居酒屋バイトつむぐの苦悩・3

皐月あやめ

みんな雪のせいね

「振ってきたわねぇ」

 窓から暗い夜の街を見るともなしに、バイトリーダーの理緒りおちゃんが忌々し気に零すと、その向かい側に座った社員の藤崎ふじさきくんが目を細めて、「暇すぎて今日のまかない、頑張ったんだけど。どう?」と感想を求めてくる。


 わたしは、ほうれん草とチキンがたっぷりのクリームパスタに舌鼓を打ちつつ「美味しい」を連発した。表面がパリッとしたチキン、鼻を抜けるバターの香り、とろ~り滑らかなクリームの舌触り。絶品だ。


 藤崎くんはトレードマークともいえる狐目スマイルで、「でしょ?でしょ?」と、パスタのレシピを開陳しながら、どこに創意工夫を凝らしたのか熱弁を振るうも、誰も真面目には聞いていなかった。


 ここは北海道の片田舎、湖々埜市ここのしの繁華街にある欧風居酒屋Cuore〜クオレ〜。

 わたし、絹澤きぬさわつむぐはホール係の新人バイトだ。

 新人とは言えもうすぐ半年が経とうとしていて、クオレで過ごす初めての冬がやって来ていた。


 今は夜のまかないの時間。開店前に社員さんが摂るのが『朝のまかない』で、社員さんや遅番シフトのバイトが二十時から順番に摂るのが『夜のまかない』だ。

 営業中のまかないは、基本的に木の引き戸で目隠しされた小あがりを使用する。


 小あがりには六人掛けの座卓が二台並んでいて、間を衝立ついたてで仕切られており、今わたしたちは窓のある方に陣取って四人でまかないを摂っていた。

 ここならお客様からは見えないし、なによりここは掘り炬燵式になっていて足下が温かく居心地がいい。

 特に、今日みたいな雪の夜は。


「これ明日の朝まで降り続くヤツ。ヤバいな、車のバッテリー、上がんねーかな」

 藤崎くんの隣、つまりわたしの向かいでいつの間にかパスタを平らげていたホールバイトの先輩・高井たかいくんが、お天気アプリを凝視しながら眉をしかめた。


 高井くんがそういう表情を作ると、本当に人相が悪くなる。元から目つきが鋭くて、藤崎くんほど高身長ではないけれど、制服のベストがはち切れそうなくらい厚い胸板とか、ごつごつと大きな手とか、わたしにとってそれは少しだけ恐怖の対象だった。

