消えない声
濡れ鼠
消えない声
駅を出て、バスターミナルを歩いているところで、視線を感じた。耳の底にこびりついた声を振り払って、歩を進める。そこここで掲げられるプラカード、スピーカーから散らばる声。僕は息を止め、歩く速度を速める。見えない手で両耳を覆う。
「人殺し」
言葉は手を押しのけて鼓膜を揺らした。
「人は殺していない」
心の中で声を出す。見慣れた営門が見えてきて、息を吐き出すと同時に足取りが乱れた。
ビニール手袋越しに伝わる、豚の肌の硬いとも柔らかいともつかぬ感触が、生き物であることを僕の手のひらに訴えかけてくる。飼料や堆肥の臭いを掻き混ぜた空気が、マスクの中に忍び込み、鼻へと到達する。僕は咳払いをして悪心を散らした。防護服の内側で身体が濡れていく。
立ち止まらないでくれという僕の祈りは届かず、僕はまた豚の尻を押す。熱を帯びた肌が、僕の手のひらを押し返す。獣医たちが僕らを出迎えて、やがて豚は囲いの向こうに消え、電極が鈍く光った。
「通電」
豚は叫び、僕は目を瞑る。
不自然に土が掘り起こされた跡から、僕は顔を背けて歩いた。豚の死体を運んでいたフォークリフトは、今は静かに佇んでいる。
足元が揺れているような気がして、僕は目の端を埋却地に向け、土が蠢動するの見た。土はあっという間にひっくり返り、豚の蹄が土を踏み散らす。豚を包んでいた白い袋は、今は無残な姿を土の上にさらしている。駆け出した僕の足元が消え、僕は土の中に落ちていた。顔を上げると、目やににまみれたおびただしい数の目が、僕を見下ろしている。心臓が暴走を始める。豚の口がかっと裂ける。
豚は叫び、僕は目を開けた。
こめかみを流れる汗を毛布で拭い、そのまま毛布を顔に押し当てる。心臓の震えが、身体中に伝播する。
「人は殺していない」
毛布の中で声を出す。
腹が減ったわけではない、ただ、何かを腹に入れておかなければという義務感のようなものが、僕を売店に向かわせた。蛍光灯がやけに眩しく感じる。まばらに商品が並ぶ棚からゼリー飲料を手に取って、一度はレジに向かおうとし、固形物も摂取しなければと思い直す。規則正しく並ぶ三角の物体を、僕は暫く眺めていた。
不意に膝元で豚が鳴いた気がして、僕はそちらに視線を動かす。米の上に横たわる茶色い肉が、僕をじっと見上げている。僕の中で胃袋が蠢き、僕は持っていた商品をその場に投げ捨て、店の外に飛び出していた。
消えない声 濡れ鼠 @brownrat
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