“Past”

深瀬マコト

“Past”

 

 チリンチリンと風鈴が音を鳴らす。


 風鈴なんて、前の家にはなかった。

 この家にあるものと、ないもの。そのすべてが以前の家を思い出させる。我が家の食事中の沈黙は、風鈴の音だけでは和らげることができない。


 漂う緊張感が胸を軽く締め付ける。

 おばさんが沈黙にしびれを切らしたのか、リモコンを手にし、テレビをつける。


「たけちゃん、ほら、これ聡ちゃんじゃない?」


 おばさんがそう言った。健という名を持つ兄をおばさんはたけちゃんと呼ぶ。


「本当だね。やっぱり、有名人だなぁ」


 おばさんが作ってくれた唐揚げに手を伸ばしながら、兄が返事をする。


 今見ているテレビで特集されているのは、和泉聡という高校二年生の天才小説家だ。

 中学生の頃に、大人も参加する新人小説家の大会で入選を果たし、デビュー。そこから小説を世に出し続け、高校一年生の頃に書いた小説は映画化が決まっている。


 今では人気小説家の和泉だが、デビューする二年前、和泉は母を不慮の事故で亡くしている。

 学生とは思えないほど、深い文章がかけるのはおそらく、そういった過去が関係しているのだろう。この事実は和泉を知っている者なら、誰でも知っていることだ。


 和泉の特集が終わると、兄はテレビを消して言った。


「ごちそうさま」


 おばさんが返事をすると、兄は軽く微笑んで、二階の自室に戻っていった。


「また、小説書くのかしらね」


 おばさんが僕に話しかける。口の中の食べ物を咀嚼しながら、手を口に当てて、言う。


「わかんないけど、そうじゃない?聡くんの特集見たから、気合入ったのかもね」


 おばさんはようやく会話ができるようになってきたことを喜んだように、「そうだね」と返事をした。


 一ヶ月前、この家に来てから、家の中では会話をほとんどしなかった。おばさんが気を使って話しかけてくれても、適当に相槌を打つだけだったのだ。

 僕も、心の整理ができていなかったし、おばさんでさえも話したいとは思えなかった。


 兄なら、なおさらだろう。だってあの現場を見たのだから。

 

 僕も自室に戻って寝る準備を始めた。自室といってもただの和室だ。

 部屋らしい部屋を与えられたのは兄の方で、それに不満はなかった。

 兄はずっと昔に死んでしまったおじさんの部屋を自分の部屋として使っている。


 和室に布団を引いただけの殺風景な部屋の明かりを消して、眠りにつこうとしたが、なかなか寝れない。あの日のことが思い返されるからだ。


 あの日、母が死んだ日、僕が友達の家から帰ると、そこはいつもの家ではなかった。

 停車しているパトカーが自分の家に停められていることを、理解するのに時間を要した。

 見慣れない人も数多く家の前にいて、これは何かが起こったのだと、五感で感じさせられた。兄は小さく、庭に丸まっており、数人の人が声を優しくかけていた。


 その時、僅かに顔を上げた兄と目があった。あまりに可哀想な目をしていた。大きい目の奥の光が完全に消えていた。


 何が起きたのかさっぱり理解できていない僕に、警察の服を着た人が近寄ってきて、暗い顔で告げる。


 君のお母さんが何者かに体を刺され、病院に向かっている。病院に向かっているが、助からないかもしれないと。


 天地がひっくり返るような感覚がしたのを覚えている。膝から崩れ落ちて、わんわん泣いた。その場でひたすら、わんわん泣いた。


 母の第一発見者は兄で、リビングで血まみれになって倒れているのを見て、警察に通報したらしい。その第一声は「母が倒れています。呼びかけても返事がありません」というものだったそうだ。

 その状況で、警察に連絡できた兄はやはりすごいと思った。

 自分だったら、通報なんてできずに、逃げ出してしまっていたかもしれない。


 兄は自分の母が死んでいるところを生で見たのだ。僕よりも衝撃はきっと大きい。おばさんと同様、僕も兄が僕らと会話をし始めてくれたことを嬉しく思う。


 母を殺した人がようやく捕まって、兄も安堵したのだろう。これからは母のいない家で暮らしていかなければならない。

 

