後編

「ふぅ。さすがに五軒の挨拶回りは疲れたな。おい、風呂」

「……」


 私は返事もせずに湯沸かし器のスイッチを押す。


「おい! 返事くらいしろよ!」


 夫がバンッとテーブルを叩く。


「……私は、今すぐ実家に帰りたいです……」


 コロが……二十年近く私達の家族だった柴犬のコロが急に亡くなってしまったと母から連絡があった。


 私はすぐにコロの元へ駆けつけたかった。可愛いコロ。大切なコロ。私のかけがえのない存在のコロ。


「たかが犬が死んだ程度でなんだ! 明日は地元のパーティーがあるんだぞ。お前には妻として出席してもらわなければならない!」


 ……私は、愛されていない妻。

 三十二歳、まだ見た目もそれなりに若くて美しいトロフィーワイフの様な存在。


 もしもルイ君だったら、こんな時一緒に手を取って実家に行ってくれるのかしら……? 傷めたつま先も、優しく手当てをしてくれるのかしら?


「……たかがって何よ……コロは、たかがっていう存在じゃないのよ……」


 虐げられて久しいけれど、私はやっと夫に反論した。


「俺に逆らう気か⁉ 誰のおかげで飯が食えると思っている! その身に着けているブランド品も! 宝石も! 全て俺のおかげだろう!」


 ……ブランド品も、宝石も、見栄だけの妻の地位も要らない。お金なんて要らない。最低限やっていけるお金があれば、それよりも私は溺れるくらいの愛が欲しい。


「……今すぐ実家に帰らせて下さい。コロに……会わせて下さい……」


 私の声は震えている。


「ダメだ。明日は大切なパーティーだ。お前の実家は飛行機で行く距離だろう。今からじゃ明日のパーティーまでには帰って来られない」


 キッチンを見る。果物の盛り合わせの隣に、ペティナイフが置いてある。


 私は虚ろに立ち上がると、ペティナイフを手に取り夫にその刃を向けた。


「今すぐ帰らせてくれないなら、あなたを刺すわ」

「ふっ。くだらん。出来るものならやってみろ!」


 私は思いっきり彼の懐へ飛び込む。夫は私の腕を締め上げようとするが、ふたりとも体勢を崩して床に雪崩れ込む。


「本気で刺しに来るとはな……! 痛い目に遭わせないと学習しないようだな!」


 夫が私の頬を平手打ちにする。でも、私の手の中にはまだナイフがある。


 夫は私の手からナイフを奪おうと、私の腕を踏みつけようとした。


 ──ザクッ!


 夫の足の裏を刺した。


「何をする……! いてぇぇぇ!」


 夫は床にひっくり返って悶絶している。


「……私はコロに会いに行くの。あなたが邪魔するから悪いのよ!」


 夫の心臓めがけてナイフを振り下ろす。今までの恨みも込めて、腹部も何度も何度も刺す。


「ぐっ……ふぅ……! ガボッ……!」


 夫は口から血を吐きながら絶命した。


「……ハァ、ハァ。これでコロに会いに行ける……!」


 ──プーププッ


 その時、スマホが鳴った。LINUの通知だ。


【奈緒美さん、次はいつ会えそうですか?】


 ルイ君だ。


 ルイ君、私、自由になったよ。だから、あなたの元へもいくらでも行けるの。一生一緒にいる事も出来るわよ。


 でも、まずはコロに会いに行かないと。


 このやたら図体のでかい血まみれの男はどうしようかしら?


 ……そうねぇ。


 私がここに帰って来なければ問題ないわよね。


 私はその場で飛行機の手配をし、一週間後にルイ君との予約を取り、シャワーを浴びて出掛けた。


 ──翌日、パーティーのために夫を迎えに来た秘書が夫の死体を見付けた。私は北国の実家にいたけれど、あっけなく逮捕された。


 ああ……ルイ君の予約、無駄になってしまったわ。でも、頭からつま先まで全てを愛していたコロに会えたから、もうそれで良い事にするわ。


 ……私の人生、何だったのかしら。私もつま先まで愛してくれる人と一緒になれば良かった……。



────了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

つま先まで愛して 無雲律人 @moonlit_fables

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画