渚の回想録

沙智

渚の回想録


◇1月

 遠くから鳴る無機質な音は車内アナウンスの声だった。

 その声は徐々に鮮明なものになっていき、微睡みの中にいた私は自分が今電車に乗っていることを思い出す。

 窓の外を見ると鈍色の雲が立ち込めていた。憂鬱になりそうな空模様だけど、心は水を打ったように落ち着いている。

 電車を降り、改札を抜け、私はかつて高校時代に彼女と過ごした街に降り立つ。この街に来るのも随分久しぶりだ。冷たい風が頬を切り裂く。同窓会も行かなかった私にとって、慣れ親しんだはずの街は疎外感を覚えさせた。

 私は人気の少ない道を一人で歩く。瞼を閉じると隣に彼女の顔が浮かんでくるようだった。朝の登校時に私と彼女は幾度となくこの道を歩いた。ギターを背負った彼女が口ずさむ鼻歌、癖のある歩き方、風に揺れる柔らかな髪の毛。


 全てが昨日のことのように鮮明で、今もすぐ隣に彼女が歩いているような気分になる。


 彼女の姿の残像が、彼女の声の残響が、私の脳裏を埋め尽くす。

 私はそれらを拾い集めて、何も無い虚空に立つ彼女の姿を再構成しようと試みる。しかし、記憶の欠片はすぐに霧散してしまい、私は寒空の下に1人取り残される。

 街は寝静まってしまったかのように静かだった。ポケットに入っているキーホルダーを握りしめる。吐く息が白い。


 私はあの場所に行かなくてはならないんだ。

 もう彼女のいない、この街で。


◆4月

 潮月渚(しおつき なぎさ)。それが彼女の名前だった。

 苗字が潮月で名前が渚だなんて、なんだか出来すぎた名前だと思う。漫画かアニメのキャラみたいだ。

 彼女は高校2年生初日の自己紹介で、「渚だけど海に行ったことはありません!」と言ってクラスの笑いを誘っていた。私達は海無し県に住んでいるため、16歳で海水浴に行ったことが無いと言うのもさほど珍しいことでもないように思えたが、彼女の自己紹介はウケていた。それはひとえに彼女の容姿によるものだろう。私は冷めた目を向けながらそんなことを考えていた。

 彼女はとても綺麗な顔をしていた。

 きめ細やかな白い肌、長いまつ毛、憂いを帯びた瞳、神様が微細に作り込んだ造形物のような顔だった。顔のパーツ一つ一つがくっきりと大きいが、全体としては大人びていて知的な印象を受ける。口元にある小さなほくろも大人っぽい雰囲気を醸し出すために一役買っていた。髪型は肩より少し長いボブカットだったが、毛先が跳ねており茶目っ気のある彼女のキャラクターに合っている。

(仲良くなることはないだろうな…)

 私は心の中でぼんやりそう思った。

 彼女は軽音楽部に所属しているらしい。教室の隅っこで辛うじて息をしている私と、ステージでギターをかき鳴らすような彼女とでは住む世界が違いすぎる。名前順でたまたま近くの席になっただけで、その他の共通項は特に無い。

 1時間目が終わり、次の授業が始まるまでの休み時間、クラスメイト達は思い思いにお喋りに興じていた。教室全体が浮き足立っているようで、落ち着かない空気が漂っている。

(このクラスで楽しくやっていける気がしないな…)

 新しいクラスは、初めて顔を見る子や1年生の頃同じクラスでも接点が無かった子ばかりだった。

(美希達とはグループが違うし…部活中全然喋らないのに教室でだけ仲良くするのもなんか変だし…)

 私は同じ陸上部に所属している一軍グループの女子達の群れに視線を向ける。彼女達は悪い人では無いのだが、派手な外見と振る舞いがどうも苦手だった。

 私は運動部の花形である陸上部に所属している癖に、社交性が著しく低いため新しい人間関係を構築するのが苦手だ。というか億劫だ。なんで10代の若者というのは、どいつもこいつもエネルギーを持て余しているような奴らばかりなのだろうか。