 悪い人でないことはバイトを通じて知ってはいるけれど、だから彼とは、これまで必要最低限の会話しかしたことがなかった。


「大丈夫、俺ケーブル積んでる」

 高井くんのぼやきに藤崎くんが当たり前のように返す。

「マジか、頼むわ」

 高井くんが安心したように眉間の力を抜く。

 すると藤崎くんがわたしと理緒ちゃんを交互に見ながら訊ねてきた。


「お嬢さんたちはどうよ」

「あたしも頼むわ。つむつむもついでに車の雪下ろし、やってもらおうよ」

 理緒ちゃんが小さくごちそうさまと手を合わせると、あたしに微笑みかけた。

「そこまで俺をこき使うなや」

 藤崎くんが狐目スマイルを更に深めて言う。

 きっと言葉とは裏腹に、頼まずともやってくれるのだろう。


 けれどわたしは、「大丈夫」と断った。

「わたし今日は父が送り迎えしてくれる日だから」

 そう答えると、全方向から「いいなー!」の合唱が上がった。

 遅番シフトの今日、家を出ようとしたときにちょうど帰宅した父と鉢合わせた。天気も危ういこともあり、父が車を出してくれることになったのだ。


 それにしても今夜は暇だ。雪が降るとこうなのかな。わたしは誰にともなく訊ねた。

 クオレは繁盛店だけれど、当然これまでだって客足の少ない日もあった。けれど、十二月に入ってから割とこんなふうに客足が鈍い日が続いているように思う。

 そのくせ、クリスマスのご予約はありがたいことに満席だった。


「こんなもんだよ。十二月は毎年こんな感じ」

「そうなんですか?」

 藤崎くんの返答にわたしが小首を傾げると、理緒ちゃんがうんうん頷いた。

「そうなのよ。この時期はクリスマスに忘年会続きだから、それまではみんな節約生活してるのよ」

「雪も降るし、なまら寒いし。俺だってバイトでもなきゃ外になんか出たくねーよな、実際」

 高井くんの愚痴に、「学校はどうした、学生!」と藤崎くんがツッコんだ。


「さてと、みんなそろそろ休憩時間終わるよ」

 バイトリーダーのひと声に、わたしたちはそれぞれ立ち上がる。

 さすが理緒ちゃん、社員さんよりしっかりしてる。


 その社員の藤崎くんは、「あー、ダルー」などと欠伸あくびを噛み殺しつつも、外していたコックコートのボタンを締め直し、すっと引き戸を滑らせると、しゃんとした背中で厨房に向かう。


 その後に理緒ちゃんが続き、わたしが座卓に残った四人分のお皿を重ねてトレンチに載せ、次いでグラスを――と、手を伸ばしたとき。

「おっと」

 同じくグラスを片付けようと手を伸ばした高井くんの指と、わたしの指が重なり合った。

「!!」

 思わず高井くんの手を振り払ったわたし。

 高井くんが一瞬、動きを止める。

 わたしはそんなことも構わずに、男の人に触れてしまった自分の指先を、何かから庇うようにぎゅっと握り込んだ。

 刹那にして、過去の光景が蘇る。


 わたしがクオレでバイトを始める前、社会人一年生だったわたしを押し倒し、無理やり馬乗りになったあの男――


「じゃあ俺グラス持ってくから、絹澤さんは皿頼むわ」

 硬直したわたしに高井くんの声がかかる。

 ハッとして声の方に視線を向けると、彼は自分のトレンチにみんなのグラスとカトラリーを載せて、静かな足取りで小あがりを出て行く。

「あ、ああ、うん……」

 あたしは消え入りそうな声音で呟くと、トレンチを持って立ち上がり、その広くてがっしりした背中について厨房に戻った。


 いけない、わたし、嫌な態度とっちゃった。

 高井くんは何も悪くないのに。

 悪いのは、いつまでも過去を振り切れないでいる、わたしなのに。

 きちんと謝らなきゃ――

 

 そう思えば思うほど、彼の傍は近寄りがたくて、結局、高井くんに謝ることもできないままその夜のバイトは終わった。




 音もなく雪が降りしきるのを、わたしはクオレのエントランス前でひとりで見ていた。

 客足も鈍かった今夜、夜十時半過ぎに帰った最後のお客様を見送って、店長の判断でラストオーダー前に店仕舞いすることになった。

 本来、ラストオーダーは二十三時三十分。

 一時間近くも早帰りができるとあって、最後の片づけや掃除をするみんなの手は早かった。


 今はもう帳簿作業中の店長しか、店内には残っていない。

 理緒ちゃんも藤崎くんも高井くんも、他のメンバーもみんな、店舗の裏手に五分程度歩いた先にある専用駐車場に向かって帰って行った。

 そしてわたしは、バイト終わりが早まったことを父にメッセージして、その到着を待っていた。


さむ……」

 ブーツの爪先が冷たい。わたしはコートの前をきちっと留め、マフラーで鼻先を隠す。

 白い息が漏れて、視界が淡く滲む。

 クオレの軒下にいくつかぶら下がった小さな照明が、降る雪、そして積もる雪をオレンジに染める。

 繁華街の中通りを行く人影はまばらで、それでも遠くから酔客の笑い声や女性の嬌声がこだましていた。

 その時、斜め掛けバッグからぺこんと間抜けな音がして、「おっと」わたしはスマホを取り出した。見ると父からのメッセージが。


『すまん。父さんの車バッテリー上がった。

 何とか処置してるがうまくエンジンがかからなくて迎えに行くの遅くなる。

 この雪だし待たせるのもかわいそうだからタクシーで帰って来るか?タクシー代は出すぞ』


 ええっ?!お、お父さん、マジか!!