 だけど、クールで優しい、この兄なら、僕らの状況もどうにかできると思った。母のことを忘れられる日は来ないと思うし、忘れたくない。


 だけど、心の中の母と一緒に、兄と三人で昔のように大笑いできる日が来ると信じてる。元の平凡な暮らしに戻れることを信じてる。


 自分の気持ちが回復していっていることを感じ、気づいたら眠りについていた。


 翌朝、目が覚めると時計は十時を指していた。寝すぎてしまったことを反省しつつ、和室を出る。

 ーそうか、おばさんは今日、出かけてるんだ。


 朝ごはんが卓上においてある。兄の分はないから、もう食べて自室に戻ったのだろう。

 一応、兄が部屋にいるかを二階まで確認しに行く。兄の部屋のドアの前で声を出す。


「お兄ちゃん、いるー?」


 すぐに、「うん」という返事が来ると思ったのだが、返事がない。

 もう一度、呼びかけるが何も返ってこない。ご飯がなかったから、寝ているわけではないと思うのだが。


 入室禁止と書かれた紙を見つめながら、考えを巡らせる。

 僕は生まれてこの方、兄の部屋に入ったことがない。

 前の家の時からだ。

 我が家には、兄の部屋に入ってはいけないというルールがあった。母が決めたわけではない。

 兄が勝手に決めた我が家のルール。

 前の家も入室禁止と兄の部屋のドアに紙が貼ってあったし、当の本人もよく部屋に勝手に入るなと口を酸っぱくして、僕と母に言っていた。


 兄は僕らに隠したかったものがあったのだろうか。


 一度、ドアノブに手をかけたが、すぐに離した。首を横に何度も振る。

 階段のある方向に体を向けて、足を進める。


 その時、中から家中に響き渡るほどの大きな音がした。中にいるかも知れない兄の危険を感じ、反射的にドアを開けてしまっていた。



 そこは確かに現実だが、どこか非現実感が漂っていた。薄暗く、汚い部屋。

 大きな音は中に置かれていた大量の本が崩れたためのものだった。

 本の題名に目を通すと、和泉の小説が多いようだ。

 部屋を一見したが、兄はいなかった。僕の心配は杞憂だったようで、安堵する。

 一度開けてしまった部屋を、閉める気持ちはなく、僕は兄の部屋に生まれて初めて足を踏み入れる。


 殺風景な僕の部屋と違い、中には多くのものがおいてある。

 壁に目をやると、和泉の新聞の記事の切り抜きが、壁一面に貼られている。

 あまりの薄暗さに、明かりをつけようとしたが、スイッチを押してもつかない。

 本を踏まないように気をつけながら、奥まで進むと、小さなランタンのようなものを発見した。机の上にそれは置いてあった。

 ランタンをつけたが、まだ暗い。おじさんが生きていた頃にこの部屋には入ったことがあるが、ここまで古くなかったし、汚くなかったはずだ。この兄の部屋と、いつもの兄のイメージがどうしてもくっつかない。


 それにしても、ここまで兄は和泉のことが好きだったのか。

 兄はきっと僕らにこのオタクっぷりを見せたくなかったのではないか。

だから、部屋に入らせないように振る舞った。

 何も恥ずかしいことではないと思うが、冷静沈着なクールな兄なら、隠そうとしても不思議ではない。


 和泉聡は僕らの幼なじみである。僕はそれほど交流はないのだが、兄はよく和泉の家に遊びに行っていたし、和泉も僕らの前の家に頻繁に来ていた。

 二人は小学生の頃から、本が好きで、小説家を志していた。

 二人と違って、頭が良くない僕は話についていけなかったが、いつも小説の話らしきものをしていたものだ。

 二人が約束していることも知っている。

 

「一緒に超偉大な小説家になろう」と。


 確か、中学生になってから、和泉は和泉の母が事故で亡くなったこともあって、遠くに引っ越したはずだ。

 それ以来、おそらく二人は会っていない。


 机の上にはランタンと、兄が小説の執筆に使っているノートパソコンと、和泉のデビュー作『この先にある未来へ』が置いてある。

 本がボロボロになっていた。

 気になって、机の引き出しも開けてみる。

 左側の引き出しには何も入っていなかったが、右側の引き出しには一冊のノートがあった。ノートの表面には『past』と書かれていた。この際だから、全て見てしまおうと思い、ノートを取り出し、慎重に開く。

 

