よすが
究
よすが
おれは幽霊を信じない。居るはずがないのだ。幽霊になって現れるのはいつだって、無念に逝った地縛霊とか、殺害された怨霊のはずで、それなら、現れたっていいはずだ。おれの前に、枕元に、毎晩、立っていいはずだ。おれは毎晩待ち侘びている。今か今かと待ち侘びて、一睡も出来ずに夜が明けて、おれへ後ろ指を差すかのように漏れる陽の目を見る度、愕然とする。そんな愁いの日々を、もう三月過ごした。どんな暗闇でひとりぽっちになろうとも、埋めた土の上で寝転がってみようとも、何の気配さえしないのだ。
あの夜から毎日、あいつの血が染み付いた畳の上で夜を過ごしているのに、そこであいつの名前を呼んでみたりするのに、何も返してはくれない。これでどうして、幽霊が居るなどと言えるだろうか。あいつは、おれを怨んではいないのか。我儘に親友を手に掛け、良心の呵責に苦しむこともなく、こうして毎晩心を浮つかせているおれを、怨み呪うことはしてくれないのか。
今日だって、畳に寝そべりながら、黒くなったおまえの血を丹念に見つめていた。その血がどんどん拡がって、おれと同じくらいの大きさにまでなって、そこからおまえが生えて来たりでもしないかと、そんな風な想像を掻き立てながら、一日を過ごしたのだ。久三、おまえは今どこにいる。もし、おれのことを呪っているのなら、幽霊らしく取り憑いているのなら、おれの目にその姿を映してくれ。どうか……。
あれから一月が経って、おれは、あいつを見た。おれがいつも過ごしている、あいつの血がある、おれとあいつのふたりぽっちで葬式をした、あの部屋で、あいつは微かな音を連れて現れた。あいつは、おれに酒瓶で殴られた後頭から血を滴らせ、規則正しい間隔で、畳にぽつ、ぽつと痕を増やしていた。
おれは部屋の隅で壁に背を沿わせて寝そべっていて、うとうとと眠りに落ちかけていた時だった。初めは灰色の足と、滴る血だけが視界の隅に入って、ぎょっとして目を見開いたものの、身体はびくともせず、懸命に動かした目だけがその顔を捉えていた。確かに、あいつの顔だった。絞められた首が真っ赤に膨れ上がり、おれが最後に目にした、まだ息があった、あの時の、あいつの姿だった。
おれは直ぐにあいつの目を見たけれど、あいつはずっと横目でいて、きっとあれは、背後から細引を引っ張るおれを見てやるつもりだったのだ。見開き充血した横目で、半口を開けながら、紅潮と蒼白が入り混じった顔で、小さく頷くように震え続けていた。あの時背後にいたおれからは見えなかった、あいつの死に際の顔にちがいなかった。その姿におれの執着したあいつの面影は無く、それよりもずっと悍ましく、気味悪く、可哀で、おれの想像だにしない悲惨さにまみれていた。あれは、幽霊とも死体ともつかない、あまりにも惨憺たる存在であった。
あいつはずっとそこにいて、相変わらず規則正しい間隔で血を滴らせ、一歩も動かず、一晩が終わる程の間、おれにその姿を晒し続けた。おれもあいつから目を離すことが出来ず、その苦悶に満ちた顔を見ていると、いつの間にか自分が泣き腫らしていることに気付いて、そうすると途端に声が出た。久三、と喉から勝手に飛び出て、止まらなかった。久三、久三、と呼び続け、山ほどあったはずの言いたい言葉は何も出ずに、あいつの名前だけがおれの喉から飛び出すばかりだった。夜毎考えていたあいつへの言葉は全部消え失せて、おれの頭の中も、飛び出る言葉も、隙間なくあいつの名前で満たされ、呼ぶ度に涙がぶわっと溢れ、その連続する涙を拭うこともできないままにぼやけていくあいつの姿を、必死に焼き付けようとした。あいつにおれの声が届いていたようには見えなかった。そうして、多分、到頭長い長い夜が明けてしまったのだ。
次に目を開けた時には、部屋は障子越しの陽の目で満たされ、昨晩必死に過ごした空間は消え失せていた。跳ね起きて、震える手のまま、畳を探った。部屋の隅まで這って探っても、あいつはいなかった。もう一度昨晩と同じ場所で寝そべってみて、起き上がって、また寝そべって、そんなことを何度も繰り返し、あの光景を思い出そうとした。畳全部が染まるほど一晩中流されていた血も、もう一つも見当たらず、畳を擦る手が冷たくなっていくのを感じた。
またぽつ、と泣き腫らした目から涙が溢れ始めた。ひとりぽっちになった部屋で、久三、久三と呼んでみた。もう畳の上に滴り落ちているのは、おれの悔恨の涙だけであった。
よすが 究 @codaxblue
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