いつまでも君の心音が聞きたいんだ。

浅川さん

いつまでも君の心音が聞きたいんだ。

 朝、目が覚めると隣で寝ていた三歳の息子が冷たくなっていた。

 寝息がしない。体に耳を当てる。しかし何も聞こえなかった。

 息子の顔を見る。白い。陶器のようだ。


 大声で妻を呼んだ。

 枕元に置いてあったスマホを手に取り、震える手で119を押す。


 同時に心臓マッサージをしようと息子の体に触れる。

 硬い。人間ではないようだ。

 それでも胸を押す。手が止まらない。

 頭では状況を理解し始めていた。なるほど、これは手遅れだ。打つ手はない。もうやめた方がいい。

 でも、体は言うことを聞かない。

 止まらない。もはや理屈ではないのだ。この衝動は、願いは。無駄であるとしても。


 だが、やがて救急隊員が部屋に現れ、息子の姿を確認すると、彼は静かに首を振った。

 近くで妻が泣いている。

 私は息子から手を離す。

 涙は出ない。

 世界が暗くなる。

 頭の片隅で仕事の事を考える。今日の仕事どうしよう。休みの連絡入れなきゃ。でも、もう働く意味無くないか?何考えてるんだろう。


 息子の顔を見た。思いの外安らかだと思った。まだそこにある。手を伸ばせば触れられる。でも、もういない。どこにも。


 どうして?どうしていないんだ?そこにあるのに。


 全てが許せなくなった。

 自分の顔を掻きむしる。

 許せない、許せない、許せない。

 どうして、どうして、どうして。

 考えがまとまらない。


 気がつくと私は河原に寝転んでいた。右手には包丁を握っている。ここに来た記憶はないが理由はわかる。

 親より早く亡くなった子供は賽の河原で石を積む。

 積んでは鬼に崩され、菩薩が救いの手を差し伸べるまで苦行は続く。仏教の世界では、親より早く子が死ぬのは重罪なのだ。

 だが、死んだあとも苦しむなんて仏様は慈悲が足りない。

 ならば、せめてその苦しみを私も手伝おう。君が寂しくて泣かないように、少しでもその苦行が短くなるように、私も石を積もう。

 包丁を首の頸動脈に当てて、スッと引く。さよなら世界。

 でも、もうすぐ会えるよ。







 目が覚めた。

 勢いよく体を起こす。

 激しい動悸。頬を涙が伝う。

 慌てて周囲を見渡す。我が家の寝室だ。隣の布団では三歳の息子が奇妙な体制で寝息を立てている。安らかな顔を見るに、苦しくはないようだ。

 起こさないようにそっとまだ小さな体に耳を当てる。少し小さな心音が静かに体を揺らしている。


 それは私にとって、何よりも大切なことであり希望だった。

 この音を聞くために今まで生きてきたし、これからも生きようと思うんだ。

 この音がどんな音楽よりも私を癒やしてくれるんだ。

 だから死なないでくれ。私のために。


 そう念じながら息子の小さな手をそっと握る。暖かくて柔らかい。

 自分勝手だろうか。いや、親なんてこんなもんだ。

 ふんと鼻で笑い、私は目を閉じた。


 この心音がいつまでも続くことを願いながら。


 END



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いつまでも君の心音が聞きたいんだ。 浅川さん @asakawa3

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