 わたしはショックとがっかりが混ぜこぜになった気持ちでスマホを凝視する。

 けど、しょうがないよね。お父さんが悪いわけじゃない。


『了解!タクシーで帰るね。

 お父さんも無理しないで暖かくして!』


 そう返信したわたしは、文面とは裏腹に深いため息をついた。

 タクシーが通る大通りまではすぐだけれど、そこに出るまでにはキャバクラやメンズパブがひしめく中を通り抜けないといけない。


 あの辺りは苦手だ。特にお客さんをタクシーに乗せるために店外に出て来る、厳ついスーツの男の人たち。近くを通ると揶揄からかい半分、客引き半分で絡んでくる。

 もちろん無視はするけれど、それでもわたしは上手に躱せなくて、心拍数がバンバン跳ね上がる。心臓が痛くなる。そんな自分が、情けなくて嫌になる。


 でも、ここでウジウジしていてもしょうがない。わたしは意を決して顔を上げた。

「なんだ、まだいたのか」

 目の前に、頭に雪をのっけて、鼻の頭を真っ赤にした高井くんが立っていた。


「店長まだいるよな」

「いる、けど、どうして……」

 みんなと一緒に、とっくに帰ったはずの高井くん。どうして戻って来たの?

 これはもしや、今日のことを謝るチャンスなのでは?

