ダークハンター
梅崎幸吉
第1話~完了
ダークハンター
(1)
川島が事務所に顏を出すと秀雄がソファーに横になって週刊誌を読んでいる。
まだ午後二時である。
「おい、あの仕事はどうした?」
川島が秀雄に聞くと
「あんなの、やってられませんよ」
ふてくされた口調で秀雄は言った。
川島徹は某駅の某通りに面した築五十年位の古いビルの三階に「便利屋」の看板を出していた。事務所は二十坪位ある。
川島徹の本業は「ダークハンター」通称闇の狩人と闇の世界では呼ばれている。その仕事の性質と内容上、世間には一切公表されない。闇から闇へと受け継がれる必要があった。この活動そのものの起源は古く、今日では人間の創作と思われている神話の英雄伝説の類いの話として残されている。同じ闇の世界に生きる極く一部の者だけがダークハンターの存在を知っている。
まだ二十六歳の川島徹は数少ないダークハンターのなかでも最も若手であったがその能力はずば抜けていた。世間の隠れ蓑も兼ねて表向きは便利屋を開いていた。
矢野秀雄は一年前から川島徹を兄貴として慕っていた。秀雄が五人のゴロツキ相手に喧嘩をして殺されかけていた所に川島が出くわした。川島は五人の男を片付けるのに一分とかからなかった。その川島の腕と男っぷりに十九歳の秀雄はすっかり惚れ込んだ。それからは川島にべったりであった。しかし、川島の本業は知らない。
川島は最初は閉口気味ではあったが、一本気で気性の激しい秀雄を撥付けると何をしでかすか分からない。止むなく秀雄の好きにさせた。
便利屋といっても殆ど万屋で人生相談からペットの世話、用心棒、ようするに無意味な殺し以外は何でもありであった。
秀雄にも出来そうな仕事をたまに廻すのだが、短気で我儘ときているので常に相手とトラブルになり最後まで続いたためしがない。
今回の仕事も二日と持たなかった。
川島は頭を掻きながら事務用の椅子に座った。
「今度の仕事は子供でも出来るやつだっただろう。全く、お前は。それで、どんな理由で止めた」
川島は窓の方を見ながら秀雄に言うと、秀雄は煙草をくわえたまま、ふてくされた口調で不機嫌そうに言った。
「あんな、くそばばあ、思い出したくもないすよ。そりゃあね、草むしりや壁の修理とか肩もみだったらいいですよ。いくら、一人暮らしで寂しいからって。いいですか、兄貴、このおれはあの七十過ぎのばばあに迫られたんですよ。お兄さん、いいことしようよってね。ああ、思い出しただけでも気持ち悪い!」
それを聞いた川島は真面目な顏で言った。
「三日間で十万だぞ。その位のサービスは当然だろう。お前は体格も良くいい男だし、色気に年は関係ないだろう。それに暗闇だったら分からんだろう」
それを聞いた秀雄は週刊誌を放り出して立ち上がると、向きになって大声で言った。
「兄貴、いくら何でもそれはないでしょう! じゃあ、このおれの代わりに兄貴が行ってくださいよ!」
川島は秀雄の本気で怒っている顏を見ながら通快そうに笑った。
その時、秀雄の背後から若い女が叱るように言った。
「ちょっと、ヒデ! あんたね、あんな言葉を真に受けて馬鹿よ! ほんとにガキじゃあるまいし、何考えてるの。川島さんも川島さんよ、全く二人してノウテンキなんだから、あたしがいつもその尻拭いなんて」
水木ゆりである。川島の師匠の東風から面倒をみるようにと三年前から預かっていた。今、二十一歳であったが秀雄以上に気性は激しく、川島と同じく女性としては珍しいダークハンターである。東風の死んだ高弟の娘であった。ゆりは自分の父親に男のように厳しく育てられた。格好も男と変わらない。
「ゆりさん、ほんとに迫られたんすよ。ありゃ、冗談じゃなく、間違いなく本気でしたよ」
ゆりは川島の前まで来ると、無言で封筒を机の上に置いた。川島が怪訝そうにゆりを見ると、秀雄の顏を見ながら言った。
「ヒデの嫌いなおばあさんからの仕事代よ。ちゃんと十万円あるわ。又、懲りずにヒデちゃんに来て欲しいって、くれぐれもよろしくっておっしゃってらしたわよ」
それを聞いた秀雄はおおげさな身振りでこの世の終りのような表情をして百八十センチの身体を、頭を抱えてソファーに埋めては足をばたばたしていた。
「ほんとに、オーバーなんだから。バカ!」
ふいに秀雄はゆりを見て睨んで言った。
「この、鬼ゆり!」
それを聞いたゆりは秀雄に向かって振り向き様に強烈な回し蹴りを放った。秀雄はかろうじて床にふせてその蹴りをかわした。まともに食らったら失神するほどの蹴りである。
「あんた、あたしに何て言ったの。もう一回言ってごらん。今のは手加減したけど、あんたも男なら表に出なさいよ!」
川島は二人のやりとりを笑って見ている。
「兄貴、何とかして下さいよ」
川島に向かって秀雄は言った。
ゆりの真剣に怒っている態度を見てさすがに秀雄もまいっている。表に出れば二人とも本気で戦う羽目になるのは分かっている。
「何よ、ヒデ! 今更、あんたキンタマついているんでしょ」
ゆりは百六十センチの身体であったが、豹のようにしなやかで俊敏な攻撃の破壊力は常人の男が五人束になってもかなわないであろう。
最も、秀雄も川島から体術を学んでいて、まともにゆりと戦っても互角に近い程の腕にはなっている。かといって、ゆりと死闘をするつもりは秀雄にはない。
「ゆりさん、ごめん。つい、口がすべって」
秀雄は床に頭をつけて謝った。
「ちょっと、そこまでしなくっていいわよ」
ゆりも自分が大人げないと反省したのか、元の表情に戻っている。
「今、コーヒーでも入れるわね」
ゆりは何事も無かったかのように台所に行った。
秀雄は、川島に向かって苦笑しながら頭をぼりぼりと掻いている。
九月も終わろうとしていた。窓を開けると騒音と、排気ガスを含んだ冷たい風が事務所に満ちた。
午後五時、約束の時間の一分前に徳田保三は事務所に来た。川島の兄弟子の神木陽一の紹介であった。
七十歳になる小柄で細身の徳田はいかにも実直そうな人柄で身なりも隙がない。
徳田は丁重な挨拶をしてソファーに背筋を伸ばして座るが、ゆりが入れたお茶にも手をつけずにいる。時折、瞼を強く閉じて苦悩の顏をする。
「ここにいる二人は信頼出来ますから」
川島は徳田が秀雄とゆりを気にしているのは分かっていたが、このまま無言でいるわけにはいかない。神木が川島を紹介してこの事務所に来た以上は全てを信頼してもらわなければ仕事にならない。
「いや、誠に申し訳ありません。私自身がどこからお話をしてよいものやら……。本当にお恥ずかしいことでして」
秀雄が川島に気を利かせて外に出ましょうか?と態度で合図を送ったが、川島は出なくていい、という視線を返した。
「ところで、神木さんをどうしてご存知だったのですか?」
徳田の血管の浮いた皺の多い手が微かに震えている。
「私は『真理の華』という教団におりまして、ある縁で以前に東風先生にお会いした事があり、それで神木様をご紹介いただいたという次第でございます」
徳田は額の汗を拭きながら、深いため息をついた。