 一ページ目には、和泉の記事の切り抜きがあった。ネットの記事を印刷したものから、新聞のものまで、いろんなものだ。

 壁に貼ってあるものと変わらない。


「お母さんを亡くしてから、小説を書きたいと思った」


和泉の言葉の一つに蛍光ペンが引いてある。


「この作品は母のことを思って書いた作品です」


 ここにも、蛍光ペン。黄色の蛍光色が薄暗い部屋でも光を反射する。


 二ページ目と三ページ目には記事の切り抜きはなく、ただ一言、二ページ分を使って、大きく書かれている。雑な文字だ。


 「The greater past」


 はっきりとした意味はわからないが、おそらく「より良い過去」ということだろうか。

 これは兄の小説の題名かもしれない。

 この作品は見たことがないから、小説だとしたら、最新作ということになる。

 和泉同様、兄も今まで小説を作り続けてきた。

 兄の書く小説は和泉の小説よりも、僕には良い作品に思えた。

 ページを捲る手が止まらなくなるのだ。


 だけど、なんで、和泉の切り抜きをこのノートに貼っているのだろうか。


 奇妙だと思いつつ、次のページをめくる。

 「なに、これ」

 そのページにはあまりに信じ難いことが書いてあった。

 心臓の音が外に漏れそうなほど、早く、大きく脈打つ。


 流石に小説のセリフだよな。


 でもなんで、この言葉だけがここに。

 目を見開いて、ノートを見つめていたその時、背後に人の気配がした。


「おい、何してんだ」


 喉の内側からそのまま発せられたような声が背中を刺す。

 その声の節々に兄の声だと認識させる重さがあった。

 重力が大きくなるような、押しつぶされてしまうような声。


 反射で振り向くと、兄は床にある本を踏みながら、こっちにやってきていた。

 どすどすと、音を立てながら、鬼の形相で突き進んでくる。

 心臓の鼓動が早くなる。

 息が荒くなってしまう。

 見たことない兄の顔に体がすぼむ。

兄の表情からは殺気のようなものさえ、感じ取れた。兄が僕の眼前までやってくる。

 重々しい口を開く。

 僕を大きい目で見下ろしながら言う。


「まぁ、いいや。お前、さっさと出てけ」


 机に目を落としながら、兄はそう言って、顎をドアのある方向に向けた。

 うん、とも、ごめん、とも言えず、急いで、出ていった。開けっ放しだったドアを閉めて、その場にしゃがみこんだ。


 見られていなかっただろうか。


 ノートは閉じて、床に落としておいた。兄の方を向きながら、震える手の感覚だけで、ノートを必死に隠した。


 最後に見ていた四ページ目の内容を思い返す。瞼を閉じて、あの言葉の意味を考える。


 どうにか、別の意味を考えようとするが、一つの結論に行き着いてしまって、そこから脱線することができない。


 兄が本当に僕らから隠したかったものは・・・。


 この部屋に入ってからのバラバラだった違和感のピースが脳内で埋まる。

「the greater past」の意味。

 異様なまでにある、和泉の切り抜きの意味。

 『past』というノートが書かれた意味。

 埋まったパズルに浮き上がったのは、悔し涙を流す兄の顔だった。


こんな顔は見たことがないはずなのに。


 僕は兄を助けなければならない。

 息を整える。

 残りの力を振り絞って、よろよろと立ち上がる。ドアに手を当ててしまい、大きな音がなるが、気にしない。

 ドアの引手に手をかけて、兄の部屋を一気に開ける。


 部屋の中の兄はかがんで、僕が落とした『past』のノートを拾い上げていた。

 その顔は残酷な顔だった。

 一抹の希望さえも、兄の顔を見て吹き飛んだ。

 僕は確信した。


 口の中が乾燥しているが、かすれた声で精一杯告げる。

 目の前の兄に向かって。


 「お兄ちゃん、話がしたい」


  兄は一瞬、驚いたように見えたが、すぐにいつものクールな兄の表情に戻って、言う。


 「ああ」


 お兄ちゃん、君だったんだね。

 溢れんばかりの涙に気を留めずに、目を見開いて、精一杯兄を見つめる。


 僕は向き合わなければ、ならない。

 そして、教えてあげるのだ。

 僕はお兄ちゃんの小説が好きだと。

 過ちは取り返せない。

 だけど、兄の小説の一人の読者として、僕は兄に伝えたい。

 お兄ちゃんの小説が一番だと。


『past』のノートの四ページ目には、確かにこう書いてあった。



 『母を殺す。殺さなきゃならない。』と。

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