つま先立ち
深川我無
あの音を辿って
まったく下手くそな妻だった。
何をやらせても全く以て駄目な妻だったのだが、不思議とそういうものにも慣れて、いつしか私は妻の失敗に先立って備えるようになっていた。
妻が薬缶を取れば私は雑巾の準備をする。
妻が包丁を持てば絆創膏を忍ばせる。
出かける折には忘れ物の確認をした上で、予定よりも半刻ほど早く出発する。
すると妻は丁度十五分ほど進んだあたりで、必ず忘れ物を思い出した。
思い出すと、つひ笑つてしまう。
そんな妻だったが、バレエだけは上手かった。
もちろんプロなんていう大層なものではなかったけれど、時折長ーいスカートの裾をはためかせ、彼女は踊るのだ。
私のお気に入りの、クラシックのレコードに合わせて、くーるり、くるりと彼女は廻った。
それはそれは、優雅な気持になったものだ。
かと思えば、居間の床板の上を、トントントン……トントントン……とトゥシューズの先が叩く音が聞こえてきて、子気味の良い気持にさせてくれた。
そんな時私は、眠ったフリで薄目を開けながら、レコードの廻転が止まるまで、物音を立てずにじぃっとそれを眺めていた。
妻はどうやら、私の視線に気が付くと、緊張してしまうらしかった。
そうなると、途端に世界のバランスが崩れて、調和のとれたスカートの膨らみも、美しいリズムも、この世から消えてなんにも失くなってしまう。
私はそんな妻が大好きだった。
不器用で、下手くそで、私が先回りしないとなんにも上手くやれない妻を、助けてやるのが私の役目と信じていた。
それなのに、妻はどうやら、最後の最後で私への意趣返しを企んでいたらしい。
あんなに鈍間だった妻が、私が先回りしてやらなければならなかった妻が、私より先に逝ってしまった。
清潔というよりは、あまりに味気ない病院のベッドの上で、真っ白いシーツにくるまって、妻は私にこう言った。
「いーっつも、あなたに先回りしてもらって、助けてもらってばかりいましたから、今度はわたしが先回りして、あっちの様子を見ておきますからね。あなたはなあにも心配せずに、ゆっくり来ればいいんですよ?」
そんなことは全く以て望んでいなかった。
けれど、妻を残して先に逝くのは不安で堪らなかったから、私はそれにただただ頷いた。
それを見届けて、妻は逝った。
私が困らぬように、先回りして逝ってしまった。
独り残された私は、彼女が生き甲斐だったことに改めて気付かされた。
いつも彼女は、私のために、役目を残してくれていたのだ。
愚鈍な私が誇れるように、彼女はいつでも仕事を残してくれていたのだ。
それに気付いたその日の内に、私にも癌が見つかった。どうやら、相当進んでいたらしい。
先生に頼んで、私は今、彼女と同じ病室にいる。
彼女のつま先が立てるリズムが、私の進む先から聞こえてくる。
トントントン……トントントン……
いいリズムだ。
トントントン……トントントン……
世界はその音で整っていく。
トントントン……
誰かがふと肩を叩いた。
振り向かなくても分かる。
そこには、あの日の君が、不器用な君が、つま先立ちでスカートをはためかせながら、私を待っている。
つま先立ち 深川我無 @mumusha
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