第3話:月本ゼミ
「身体の調子は、もう戻ったのか?」
乙女が呆然とシーツを握っていると、そばに付き添っていた断花聖が硝子玉のような美しい瞳を向けてきた。
「……は、はい! 助けていただいて、ありがとうございます」
「……そうか」
乙女が慌てて返事をすると、聖は微かに目を細めた。
「名前は……国木乙女だったな。俺は断花聖だ。編入で今月から月本ゼミに入った」
(編入って、確か他の大学から移ってくる人のことだよね? いろんな事情の人がいるんんだな……)
聖の持つ独自の美貌に圧倒されながらも、乙女は言われた言葉をおぼろげながら理解する。
「ゼミの顔合わせは明日の朝10時だ。場所はこの地図に書いてある、特別研究棟の1階」
「……あっ、はい。わかりました」
「何か質問はあるか?」
「いえ、特には……」
「では、俺は戻る。もうすぐ保健医が戻ってくるから、お前は念のため診てもらうといい」
「……あのっ」
そう言って立ち去ろうとする聖を、乙女は思わず呼び止めてしまう。
「……?」
「本当に……ありがとうございました」
「礼を言うのは俺のほうだ」
思いがけない言葉を投げられ、乙女は目を見開く。
「偶然とはいえ、俺はお前に命を助けられた。この恩は、必ず返す」
口調は素っ気ないながらも、聖の言葉には揺るぎない誠意があった。
乙女の中に、あたたかいものがじわりと染み込んでいく。
他人に対して、ここまで安心感を覚えたのは初めてだった。
「……また明日」
静かに呟くと共に、聖が保健室の扉を閉めて去っていく。
(断花聖、さん……)
乙女はそのまましばらく、閉じられた扉をじっと見つめていた。
翌日。午前9時50分。特別研究棟1階にて。
「…………」
約束の10分前に、乙女は「月本最上研究室」という札が下がった扉の前で立ち尽くしていた。
9時30分には既に建物内に到着していたのだが、度を越した緊張により女子トイレの個室に引きこもり、ようやく抜け出した頃には20分も経過していた。
昨日は安心感を覚えたとはいえ、あの部屋の中には聖以外の生徒もいるのだ。
今まで1人も友人ができなかった自分が、果たしてこの大学でやっていけるのか。
不安の渦は、容赦なく乙女を飲みこもうとする。
(い、行かなきゃ……)
そのまま立ち尽くすこと、5分。
「やあ、おはよう! なぜ入室していないのかな?」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこには昨日と同じ、白衣にハイヒール姿の月本がいた。
「せ、先生……」
「ははっ、そういうことか。大丈夫、誰も君を取って食いやしないよ」
乙女の不安を見抜いたらしい月本が、退路を断つように肩を掴んで入室を促す。
「では、行こうか」
思ったよりも豪快な動きで、月本が研究室のドアを開けた。
「おはよう、諸君」
開かれたドアの先にはグループワーク用とおぼしき楕円形の机があり、机を囲むようにして3人の男子生徒が座っていた。
(あっ、断花さん……!)
左端に座っていたのは聖だった。昨日と同じようなシャツ姿であるものの、やばりすべてを凌駕するような、圧倒的な美貌を放っていた。
「は? 先生、誰っすかその女」
中央に座っていた茶髪にレザージャケット姿の男子生徒が、乙女に不審な目を向ける。
聖ほどの圧倒的な美形ではないものの、彼も整った顔立ちをしていた。
「ここ、見学の高校生が来るとこじゃねーんだけど」
「彼女は見学の子でも高校生でもないよ。北川くん」
北川と呼ばれた男が面食らっている間に、月本がいつもと軽い調子で説明を加えた。
「こちらは国木乙女くんだ。うちのゼミ生だよ」
「とりあえず座ってもらえるかな。ちょうど断花くんの隣が空いているね」
月本に促されるようにして、乙女は聖の隣の席におずおずと着席した。
「こんな子供みたいなやつが……? よく合格できたな」
驚き半分、呆れ半分といった様子で北川が乙女を見つめる。
(高校の制服じゃさすがにまずいから、今日は私服で来たんだけど……私、そんなに子供っぽいのかな)
今日着てきたブラウスとスカートを眺めながら、乙女が肩を落とした。
「……北川。君、ちょっと黙って」
そこで初めて、右端に座っていた小柄な男子生徒が口を開いた。
北川とは対照的な、量販店で売っていそうなシンプルなTシャツ姿に黒縁の眼鏡をかけた青年だった。
厳密には青年というより、美少年という表現が似合いそうな人物だった。あとの2人と同様に顔立ちも整ってはいるが、どこか中性的な美しさだった。
(男の子、だよね……? 女の子じゃないよね?)