 今年の正月、親戚の集まりでお爺ちゃんに「夕夏は相変わらず声が小せえな〜陸上部なのによ〜」というよく分からない小言を言われたが、運動をする人間の幻想視はやめて欲しい。私はたまたま足が速いから陸上部に入っただけであり、いわゆる体育会系人間の熱いバイタリティも無ければ快活な人間性も備わっていない。スポーツが健全な精神を育むなんて幻想だと思う。だって私小学校から根暗なままだし。

 でも流石にずっと一人を貫くわけにもいかないので、誰かしら友達を作りたい。もうすぐ授業が始まるから、次の休み時間にはとりあえず美希達に話しかけに行こうかな、とかなんとか考えていると私の頭上から聞き慣れない声が降ってきた。

「佐藤さん、だよね?地区大会出場決まったんだってね!おめでとう〜」

 潮月渚だった。

 私のことを知っている?地区大会のことをなんで?あっ、この前の全校朝礼で校長が話していたから?いや、でもあの日の朝礼は私だけじゃなくて美希達だって取り上げられていた。陸上部以外にも、科学部や美術部の大会出場の話だってされていた。

 というか、県大会ならまだしも地区大会だからそれほど箔がつくわけでもないよ?ぶっちゃけインパクト弱いし。それなのによく覚えていたなこの子、学校内で大した知名度があるわけでもないこの私が、さほどパッとしない大会に出るという事実を。

「あ、ありがとう…。」

 頭の中にはぐるぐると疑問符が渦巻いていたが、私は辛うじて返事をする。

 ふふ、と渚は得意気な顔をする。

 近くで見ると本当に綺麗な顔だ。彼女の瞳の黒はまるで宇宙の深淵のよう。思わず身体ごと吸い寄せられてしまいそうな途方もない引力を持っている。

「私運動はからっきし駄目だからさ〜。佐藤さんって中学の頃も沢山陸上の大会出てたんでしょ?凄いよね。」

 何でそんなことまで知っているんだ。私は内心たじろぎながらも何か言わなければと考えるが、言葉が上手く出てこない。人を疑うことを知らないような彼女が放つ純真無垢な光に気圧されながら「へへ…」と腑抜けた気持ち悪い笑みを浮かべることしかできない。

「これから1年間、よろしくね。」

 彼女が私に笑いかける。窓から差し込む柔らかな春の日差しが、彼女の頬を黄金色に染める。

「うん…よろしく。」

 彼女はいたずらっぽくニヤリと口角を上げる。笑った顔は何だか猫みたいだ。それが私と渚が初めて交わした会話だった。

 彼女と私の友情はここから芽生え、そして私の傷跡のような日々が始まる。


◆6月

 校舎の周りを外周する野球部のかけ声。吹奏楽部の金管楽器の音色。放課後の学校は独特な喧騒に満ちている。

 来週から始まる校外学習(と言うのは名ばかりでただの遠足なのだけど)に向けての班長集会を終えた私は、一人静寂が支配する廊下を歩く。

(随分時間が押しちゃったな…)

 私は渚が待っているいつもの教室に向かう。

 私と彼女はいつからか、お互いが部活の無い日に放課後2人で待ち合わせることが日常となっていた。渚は家で練習するよりも気兼ねなく大きな声を出せるからという理由で、生徒が寄りつかない第二校舎の空き教室で歌とギターの練習をした。私は彼女の歌を特等席で聴きながら、明日の授業の予習や課題をした。同じ教室で思い思いに過ごし、時には他愛もないお喋りを交わし、駅まで一緒に帰るのがいつもの流れだった。

 私は小走りで本校舎と第二校舎を繋ぐ廊下を進む。

 廊下の向こうから、心地の良い旋律が鳴っている。彼女の歌声とギターの音だ。彼女のハスキーボイスは低音だけどとても透き通っていて、水晶玉を連想させるといつも思う。その声はギターの音色と絡み合い、私の心臓を強く揺さぶる。

 音色の源となっている空き教室のドアを開ける。教室の隅で渚がギターを弾いていた。

(集中しているな…)

 私は気付かれないようにこっそり後ろに近付く。

 彼女は男性ボーカルのバンドの歌を歌っている。サビに差し掛かろうとするところで、渚が振り向いた。

「あれっ、夕夏?いつの間に。」

 彼女は演奏の手を止めてしまう。

 私はだらしなく上がりきっていた口角を真一文字に結び、やあ、と片手を上げる。

「班長会議随分遅かったね〜。お疲れ様。」

「ありがと〜…。待たせて本当ごめんね。思ったより長引いちゃって…。」

「全然良いよ。何をそんなに話し合っていたの?」

「複数の班が同じ神社とお寺に集まっちゃう時間帯が何箇所かあったから、神社が混まないように各班の回るルートと時間を調整しましょうって鈴木先生が提案して、それの話し合いをずっとしてたんだよね…いやぁ長かったなぁ…」

「え〜何それ?それって班長会議で話し合うようなことなの?」

 渚は自身の髪の毛を指で弄びながら笑っている。彼女には手持ち無沙汰の時に毛先をいじる癖があった。

「本当そうだよね…。というか私達が鎌倉行く日って確か他校の遠足もいくつか被ってたし、そんなこと気にしても仕方ないと思うんだけどなぁ…」

「どうせ他の学校も来るからどちらにせよ混みそうだよね。お疲れ様。」

「ありがとう…」

「そういえばさ、前に行きたいって話していた水族館なんだけど、班長の田中くんに提案したら、遠足の時間内に行くのは多分厳しいと思うって断られちゃったんだよね。」

「あぁ…江ノ島まで結構距離あるもんね。確かにそうかも。」

 渚はこの遠足で水族館に行くことを随分前から楽しみにしていた。

「だからさ、遠足の後に、私と夕夏で2人で行かない?私の班、祥子ちゃん達とかすぐ帰っちゃうらしいし。」

 思わぬ申し出だった。渚と遠足の班が離れてしまったことを寂しく思っていたが、まさかこんな展開が待っているとは。

「うん、いいよ。2人で行こっか。長谷寺の紫陽花も見ようよ。」

 断る理由が無いので即答する。

「やったぁ、楽しみ〜」

 彼女は上機嫌で小躍りする。

 正直遠足という行事に特段大きな期待は無く寺にも神社にもさほど興味がなかったが、渚と水族館に行くことが決まったため一気に楽しみになってきた。

 私は遠足までの毎日を心を躍らせながら過ごした。


◇1月

 寒空の下、私は一人で歩く。歩く。歩く。歩く。

 私はポケットからキーホルダーを取り出して眺める。

 高校2年生の頃、遠足の日に渚と行った水族館で買ったキーホルダーだ。間の抜けた顔をしたイソギンチャクのキーホルダー。こういう時にストレートに可愛いものではなく、ちょっと変なやつを選ぶところが渚らしいなと当時は思った。年月が経ち、生地がすっかり摩耗してしまったそれは、ひどく寂しい雰囲気を放っている。


◆7月

 夏の夕暮れ。私達は二人で下校していた。慌ただしく鳴く蝉の声と、湿っぽい空気が通学路を満たしている。

「そういえば夏休みのオープンキャンパスの宿題さ、夕夏はどうするの?」

「あぁ、大学3個回って、分かったことと感想文を書けってやつだっけ…全然考えてないな…渚は考えてるの?」

「んー、私も志望校!って感じの大学は今のところ無いんだけど、とりあえず軽音サークルが有名な大きい大学は何個か回ろうかなって思っている。大学でも音楽やりたいからね。」

 初耳だった。渚、大学でもバンドやるんだ。

「大学でやりたいこともう決まってるんだ…凄いね、私まだ全然なんだよなぁ…」

「いや〜高2のこの時期ならみんなそんなもんじゃん?私だって漠然とした願望だし…それこそ行きたい学部とかは全然決まってないよ。将来何になりたいとかも特に定まっていないし。」

「漠然としたものがあるだけで凄いよ。私は何にもないもん…渚みたいに自分の軸をしっかり持てる人、憧れる。」

 必要以上に卑屈な響きになってしまった。渚がすかさずフォローを入れてくれる。

「自分の軸だったら夕夏だって持ってるじゃん。陸上、ずっと続けてるし。今度の県大会だって出るんでしょ?」

「出るけど…私は別に大学で続けないし…走るのは好きだけど、渚にとっての音楽ほどの熱量はないから…」

「…」

「陸上は好きだし、陸上部の皆のことだって好きだよ。でもたまに周りとの温度差を感じるんだよね。私は中学が部活動強制だったから、自分でもできる陸上部に入ってたまたま続けているだけで、皆ほどの熱量は無いなって。大学でも多分続けない。だから渚は凄いと思う。今度の文化祭に向けて作曲だってしてるじゃん。オリジナルの曲を歌うんでしょ?あと、音楽ってスポーツと違って残るものだし。渚の音楽は皆を感動させるけど、私が全力で走って良い結果を残したからって、それが何なんだろうって正直思っちゃう。後にも残るものをずっと続けているのは凄いよ。」

「やってて楽しいならそれで良くない?私の音楽だって何かを残したくてやってるわけじゃないもん。スポーツは何も残らないみたいに言ったけど、学生時代に何かに取り組んだ経験とか思い出は糧として自分の中に残ると思うよ。ていうか、私は少なくとも夕夏が体育祭とか部活の大会で頑張っているところを見て、自分も頑張ろうと思えたし。夕夏の頑張っている姿は私の中に残っているよ。私は陸上頑張っている夕夏が好きだから、無益なことをしているみたいな言い方されると何だか複雑な気持ちになっちゃうな…」

 渚が力無く笑って遠くを見つめる。その瞳がいつも以上に深い陰を帯びる。

 やってしまった。違う。こんなことを言いたいんじゃなかった。私は自分を卑下するのではなく、自分に無いものを持っている渚が羨ましいということを伝えたかっただけだ。私は渚の歌声が好きで、渚の音楽が好きで、音楽を頑張る渚が好きだ。そしてその輝きは、私には無いものだから心底眩しく見える。ただそれだけを伝えたかったのだ。

「あっ…ご、ごめん。なんか卑屈になっちゃって。別にスポーツが音楽より下だとかそんなことを言いたいんじゃなくて。私は渚ほど本気になれているものが無いなってだけで、それが凄いなって思うから…」

「でも、走ることは好きなんでしょ?」

 渚の射抜くような視線が私を貫く。

「うん、好きだよ…走っている時に風を切る感覚とか、ゴールテープを切る瞬間とか、自分の頑張っていたことがしっかり成果として出る瞬間が好き。」

「じゃあ、いいじゃん。」

 渚が目を細めて微笑んだ。

「何かに向かって頑張ることは、頑張る対象が何であれ尊いことだと思うよ。それについて取り組んだ期間が長いか短いかなんて関係ないんじゃないかなぁ。って、なんか私すごいクサいこと言ってるね。」

 渚は照れくさそうに口を手で覆った。

「ううん、ありがとう…」

 私はか細い声で返事をする。

「次の大会…また、見に来てね。」

「…最初からそのつもりだよ。」

 私達は肩を並べて、夕焼けの道を2人で歩いた。蝉の声が一層大きくなった。


◇1月

 冬の街は静寂に包まれている。もう少しで目的地だ。私は高校卒業後の今までの人生を振り返る。

 私は大学受験に現役で合格し、進学し、きっちり4年で卒業した。大学では4年間写真サークルに所属した。サークルでは新しい友達が沢山できたし、学業やバイトにも励み、客観的に見て充実した大学生活だったと思う。大学卒業後は音楽関連の会社に就職した。概ね順風満帆な人生を送ってきたと言って差し支えないと思う。でも私の心は、高校時代のあの日以来、ずっと大きな空洞があるようだった。その穴は、大学受験の勉強に全身全霊で挑んでいる時も、大学で新しく出会った友人と過ごしている時も、社会人になって仕事に取り組んでいる時も、埋まらないままだった。

 どんなに楽しい瞬間も、幸福な瞬間も、心のどこかに虚しさがあった。


◆8月

 高校2年生の夏休み、渚と2人で花火を見た。

 正確には、陸上部の部員達に半ば強制的に連れられて行った夏祭りで、たまたま軽音楽部の仲間達と来ていた渚と遭遇しただけなのだけど。浴衣を着ている部員達もいたが、私は私服で来ており、渚も私服だった。