「もっと、内容を率直に聞きたいですね」
徳田は明らかに何かに怯えている。
川島は神木から大掴みには話を来いていた。だが、依頼される当人から話を聞き、お互いの合意の元でしか仕事は成立しない。目の前の川島より東風に頼みたかったのであろうが神木から、川島へと人物が変わったので徳田に不安があるのは確かであった。
「わたしでは物足りないと思われれば、他の人物に頼まれてもかまいませんよ」
川島の撥付けるような言葉に徳田は狼狽した。
「いえ、まさか、そんなことは御座いません。この私が、いや、私の態度が悪かったら平にご容赦下さい。はい、大変当方の恥な話しですが申しあげます……」
『真理の華』という教団は日本国内でも数百万人の信者がいるという大きなオカルト教団である。先代の清水天真という人物が一代で築き上げた教団で、その天真には子供が恵まれなかったが六十五歳になった時に神の啓示を受けて女の子が生まれた。天真は自分の子は自分より霊的位階が高いと信者達に説法していたが、一年前に八十一歳で死んだ。二代目は娘が継ぐはずであったが、まだ娘は十六歳である。まだ大きな教団を纏める能力は無い。それに乗じて内部分裂が表面化してきた。徳田は天真の忠実な信奉者である。徳田は、天真から死ぬ前に呼びだされた時に、天真自身が居なくなれば教団は乱れ、権力争いが起きる。その時は自分の娘に危険が次々と襲うであろう。時期が来るまで徳田に娘をくれぐれも頼むといわれている。天真はすでに自分の教団に分裂の分子がいることは知っていた。だが、娘のめぐみの能力は十八歳にならないと完全には目覚めない。それまではどんなに霊格が高くとも危ないと。
天真が言った通りにこの半年に何度もめぐみは命を狙われていた。そのやり方が最近は特に露骨になってきた。めぐみが十七歳になったので相手も焦っていると。あと一年でめぐみが目覚めても、目覚めなくとも正式に二代目として教団の儀式が執り行われる。
徳田はそれまでは自分の命にかえても清水めぐみを守らなければならない。徳田自身もすでに何回も殺されそうになっている。今だって何処から、誰が狙っているか分からない、という。徳田の最も信用していた味方の二人はすでに消され、ボデイガードも三人殺されていて、五人は行方不明であるという。
川島は徳田の話を聞いていると、徳田の不安も最もだと思った。川島の事務所は古くて小さく、体はでかいが頭は悪そうな男と若い女の三人である。徳田の今まで雇った連中はその世界では名の知れていたプロであろう。又、裏の社会の関係もあり使っているはずである。金で仕事するプロはいくらでもいる。川島の師匠の東風は金では動かない。無論、兄弟子の神木もそうである。
「徳田さん、護衛のプロはいくらでもいるでしょう。何もこんな若造に依頼しなくとも」
徳田は額に汗をかきながら言った。
「不躾なお願いですが、出来ましたら東風先生に川島様からお頼みいただけませんか?」
川島は窓の外を見ながら言った。
「あのじいさんは気紛れだからなあ。この内容は全て話したんですか?」
「はあ、それが、お会いしたとたんに、お家騒動に興味は無いと言われまして、それで神木様を紹介されましたが、それからーー」
「この、おれってわけだ。あんたも大変だな」
川島は堅苦しい会話が面倒になっていた。
徳田は川島の機嫌を損ねたと思ったのか一瞬うろたえた。
だが、徳田には目の前の川島程度の人間は金さえ出せばいくらでもいる、と確かに思っていたのである。
「徳田さん、お話はよく分かりました。今日はこれでお引き取り下さい」
徳田は川島の眼を一瞬見据えた。だが、すぐに実直そうな表情に変わった。徳田は丁重な挨拶をして事務所を出た。事務所の入口には屈強そうな男が二人待機していた。
川島が窓から下を見ると、黒塗りの高級車にも屈強そうな男が二人待っていて徳田を囲むようにして車に乗せた。徳田は車に乗る前に川島の事務所を見上げた。徳田は川島を見て、軽く会釈をしたが、その眼光は事務所のなかでの徳田の眼ではなく冷酷な鋭さを含んでいた。
川島は徳田を老獪でしたたかな役者だと思った。恐らく教団の実権は徳田が握っているのだろう。
川島は師匠の東風も、神木も何故自分の所にこの仕事をまわしたのかその真意を掴みかねていた。始めは軽く考えて単に面倒だが金にはなるし、川島向きの仕事だから任せよう、という程度のことを考えていたのか?
だが、いざ徳田に会って人物と話の内容を知るとかなり危険な仕事である。川島は徳田が自分ではなく、東風に依頼したいので義理を通して川島の所まで来たのは分かるが、単純なお家騒動位で東風に依頼する程のことはない。その手の問題を処理するプロは金さえあればどうとでもなる。それに川島に、完全ではないにしろ外部に漏らしてはならない事を話してしまった。川島はやはり秀雄とゆりには聞かせなかったほうがよかったかなと思ったが、もう遅い。
秀雄が好奇心むき出しの表情で川島の側に来た。
「兄貴、何だか面白そうな話でしたね? でも、どうしてあんなうまい仕事を簡単に断ったんですか。あのじいさんのいる『真理の華』ってところはえらくでかい団体ですよ。何しろこのおれが知っているくらいですからね」
「この、ばか! ほんとにお前は単純だな」
秀雄は川島に何で怒られたのか分からない。
だが、川島の厳しい目付きを見て、言い返すのはやめて一人で何かぶつぶつとつぶやいていた。それと、秀雄がよく分からない会話もあったのだがそれは川島の様子を見て後で聞こうと思っていた。たまに聞く、東風や神木のことであった。神木とは何度か会っている。秀雄にはその関係がどうなっているのか詳しく知らない。要するに自分だけ仲間はずれにされているような思いと、少しの嫉妬があった。
ゆりが秀雄をからかうように言った。
「ヒデって、ほんとに体だけはりっぱになったけど、脳味噌は保育園児並ね。あんたの全身に毛が生えたら完全に動物園行きよ」
「ゆりさん、そこまで言いますか。ええ、どうせ、このおれはまだケダモノですよ。これからは、せいぜいりっぱなケダモノになるようにがんばりますから」
ゆりは秀雄がすねたようにソファーに横になって煙草を吸っている前に座ると、怖い眼をして言った。
「あんたね、さっきのあの爺さんがどんな奴か分かってんの? 真面目で人のいいじいさんぐらいに思ってんじゃない。あんたは、だから川島さんに怒られたのよ。あの、じいさんはとんだ曲者だよ。これだけあたしが言ってもまだ、ピンと来ないでしょう。詳しくはどうせ川島さんが話すでしょうけど」
ゆりは秀雄に言ったあとに、川島の方を見た。川島は椅子に座って窓の外の景色を見ていたが、ゆりが秀雄に言ったことをどう説明しようかと考えていたのである。
川島もゆりの隣に来て座ると、秀雄は一体これは何事かといった風な顏をして座り直した。
「秀雄、いいか、おれの言うことをちゃんと聞けよ。今、ゆりが言ったことは本当だ。へたすると俺達はあのじいさんに狙われるぞ。おれもお前を巻添えにするつもりはなかったが、あの話を聞いた以上は覚悟しろ。それと今日、あのじいさんから聞いたことも誰にも話すな」
秀雄は話の意味がよく理解出来なかったが、重大そうであることは分かった。だが、どう重大であるかはさっぱり分からない。
「兄貴、何がどうなろうと、おれには覚悟は出来てますよ。おれもほんとに自分はばかだと思いますけどね、二人の言っていることが何がなにやら、なにがどう大変なのか、このおれにも分かるように説明して下さいよ」
川島は苦笑しつつ短髪の頭を掻きながら、ゆりに業務終了の看板と鍵を閉めて来るように言った。
(2)
某市の閑静な住宅街に徳田保三の自宅はあった。千坪以上ある敷地には最新式の警備システムが設置され、地下二階、地上三階の頑丈なコンクリート作りの建物は完全な要塞であった。警備の男達は敷地の内外の至る所に小型無線を持って配置されている。首相官邸以上の厳重さである。
三階の広い応接間にシルクの金のガウンを来た徳田が黒革のソファーにあぐら姿でブランデーを飲んでいる。重厚な樫で作られたテーブルの上には高さ五十センチ程の純金で出来た菩薩像が置かれてある。
徳田の前には五十歳前後の硬質の殺気を秘めた男が座っている。
「おい、鮫島、抜かりはないな」
徳田が聞くと鮫島は笑みを浮かべて答えた。
「ええ、極上の者を五人つけてあります。まあ、あの連中なら百人程度の組だったら簡単に潰す奴等ですから、問題はないでしょう」
鮫島竜は徳田の腹心の部下である。公に出来ない仕事や危険な問題全てを仕切っている。
「鮫島、あいつらをあなどるな! そこいらの雑魚と一緒くたにすると泣きをみるだけではすまんぞ」
鮫島は徳田が何故あの程度の若造を恐れるのかどうも合点がいかなかった。
「あのガキ共の出方によってはバラしていいんでしょうね」
鮫島はいつまでもガキと遊んでいる暇は無い、といった口調で言った。
徳田が気にしているのは東風の存在である。だが、徳田が部下に弱気を見せると全体の士気に関る。金で動く殺しのプロはいくらでも雇える。徳田は東風の伝説的な噂を聞いているだけで、実際にどれほどかは分からない。ただ見た目には小柄のじいさんにしか見えないが、只ならぬ雰囲気をもっているのは徳田自身も確かめた。いざとなれば一戦交える事になろう。
鮫島も東風の名は聞いたことはあったが八十過ぎの老いぼれに何故それほど恐れるのか理解出来なかった。その弟子だからって、まだほんのガキである。あんなガキに大金を払うなら確実なプロを雇ったほうが手っ取り早い。徳田のおやじも考えすぎじゃないか、と鮫島は思っていた。
「ところで、めぐみは大丈夫だろうな?」
「ええ、それは万全な警護をしています。奥さんも一緒に」
徳田はそれを聞くと軽く頷きブランデーを呷った。
深夜二時、秀雄は川島から事情は聞いたもののまだ釈然としなかった。行き付けのスナックで酒を飲んで酔いざましがてら、川沿いをぶつぶつと独り言を言いながら歩いていた。小便をしたくなった秀雄は橋の欄干の上から「どうだ、ざまあみろ」と言いながら川に向かってまき散らした。秀雄は終わると、よし、よし、と言いながら息子をしまうと、ひょいとバック転で飛び降りた。着地に少しふらついたが自分で勝手に九点と言って歩こうとしたら、ふいに後ろから男の声がした。
「おい、ぼうや、そんな所でおしっこすると軽犯罪で捕まるよ」
秀雄が気がつかないうちに二人の男が立っている。二人ともサングラスをして全身黒ずくめの服装である。どう見ても普通の職業には見えない。
「へえ、あんたら、このおれ様のりっぱなものに見とれてたのか。それで嫉妬してサングラスなんかはめちゃって、悔しかったら出して見せてみな」
「面白いぼうやだな。ただ、でかいだけでその使い方は知っているのかな」
秀雄と相手の距離は三メートルである。一人が静かに前に出た。秀雄は僅かに腰を落とした。
「ぼうやはもう寝る時間だよ」
男の声が終わらぬうちに正面からの蹴りが秀雄の顔面に放たれていた。秀雄の鼻先に鋭い風圧が来た。まともに食らったらゆがんだ顔面どころかあの世行きであろう。秀雄の酔いは一気に醒めた。二度、三度と強烈な蹴りが間髪を入れずに飛んでくる。秀雄はその蹴りを躱すだけで精一杯であった。
相手は足だけで攻撃している。秀雄の脇から冷汗が流れている。これでもう一人が加わったら今の秀雄はひとたまりもない。相手の左右の足が鞭のように襲ってくる。秀雄がバランスを崩したとき顏に来た蹴りを左腕で受けた。その強い衝撃で秀雄は後ろによろけた。もうこれまでか、と秀雄は観念した。
矢のように人影が走った。秀雄の相手が目の前に転がっている。
川島が笑みを浮かべて立っている。もう一人はすでにぴくりともせずに横たわっている。
「ああ、兄貴……」
秀雄は凄まじい勢いで号泣した。真夜中である。あちこちの部屋の電気がついた。
「おい、泣くな。近所迷惑だぞ」
三分も歩けば川島の住んでいるマンションがある。しゃっくりをしながら泣いている秀雄を連れ帰ると、川島はなだめながら言った。
「もう、泣くな。おれが気をつけろって言ったことが、これで分かっただろう」
秀雄はひくひくしながらうなずいた。
「もういい、さあ横になれ」
川島が秀雄の左腕をまくって蹴りを受けた部分を見るとかなり腫れている。強く押すと秀雄は「痛い!」と言って川島を睨んだ。
川島は笑いながら、骨は大丈夫だと今度は叩いた。秀雄は慌てて手を引っ込めた。
「これから、もっと気をつけろよ。さあ、寝るぞ」
秀雄は何か言いたそうな顏をしていたが川島は無視してさっさと横になった。
秀雄は独り言をぶつぶつと呟いていたが横になって一分もたたぬうちに大いびきを始めた。だが、ふいに布団を蹴ると手足を二三度動かして今度は大の字になった。
夢でさっきの続きを見ているのだろう。口元に笑みを浮かべているところをみると夢のなかではどうやら勝っているらしい。
川島は煙草を吸いながら秀雄の寝顔を見た。
あの二人の男は徳田が送った者に間違いない。あんな連中がこれからも次々と襲って来るだろう。当然、ゆりも狙われる。もっと手強いプロはいくらでもいる。川島はベランダに出ると夜空を見た。上空は風が強いのか星の輝きが鋭い。もう秋の風である。闇のあちこちから虫の声も聞こえてくる。
秀雄は川島の言うことを聞き入れない。又、ゆりも同じである。川島は当分の間でいいから安全な所に隠れていろ、と何度言っても二人とも覚悟は出来ていると繰返す。秀雄は昨夜の事は自分が酔っていたからだ、と言いはる。ゆりはゆりで秀雄に「あんたがドジなのよ」と。だからあんたと一緒にあたしまで心配されるのよ、と秀雄に当たっている。
川島は既に相手はこちらの行動は全て掌握しているであろうと思っていた。今もこの事務所の近くに何人かの見張がいるのは感じている。すでに、昨夜の事も知っているはずである。神木にはすでに連絡をしている。午後四時頃には来られるとのことであった。
東風もこうなる事が分かって徳田を寄越したのか? 神木もすでに知った上でか?
