第4話:何かが変わった夜
月本ゼミでの顔合わせの翌日。
乙女は聖と共に説明会に出席し、授業登録のシステムについて一通りの説明を受けた。
大学では学部ごとに必修科目と選択科目が存在すること。
それらを組み合わせたカリキュラムと呼ばれる時間割を自分で作成し、登録用紙に記入して教務課に提出すること。
選択科目についてはお試し授業を行う期間が存在し、オリエンテーションという総称で呼ばれていること。
1週間にわたるオリエンテーション期間の後、前期授業が本格的に開始されること。
(時間割を全部自分で決めなきゃいけないって、結構迷うな……)
(でも、むしろ今までのほうが周りの大人や先生に頼り過ぎたのかも。この機会に自立できるように、頑張ろう……!)
意を決した途端になぜか空腹を感じて、それを知らせる音が盛大に鳴った。
「空腹を感じているのか?」
「わっ! こ、これはその……!」
隣の席で不思議そうな顔をしている聖に指摘され、乙女は耳まで赤くなった。
「近くに学生食堂がある。行こう」
笑うでも呆れるでもなく、自然な動きで聖が乙女の手を引く。
(た、断花さんって親切だけど……不思議な人)
聖に案内されたのは、構内に4つある学生食堂のうちの1つだった。
まだ昼時と言うには若干早い時間帯であるものの、うどんやカレーなどのオーソドックスなメニューが立ち並ぶ食堂内には既に多くの学生がいた。
「わぁ……!」
(これが入学案内で見た、学食……!)
思わず声をあげながら、乙女が瞳を輝かせる。
母校である清林女学院の学生食堂は、まともに通えなかった6年間のうちで一度も足を運ぶことができなかった。
実家ではかがりの指示により簡素な食事しか食べさせてもらえなかったため、食堂で好きなものが食べられる今の状況は幸福以外のなにものでもなかった。
「どうした? 入らないのか?」
先刻と同じ不思議そうな瞳で聖に見つめられ、乙女の心臓がさらに跳ね上がる。
「あっ、そ、その……」
「食券の買い方がわからないのか?」
「しょっけん、とは……?」
「……俺が2人分買う。どれにする?」
券売機と書かれた機械の前に立ち、聖がその中のボタンを指し示す。
「あっ……なるほど。この機械にお金を入れて、メニューの書かれたボタンを押すんですね」
「お前、食堂に行くのも初めてか?」
「は、はい……」
「……そうか。で、どれにする?」
「え、えっと……この日替わりA定食とB定食が、どちらもすごく美味しそうで……!」
「じゃあ、両方注文してシェアすればいい。俺はなんでもいいから」
「えっ!」
乙女が慣れない状況に戸惑っている間に聖は着々と食券を購入し、食堂スタッフに手渡していた。
その後も聖の誘導によって受け取り口でトレーを受け取って、窓際の席に着席する。
「あ、ありがとうございます。あの、代金を……!」
「いい。こんなことでは恩返しにはならないかもしれないが……少しでもお前の役に立てば」
恩返し、という言葉に、あの桜並木での出来事を思い出す。
(断花さんって、やっぱり不思議な人……)
「冷める前に食べるか」
「はっ、はい。いただきます」
A定食のプレートに乗ったエビフライを、どきどきしながら頬張る。
「……! お、美味しい……!」
揚げたてのものを食べたのは、本当に久しぶりだった。
「……俺のもやる」
嬉しそうに食事をする乙女に、微かな笑みを浮かべた聖がB定食のプレートを差し出した。
「ええっ!? でも、断花さんの分は……?」
「聖だ」
「えっ?」
箸を持つ手を止めた乙女に、聖は少し照れたように視線を逸らしながら返す。
「……できれば苗字じゃなくて、名前で呼んでほしい」
「ええっ??」
これまで淡泊さを貫いてきた人物とは思えない発言に、乙女は思わず2度聞き返してしまう。
「俺の……家の親族は皆、名前で呼び合うのが習慣になっている」
「……あの、聖さんってもしかして、外国育ちですか?」
「まあ……そんなところだ」
「……って私! い、今、名前で呼んでしまいました……!」
「……っ」
自分で自分にツッコミを入れるかたちになってしまった乙女に、聖が声をあげて笑った。
「それじゃ……よろしく、乙女」
(お、乙女って……! これじゃ、まるで恋人同士みたい……!)
(あっでも、友達同士でも名前で呼び合ったりするよね…?)
混乱しながらも何かを誤魔化すように食事を続ける乙女を、聖はどこか楽しそうに見つめていた。
それからというもの、乙女はオリエンテーション期間のほとんどを聖と一緒に過ごした。
明確な約束をしていないにも関わらず、乙女が教室や学生食堂に足を運ぶとなぜか聖がそ こにいて、自然と2人で隣同士の席に座る。
最初は緊張で何も話せなかった乙女も、そばにいる時間が増えたことで聖に対する警戒が解け、安心感を覚えるようになった。
今日の授業は興味深かった、今日の日替わり定食はなんなのか楽しみだ、など、本当にたわないもない話でも、1年後に死ぬ運命にある乙女にとってはかけがえのない時間だった。
しかし、その幸せを容赦なく奪おうとする暗雲が、彼女のすぐそばまで迫っていたのだった。
4月15日。オリエンテーション期間は最終日を迎えた。
履修する科目も無事に決まり授業登録の手続きを終えた乙女は、明日から本格的に始まる学生生活に胸を膨らませながら帰路についていた。
やや浮足立った様子で自宅の裏門に回り、いつものようにセキュリティ解除用のカードキーを通そうとする。
「……あれっ?」
カードをいくらかざしても、門は一向に開かない。こんなことは初めてだった。
(おかしいな……? どうして?)