「なんだよ駒。お前『人間は嫌い』とか言ってたくせに、女に興味あんの?」
「君が喋り出すと話が進まないって言ってるんだ」
揶揄うような笑みを浮かべる北川の発言を一蹴するように、駒と呼ばれた青年が冷たい口調で言い放った。
「はいはい、そこまで! 国木くんも戸惑ってることだし、私が軽く紹介してあげよう」
すべての混乱を収束させるかのような勢いで、奥の教授席に腰を下ろした月本が全員に向けて視線を投げる。
「とりあえず、左から順番でいいかな。編入で入った断花聖くんと
(北川くんと、駒井くん……。入学案内にも書いてあったけど、生科研って基本男性ばっかり……?)
そこまで考えて、乙女ははっとしたように月本に視線を向ける。
「あの、先生。このゼミって、全部で5人では……?」
「ああ、あとの1人は帰国生だから諸々の手続きが間に合わなくてね。5月の連休明けに加わってもらう予定だよ」
言いながら、月本は分厚い冊子が結束された束を全員に配布していく。
「授業登録用の書類だ。詳しいことは読めばわかるから」
「相変わらず説明する気ないっすね。先生」
「君と断花くんは初めての大学生活じゃないんだから、だいたいわかるだろう? では、私は仕事があるから後はゼミ生同士助け合って解決したまえ」
(ゼミ生同士って……大学の授業って、そういうものなのかな?)
「次は前期授業で会おう、諸君」
乙女が困惑している間に、月本は昨日同様の有無を言わせない速さで研究室から去っていった。
残された4人は無言で書類を確認し始める。
「はぁ……最初からいい加減すぎて、調子狂うぜ」
北川がぼやいたその時、意を決したように乙女が席から立ち上がった。
「あ、あの……!」
震える声で、しかし周囲に聞こえるようにはっきりと告げる。
「国木乙女です。清林女学院から推薦入学で入りました。ふ……ふつつかものですが、よろしくお願いします」
「…………悪いけど、」
半眼で乙女を睨んでから、北川が低い声で告げる。
「俺、お前みたいな人の顔色伺ってるやつ嫌いだから」
言うと同時に、鞄を手にした北川が去っていく。駒井もまた乙女を一瞥した後、何も言うことなく静かに去っていった。
(勇気、出してみたんだけどな……)
予想だにしなかった反応に、乙女は拍子抜けしたように椅子に座り込んだ。
北川と駒井からは、かがりのような陰湿な敵意は感じられなかった。しかし、自分の存在がこのゼミで歓迎されていないということも同時に理解した。
(挨拶も失敗しちゃったし……これからどうしよう)
溜息をついた乙女の手から、授業の登録用紙が落ちる。
「落ちたぞ」
それまで一言たりとも発言することがなかった聖が、流麗な声と共に乙女の登録用紙を拾う。
「あっ……ありがとうございま」
「授業の登録方法はわかるか?」
礼を言いかけた乙女に投げられたのは、意外な一言だった。
「いえ、その……恥ずかしながら、全然わからない……です」
「なら、説明会に一緒に行くか」
言ってから穏やかな笑みを浮かべる聖に、乙女は思わず頬を朱に染めた。
断花聖。彼の存在がきっかけで、乙女の日常は一変することとなる。
残酷でいて、優しい青い春が始まったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます