第5話 妻の恋
いつしか冷たい風が、柔らかな春を連れて来て、軽やかなメロディを流すから、僕はクローゼットを整理した。
あの日、奈子が僕にくれた手編みのマフラーを衣装ケースに仕舞おうとして手を止める。
ずっと、この長すぎて重すぎるマフラーにくるまって、二人温め合えると思っていた。このマフラーがつなぎ留められる距離に、彼女はいつでもいるんだと。
そんな気がしていた。
なんの根拠もないのに――。
割れた皿は二度と元通りに戻る事はない。
どんなに高級で素敵は皿だったとしても。
テープでつなぎ合わせて、後生大事に仕舞ったとしても、それはもう、別物。
大切な想いがこもった皿ではないのだ。
捨てて、また新しい皿を手に入れるだけ。
しかし、壊れた心は簡単に捨てることなんてできない。
欠片を拾い集めて、繋ぎ合わせて、抱えていくしかない。
あれから、三ヶ月ほど経った。
あの日。
奈子が「颯太の事が好きなの」と言ったあの日。
どんな風に、話を〆たのか。
それすらもう思い出せない。
年のせいなのか、人間だからなのかは、不明。
僕はどうにか態勢を立て直して、一つの答えに辿り着いた。
青春の中には『恋』が含まれているんだという、至極当たり前な答えに。
キッチンでは、いつもと変わらない奈子が、夕飯の後片付けをしている。
今夜のカレーも、おいしかった。
「奈子」
僕はその背中に声をかける。
「何? パパ」
いつもと変わらない、柔らかな笑みを湛えてこちらに振り返った。
しかし、それはもうすでに割れてしまった皿なんだ。
僕は知っている。
奈子がいつも、女の顔でスマホの向こうの誰か――、否、あいつとメッセージのやり取りをしている事を。
もう僕には見せない女の顔で――。
「奈子。君は、自由だから、好きな人の所へいきなさい」
「え?」
「彼の所へ行くといい。舞人の事は何も心配いらない。僕がちゃんと育てるから」
「パパ……」
「逢いたくなったらいつでも僕はここにいるし、舞人だって、いつでも君に逢いたいと思うから。この先、いろんな事があると思うけど、舞人のママは君一人だ。だから安心して、自分の人生を、自由に生きていくといいよ」
奈子は両目からいっきに大粒の涙を零した。
「人生は、フリースタイルだからね。好きな舞台で、好きな音楽で、君らしく、踊るんだ」
三ヶ月かけて、必死で考えて、繰り出したセリフ。
彼女の人生が、これから誰よりも輝くように。
つま先ばかり見てたら、ステップは上手に踏めないから。
これは、僕なりのフリースタイル。
なんて、考えてたら、やっぱり泣けてしまった。
手に入れるのは簡単だったけれど、手放すのは死ぬほど難しい。
しかし、これだけは自信を持って言える。
これが一番、彼女にとっても、僕にとってもベストな答えだと。
君というパートナーを得られた事、それから、舞人という宝を産んでくれた事。
それだけで、僕の人生は十分輝いた。
次は、君が輝く番だ。
奈子はその場に泣き崩れて、何度も何度も、ごめんなさいと言った。
床に向かって、何度も何度も……。
その背中を、心配そうに舞人がさすっていた。
「ママ? おなかいたいの?」
◆◆◆
あれから、どれぐらい時が過ぎただろうか。
舞人はすっかりランドセルが板につき、難易度の高いステップを、僕よりも上手に踏めるようになった。
そんな舞人の後ろ姿を、日差しが柔らかく包み込む小春日和。
「舞人ーーーー! パパーーーーー!」
大きなスーツケースを引きながら、少し大人になったかつての妻が緩やかな坂を上って来る。
「パパー!」
奈子はあの頃と変わらないテンションで、僕に抱き着いた。
「一体、どうしたっていうの? 急に……」
彼女から、会いたいと連絡があったのは3日前の事。
「颯太と別れたの」
「あ、ああ、そう、なんだ?」
いや、ここまでよく続いたな、逆に。
「人生は自由でしょ?」
「あ、ああ、そうだよ」
「私、やっぱりパパがいい」
「そ、そっか」
小学4年生の舞人は少し照れ臭そうに、奈子のスーツケースを握った。
なんだか嬉しそうな笑顔を見え隠れさせながら。
「舞人はずっと、ママと会うの楽しみにしてたもんな」
そう言うと
「うっせー、そんなんじゃないし」
と、顔を真っ赤にした。
自由と自分勝手は違うのだと、僕は声を大にして言いたい。
しかし、言わなかった。
それはこれから少しずつ理解していけばいいのだと思う。
奈子は27才になり、僕は47歳になった。
十分、人並みとは言わないまでも、彼女は存分に青春を満喫したらしい。
人並みに遊んで、人並みに恋をして、人並みに失恋をして――。
そしてこれから僕たちは、この家族という舞台で、それぞれのリズムを刻みながら、もう一度踊り始めるのだろう。
いつか自然と足並みが揃うその日を夢見て――。
完
・・・・・・
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年下妻は幼馴染の腕の中で再び踊る 神楽耶 夏輝 @mashironatsume
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