「こういう感じで会うと、なんだか変な感じするね」と渚は私に言った。

 大所帯となったグループの最後尾を渚と私は2人で歩く。

 屋台がひしめく夏祭りの雑踏は異界めいた空気を纏っていた。生ぬるい風が吹く夜の中、彼女は涼しげな顔をしながら瓶ラムネで喉を潤している。

「あっ金魚すくいだ!ねえ夕夏〜あとでやろうよ。」

「いいけど…ちゃんとお世話できるの?」

 私達はまるで親子のような会話を交わす。

「何それ?できるよ〜。」

 渚は照れくさそうに、髪の毛を触りながら穏やかな笑みを浮かべる。柔らかい風が吹く。朝顔の鉢植えが並ぶ屋台があった。朝顔にも花言葉とかあるのかな。私はぼんやり考える。

 

 私達は河川敷で花火を見た。私達と同じような学生の集団も沢山いたが、カップルや家族連れも多かった。花火は想定よりもずっと近くで見ることができた。あまりに近いため、音が心臓に響くようだ。赤、青、緑、色とりどりの光の飛沫が墨色の空に広がっている。目を輝かせながら花火を眺める彼女の横顔を見つめる。鮮やかな光が彼女の口元のほくろを魅惑的に照らす。

「綺麗…」

 蕩けたような目で渚が呟く。

「ね、本当に…」

 私は返事をする。視線の先には渚の横顔がある。

「今日って流星群の日らしいよ。」

「えっ、そうなの?」

「うん、朝のニュースで言ってた。ちょうど今くらいの時間がピークらしい。でも、これだけ花火で空が埋め尽くされていると、星なんて見えないよね。人間の作った光が、自然の光よりも強いって、なんだか不思議な感じがする。」

 渚はこのようにロマンチックなことを時折言った。

 花火の音が、私達を包んでいく。

「来年もまた来ようね…」

 聞こえるか怪しいほどの声量で私は呟いた。私は彼女の顔をどうしてか見ることができなかった。こんな簡単な台詞を言うことに緊張していた自分に驚く。

「ん?いいよ。」

 間髪入れずに渚が返事をする。

 私は言葉は返さずに、ただ微笑む。とりわけ大きな音の花火が打ち上がる。

 来年は浴衣姿の渚が見たいな、私は思った。


 花火大会会場の最寄り駅で、私達は解散した。渚と私は乗る電車がバラバラだった。またね、と渚がホームに繋がっている階段の前で手を振る。私も手を振り返す。

 去っていく渚の後ろ姿を見届ける。その時、渚の右の太腿に青い痣のようなものが見えた気がした。何だろう、と目を凝らすけど彼女の姿は雑踏に呑まれて見えなくなる。

 


◆9月

 あの花火大会以外に、渚との夏の思い出と呼べるものはほとんど無い。

夏休みになったら沢山遊べると思っていたけど、渚は文化祭に向けてのバンド練習で毎日忙しそうだった。夏期講習の日も、クーラーの効きが悪い教室で彼女はギターを弾いていた。

 夏休みが終わり、いつもの日常が戻ってくる。私と渚はいつもの教室で会話をする。

「渚のステージ、楽しみだな…。私、去年の文化祭はクラスの出し物の仕事が忙しくて全然回れずに終わっちゃったんだよね。今年はバンドとかダンスとか色々見たいな。」

「え〜そうだったんだ。去年から夕夏と仲良かったら絶対に誘ったのになぁ。今年は絶対に来てね!待っているから!」

 渚は意気揚々と宣言する。

 高校の文化祭のバンドってどんな感じなんだろう。そういえば、私はいつも渚が一人で歌うところばかり見ていたな。バンドメンバーの一員として歌う渚はどんな表情で歌うんだろう。どんな歌声で歌うんだろう。放課後この教室で歌う時とは違う顔をするのかな。きっと、すごく格好良いんだろうな。

「あのオリジナル曲も歌うの?」

「勿論だよ!このために夏前から作ってきたんだし。でもステージで歌う為にはもうちょっと練習しないとなぁ」

 私には渚が歌うオリジナル曲は既に音楽として完成されているように感じたし、これ以上どこに改善の余地があるのよく分からなかったけど、本人がそう言うのであれば納得するまでやればいいと思った。最近目の下のくまが濃くなっていて心配だけど、どうか健康に支障が出ない範囲で頑張って欲しい。

