ホテルニューさわにし:つま先
野村絽麻子
遭遇してしまったお客様
そのお客様は青ざめた顔でフロントのベルを鳴らした。リン、と強めに響いた音が、恐怖心をしたたかに告げている。夜で、夕食の片付けも終わり、お客様の多くはお風呂を堪能している時間帯だった。
バックヤードでテーブルナプキンを折っていた先輩は、ばね仕掛けの人形のようにぴょんと跳ね上がって、そのままの勢いでフロントへ駆け出して行く。私は先輩が発する半オクターブくらい高い「はぁい、ただいまぁ!」を聞きながら、王冠形に折ったテーブルナプキンをそっと避けて、先輩の後に続く。
「出たのよ」
お客様は初老の女性で、ホテル備え付けの寝巻きを身に纏い、髪はしっとりと濡れたままだ。カウンターの下から取り出したタオルを見もせずに手渡しながら先輩が言う。
「……はぁ、出ましたか」
これまた碌に見もせずに受け取りながらお客様がため息を吐く。
「お風呂場ですよね?」
「そうです、脱衣所のそとを」
お客様のお話によれば、女湯の脱衣所のすぐ外を、つま先立ちした女の足がそそくさと走り過ぎたのだと言う。女湯の脱衣所の扉はキーロックが取り付けられていて、専用のカードキーを滑り込ませないと開錠出来ない仕組みになっている。それで女性客は、その足の持主が忘れ物でもして困っているのではないかと思ったそうだ。親切にも、戸を開けてあげようと近寄ってみたのらしい。
こんなこと、あなたに言ってもどうしようもないのかもしれないけどね、と言葉を続ける。
「それがね、つま先だけだったの」
「……つま先のみ」
「ええ、そう。何度かうろうろして、引き返して」
女性客はその場面を思い出したとでも言うように身震いをして、タオルで両肩を包む。少し困った顔の先輩が頭を下げた。
「ご不便をおかけして申し訳ございません。後ほど確認に参ります」
ひとしきり話すだけ話すと落ち着いたのか、女性客はもう一度「こんなこと、あなたに言っても仕方ないわよね」と呟きながら居室へと戻っていく。
さまよう足というのはなかなか怪談っぽいけれど、それにしてもつま先立ちというのが気になる。先輩も同様だったようで、私たちはそろってお辞儀をしていた背中をもとの角度に戻すと顔を見合わせた。
「つま先だけって、どういうことなんやろ」
「つま先立ちをする時……」
うーん。と頭を捻る。
脱衣所の外でつま先立ちをするときは……距離的に女湯は覗けないし、角度的に脱衣所も同じく。もしそれが覗き込んでいないのだとしたら。
「……単純に、寒い、とか?」
「試してみる価値ありそうやな」
園田先輩と私は一目散に大浴場へ向かうと、ひとまず脱衣所の入り口前の様子を窺う。中ではまだ何名かの宿泊客が湯を使っているらしく、下足棚にはスリッパが、何足か行儀よく並ぶ。
棚の上の方に予備のスリッパが備え付けてある。先輩は戸棚を開いてスリッパ一組を掴むと、脱衣所の外のスペースの隅へとそれを置く。
それから私と先輩はフロントに戻り、大急ぎで残りの仕事をこなすと本日の業務を終了に追い込む。園田先輩が肘でそっと私を突いた。横を見ればその顔にはひっそりと笑みが浮かんでいる。
「アミちゃん、……行く?」
「……行きましょうか」
客足の遠のいた大浴場へ向かうと、果たしてそこに、あのスリッパの姿はあった。まだ誰も履いた形跡はないようだ。
私たちは戸を開けて脱衣所に入り、いそいそ服を脱ぐと順番に大浴場へと足を踏み入れる。ホテルニューさわにしの自慢のひとつは大浴場だ。温泉地のため、浴槽の湯はもちろん温泉となる。
体を洗い、湯船に身を沈め、深く長い息を吐いた。住み込みでホテル勤務をする中での良いことのひとつは、こうやって大浴場を利用できることだ。無色透明の弱アルカリ性単純泉は「美肌の湯」を謳っている。わずかな炭酸ガスが含まれているおかげで長く浸かっていると肌に細かな泡の粒がいくつも並び、高過ぎず低すぎない温度は湯当たりもし難いので、ついつい長湯をしてしまう。
ほかほかに温まった身体を衣類で包んだその時だった。園田先輩がまたしても肘でつんつんと突く。
「なぁ、アミちゃん、あれ」
「……わぁ、」
園田先輩の視線を追って目を向ければ、スリッパを履いた足が戸の向こうを歩いていく。足は、踝の高さでふつりと途切れていたけれど雄弁で、初めは恐る恐る、次第に調子よく、最後にははっきりと嬉しそうに歩いていく。最後には壁をすり抜けて駆けて行くのを、私たちは呆然と見送ることになる。
「どこまで行くんかなぁ」
「ですねぇ」
「滑らんとええけど」
そうだ、外は雪。つま先立ちで竦んでいたという足が再び立ち竦むときも近いのではないだろうか。とりあえずのところ明朝は、さっきの女性のお客様に「もう大浴場の傍にアレはいなくなりました」とお伝えしようと思うのだった。
ホテルニューさわにし:つま先 野村絽麻子 @an_and_coffee
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