川島だけが関るのは当然としても、この事務所に徳田をどうして紹介したのか、さすがに川島には合点がいかない。ダーク・ハンターの仕事ならこの事務所を通す必要はないはずだ。
その意図を川島は神木に聞くつもりであった。
川島は窓から表を見た。通りの向こう側に見張らしき男がこちらをしきりに見ている。
秀雄に教えたらすっ飛んで行くに違いない。
いつの間にか見張の男は路地に姿を消した。
神木は四時を少し過ぎて事務所に来た。神木は川島の詰問するような眼差しを見て苦笑した。
「神木さん、一体これはどういうことですか?」
神木はゆりと秀雄に簡単に挨拶すると、ソファーに座った。
「まあ、トオル、そう怒るな」
川島は神木の前に荒っぽく座った。
神木陽一は川島より二歳年上である。体格もさほど変わらない。川島の方が百七十八センチで神木より二センチほど高い。だが、見た目にはほとんど分からない。
「秀雄君、大変だったようだね?」
神木が秀雄に言うと、秀雄はやや向きになって大きな声で言った。
「いえ、かなり酔っていたもんで、白面の時なら問題ないです」
側でそれを聞いていたゆりが後ろから秀雄の頭を叩いた。
神木はその光景を見て笑ったが、川島はきつい口調で神木に言った。
「笑い事じゃあないですよ。おれが居なかったら、こいつは今、棺桶のなかですよ」
秀雄は不満そうな顏をして、川島を睨んでいた。
「おれも、トオルにはちと荷が重いって師匠に言ったんだがな、少し複雑な事情があるみたいでな。ともかくトオルに預けろって言われ、止むなくお前を紹介した。おれも実のところこの二人が気になってな」
ゆりと秀雄はえらく不機嫌そうな顏をしている。
「まったく、あのじいさんも何を考えてんだか、それにしても、このおれに荷が重いってどういうこと?」
神木はゆりが入れたコーヒーを飲みながら川島の向きになった顏を見て笑みを浮かべた。
「じゃあ、軽いのか」
神木が川島に笑いながら言うと、川島はむっとした。川島の向こうっ気の強さは神木が一番知っている。
「ところで、この二人はお前の言うことを聞いたか?」
川島は大きいため息をついて二人を見た。
ゆりも秀雄も知らん顔をしている。
神木は二人に対してどれだけ危険かを説明はしたが、逆に二人に睨みつけられた。
「トオル、この秀君はどうするつもりだ。素質は認めるが、まだ未熟だな。ゆりも、まだまだだ。このおれからはっきり言おうか?」
神木の話を聞いていた二人は怒りを露に出した。
「ちょっと、さっきから大人しく黙って聞いていたらずいぶんと言いたいこと言ってくれるわね。川島さんの兄弟子だからって承知しないわよ。あんた、なめんじゃねえよ!」
先に口火を切ったのはゆりであった。秀雄も隣でしきりにゆりの言葉にうなずいている。
川島は何とも言い難い顔付きである。神木は川島を見たが止める風でも無い。
神木は川島に確かめるように言った。
「いいのか?」
川島はこうなったら止むを得ない、といった表情である。
「ここに、屋上はあるのか」
神木が川島に聞くと、代わりにゆりが答えた。
「あるわよ、付いてきなさい」
非常階段を通って屋上に行ける。二人とも駆け上がっていった。川島が立会人ということになってしまった。
屋上に神木と川島が着くと、ゆりと秀雄のどちらが先にやるかで言い合っている。
さすがに川島も困惑気味の顏である。川島が神木に食ってかかる様子を見て二人に火がついたのである。だが、神木は涼しい顔をしている。
「おい、面倒だ、二人で来なさい」
神木が挑発的に言うと、ゆりの方が先に跳躍して蹴りを入れてきた。神木は踏み込んで除けると、秀雄がすかさず回し蹴りを加えた。
神木は二人と向き合う形になった。
川島はその光景をやれやれといった感じで座って見ている。
神木は普通に立っている。三メートルは双方の間合に十分の距離である。
神木の隙の無い雰囲気に二人はすでに飲まれている。神木はわざと隙を作るように無造作に前に出た。二人が動こうとした時にはすでに神木は二人の背後に立っていた。
固まって、立ったままの二人の間を神木はゆっくりと歩いて、川島の隣に座った。川島は深いため息をついた。ゆりも秀雄も、自分達がどうなっているのかまだ分かっていないようである。
神木は煙草に火を付けてうまそうに吸っている。川島も煙草を吸い始めた。
二人はまだ立ったままぴくりともしない。
川島は頭をぼりぼりと掻いている。
「ああ、いい天気だなあ、トオル」
神木は空を見あげて言った。
川島は神木に無礼を詫びた。神木は気にする風でもなく、笑っている。
「いや、以前のお前によく似ているよ。どうしてもこの二人を死なすわけにはいかんな」
川島は自分自身をまだ未熟だと改めて痛感した。
「おい、トオル、二人をあのままにしておくのか」
「まあ、もう少しくらいはいい薬になるでしょう」
「トオル、師匠も何か考えているだろう。お前はあの二人の面倒をしっかりみろ。おれもいつでも駆け付ける。事務所の周りに三人ほど見張がいたな。おれが帰る時でも片付けておくから心配するな」
徳田にはおれが話を付けてくる。あの二人に手を出すとどうなるか、久しぶりに派手に脅してくるか」
川島も神木と行きたかったが、目の前の情けない姿の二人を放ってはおけない。
川島に後はよろしくと言って神木は全く動けない二人に手を振って帰った。
川島は二人に近づくと活を入れた。
ゆりも秀雄も自分達が何故動けなかったのか、皆目見当がつかなかった。川島はただ、お前達とは格が違うんだ、としか言わなかった。
(3)
徳田は鮫島の軽率な行為に怒声を浴びせていた。
応接間を腕組みしながら眉間に皺を寄せて歩き回っている徳田を見ながら、鮫島は首を何度も傾げては得心のいかぬ様子である。
「これで、もう東風はこっちの味方にできんな。まったく、あれほど侮るなと言っておいたのに」
鮫島は確かに軽くみていた。だが、すご腕の連中はまだいくらでもいる。たかが五人やられた位でどうってことはない。見張の連中も相手を若造だと思って油断したんだろうと思っていた。
鮫島はブランデーをぐいっと飲んだ。鮫島は意地でも川島達を消そうと考えていた。何も逐一、徳田に報告する必要はない。今までもそうして処理した問題は無数にある。鮫島には鮫島の面子があった。
徳田は今、大事な時である。特に事が表立つような問題はなるべく控え、面倒な芽は成長しないうちに摘まねばならない。徳田に実権を握らせまいとする半数以上の幹部は始末したが残った幹部は中々手強い。
徳田は事務局長であったが修業部門の代表幹部の大木満は天真の高弟でもあり、そう簡単には消せなかった。武術はもとより霊能力も教団随一であった。この一年にかなりの数の殺しのプロを差し向けたがことごとく失敗した。それで東風に依頼しようとしたのだった。その巧妙な計画を聞こうともしないで東風は断った。大木の弟子にもまだ若いが鷹栖麗という天才がいる。この二人さえ居なくなれば教団は支配できる。
「おい、大木と弟子はどうなっている?」
「やつらにも、今とっておきの人材を見つけましてね、近々来る手筈になってます」
「分かっていると思うが、こっちの方が重要だからな。うかつに東風を敵にするなよ」
鮫島は両方とも消しますよ、と腹の中で呟いた。
「分かってますよ」
鮫島は徳田の顏も見ないで答えた。鮫島はテーブルに置かれている金の菩薩像で徳田を殴り殺せば極楽に行くかな、まず無理だろうな、と考えるとふいに可笑しくなった。
「おい、なにがおかしい。お前、何か企んでいるんじゃないだろうな」
ソファーに座って自分でブランデーを注ぎながら徳田は鮫島を見つめた。
「いや、最近の若い信者に美人が増えたなって思っていたら、つい、にやけてしまいましてね」
「おお、お前もそう思うか。おれも最近、今までの女に食傷気味でな。やはり旬のものが新鮮でいいな」
鮫島はこのどすけべじじい、と思ったが顏には出さずに一緒に笑った。
応接間のドアーが静かに開いた。
「随分と楽しそうですね」
徳田も鮫島も自分の目を一瞬疑った。神木が涼しい顔をして立っていたからだ。
徳田は鮫島の顏を見た。その目は警護の連中はどうしたんだ、という目付きである。
「お元気そうですね、徳田さん。さて、おれも一杯もらおうかな」
鮫島の隣に神木は座ると、鮫島によろしくと言って自分でブランデーをついだ。
「さすがに、上等の味ですね。ところで彼を紹介してくれないんですか?」
隣の鮫島を見て、徳田に言って神木は足を組んで深々と座った。
「ああ、これは失礼した。うちの鮫島です」
徳田も鮫島もまだ信じられない、と言った表情である。それに、この神木の大胆さに面食らってもいる。
「おれにあまり気を使わないで、さっきの楽しそうな話を続けていいですよ」
「あの、どうやって此処に入って来られました?」
徳田は間の抜けた質問をうわずった声で聴いた。鮫島もあまりのふてぶてしい神木の態度に言葉を失っている。それにしても三十人はいるプロの警護の連中は何をしているんだ。それに忍び込んだとしたら警報がなる。鮫島の頭は混乱していた。
「ここはいいところですね。静かで、夜中のせいか皆さんも礼儀正しくて。躾けが行き届いていましたよ」
神木はもの静かに話していたが異様な霊気を二人に放っていた。
鮫島も徳田もすでに金縛りの状態になっている。二人共、額と脇から汗が流れている。
「お二人は血の巡りがいいようですね。それとも話がよほど楽しかったんですか。汗を拭いたらどうですか?高い服に垂れてますよ」
神木は煙草を吹かしながら応接間の高価そうな調度品や金の菩薩像を見た。
神木は煙草をもみ消すと、さらにソファーに深々と体を沈めて足を組んだ。
「さて、今回の一件についてどういうことか、お話を伺いましょうか?」
徳田も鮫島も吹き出る汗を拭こうにも体が動かない。鮫島はこのガキと思ってはいるものの、自分の身体ではないように全く力が入らない。二人共、こんなことは初体験であった。時間が経つにつれて全身が軽い痙攣をおこし始めている。
神木は念の力で金の菩薩像を軽く浮かすと鮫島の前で降ろした。
神木は座ったまま何もしていない。鮫島は夢かと思った。いや、これは一種の催眠術だと思おうとした。徳田はまばたきすら忘れていた。
「ほう、鮫島さんは目の前の出来事を否定していますね。じゃあ、面白い芸を見せましょうか。鮫島さんが、さっき考えた事を実演しましょう」
鮫島の体が勝手に動くと、金の菩薩像を掴んだ。鮫島は立ち上がると徳田の側に来た。そして手に掴んだ菩薩像を徳田の頭の上に持ち上げた。
徳田は全身が震えて口から泡を吹き出している。驚愕のため顔色は真っ青になっている。
「さて、鮫島さん、どうしますか?それでやられれば徳田さんも本望でしょう。さて、その後はどういう展開が面白いか、ふむ、たとえば鮫島さんも自分の懐にある拳銃で自分の頭を打ち抜くってのはどうですか?」
鮫島は菩薩像を左手に持ち変えて、右手で胸裡から拳銃を取り出してベルトに挟むと、又、菩薩像を右手に持ち上げた。拳銃を左手に持つと自分の頭に向けた。
「さあ、これで形は出来た。後は役者の出番ですよ」
彫刻のように固まっている二人を見ながら神木は煙草を吸っている。
鮫島も顔面は蒼白である。徳田は恐怖で全身が激しく震えている。
「お二人共、虫けらを殺すように多くの人をやってきたんでしょう。今更怖いものは無いでしょう」
徳田も鮫島もいつの間にか小便をもらしている。高価な絨毯にその染みが広がった。
「おい、鮫島! 冷酷なお前がどうした。おい! 徳田、お前もだ。お前達がガキ扱いしていたおれ達に何て様だ。おれの師匠の東風はこんなもんじゃないぞ。いいか、今後少しでも俺達に手を出してみろ、この程度ではすまさんぞ! 分かったらうなずいてみろ」
神木が脅しても二人は硬直したままである。
徳田も鮫島もうなずきたくともぴくりともしない。涙と鼻汁が出るだけであった。
「死にたいのか!」
神木がさらに怒鳴ると、かすかにこくりとぐしゃぐしゃの顏でうなずいた。
神木は立ち上がると、分厚い樫のテーブルを軽くこつんと突いた。
「いいか、約束を忘れるな」
神木が応接間のドアーを音をたてて閉めると分厚いテーブルが軋みをあげて二つに割れた。それが合図のように二人の身体が自由になった。鮫島は悲鳴をあげて拳銃と菩薩像を放り投げた。二人とも無言でその場にへたり込んだ。
(4)
郊外にある某駅から徒歩二十分の場所に『真理の華』の武術道場はあった。
千坪程の敷地のなかに二百坪の三階建てのビルが建てられている。周囲は林のようになっていて、そのなかに瞑想する木造の五十坪程の家が二軒あった。
ビルの一階は武術道場で、二階は食堂や図書室があり、三階は住み込みの信者や地方から出てきた信者のための宿泊施設になっていた。
大木満はこの道場が自宅兼用になっていた。
住み込んでいる信者は百人前後である。そのなかに教団随一の天才と言われる鷹栖麗もいた。
大木は六十才であったが、武術の腕は他の流派にも達人として知られていた。
鷹栖はすでに二十才の時に他流派のあらゆる試合に出場しては優勝していた。武術界では教祖の名前をとって天真流という名で知られていた。
武術界では天真の鷹という名前を聞いて知らぬ者はいない。その天真の鷹にあこがれて入門したいという者も後をたたないほどである。又、その容姿も百八十二センチの長身に眉目秀麗とくれば、女性達のファンは芸能人並であった。三十才、独身の鷹栖は大木に代わって武術と瞑想の指南を全てまかされていた。
大木は全国の支部の指導と対外的な仕事に追われていた。それと、徳田の勢力を食い止めるのには全国を常に移動して結束固めをする必要があった。すでに支部の半分以上は徳田の支配下にある。
天真道場では初級、中級、上級に分けられて指導されていた。初級の段階では心身の基本作りが徹底され、中級になって精神性を基本にした体技が組み込まれる。上級者は心身の動きを自在に操れる段階である。
他の流派のように初段、二段といった段位はない。ただ肉体的にどれほど強くとも上級に上がることは出来ない。また、精神的なものがどれだけ優れていても同じである。そのため天真道場の上級者は大木を除いて、四人しかいない。
その四人のなかでも鷹栖は一番若かったが他の三人とくらべても心身とも別格といえるほど強い。鷹栖は弱冠二十五歳で上級者になった。他の三人は皆早くとも上級者になったのは四十過ぎてからであった。
その強さはどの位であるか、それも分からない程の底知れぬ強さである。他の上級者が三人がかりでかかっても一瞬で倒される。その倒された三人とも、皆どうやって倒されたのかも分からない。道場の中ではすでに大木より強いという噂であった。無論、大木と鷹栖が戦うことは無い。
道場のなかでは鷹栖が真剣に戦う場面を見たいと思う者が大勢いた。鷹栖の噂を聞いて他流試合を申し込む武術家が何人も来たが、鷹栖以外の上級者がまず相手をする。今まで鷹栖が相手をするほどの武術家はいなかった。基本的には他流試合は禁止であるが、練習試合という名目として頻繁に行われていた。
*
鷹栖は敷地の林のなかに自分専用の小さな小屋を持っていた。道場の指導は他の上級者にまかせて鷹栖は小屋で瞑想していた。この半年前から鷹栖は瞑想の時間が多かった。
鷹栖には教団の内紛等ほとんど興味が無かったのである。
窓も無く、外光を遮断した暗闇のなかで鷹栖は早朝から長い間瞑想を続けていた。すでに時空の感覚は無かった。異次元の霊界の空間はあらゆる誘惑に満ちている。鷹栖の意識だけが無重力の空間に意識体として存在する。様々な魔的な魑魅魍魎や淫靡な女体に変化した淫霊が鷹栖の霊体を執拗に舐めまわし、異様な快楽を貪り、鷹栖を取り込もうとする。その状態にある自分自身の光景を鷹栖は醒めた霊眼で凝視している。さらに光景は目まぐるしく変化する。漆黒の闇が無限に続くと思うと、まばゆい光のなかにいる。あらゆる声や音が聞こえる。神々や魔物達の姿は目もくらむ光体で現れては消える。やがて、全てが透明な空間になる。自己意識が空間のなかに溶け込む。空間自体が意識そのものになる。真空の意識のなかで自我の核だけが存在する。
