つま先上がりの坂

イチモンジ・ルル(「書き出し大切」企画)

 村を追放された少女ローリンは辺境に向かう道をとぼとぼと歩いていた。


 謂れのない罪で断罪され、村を追い出された日から数日が経つ。村の教会の尖塔が見えなくなってずいぶん経つ。

 追いかけられて罵倒されることはもうないだろう。しかし、故郷に未練はない。少しでも離れたかった。


 平らなようでいて、緩やかなのぼり傾斜のある坂道がじわじわと足を蝕む。戒めのため焼き印を足の裏に押された身体では、わずかな坂道すら拷問だった。

 もう村からは十分離れた。

 歩く理由もなければ行き先もない。

 座り込んでしまえば何もかもが終わる気がした。このまま野垂れ死にするかもしれない。それも悪くないとローリンはうっすらと微笑んだ。

 ローリンは道端に腰を下ろし、荒い息を吐いた。冷たい風が頬を切りつける。傷口がじんじんと痛むなか、忘れたい記憶が次々と蘇り、彼女の心を苛む。


 ***


「こういう緩やかな傾斜の坂をつま先上がりの坂と言うのだよ」


 したり顔で言った元婚約者の顔が浮かぶ。村の教会で教導師を務める好色な男だった。

 その日はローリンを従えて、村を慰問して回った帰りだった。ローリンに細々とした荷物を持たせ、颯爽と歩く教導師を皆が敬っていた。


 ***

 

 記憶に浮かぶ彼の表情はいつも教導師らしからぬ軽薄さを秘めていた。しかし、あの断罪の日だけは違っていた。腹違いの妹テルマの証言を信じ、怒り狂って自分を断罪するその目には、熱心な信仰者の狂気が宿っていた。


「恥を晒す娘なんか、生きている価値もない」


 継母の吐き捨てた言葉が耳にこびりついて離れない。その「恥」とは腹違いの妹テルマが仕組んだ冤罪だった。


 教導師の男は「ローリン、お前との婚約は破棄する」と冷たく言い放った。


「まさかお前が、異端の呪術に手を染めていたとは」

「そんな……身に覚えはありません!」


 ローリンの言葉を無視して、婚約者は怒りに震える手で机を叩いた。

 

「お前の妹君テルマが証言してくれた。昨夜、月夜の丘の上で、お前が魔性の踊りを舞い、私が秘かに思いを寄せたテルマを害し、己の卑しき愛欲を満たされることを望んでいたと!」

「そんな馬鹿な! 私はずっと部屋にいました!」

「黙れ! テルマが涙ながらに語ってくれたのだ!」


 テルマは泣き顔を装い、継母の胸に顔を埋めている。その肩は小刻みに震えていたが、隙間から覗く唇には薄い笑みが浮かんでいた。


「姉様……どうしてこんなことを……」


 震える声に、教導師と継母の怒りがさらに膨れ上がる。


 ローリンは村の広場へと引きずり出されることになった。


 村人たちは熱狂し、広場全体がまるで祝祭のような空気に包まれている。

 子どもたちは笑いながら石を拾い、ローリンの足元に投げつけた。大人たちはそれを見て満足げに頷き、清めの儀式がどれほど正当なものかを自分たちに言い聞かせるようにささやきあっていた。

 

「異端者を追放し、我々の村を守るのだ!」


 誰も彼女を庇わない。

 悲鳴に耳を貸そうとはしない。

 

「この娘は呪術を行い、教会の名を汚した! 村の規律に従い、異端者として処罰する!」


 ――狂っている……そもそも、私の生みの母がまとめた縁談で婚約した相手に横恋慕したのはテルマなのに……。


 誰も断罪の矛盾に気づかず、処罰を喜びはやし立てている。

 若者たちが麻袋いっぱいの小石を運んできて、子どもたちはその石も笑いながら投げつけた。その小さな手には悪意ではなく、純粋な楽しさしか宿っていなかった。大人たちは幼い者たちの行為を慈しむように微笑み、まるで清めの儀式が祝祭そのものであるかのように感じているようだった。

 炎がメラメラと燃えていて、村長が真剣な顔で処罰道具を熱している。

 ローリン以外の誰もが楽しそうに、狂気に身を任せているようだった。


「やれ!」

「清めろ!」


 村人たちは熱狂し、広場全体がまるで祝祭のような空気に包まれている。


 その場でローリンの靴は脱がされ、村での処罰に使われる焼き印のコテが教導師の手で振り下ろされる。

 肌が焼かれる音と匂い。少女は絶叫を上げるが、誰一人として彼女の感じている痛みに同情せず、助けようとはしない。


「私は無実です!」

 

 涙に滲む視界の中、テルマが狂気の目を持つ群衆の陰から顔を覗かせた。


 大人たちの背後で彼女がふっと微笑む。それは、すべてが計画通りだという狂気の勝利の笑みだった。


「どうして……」


 焼き印の痛みよりも、腹違いとはいえ血の繋がった妹のその笑みが胸を切り裂くように痛かった。


 そのままローリンは村を追放された。

 焼け焦げた足に靴を履かされて、村の門から投げ捨てるように追い出される。

 