 あぁ、楽しみだな。文化祭で渚が歌うステージ。彼女の歌声が体育館に響く様子が。観客の視線を全身で受け止める彼女の姿が。


 教室の片隅でギターを歌う彼女を見つめる。

 彼女の歌声が、ギターの音色が、教室全体に満ちていく。


◇1月

 私は高校の校舎の前に立っていた。高校時代と何ら変わらない姿の学び舎がそこにはあった。

「第二校舎がまだある…」

 私は独り言を言う。何とか壊される前の姿を見届けることができた。私は彼女と過ごした教室のある位置を見据える。冬季休暇中であろう校舎は人の気配が無く静かだ。彼女の歌声が聞こえてくることはない。


◆9月

 潮月渚が文化祭のステージに立つことは無かった。渚は文化祭の1週間前に学校を辞めた。ホームルームの時間に担任が無機質な声で、家庭の事情で潮月さんは学校を辞めましたと告げた。教室のあちこちからざわめきが起きる。私は彼女が何を言っているのか理解できなかった。渚が学校を辞めた?なぜ?何が理由で?私に何も言わず?文化祭はどうするの?疑問符が洪水のように脳内に溢れ出る。信じられない。これは現実なのだろうか。目の前の机も、クラスメイト達の話し声もやけに遠くにあるように感じてしまう。


 渚にまつわる沢山の噂が流れた。

 睡眠薬を大量に摂取して自殺しただの、家族が借金を返せずに夜逃げをしただの、犯罪に手を染めただの、そのどれもが嘘だと思ったし。どれもが本当のことのようにも思えた。

 美希とも女子トイレで話をした。美希は何かを知ってそうな様子だったからだ。

「私が聞いたのは妊娠したらしいってことだけど…子供を産むことは決めていて通信制の高校に転入するんだって。」と美希は言った。何で私が知らないことを美希が知っているんだという疑問が即座に浮かんだが、これまで聞いた噂話の中だったら一番マシであるように思えた。だって、少なくとも渚が生きていることは確定しているからだ。渚が人の道に反することをしたわけでも、事件や事故に巻き込まれたわけでもない。渚の相手に心当たりが全く無いことが悔しいが、これが真相ならまだ救いがあると思った。私はその話の詳細や発信源は誰かなどについて美希に問い詰めたが、彼女は要領を得ない返答を繰り返すばかりで、核心に迫る答えを得ることはできなかった。

 LINEもしたし、電話もしたが、渚の返事は返ってこなかった。今日の放課後、渚の家に行こうと思い立ったが、私は自分が渚の家の場所を知らないことに気付いた。担任の鈴木先生なら住所を知っているはずだ。後で聞きに行こうと思った刹那、何だか視界が揺らめいてきた。私の視界は膜を張ったようにぼんやりとしてくる。熱があるみたいだ。あれ、おかしいな。さっきまであんなに元気だったのに。寒気がする。頭が痛い。胸が苦しい。苦しい。苦しい苦しい苦しい。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。息が上がる。立っていられない。何だろうこれは。私の身体はどうしてしまったのだろう。今日の放課後、渚に会いに行くのに。学校を辞めたなんてことは全部間違いで、いつもと同じように、渚が私を待っているのに。こんなところで倒れているわけにはいかないのに。