鷹栖は空間に鳴り響く轟音のような振動で現実に戻った。
小屋の外で誰かが鷹栖を呼んでいる。鷹栖は静かに眼を開き、全身の隅々まで集中して気を送った。
鷹栖は音もなく立つと入口を開けた。
外光の光の矢が鷹栖の全身を刺した。表には中級者の佐藤が青ざめた顏で恐縮して立っていた。
鷹栖の長髪が白い衣装の肩にかかっていて表に出ると風でかるく揺れた。
「佐藤さん、今何時ですか?」
佐藤は緊張した声で言った。
「もうすぐ二時になります。本当に、瞑想中に申し訳ありません。実は、今道場にとんでもなく強い男が来ていまして、それで仕方なく……」
鷹栖は佐藤の肩を軽く叩くと柔和な笑みをした。
「さあ、行こうか」
秋の強風が色付いた落ち葉を飛ばしている。鷹栖の長髪と白衣がその風にたなびいた。
鷹栖が道場に入ると部屋全体が動揺と緊張の空気に満ちていた。だが、鷹栖の登場によって安堵と期待、さらに興奮の情念で空間が漲った。
道場生八十人の中央にその男はあぐらで座り煙草を吸っている。まだ若い、鷹栖とさほど変わらないであろう。道場内は禁煙である。その男の側に水の入ったバケツが置いてある。男の命令に誰も逆らえなかったのであろう。
上級者の三人は気を失って上座の所に横たわっている。
佐藤の話によると三人が倒されるのに一分とかからなかった、というのである。自分の名も名乗らない、と言っていた。
「ほう、あんたが噂の天真の鷹か。女にやたら人気があるそうだが、なるほどいい男だ」
確かに道場には三十人近い女性の生徒がいる。その大半は鷹栖のファンである。鷹栖を見る目が違う。
「どなたか知りませんが、道場は禁煙なんですよ。煙草を吸うんでしたら外でどうぞ」
「ああ、あんたの生徒に聞いたよ。おれは寒がりでね、それに外は風は強いし、あんたが来るのが遅いんでね。無理いってここで一服させてもらっていた。最も、ここはこんなに広いんだから健康にもたいした影響はないだろう」
「私がここの指南代理の鷹栖麗です。よろしく」
「あんた、その真っ白の服でやんのかい? かっこいいけど、鼻血が出たら汚れるよ」
鷹栖は言いたい放題の男に着替えてくるから、それまでに準備をしておいてくれと言って部屋の奥に行った。
瞑想する時の服と武術用の服は別であった。
和服に似た道衣を着る。上は白で下は黒の袴である。中級までは丈夫な服であればどんな服でもよかった。
三分で鷹栖は着替えてきた。
「ほう、あんたが着ると絵になるね。それにその長い髪もかっこいいね。このおれも伸ばそうかな?」
まだ、バケツが置いてある。それに男はまだ煙草を吸っている。
鷹栖は佐藤に目で片付けるように指示した。
佐藤は中級の指導員であった。あぐらをかいて座っている男の所にいって用意をするので煙草をやめるように言った。男は佐藤を見て感心したように言った。
「へえ、あんた、あいつの目を見ただけで何を言いたいのか分かるんだ。すごいねえ」
男はすぐに煙草をやめようとしない。佐藤は目の前の男の強さを知っているが皆の前である。意地になり始めた。その様子を鷹栖も正座して見ている。明らかに挑発している。それにこの若い男の落ち着きぶりはただ者ではない。徳田の送り込んだ者にしては殺気が無い。鷹栖はむしろこの男に興味が出てきた。
佐藤は男の煙草を取り上げようと手を伸ばした。男はそれをひょいと躱した。佐藤の手は空を切った。恥をかかされて、ついに佐藤は頭に血がのぼった。
「このやろう! ふざけやがって」
座っている男に思いきり蹴りを加えた。男はその佐藤の蹴ってきた足を左手で受け止めて、苦笑しながら煙草をバケツのなかに捨てた。佐藤は男に足を受け止められた体勢で動けない。犬が電柱にオシッコをしている形である。男は佐藤に向かって笑いながら言った。
「あんた、足癖が悪いね。それに足はもっときれいに洗ったほうがいいよ。少し臭うよ」
佐藤はどうしてよいか分からず泣きそうな顏になっている。
「あんた、これどうする。こいつ手を放すと又、おれを蹴ってくるよ」
男が鷹栖に言うと、鷹栖は別の男を見た。
座っていた別の男が素早く立つと、男の側のバケツを外に持って行った。
「はあ、ここの連中は目で話すんだ。たいしたもんだ」
「もう、そのへんで許してやってくださいよ」
鷹栖が男に言うと、男は佐藤にもう蹴らないか、と言った。佐藤は泣きたかったが、我慢した。蹴りたかったが、身体がいうことを聞かなかった。本当に蹴りたかったから、はいと言えなかった。軸足がつってきた。痛くて、恥ずかしくて泣きたかった。見ている生徒のなかに佐藤の好きな女性もいた。だから、意地でも泣けなかった。佐藤はこれは試練だと自分に言い聞かせた。これでもおれは中級の指導員だ、次は上級になる人間だ。しかしこのおれの格好は犬の立ち小便に見える。誰が見てもそう見える。おれの好きなみよちゃんもそう見ている。いや、このおれの我慢している姿を男らしいと思っているかもしれない。佐藤はあれこれ考えているうちに頭がこんがらがってきた。ただ、ひたすら痛かった。もう恥も外聞もなかった。痛みを我慢しすぎて本当にオシッコが出てしまった。佐藤の頭の中は真っ白になり、前途は真っ暗になった。もう怖いものは無かった。佐藤は思いきり泣いた、涙も涸れよとばかりに泣いた。
佐藤の足を押さえていた男も、さすがに伝ってきた生ぬるい液体が何であるか気が付くと足を撥ね除けた。佐藤は床に突っ伏して号泣している。道場生達も同情すべきか、笑っていいものか、怒るべきか、複雑であった。
男は自分の手についたおしっこを早く洗いたかった。
「おい、非常事態だ。水道はどこだ?」
男は水道の場所に向かって矢のように走った。
鷹栖はついに笑いだした。それにつられて皆も笑い始めた。ただ、佐藤だけはひたすら泣くだけだった。
空間が張り詰めている。鷹栖と男が四メートルの距離をおいて向かい合っている。
すでに一分が経過していた。お互いに仕掛けない。さっきまで冗談を言っていた男の凄まじい気の圧力が鷹栖の全身に加わっている。
鷹栖が集中を僅かでも弛めれば何メートル飛ばされるかわからない。相手の男は自分より身長は低い。その分自分の手が長い。足もそうである。カウンターに持ち込めば手足の長い方が有利である。だが、この男は上級者三人を一分もかけずに倒している。鷹栖でもそれは出来なくはない。
だが、相手が初対面で手加減したらどうか? この男は三人を殺している訳ではない。それにどんな技か、それも分からない。
今の鷹栖は大木より強い。鷹栖には相手を見ただけであらゆる攻撃のパターンが瞬時に見える。だがこの男の動きは一切見えない。これだけの腕を持った人物ならどこからか情報が入るはずである。此れほどの武術家はかって立ち合った事が無い。鷹栖の脳裏に東風の姿が浮かんだ。大木の師匠である。二度、会ったことがある。その時得体の知れない戦慄を感じた。一見、愛嬌のある老人であった。だが、底知れぬ凄みを秘めた風貌であった。その東風以来、これほどの存在には出会っていない。
三分経った。道場の生徒達はただ、緊張感以外にこの先どうなるのかまるきり分からない。皆、息を飲み、成り行きを見つめている。
「おい、どうする? このままじっと突っ立ったままか。天真の鷹の名が泣くぞ」
鷹栖は男の挑発に乗るわけにはいかない。かといって、このままという訳にもいかまい。
「よかったら、そちらからどうぞ」