 そうだ、今謝らないと、次のバイトで顔を合わすのがますます気まずくなってしまう。


「あ、の……」

 そう思うのに、喉の奥で言葉が消える。

「スマホ忘れた。たぶん小あがりだな。店長帰っちゃって、店閉められてたらどうしようかと思ってた」

 言いながら高井くんが頭の雪を払い落とし、わたしの横をすり抜けて店内に消えていく。

 扉が開いたときのドアベルの音色だけが雪闇に吸い込まれて、静寂を際立たせた。

 わたしは、わたしは――


 ああ、わたしはどうしてこう、男の人相手だと尻込みしてしまうんだろう。

 いくら女子高育ちだからって、男に耐性がないからって、過去にあんなことがあったからって。

 全部忘れて、前を向いてい生きていくためにクオレでバイトを始めたのに。

 これじゃ、引きこもっていた頃の自分から、何ひとつ変われていないんじゃないのかな。

 こんな自分は本当に情けなくて、嫌いだ。


 わたしは一歩足を踏み出す。

 足首まで積もった雪がサクリと潰れて、ブーツの下でキュッと小さく鳴いた。

 夜空を仰ぎ見る。

 厚い雪雲で覆われて星は見えないけれど。

 はらはらと舞い散る粉雪が、この髪に、顔に降りかかって、その冷たさに目が覚めるようだった。


 わたしは、つむつむ。クオレの新人バイト、つむつむだ。


 ドアベルが鳴る。

「……なにやってんの、あんた。風邪ひくぞ」

 わたしは声のする方へと踵を返す。

 訝し気に顰められた眉根。

 黒くて鋭い眼差しが、わたしを見据える。

 ふっと小さく息をつき、そして大きく吸い込むと、わたしは吐く息に声を乗せた。


「今日はごめんなさい」

「なにが?」

 高井くんが言いながらわたしに一歩近づく。

「手」

「手?」

「振り払っちゃって、ごめんなさいっ」

 わたしが勢い良く頭を下げると、白い雪に埋もれた自分の爪先が視界に入って、そして大きなワークブーツの爪先がギュッと雪を踏み潰すのが見えた。


 すると、ばさばさと髪が掻き回されて、頭に積もった雪がさらさらと落とされる。

 そして、ぼすんとコートのフードが被せられた。

 驚いて恐る恐る顔を上げると、困惑気味の瞳と視線が絡み合う。

「怖かったんだろ、気にすんな。俺、なんでか女によく怖がられっからさ、慣れてる」

「ち、違うよ!高井くんが怖かったわけじゃないよ!」

 わたしが慌てて訂正すると、「そうか」と高井くんが小さく笑った。


「家の人、まだ来ないのか?」

 高井くんがダウンジャケットのポケットに手を突っ込みながら言うと、真っ白な息が夜気に広がる。

「ああ、うん。今タクシーで帰るところ……」

「は?迎えは?」

 わたしが事情を説明すると、高井くんがとんでもないことを言い出した。

「したら俺、送ってっちゃる」

「え!いえ、結構です!大丈夫!」

 わたしは驚いて、手をぶんぶん振りながら遠慮した。


 冗談じゃない、男の人に車で送ってもらうなんて。車内でふたりっきりなんて絶対に無理!

 わたしは過去の教訓から、男性と個室で二人きりになることはしないと心に決めていた。

 でも、せっかく謝れたのに、ここでまた拒絶するのは躊躇ためらわれた。


「したら、タクシー乗り場まで、送って行ってください……」

 勇気を出してはみたけれど、声が尻つぼみに小さくなる。

 ドクンドクン跳ねる心臓の鼓動を抑えるように、わたしはフードの端をきつく掴んで、熱くなる顔を隠した。

「了解。したら行くべ。俺そこの通りに路駐しってから、ちょっと急ぐぞ」

「あ、そうだったんだ。引き留めてごめん、よろしくおね……」

 大きく歩き出した高井くんの後に続いて、わたしも足を踏み出した瞬間――


「!!」


 雪で滑ってすっ転んでしまった。

「ったぁ……」

 ついた手が冷たい。地面にしたたかにお尻を打ってしまった。コートもマフラーもデニムも、雪塗れだ。急いで立ち上がろうとすると、ブーツが雪を蹴って更に滑る。

 もうやだ、恥ずかしい、わたし痛すぎる。


「おい大丈夫か、ほら」

 見上げると、大きくてごつい手が差し出されていた。

 高井くんの手。わたしは今日、この手を振り払ってしまった。

 驚いたし、怖かった。

 けれど今、目の前にある手は、指先を真っ赤に染めて、わたしを助けるためにここにある。

 怖くなんかない。


 わたしがその手に自分の手を重ねると、見た目とは裏腹に熱い掌に包まれて、思いっきり引きあげられ、そしてその厚い胸板にすっぽりと抱きとめられてしまった。

 わたしは声にならない悲鳴をあげる。

 呼吸が止まり、頭の芯がカッと熱を持つ。

 すると頭上から、高井くんの吹き出すような声が降ってきた。見上げると、鋭い目つきはどこへやら、思いっきりくしゃくしゃにした笑顔がそこにはあった。


「あんた、本当に道産子ですか」

「な、なにさっ!道産子だって雪道で転ぶし、スキーやスケート嫌いな人だっているし、ジンギスカンが苦手な人だっているんだからね!」

「いや、ジンギはみんな好きだべや」

 う、うるさいなっ!

 わたしは慌てて身体を離すと、顔を真っ赤にしながら言い放った。

「したっけ、あんたあんた言わないでや!わたしは絹澤紬、つむつむなんだからね!」

 そんなわたしを見て、高井くんがまた笑う。

 今度の笑顔はとても穏やかだった。

「了解——行こう、つむつむ」

 

 高井くんが頼りないわたしの身体を支える。

 わたしはちょっと遠慮がちに、そのダウンジャケットの背中を掴む。

 不思議だ。高井くんは怖くない。

 こんな気持ちになるのも、きっと粉雪舞い散るこの夜のせい。

「ありがと」

 わたしの囁くような言葉は、凍えた空気に紛れて、ふたりの足跡と一緒に、音もなく降り積もる雪が消してしまった。





「どういたしまして、つむつむ」





  了

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