「夕夏っ!?ちょっと、どうしたの!?」

 近くにいた美希が駆け寄ってくる。

「ごめん…ちょっと…熱があるみたいで…1人じゃ、立てないから、保健室まで、連れて行ってもらえる…?」

私は精一杯の声を振り絞る。声を出すだけのことがこんなに苦しいなんて生まれて初めてだ。私はどうしてしまったんだろう。こんな状態じゃ、渚に会えない……

「熱?大丈夫!?肩貸すね?ちょっと、咲!私が左側を支えるから右の肩を持ってもらっていい?」

 咲と呼ばれた少女が私の右肩を支えてくれる。

「あり、がとう…」

 今にも消え入りそうな声で私は呟く。

「苦しいなら無理に喋らなくていいよ!保健室まですぐだからね!」

 美希が私を鼓舞してくれる。

 美希、ありがとう。苦手だなんて思っていてごめんね。伝わらない気持ちを、私は心の中で囁く。


 渚とはもう会えないのかもしれない、薄れゆく意識の中で、そんな予感が徐々に確信へと変わっていった。


◆9月

 その後、私は1週間学校を休んだ。文化祭にも行かなかった。渚がいない文化祭のステージがどんな様子だったか私は知らない。体調が回復してからは渚の家に行った。渚の家はどこにでもあるような普通のマンションの4階だった。「潮月」という表札がある部屋のインターホンを押したけど、誰も出なかった。ドアの向こうからは人の気配を一切感じない。マンションの廊下を重い静寂が満たす。もう渚も、渚の家族もこの街にはいないんだろうか。私は漠然と思う。私は翌日もその翌々日も、渚の家に行ってインターホンを押したけど、ドアの向こうから誰かが出てくることは結局無かった。

 ある日、潮月の表札が外されていた。空き家になったのだと思った。でも、最初に来た日からずっと空き家だったようにも思えた。悲しみも諦念も何も湧かなかった。もう明日からここに来る必要はないんだ、ただそのことだけを事実として受け止めた。


◇1月

 私は無言で第二校舎を見つめている。風の噂で母校の第二校舎が取り壊されると聞いた私は、無くなる前に何としてもその場所に行かなければならないと決意した。渚と過ごした思い出の場所を、この目に焼き付けたいと思ったのだ。そんなことをしたって何にもならないのは分かっている。彼女が帰ってくるわけでもない。でも私は、彼女の残滓が留まる地に足を運ばずにはいられなかった。鮮明だった日常も時が経てばいつかは色褪せていく。校舎を遠目に見つつ渚との日々を追想する。

「文化祭のステージ…見たかったなぁ…」

 私は体育館のステージに立ち、ライトを浴びながら一心不乱に歌う渚を夢想する。ステージ下を埋め尽くす生徒達の狂騒を妄想する。彼女の歌声で揺れる体育館を想像する。描いたイメージはやがて輪郭が明瞭になり、現実の出来事だったように思えてくる。

 渚との日々を追想する。放課後の空き教室での待ち合わせ。雨の日の通学路。校庭にいた野良猫。彼女が爪弾くギターの音色。授業中何度も盗み見た横顔。跳ねた毛先。髪の毛を触る仕草。口元のほくろ。水族館の仄暗い明かり。渚が口ずさむCMソング。夏祭りの屋台。教えてくれた花の名前。2人で解いた数学の問題。炭酸の抜けたラムネ。いたずらっぽく笑う彼女の背後に射す光。

 何が現実で、何が妄想なのか次第に分からなくなってくる。全てが夢だったような気さえしてくる。


◇1月

 私は河川敷を訪れていた。高校2年生の夏に渚達と花火を見た場所だ。 

 冬の河川敷には私以外誰もいなかった。人どころか生命の気配を一切感じさせない灰色の景色が広がっている。

(ここの花火大会もあの時にきたのが結局最後だったな…)

 私は寒々しい水面を眺めた。花火を見た記憶の場所と、今目の前にある荒涼とした風景がどうしても重ならない。


 私は再びポケットからキーホルダーを取り出した。今となっては渚がいたことを証明する数少ないものだ。キーホルダーを強く握りしめて思索に耽る。

 渚がいたことを証明するもの?本当にそうだろうか?疑念が湧いてくる。このキーホルダーは確かに渚の選んだものではあるけど、それも私の中にしか無い記憶であって、キーホルダー自体に潮月渚という少女が存在した物的証拠になりうるものは含まれていない。このキーホルダーも所詮は大量生産品だ。渚がいた証拠になるだなんて私が勝手に付与した意味に過ぎない。それはさっき見た第二校舎だって同じだろう。思い出の場所だなんて感傷に浸っていたけど、私が勝手に渚の記憶と結びつけていただけだ。


 では、潮月渚が存在した事実を証明するものはどこにあるのだろうか?


