第2話 夜風に導かれて

 三河国岡崎城 松平久


 1561年冬


 薄暗い城の中をたった1本の蝋燭から発せられる明かりを頼りに、私は年配の侍女である辰とともに歩いていました。

 目的はありません。

 ただ昨夜、元康殿から向けられた視線が忘れられず、眠ることが出来なかったのです。


「姫様、この時期の夜風はつめとうございます。嫁入り前の体には毒でございましょう」

「まことに嫁入りが実現するかどうかもわかないのです。それにこの冷たい風はむしろ私の頭を冷やしてくれる妙薬。毒であるはずがありません」

「それは方便でございます。体調を崩されれば、きっと殿も」


 辰は松平が独立していたころより侍女として仕えてきてくれた者です。私の傍についてからも随分と時間が経ち、おそらく最も良き理解者は彼女であると言えるでしょう。

 そんな辰ですが、私以上に長い付き合いであるのが元康殿でした。

 今川館では生活面の世話を辰が取り仕切っていたとのことですから、今の辰が元康殿を庇いだてることも当然のことなのです。

 そんな当然のことすらも、今の私にはひどく堪えました。


「顔色も悪くなっております。暖かい火鉢を用意いたしますので、やはり部屋に戻られた方がよろしいかと」


「顔色が悪い一因は辰にある」と私は言えなかった。

 辰に悪気が無いことは知っています。元康殿のことを抜きにすれば、彼女は私によく仕えてくれています。

 それに元康殿が間違ったことを言っていれば、それは誤りであると訂正できる数少ない城の女でもあるのです。

 そんな辰が元康殿を擁護するのは、きっと辰も私の方が間違っていると考えている証拠。そもそも私の今の状況から察するに、家臣の家に嫁がせるようなことはしないはず。

 なぜならば多かれ少なかれ、私の存在感が松平の家中に残ってしまうからです。それでは元康殿が私を邪魔だと思っていても、ずっと身近にいることになり、それをきっと元康殿は望んでいないはず。

 ゆえに私を外の家に出そうとする。その最有力先が織田家であると思っていたのが、まさか敵対する御家であるとは…。辰がこれに反対しないということは、元康殿の考えを支持しているという証拠。辰も私を邪魔だと考えているのでしょうか。

 きっと辰だって私と共に一色様の元に付いていくことになるというのに。


「もう少しだけ。もう少しだけ歩きましょう」

「まことにもう少しで済みますでしょうか?姫様の鼻、すでに赤く染まっております」

「これは仕方が無いことなのです。風が冷たいことはどうしようもない事実なのですから」


 そういった私は、辰の返事を待つよりも先に歩き始めました。

 どこに向かうとか、そんなものは何もありません。ただ気の向くままに、風の誘いのままに私は廊下を歩きました。

 辰もそれ以降は何も言わず、ただ黙々と私の背を追ってくれました。

 そのままどれほど歩いたことでしょうか。わずかに向こうの方から、何か奇妙な音が聞こえてきます。


「フゥ-フゥ-」と。最初こそ珍妙な鳴き声の鳥かと思いましたが、よく耳を傾ければどうにもそんな感じでもないようで、その音はだんだんと近づいてきます。

 辰も途中から音の存在に気が付いたようで、知らずの内に私の半歩前に立ってその音の方向を睨みつけていました。その鋭い眼光は、かつて城の男衆に混ざって武芸の稽古をしていた時の横顔を彷彿とさせるのです。


「姫様、私が合図を出せば灯りを捨ててすぐに元来た道にお逃げください」

「…わかりました。ですが辰も無事で戻るのですよ」

「主命は姫様を守ること。この身がどうなるかは二の次でございます」


 わずかに見える蝋燭の灯りから、どこか覚悟を決めた辰の表情が見えた時、その音は激しい足音と共に急激に近づいてきたのです。

 まさかそのような行動をとってくると思っていなかったのは、私も、そして辰もでした。

 辰の「お逃げください!」という叫びとほとんど同時に私は灯りを庭に投げ、走りにくい姿であるにも関わらず、後ろへと振り返り全力で駆けようとしました。しかしその足音は「これは姫様!?」という驚きの声を上げたかと思えば、すぐさま庭に駆け下り、蝋燭を踏みつぶし始めたのです。

「アチチ、アチチ」と飛び跳ねるその姿はとても刺客などには見えず、ただ唖然とその姿を私は眺めていました。

 そしてそれはずっと神経をすり減らして警戒していた辰も同じだったのです。


「…ほ、本多殿?」

「おぉ、これは辰殿もご一緒でございましたか!」


 威勢の良い声を上げたのは、前の尾張侵攻の折に初陣を果たした本多忠勝であったのです。手には刀らしきものを携え、額には目いっぱいの汗を浮かばせていました。


「姫様、いったい何用でこのような時間に歩いておられるのでございますか」

「…ただ少し眠れず、辰に付き合ってもらっていたのです。忠勝こそこのような時間に何をしていたのですか?」

「殿に言われたのでございます。近く今川との戦になるであろうから、より一層励むようにと。しかし昼間はやることも多く、武を磨く時間がまったく取れません」

「ゆえに夜な夜な刀を振っていたのですか?」

「叔父上曰く、某には武を振るうしか能が無いと。戦が無ければ能無しで、本多の家のタダ飯ぐらいであると。しかし戦があれば某が最も活躍することが出来るのでございます。春になればその機会にも恵まれましょう」

「ゆえに今の内から鍛錬しているのですね。このように人目を避けて」

「これまではそうでしたが、姫様に見つかってしまいました。さらに姫様を怖がらせてしまいました。忠勝、一生の不覚でございます」


 辰の視線を気にしてなのか、はだけた胸元を隠す忠勝。

 辰は元康殿に仕える若い衆たちから恐れられている節があり、まだ元服したばかりの忠勝もそれは同様のようでした。

 しかし今の私にはどうしても聞かねばならぬことがあったのです。それだけは聞き流すことは出来ませんでした。


「春より今川と戦になるのですか?」


 しまったというような表情を見せた忠勝。それは女の私に話してしまったからなのか、あるいは私の嫁ぎ先がどこであるのかを忠勝も知っているからなのか。

 どちらにしても元康殿はもう今川に戻るつもりはないようで。ですが私の輿入れを済ませなければならないことを思えば、まだ迂闊な真似はしないはず。

 ならばもう少しだけ時間があるということなのでしょうか。私が嫁ぐとされている御方がどのような人物なのか。

 もう私が生き残りつつ、松平の家をどうにか生きながらえさせるにはこの婚姻を成功させるしかありません。それは分かっているのですが、元康殿は口うるさく今川様への再臣従を訴える私を疎ましく思っています。この婚姻が成ったあかつきには、私が一色様にお願いして間を取り持っていただけるようお願いすると言っても、それは絶対にならないと言い張るばかり。


「そう聞いております。戦支度をしておくようにと」


 忠勝に嘘はつかぬでしょう。

 ならば本当に私の命運はそこで絶たれるということなのでしょうか。ただ懸命に御家を守るために奔走する私は、元康殿とは見ているものが違うのでしょう。

 目的は同じであるはずなのに、中身が全く違うのです。同じ血のつながりを持つ姉弟であるにも関わらず。

 あぁ、なんて悲しいことなのでしょうか…。

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東海の覇者、桶狭間で没落なれど ~女たちの戦い~ 楼那 @runa-mond

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