまも濃い。適当にまとめた髪はくせっ毛が目立っていた。

 くりっとした目はもうなにをうつしているのかも分からず、どこを見ているのかすら見当がつかない。普通の人ならこれを怖いと感じるのだろう。けれど俺はそう思えなかった。


「久しぶりです」


 慎重に機を見計らって雪音さんに言うが、彼女が反応してくれることはなかった。

 虚しさが胸を覆っていく。仕方ないと片付けるべきなのか判断に迷うところだった。陽一さん、俺はできるでしょうか。しばらくして立ち上がった雪音さんはベットに戻り、そのまま寝入ったようだった。


「……また来ますね」

 

 ドアを閉めて背を預ける。

 引き取ってもらったこともある。そうでなくとも雪音さんが気がかりであるのは変わらなかった。もし叶うなら母と同じ結末をたどることがないよう願う。




 

 



 

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義姉を支えるために養子になった ホノスズメ @rurunome

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