 私は呆然としていた。花火が上がることのない冬の川面を眺める。

 その瞬間、私の頭の中で小さな閃光が走った。

 あった。渚がいたことを証明するもの。なんだ、ずっとあったじゃないか。なんでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。

 私は大きく息を吸い込んだ。冬の川辺に静寂が張り詰める。

 私は小さな声で歌い始めた。それは渚が文化祭で歌う予定のオリジナル楽曲だった。私に何度も聴かせてくれた彼女だけの音楽。彼女の旋律。彼女が紡いだ歌詞。渚が作った音楽は私の中に確かに残っていた。ねえ、渚。私、覚えているよ。貴方が文化祭で歌うはずだった音楽を。貴方が何度も聴かせてくれたメロディーを。世界中の人間の頭の中から貴方にまつわる記憶が全て消えたとしても、私の中に貴方の欠片はずっと、ずっとずっと残っているよ。私は歌う。高らかに歌う。声を振り絞り、力の限り歌う。澄んだ空気の中、私の歌声は遠くまで響くような気がした。


 でも、次第に違和感が湧いてくる。歌えば歌うほど渚が遠くに行ってしまうような気がする。今まで以上に渚という少女の像がぼやけていくような感覚がする。どうしてだろう。これは何だろう。あぁ、そうか。私の歌声と、記憶の中にある渚の歌声の距離の遠さを感じるからか。渚の作った旋律をなぞるだけで、結局は私の声だ。渚の声じゃない。


 渚の残した音楽は再生できるけど、渚の歌声はもう再生できない。


 歌えば歌うほどその事実を噛み締めることになる。気付いたら涙が出てきた。感情が決壊してしまったように、大粒の雫が頬を伝う。私は嗚咽し、歌うどころではなくなってくる。

「やっぱり、渚はどこにもいないんだ…」

 私は地面に向かって呟く。

 音楽が未来に残り続けるなんて嘘だ。曲は残ったかもしれない。でも渚の音楽は、渚の歌声は、あの日の、あの教室にしか存在していなかったんだ。潮月渚が存在したことを証明するものなんて、どこにも無い。

「残らない。残っていないんだ。何も…」

 私は途方に暮れた。私はどうすればいいのだろう。心の空洞が埋まるかもしれないという淡い期待を抱いて思い出の場所を訪れたけど、何だか余計に悲しくなってしまった。むしろ忘れていた悲しみさえも蘇らせてしまったような気がする。

「渚…」

 私は虚空を見つめる。

 その時、渚との過去の会話を思い出した。


『私の音楽だって何かを残したくてやってるわけじゃないもん。』


 高校2年生の夏、帰り道に渚はそう言っていた。

 そうだ。残したいわけじゃないと渚は言っていた。何かを残すことが目的では無いと言っていた。

「形に残らなくても、いいのかもしれないな…」

 私は呟く。形あるものはいつかは消えていく。でも、形に残るものが無いからと言って、2人で過ごしたあの日常が無かったことにはならない。彼女の歌声が、彼女と交わした言葉のやり取りが、その全てが嘘だったことにはならない。渚とはもう会えないかもしれないけど、私と彼女が2人で過ごしたあの日々は確かに存在していたし、あの時間は宇宙史の1ページの片隅に確かに刻まれているだろう。その事実を噛み締めると、私の心に光が射してくるようだった。


『夕夏の頑張っている姿は私の中に残っているよ。』


 渚の言葉を反芻する。そうだ。そうだったんだ。

「渚の姿だって…私の中に残っているよ………」

 私は囁いた。渚の存在を証明するものは私の中にしか無い。でも、それでいいのかもしれない。世界中の人間の頭の中から渚にまつわる記憶が全て消えたとしても、私の中には残り続けるだなんて、さっき自分で言ったんじゃないか。


 私の中に渚はずっといるんだ。証跡なんて無くていい。


 彼女の仕草が、言葉が、思い出が、私の中に残っている。彼女と過ごしたあの日々が、現在の私を構成している。

 私は何度だってあの時間を再生しよう。彼女と過ごした教室の陽射しを、彼女の歌声を、彼女のはにかんだ笑い声を。


 キーホルダーをバッグにしまった。ずっと一人相撲をしていたみたいだ。こんなこと最初から分かっていたはずだ。私はなんだか晴れやかな気持ちになってくる。


 私は川に背を向けて、駅のある方向へ歩き始める。

 涙は既に止まっていた。鈍色の空が無性に美しく見えた。

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