第3話
火が揺れた。
今日は夜警で、駐屯地にはまだ暗い朝方帰って来た。
少しずつ、朝が暗くなっている。眠る前に騎士館の方で少しだけ書類に目を通していると、不意に外が騒がしくなった。気付いて、外に出ると、入れ替わりで街の守備隊本部に行ったはずのトロイが顔色を変えて戻って来るところだった。
「トロイ」
「団長! 街が……!」
駐屯地の外に出ようとした時、足元がぬかるんだ。馬鹿な。一時間前ほどに自分が通った時、なんの異変も無かったのに。街に行く街道が、無い。
水没している。
海の波が押し寄せて来る。駐屯地の海抜は街よりも高い。高台になっているのだ。
「街にも水が入り込んでいるんです! 水路も溢れて……!」
言っている間に瞬く間に足首まで波に浸かった。
「全ての者を起こせ! 今すぐだ!」
トロイが慌てて騎士館の方に戻っていく。
起こせ、と言ったが、すでに異変を感じ取って騎士たちは起き出している。
しかし、これが夜襲なら彼らはどうすべきか、一瞬にして理解し、行動しただろうが、瞬く間に駐屯地に流れ込んで来る波相手には、混乱するしかなかった。
それはフェルディナントさえ同じだったから、彼らを責められない。
竜も異変を察知して、ギャアギャアと鳴いて騒いでいる。
とにかく、街だ。
街の者を助けなければならない。
ヴェネト王宮は人工的に高台に作られているから、あそこに避難させよう。
イアン・エルスバトの顔が浮かんだ。そうだ。スペイン艦隊にも街の者を乗せてもらえば、何とか人の命は助けられる。彼らには船がある。
「フェリックス!」
他の竜は騒いでいるが、フェリックスは駐屯地の真ん中に佇んで、じっと水位が上がって来る足元を見ている。フェルディナントが呼ぶとこっちを見た。立ち上がり、尾で水面を叩くと、水しぶきが上がる。
「とにかく、街の者を助けなければならない。これは緊急だ。四騎はついて来い! 竜なら街にすぐ行ける! 高台の王宮に民を避難させて、スペイン海軍のイアン・エルスバトにも連絡を取る。フランス艦隊にもだ。彼らの船にも民を乗せてもらえば、王都の人間は救える。急げ! 一刻を争う!」
「は、はい!」
フェルディナントの的確な命令に、ようやく騎士たちはハッとして敬礼で応える。
だが、その瞬間大波が来て、更に勢いよく水が駐屯地内に押し寄せて来ると、狼狽がまた走った。
「こんな一瞬で、水没するなんて……!」
自分たちは竜を持っているから、本来は水が来ようが、空には逃げられる。それでも彼らの顔には恐怖があった。自然の驚異を目の当たりにしているのだ。
そして、今日まで、ようやくヴェネトで過ごす為に自分たちの手で整えてきた場所が、水の中に沈もうとしている、衝撃。
自分だって心境は同じだが、民は自分たちより遥かに無力なのだ。彼らをまず、助けてやらなければならない。落ち着け、と怒鳴ろうとした時だった。
「――フレディ……? どうしたの……?」
ザザザザ……、と五月蝿いほどだった波の音が、不意に、しん、と消えた。
今日は夜中まで騎士館の方で絵を描いていたネーリは、そこで眠っていて、騒ぎに気付き、目覚めて降りてきたのだった。
「ネーリ」
街は今すぐ見て来てやるから心配しないでここで待ってろ、と言おうとした時、眠そうに目を擦って現われたネーリは今ようやく、もう少しで騎士館内部まで侵入して来そうな水浸しの駐屯地に気付いたらしい。
黄柱石が恐怖に見開かれて、悲鳴があがる――と、そう誰もが思った時。
彼は瞬かせた瞳を細めて、ゆっくり微笑んだ。
「ああ……、潮位が上がっちゃったんだね」
法衣のような夜着のまま、彼は驚くべきことに、ゆっくりとした足取りで騎士館の階段を下りて来ると、水の中に臆することなく、裸足で入って来た。
水はもう、ネーリの膝まで来ている。それなのに彼は優しく、撫でるように水面に指で触れた。
ザザ……、風が不意に、逆方向に流れて、ネーリの柔らかそうな栗色の髪が大きく揺れた。丁度、向こうから朝日が射し込んで、水面を輝かせる。そこにいた、フェルディナントを含む、全ての騎士たちが驚いた顔で彼を見ていた。
「こんなに潮が満ちるの、何年ぶりだろう? でも、ほら……もう朝日が射し込んだから、じきに引いて行くから大丈夫だよ」
射し込んだ朝の光を背に、優しい声を響かせたネーリに、その場にいるものの心が、一瞬で向いたのを感じた。
戦場で、よく感じる感覚だった。
戦場ではこういう人間がいる。
どんな状況でも、その者の声と、言葉を聞けば、狼狽した兵士やいきり立って逸ろうとする兵たちも、一瞬に心を鎮めることが出来る、特別な力を持つ者が。
「そうか、みんなは【アクア・アルタ】初めてなんだね」
彼は精霊が満ちるような柔らかい声で言った。
「でも大丈夫、そろそろ下がって来るはずだから。あ、でも万が一の為に床の側にある食糧とか、薪とか、水に弱いものは上の棚や上階に移しておいた方がいいかも……」
しん……とした。
ただ、静かにザザ……と波の音だけが響く。
「フレディ?」
ハッとする。
「街に行くのは、中止だ、すぐに自分の担当する場所の物を避難させて来い!」