 灰色の空の下、焼けた肌の痛みを抱えながら、ふらつく足で歩き続ける。そうしないと、投げつけられる石に苛まれる。


 涙をこぼしながら振り返ると、遠くで妹が教導師と継母に寄り添いながら石を投げているのが見えた。

 ――母さんが決めた相手と添い遂げる義務を果たすつもりだったのに。どうしてこんな目に遭うのだろう。


 ローリンは唇を噛み、地面に向かって顔を伏せたまま、痛みを堪えて歩き出した。

 そしていま、つま先上がりの坂までたどり着いたのだ。


 ***


 そのまま膝を曲げて、足の裏が地面につかないように突っ伏していたローリンに、ふいに声がかけられた。

 

 「おい、何をしている?」


 見上げると、黒い装束に身を固めた男が立っていた。肩に背負った籠には薬草がぎっしり詰め込まれている。やや険のある表情に、ローリンは怯えた。


 「立てるか?」

 

 ローリンは小さく首を横に振った。青年は呆れたようにため息をつく。

 

「仕方ない。ここで死にたいなら勝手にすればいい。だが、手伝ってくれるなら食べ物くらいは分けてやる」


 生きる気力が尽きかけていたはずのローリンだったが、その提案に思わず手を伸ばした。青年は手を取らず、代わりに籠から刈り取ったばかりの薬草を取り出し、足元に置いた。


「仕分けろ。毒草と薬草を間違えるな。薬草は三叉に分かれた葉先に小さなくびれがある」

「……これですか?」

「そうだ」


 ローリンは戸惑いながらも、小さな手で薬草を仕分け始めた。その作業に集中していると、ふしぎと痛みや疲れを忘れていられた。


「あんた、名前は?」

 

 黒装束の男がようやく声をかけたのは、作業が終わる頃だった。

 

 「……」


 ローリンはためらい、口を閉ざした。

 

 「まあいいさ。誰だろうが関係ない」


 男はローリンに革袋と堅焼きパンの塊を差し出す。

 ずっと泥水をすすって命を繋いでいたローリンは、ボロボロの袖口で唇の汚れを拭き取ってから、革袋から水を飲む。

 彼女はそのあまりのおいしさに、頬をほころばせた。

 大切な水を少しだけ堅焼きパンに垂らす。柔らかくして、小さくちぎって、少しずつ口に入れる。

 ゆっくり、ゆっくり。何度も噛んで。口全体で味わい飲み下す。

 

 男は「貸してみろ」といって、革袋を手に取った。杖を振って空中から水を作りだし、革袋に注ぎ込んだ。

 そのあと、男はローリンを値踏みするような目で見た。


「つま先上がりの坂を登り切ったら、お前の人生は変わる」

「え?」

「足の裏を見せてみろ」


 ローリンは断ろうとしたが、男の目には有無を言わせない何かがあった。


「靴が……血でこびりついてしまって」

「ふむ」


 男は再び杖を取り出し、さっと振った。


「痛っ」

「悪いな、癒やしの魔法は持っていない。物理的に剥がすだけだ」


 靴が足から剥がれた。

 男は背負っていた荷物ををふたたび下ろし、布と薬剤を取り出した。


 最初は丁寧に布で汚れを拭き取る。

 そのあといくつかの薬剤を塗りつける。

 男はその手当の合間に焼き印に記された文字を読む。


「ああ、あの村か」


 かすかな軽蔑を感じさせる口調だった。

 靴を丁寧に拭いて、傷んでいるところを縫い付けてくれた。清潔な布をくれたので、足を包む。


「さて、手当はできた。ゆっくり坂を上りなさい。……だが気をつけろ、坂を登り切った先で、お前が真に力を取り戻すかどうかは、お前自身の選択次第だ」


 男の冷たい声には、ローリンには計り知れない何かが含まれているようだった。


「どうして私に、こんなことをしてくれるの?」

「してやっているわけじゃないさ。ただ……お前がその足で進むのを見てみたいだけだ」


 そう言われたローリンは恐る恐る靴を履き、立ち上がった。

 先ほどまでこらえながら歩いていた激痛はなくなっている。足の裏はまだうずき、焼き印が残ることは感じるが、進むことはできそうだ。ローリンは黙って感謝を込めてうなずういた。


「そうだな、10日ほど歩けば、辺境の街テールタイにたどり着くだろう。そこで薬師のカチネンクを訪ねるといい。……ただし、注意するんだ。彼女は敵にも味方にもなる」


 男は背を向けた。


「進むかどうかはお前次第だ。だが覚えておけ……誰もが与えられるばかりじゃない。お前の足の裏は焼かれたが、それでも歩ける力は残っている。お前のつま先と脚の他の部分は無傷だ。歩き続ければ、未来を掴む力に変えられる」


 言い終わると、男は坂道を下って、早足で去って行く。立ちこめていた霧が彼の姿を隠す。


 霧の中から声がする。


「坂の先にあるのは、答えか、それとも新たな問いか……それはお前次第だ」


 ローリンは足元を見下ろした。うずく足裏が、妙に熱を帯びている気がする。

――進むべきだろうか?

 霧の先に続く道が、彼女に何をもたらすのか、それとも何を奪うのか……何もわからない。

 足の裏にうずきを感じながら、ローリンは霧に覆われた空を見上げた。どこかで、胸の奥に灯る小さな火を感じた。それは痛みと共に燃え続ける、かすかな希望のようなものだった。

 彼女はそっと一歩を踏み出し、ゆるい坂道を上がりはじめた。

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つま先上がりの坂 イチモンジ・ルル(「書き出し大切」企画) @rukakyo

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