不思議に思いながらも、乙女はスマートフォンを取り出して雅鷹の電話番号を押す。
あまり気乗りはしなかったが、トラブルが発生した以上兄に連絡する他なかった。
『……なんだ』
10回ほどコールしたところで、ようやく雅鷹が電話に出た。
「兄さん、突然ごめんなさい。今大学から帰ってきたんだけど、玄関のカードキーが何も反応しなくて……」
『玄関のセキュリティシステムなら、今日変更したばかりだが?』
「えっ……!」
事も無げに言い放つ雅鷹に、乙女は驚愕のあまりスマートフォンを握る手を震わせた。
「ど、どうして、急に……?」
『質問したいのはこちらのほうだ。なぜお前が屋敷にいる?』
『お前は生科研の学生寮に入ることになったはずだ』
苛立ちと困惑が混ざったような言葉の後、雅鷹さん代わって、という甲高い声が聞こえ、その後通話の相手がかがりへと切り替わった。
『乙女ちゃん、ごめんなさいねー。私の伝達ミスなの』
「ど、どういうことですか? 私、学生寮に入るなんて一言も……」
表面上は謝りながらもかがりの声色に反省の響きはなく、むしろ今の状況を楽しんでいるかのようだった。
『うちの家がセキュリティに厳しいのは知ってるわよね? お義父様からの指示で、今朝急遽システムを変更することになって』
『雅鷹さんはあなたが学生寮に入ると思い込んでたみたいで、私の連絡を待たずにそのまま手続きしちゃったみたいなのよ』
「あの、どうにかしてここを開けていただけませんか?」
『そうしてあげたいところなんだけど……』
そこでかがりは、乙女を絶望に突き落とすかのように声のトーンをわずかに低くした。
『雅鷹さんに急な海外出張のお仕事が入って、実は今、2人ともロサンゼルスにいるの。お義父様とお義母様は伊豆で静養中だし……今から開けるのは不可能だわ』
「そんな……!」
あまりにも偶然が重なり過ぎていておかしい。
まるで、以前から乙女を締め出すことを計画していたかのような流れだった。
『本当にごめんなさいね、乙女ちゃん。明日になったらお義父様と連絡がつくかもしれないから、今日はお友達の家にでも泊まってくれる?』
「待ってください、かがりさん……!」
『それじゃ、また連絡するわね』
一方的に電話を切られ、乙女はその場にへたり込んだ。
中学も高校もろくに通えていなかった乙女に、頼れる友人など1人もいなかった。
生科研の敷地内にある学生寮は男子学生専用で、入寮手続きなどできるはずもない。
(そうだ。聖さんか月本先生に相談すれば、もしかしたら……!)
脳裏に浮かんだ2人の姿を頼りに、乙女は電車に乗って生科研のキャンパスへと向かったのだった。
(……って、勢いで来ちゃったけど)
(こんな夜遅くに、2人ともいるわけないよね。連絡先も知らないし…)
──2時間後。
すっかり暗くなった敷地内を恐る恐る歩きながら、乙女は月本研究室へとどうにかたどり着いた。
(夜の学校って、なんだか怖いなぁ。誰も歩いてないし……)
時刻は20時過ぎとなっていた。神出鬼没な月本はまだどこかで仕事をしているかもしれないが、連絡先も学校関係者の生活も知らない乙女が探し出すのはほぼ不可能だった。
(この研究室、広いよね。ここで少し休ませてもらって、また明日、事情を説明すれば……)
1週間連続で通学した疲れが押し寄せてきたのか、乙女はそのまま机に突っ伏してまどろみ始める。
──1時間後。
「…………?」
眠っていた乙女がふと目を覚ますと、そこには予想外な人物が立っていた。
「聖……さん……?」
次の瞬間、ぼんやりしていた視界が一気に開けた。
薄暗い室内で乙女を見つめる聖の眼差しは、なぜか氷のように凍てついていた。
「えっ……?」
目の前にいる男は、本当にあの断花聖なのだろうか。
普段は素っ気ないけれど、時折穏やかな笑みを浮かべるあの美しい青年から、今は底なし沼のような仄暗いオーラが漂っている。
「……っ」
目が合った瞬間、聖がどこか人間離れした、獣のような息を漏らす。
同時に恐ろしく素早い動きで、乙女の腕を掴むと長机の上に押し倒した。
「ぁっ……!」
声にならない悲鳴をあげ、乙女が瞳を震わせながら全身の痛みを訴える。
しかし聖によって拘束された身体は、微塵も動かすことができなかった。
「……乙……女……」
うわ言のように呟いてから、聖が上半身を屈めて乙女に覆いかぶさる。
男性のそれとは思えない美しい手がブラウスの釦を外し、胸元を露出させる。
「せい……さ……」
羞恥よりも先に感じたのは、純粋な戸惑いと恐怖だった。
僅かな抵抗を込めた乙女の声も空しく、聖はそのまま彼女の白いうなじに唇を寄せ──
物語の中の吸血鬼がそうするように、そっと牙を立てて噛みつき、流れ出る血を吸ったのだった。
恋セヨ乙女~a girl and vampire~ 三日月マオン @m-mikaduki
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