鷹栖は相手がどう出るか、試そうと決めた。鷹栖は相手の得体の知れぬ強さにたいして感動すら覚えていた。この男になら殺されてもいいとすら思ったのである。その時、鷹栖の身体から何かが落ちた。いや、正確には消えたと言ったほうが正しい。
二人が動いたのは同時だった。
双方共、眼前に何も無いようにごく普通に歩いた。鷹栖は目を閉じている。
三歩目でぶつかる。鷹栖が二歩目に進んだ。男も二歩目である、二人の間は一メートルもない。
鷹栖は三歩目に進んだ。何の気配も無い。微かに空気が動いたような気がした。
鷹栖が目を開けても目の前には誰もいない。背後でぼりぼりと音がする。後ろを向くと男が座って頭を掻いていた。男との距離は三メートルある。
鷹栖は感心して言った。
「私を飛び越えたんですか?」
男は通快そうに笑った。
「あんた、面白い男だね。あれじゃあ、ただぶつかるだけで試合にならない。いやあ、まいった」
鷹栖にそう言うと又、大きな声で笑った。
鷹栖は凄まじい跳躍力だと思った。あれほど近づき、しかもほとんど音も気配も消して二メートル以上の高さを飛び、着地の音すら感じさせない。鷹栖が感じたのは空気のわずかな動きだけである。
「いや、失礼した。改めて自己紹介します。神木陽一です。実は東風先生から鷹栖さんの事を聞きまして、普通に訪ねても芸が無いと思って無礼な言動をして申し訳ない」
神木は気を失っている三人の所に行き、活を入れて謝り、道場の皆にも無礼を謝って鷹栖の前に来た。佐藤だけはいじけて無駄だった。駄々をこねる子供のように蹲っていた。
「鷹栖さん、東風先生はご存知ですね」
鷹栖は頷いた。鷹栖は自分でも驚くほど興奮していたのである。神木の年齢などどうでもよかった。鷹栖はふいに神木の前で正座して言った。
「神木さん、どうかこの私を弟子にして下さい」
鷹栖のその言動に道場はどよめいた。
神木は以外な展開に又、自分の頭をぼりぼりと掻いた。
(5)
生臭く淫靡な匂いがどんよりと部屋全体に充満している。何処にも窓が無い。地下室のようである。
その部屋の奥にはダブルベッドがあり、その上で老人が獸のように四つん這いになり全裸の女を舐めまわしている。
徳田であった。女はよく見るとまだ十五歳から十七歳位である。あるいはもっと若いかもしれない。三人の女は薬でも飲まされたか、打たれたのであろう。その目には焦点がない。
徳田の顏は皺だらけの淫獣そのものである。床に横たわっている女の股間は血で濡れている。徳田はどうやら処女を選んで監禁しているらしい。徳田の顏も血だらけになっている。いや、顏だけではなく体中が女の血でぬめぬめとてらつき光っている。
すでに床の二人の女は充分徳田に嬲られたのであろう。それにしても七十歳の老人とは思えないほどの巨根でしかも黒光りしてそそり立っている。徳田は女の足を大きく広げて陰部をべろべろと舐めてはしゃぶり、噛み、自分の舌をひだのあいだに射し入れては顏を押し付けている。すでに徳田の全身が男根になっている。ひえひえひええ、と言いながら徳田は自分のものを女の腰を持ち上げて入れ始めた。だが、大きすぎて簡単には入らない。徳田はひっひっひいと自分の首を振りながら狂喜して捻じり込むように強引に奥まで入れた。桃色の秘肉が裂け、その血でぬらぬらぬめる。徳田は狂ったように腰を動かしては獸のような声をあげ、女を抱き上げるとさらに激しく動き、歓喜の悲鳴と共に女の白い乳房を咬み千切った。その血しぶきを浴びて徳田はのけぞり真っ赤な自分の首を左右に激しくふっている。――異様で凄惨な光景である。
*
鮫島も神木に脅されて以来、前以上に残虐性が剥き出しになっていた。徳田も鮫島も自分の獣の本性をさらけ出す事であの忌まわしい光景を忘れようとしていた。
すでに自分の部下さえ、ほんの些細なことで鮫島自ら手を下していた。その殺し方は見ている子分達でさえ目をそむけたくなるほど陰惨で残忍なものだった。
鮫島の女は皆色っぽい美人であった。子分の一人が鮫島の見ている前で、はあ、とため息をついた。それだけでその子分の舌は切り取られ、目は眼球ごとナイフでえぐられ、一物はペンチで潰された。後は飼い犬の餌にされた。これだけではない。一般人さえ目が合っただけで気に入らぬ奴だ、といって車に乗せて自分の事務所に連れていき地下室で子分に犯させ、嬲りものにした揚げ句に刃物で全身をズタズタに切り刻み、人間の肉とは知らない子分達に食わせた。それも男女の区別無くである。それが連日続いている。
徳田も鮫島もすでに異常な鬼畜と化していた。
鮫島は椅子に座って不気味で残忍な笑みをたたえている。
目の前にはまだ十四歳の少女が縛られている。少女は恐怖に怯えて声も出ない。
鮫島は子分達にやれ! と命じた。子分達は今の鮫島に逆らう事は死を意味する。
六人の子分に少女を死ぬまで犯せと命じたのである。
子分たちは普通であったら喜ぶところだが、今はただおぞましい恐怖に従っているだけである。衣服をはぎ取るとまだ無垢な蕾のような裸身である。一人、二人、三人・・・六人がそれぞれ終わっても鮫島は冷酷な眼差しを子分達に向けている。
「今度は後ろからだ。さあ、やれ!」
またもや、すでに全身血だらけになっている少女に対して、一人、二人、三人・・・。
正に鬼の顏になっている鮫島に、子分達の自慢の男根も怯えているのか堅くならない。いくらこすっても、叩いてもこれだけは励ましようがない。
「そんな、役にたたないものは切り落とせ」
鮫島のその脅しにますます子分達の息子は怯えて縮こまっている。
少女はすでに失神している。
さらに鮫島は凄い言葉を吐いた。
「そうか、それなら喰っちまえ!」
さすがに若い子分はびびった。そのびびった若い子分から鮫島は喰え、と命じた。
がたがた震える若い子分を見た鮫島は怒って、別の子分にその若いのを殺せ、と言った。その子分もためらっていると、鮫島は拳銃を取り出して自分の若い子分を撃った。
鮫島が皆を凄まじい目で睨むと、一人が目をつぶって肉を喰い千切った。
「この野郎、ちゃんと目ん玉開けて喰え」
鮫島は目を閉じて食べた子分の目をナイフでえぐった。子分は悲鳴をあげて転げ回った。鮫島はその子分を「やかましい!」と木刀で激しく打ち据えた。子分の頭は柘榴を潰したようになった。
残った四人は狂ったように少女の体を喰らい始めた。床は一面血の海である。
返り血を浴びた顏の鮫島は椅子に座ってその異様で壮絶な光景を満足そうに見ている。
*
東風庵に神木と鷹栖は来ていた。
神木の師匠の東風庵は郊外の某駅から歩いて十五分位の所にあった。六十坪ほどの敷地に木造のごく普通の民家である。入口には書き文字で東風庵という表札が無造作にかかっている。
庭は草木が自然のまま生えていて、地面には無数の玉砂利の小石が敷き詰められている。
鷹栖は入口から東風の玄関までに歩く足下の音の変化に気が付いた。庭も歩いてみるとその場所によって微妙に音が変化する。
「神木さん、これは迂闊に侵入出来ませんね。まるで自然を利用した要塞だな」
鷹栖はこれから自分が利用するかのように隅々まで点検している。
神木はこの家でいかに厳しく鍛えられたかを話した。特に暗闇のなかでの訓練は命懸けであったと言った。迂闊に動くと、その気配や動き方で東風の庭にある小石がどこから飛んでくるか分からない。その場所によって微妙に音が違う、その音によって誰が潜んでいるかが分かる。
神木と鍛えられた川島の事も話した。川島は、元は手のつけられない不良でヤクザと抗争をおこして、殺されるところを東風に助けられ、それ以来弟子になった。それから、山ごもりしての苛酷な修業のこと、その時川島と神木は出会い、共に人間離れした修業の事などを話した。
鷹栖はその神木の話を熱心に興味深く聞いた。鷹栖は川島徹と会うのも楽しみであった。
正午過ぎに川島は東風と一緒にここで落ち合うことになっていた。鷹栖に連絡すると自分も是非ということで少し早めに来ていた。
