雪山の一夜

天西 照実

雪山の一夜


 毎年、冬になると雪山に来てしまう。

 都会生まれ、都会育ちの僕にとって、縁もゆかりもない冬の山。

 それでも、気付けばここに居る。


 空を見上げれば、厚い雲に覆われている。

 街灯はもちろん、月も星も見えない。

 それでも夜の雪山は、ほんのり明るさを感じた。


 曇り空を見上げ過ぎて、首が痛む。

 喉をさすりながら、首を傾げた。

 マフラーをしていなかっただろうか。


 ダウンコートは着込んでいるものの、普通のスニーカーにジーンズ。

 帽子も手袋もない。


 去年は確か、吹雪いていた。

 今年は止んでいる。

 でも風が強い。急な横風に突き飛ばされそうになる。

 積もった雪が強風に吹き上げられて、目の前が見えなくなる。


 一面の雪景色。

 右も左も見分けがつかない。

 毎年、同じ場所に来ているはずなのに。

 風を避けるように岩陰に入れば、どこか見覚えがある。

 大きな岩の向こうに、三つ又に伸びる大木の枝。

 確か去年も、吹雪から逃れるように、この岩陰に入った。


 ――そう、この場所だ。

 この岩陰から、なだらかな傾斜が見下ろせる。

 すぐ下で、白いものが揺れている。

 彼女のロングコートだ。


 顔を上げて僕を見付けると、彼女は雪に足を取られる事なく、こちらに駆けて来た。

「……」

 少し困った顔で微笑む彼女に、

「こんばんは」

 と、僕は声を掛けた。

「……こんばんは」

「今年も、会えましたね」

 彼女は視線を落として小さく頷き、

「ごめんなさい」

 と、悲しげな声で言う。

「謝らなくて良いんです」

「いいえ……私のせいだもの」

 彼女の白い手を取り、お互いに温かさも消えた手を握り合う。


 白いタイツは履いているが、彼女はロングコートより短いスカートにグレーのパンプスを履いている。

 彼女もマフラーはなく、セミロングの黒髪が風に流れて、細い首がさらされている。

 華やかさはないが、淑やかで優しい面持ちの美人だ。


 ……寒そうだな。

 そう思ってから、気が付く。

 寒さを感じない。

 いくらパウダースノーとは言え、服も靴も濡れてすらいない。


「寒くありませんか」

 聞いてみた。

 顔を上げた彼女は薄く笑みを見せ、

「寒くないわ。あなたは?」

 と、聞いてくれた。

「僕は、なんとも」

「そう……」

 また悲しげな表情を見せる彼女の手を引き、僕は道もない雪の上を歩き出した。


「来たばかり?」

「はい。つい、さっき」

「それまでは、どこに?」

「……わかりません」

「そう……」

「すみません」

「あなたは謝らなくて良いのよ」

「……」


 きっと以前なら、体が埋もれてしまうような積雪なのだろう。

 僕と彼女の足は雪に沈む事なく、足跡も風ですぐに吹き消されてしまう。

 歩きやすくて助かるが、少しでも足跡が残るのだから不思議だ。


 僕が足元を見下ろしていると、

「足、痛い?」

 彼女が聞いてくれた。

「いいえ。今更だけど、少し足跡が付くんだなと思って」

 僕が答えると、彼女はふふっと笑い、

「そうよね。足が無い、なんて話もあるくらいなのに」

 そう言って足を止め、屈みこんで僕の膝に触れる。

 さすがに彼女の脚には触れないが、僕も自分のジーンズ履きの膝に触ってみた。

「僕たちだけですか?」

「いいえ。他所でも、みんな足はあるわよ」

「へぇ……そうなんですね」

 手を繋ぎ、また歩き出す。


 もう少し登ると、急な斜面がある。あったはずだ。

 自然と足が向く。

 彼女が、僕と繋いだ手をきゅっと握る。


 こんな斜面でも、しっかりと上を向いて木が生えている。

 左に細身の針葉樹が2本。右に黒い幹の太い木が1本。

 この場所を、はっきり覚えている。


「私だけで良かったのに」

 斜面を見下ろし、彼女が呟く。

「……」

「私が浮気した事にするためだけに、何も悪くないあなたを巻き込んで」

 低く静かな彼女の声は、小さな怒りに震えている。


 彼女と繋ぐ手。

 あの時は、ガムテープで括られていた。


 一昨年は、なぜ僕だったのだろう、なんて。

 つい無遠慮に聞き、彼女を泣かせてしまった。

 去年も、元々そろそろいいと思ってた、なんて口を突いてしまい、彼女は泣いてしまった。

 相手役は誰でも良かったのだ。

 不審がられなければ、誰でも。


 毎年、冬になると雪山に来てしまう。

 未練がある訳でもない。

 それでも気付けばここに居る。

 いや。未練、なのだろうか。


 彼女がどこへ、誰を怨みに行っているか知らない。

 それでも、冬になると会いに来てくれる。

 この雪山に居る、僕に謝りに来てくれる。

 会えて嬉しい。そんな事を言えば、また彼女を泣かせてしまうだろうか。


 手を繋いで転げ落ちる僕たちは、痛みを覚える事もなく折り重なる。

 深雪に沈み込み、僕が下。

 途中で巻き込んだ枯れ枝をはさみ、彼女が僕の上に俯せで重なる。

「……ごめんなさい」

「こちらこそ。今年も、謝らせてしまって――」

 あの時は動かなかった両腕で、僕は彼女の背を抱きしめた。


 きっと、また来年もこの雪山で会える。

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雪山の一夜 天西 照実 @amanishi

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