騎士たちが慌てて、弾かれたようにざぶざぶと水を掻き分けて走って行く。
「街は、大丈夫なのか?」
「水没はしてると思う。ここが飲み込まれているくらいだから」
ネーリはそう言ったが、やはり落ち着いている。
「でも、仕方ないんだ数年に一度、こういうことがあることは街の人も知ってるから、僕たちみたいに濡れない場所に物は避難させて、玄関に土嚢を置いて水の侵入を鈍らせたり、掻き出したりして対処するんだ。……街に行こうとしてたの?」
狼狽してしまって、気恥ずかしい。ネーリはこんなに冷静なのに。
だが彼はそんなフェルディナントを見ても、笑わなかった。優しい表情で見つめている。
「初めてだったから、狼狽えた。ヴェネト王宮あたりは高台だからあそこに避難させればなんとかなるかもしれないし、遠い者はスペイン艦隊の船や、フランス艦隊に協力して乗せて自ら守ってもらおうと思った。住む所は、さすがにどうにもできないけど、とにかく街の人間は守ってやらなきゃと思って……でもそうか、そんなに、街は騒ぎになってはないんだな?」
「大騒ぎだよ!」
ネーリは水面の水を手で掬って、飛ばし、明るく笑った。
朝日に照らされた水飛沫が光り輝く。
「こんな朝に、海の水が押し寄せて来るんだもの。街は大騒ぎ。今日あった予定は全部潰れて、水を何とかしなくちゃいけないから。でも夕方には潮は必ず引いてるから、大変だったねってみんなで言いながら大勢で食事をして、労い合うんだ。けど、大丈夫だよ。
【夏至祭】で水路を水で満たしてたでしょ。街の人たちは水には慣れてるから。みんなこれから今日一日大変だけど、僕たちは海の上に街を浮かばせて住まわせてもらってるんだもの。時々こんなこともあるよ」
フェリックスがやってきて、ネーリの身体に顔を寄せてきた。
「竜たちも驚いたみたいだね。……でもこんなになって、すごく怖がってるのに、本当に騎竜って、一人で飛んで逃げたりする子一人もいないんだ。すごいよ。偉いね」
確かにギャアギャアと混乱してるような声があちこちで聞こえてるが、だからといって勝手に飛んで逃げるものは一頭もいなかった。竜騎兵ですら狼狽していたから、フェルディナントはこれには改めて感心したのは事実だ。
「でも特にフェリックスは落ち着いてる。さすが隊長さんだね」
腹ほどまで水についているのに、「クゥ」などと鳴いて、確かにフェリックスは非常に落ち着いていた。ネーリに額に触れられ、輝く金色の瞳で彼をじっと見上げている。
「……ネーリ。……悪いんだが、街の人間はともかく、守備隊の騎士たちは大変なことになってるのが予想される。一度、俺はフェリックスで街の様子を見て来る。……ここにいてやってくれないか? ここにいる者たちは初めて見る光景で怖がっていたようだが、お前がいてくれるとあいつらは安心する」
ネーリは微笑んだ。
「うん。いいよここにいて、みんなの手伝いしておく」
フェルディナントはそう言ったネーリに優しい目を向ける。
「……ありがとう。そうしてくれると俺も安心する。フェリックス、行くぞ」
「フレディ」
水を掻き分けるようにして歩き出したフェルディナントは振り返った。
「……ありがとう。街の人たちのこと、助けようと考えてくれて。
自分たちの駐屯地もこんな状況で危なかったのに、
君は、自分たちのことよりヴェネツィアの街の人のことを守ろうとしてくれた」
天青石の瞳を瞬かせる。ネーリの顔を見た。
(なんて嬉しそうな顔するんだよ)
こいつは本当に、ヴェネト、ヴェネツィアだけじゃない。
そこに生きる人間達まで、大切なんだ。
改めてそれを理解して、フェルディナントは少し驚いた。
「……別に、俺たちはそれが使命でここに来たんだ」
「うん」
分かってる。
それでも嬉しい。
今のヴェネトは、ヴェネトの人間がヴェネトの人間を虐げてる。
でも神聖ローマ帝国軍のフェルディナントは、自分たちが脅かされてる時も、まず街の人間を助けようとしてくれた。これが本当に、人を守る使命感を持った者なのだ。
前からもそれを感じて、嬉しかったけど。
ネーリは今日のことで、フェルディナントのことが改めて大好きになった。
優しい、愛するような眼差しでネーリが自分を見ていてくれているから、歩き出そうとしたのを引き返して、恐れも無く水の中に夜着一枚で佇んでいる彼の許に行って、抱きしめて、口づけていた。
なんでと言われても分からない。
無性にそうしたいと思ったからだ。
美しく、強い魂を持つネーリ・バルネチア。
こんなに愛せる人は、他には決していない。
フェリックスに跨り、水の中から羽ばたく。
離れていく地上を肩越しに振り返ると、水の中にいるネーリの周囲に、竜の巻き起こした風で美しい波紋が出来ていた。
彼の言った通りだ。
押し寄せて来ていた波の流れが変わっている。
風が緩やかだ。
じき、水は海に帰るだろう。
朝日に照らされた水上都市に鐘の音が鳴る。
美しい、と彼は自然とそう思った。
【終】
海に沈むジグラート21 七海ポルカ @reeeeeen13
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