鷹栖は自分がいる教団道場の近くに東風が住んでいるのを知ると喜び、驚いていた。
東風と川島が来たのは正午を三十分程過ぎた頃である。
鷹栖は東風と川島を玄関で丁重に出迎え、挨拶をした。
東風は鷹栖をすでに知っていたので笑顔だったが、川島は何者だ、この男は? といった怪訝な顔付きであった。
川島は鷹栖が自分は神木の弟子です。と言った言葉が引っかかったのである。
八畳の和室に座ったが、鷹栖がお茶を出したり、とよく動く。
東風が鷹栖は大木の所にいる、と川島に説明したが、その鷹栖がいつの間に神木の弟子になった、と思っていた。それに妙に嬉しそうなのも気持ち悪い。東風が居なかったら「お前は、ゲイか」と言いそうであった。
長髪、長身でおまけにいい男ときている。
川島は神木と鷹栖のいきさつを知らない。東風は大体の察しはついている。東風が三鷹の道場に神木を行かせたのである。
「あんた、でかいな。さっき何て言ったっけ。兄貴の弟子とか聞こえたような気がしたけど。それに、その長い髪の毛は何なの? 戦いの時は不利じゃないの。それとも、それが気にならない程強いのかな」
川島の初対面の相手に対する悪い癖である。
一度、打ち解ければ良いのだが川島のこの癖は中々直らない。
鷹栖は神木に川島の事は聞いていたので、どういう人物かの想像はしていた。だが、あまりにも想像通りだったので、つい笑ってしまった。
川島がこうなると、東風も神木もただ見ているしかない。大木の教団の話があったのだが、まずこの二人の関係の方が先である。
「いや、失礼。川島さんも面白い方だ」
川島は、鷹栖の笑いにかなりむかっときたようである。
「おい、何がそんなにおかしい。このおれは神木さんの弟分だ。お前が神木さんの弟子なら、このおれの弟子でもある。そうだろう」
川島は訳の分からぬ理屈を言い始めた。川島も自分の言っている事が何か変だなとは思ったが、先を続けた。
「いいか、その先生であるおれに向かって面白い方? 面白いってどういう意味だ。この、おれをバカにしているのか」
「いや、そんなつもりじゃ、失礼はおわびします。川島先生」
「おい、おれはお前の先生になった覚えはないぞ。おい、お前、やはりおれをばかにしてるな!」
東風は笑っているが、神木は呆れている。鷹栖は通快であった。こんなにくだけていて真剣な家族のような人間関係は初めてであった。
鷹栖は子供の頃から他人と友人関係など持った事が無い。常に抜きん出ていた天才であった。怖れられ、尊敬される事が日常であった。その意味では孤独であった。それが神木によって変わったのである。又、川島のようにものをずけずけと言う者も居なかった。だから、無性に嬉しいのである。初めて会う口の悪い川島も鷹栖にはいとおしい男と感じた。
「おい、鷹、前より腕があがったな。どうだ、こいつと手合わせするか」
東風は笑みをたたえた顏で鷹栖に言った。
「これ、川島先生、弟子に負けたら恥じゃぞ、ふおっふおっふおっ」
東風独特の笑いである。二人の戦いが楽しみらしい。ごろりと肘をついて横になった。
鷹栖は、神木を見たが止むを得ないだろうという顏で苦笑している。川島はやるき満々である。
川島は縁側から庭に出た。鷹栖もその後から庭に出た。鷹栖は感慨深かった。この師弟達はここで鍛練していたのかと思うと身体の芯が妙に熱くなった。
川島は鷹栖が自分を見ないでただ立っているので、強い口調で言った。
「おい、やる気があるのか!」
鷹栖はただ静かに立っている。
川島はいざ鷹栖を前にすると「この野郎、ただ者ではないぞ」と思った。川島も迂闊に踏み込めない。三メートルの距離はすでにお互いの間合いに入っている。勝負は一瞬であろう。川島の目が真剣になっている。
ただ、立ったままの鷹栖の何処にも隙が無い。
部屋にいた時の鷹栖では無い。微動だにしない存在感がありながら、気配すら感じない。単に空間の固まりとして存在して、透明であり、ただの空気でもある。川島は内心、まいったな、と思っていた。空気を相手に戦いにならない。どんな挑発にも乗らないであろう。
鷹栖は川島の炎のような熱い気を浴びていた。心地よかった。この気は神木とは異質である。全身が燃えているような感じで、それも不快ではない。いつまでも浴びていたいような不思議な熱である。
東風はそれを楽しそうに見ている。
三分過ぎた。まだ双方とも動かない。五分たっても変わらない。
東風は起きると座り直して神木に言った。
「ところで、あの教団の事じゃが、大木から詳しく聞いた。それで川島と肝心なものは調べた。しかし、このところあの二人はかなりおかしいな。お前、何かしたか?」
神木は、徳田と鮫島を脅したことを話した。
「ふん、それでヒスを起こしたんじゃな。あのばかたれどもが。まあいい、どのみち、あのばかどもは早く始末せんと、もっと犠牲者がふえるわい。なぜ、脅した時にやらなかった。あんな外道は居ないほうが世のためじゃぞ」
神木もあの二人がこれほどひどくなるとは思わなかった。
この連日、新聞やテレビで変死体、行方不明者の事件が報じられている。そのほとんどがあの二人の仕業である事は分かっていた。やり方が大胆かつ巧妙であった。あぶない時は十代のチンピラ達を捕まえさせる。後のもみ消しにはいくらでも金を使う。政財界にもかなりのこねがある。何億の金が電話一本で簡単に動く。
「おい、あの二代目の娘は天真の子ではないな。それに、あの、かかあもとんだくわせもんだぞ。徳田と出来とるな。天真もとんだまぬけだわい。少しの霊能力であんな組織を作りおって。全く、大木もばかじゃ、簡単にのめり込んでからに。ふむ、困ったもんじゃ」
庭では、まだ川島と鷹栖が立ち尽くしている。
「おい、神木、あの二人はほっておけ。疲れたら勝手にやめるじゃろう。それより、これからは徳田達の雇った凄腕の連中がゴキブリのように来るぞ。手加減などするなよ。あの二人はかなり厳重に警護されている。この仕事はわしらの本来のもんではないが、こうなったらやむをえんな」
「この、背後にはあの連中はいないんですか?」
「ああ、直接には黄金の龍団は今の所は関ってはいないようだ。だが、すでに目はつけているであろうな」
神木はあの時にやはり殺るべきだった、と思ったが、いまさら悔やんでも仕方がない。
神木は東風にあの鷹栖を本当に弟子にしたのか? と聞かれて何と言えば良いのか迷った。大木の弟子だと神木は思っていたが、鷹栖はただ、同じ教団で大木が年上だから周りが勝手にそう思い込んでいるだけだ。自分は誰からも教わってはいない、と言われて返事に困ったが鷹栖はすでに勝手に神木の弟子と決め込んでいる。と東風に言うと、東風は、ふおっふおっと笑って「そうか、お前も偉くなったな」とからかうように言った。
神木は頭を掻きながら庭を見るとまだ二人は動かないで立っている。
東風はかまわんから、気が済むまで立たせておけ、と言ってごろりと横になると座布団を枕に今度は眠ってしまった。
(6)
台風が近づいているらしく朝から風雨が強い。雷雲が立ち込め、時折轟き、紫電の光を放っている。
鮫島の事務所に黒ずくめの服装の異様な雰囲気を漂わせた男が座っている。痩身だが一目で冷酷な人物であるのが分かる。
鮫島はこの男に大金をかけて捜しだし、やっと鮫島の事務所に先ほど着いたばかりであった。
名前は黒龍と呼ばれている。無論、通称である。仕事の依頼を受けたら世界の果てまで行っても相手を仕留めるまでする。超一流のプロの殺し屋である。
鮫島は、その噂だけ聞いて勝手にもっと迫力があると思っていたので、目の前の痩せた男がそれほど強いとは思えなかった。これが一人殺るのにたいして一億も出す男かとまじまじと見ていた。
鮫島は腕前をためす為に地下室に凄腕の男を用意してある。事情を話すと、黒龍は慣れているらしく流暢な日本語で「分かった」と言って立ち上がった。身長も百七十センチ位である。
地下室にはまだ先日の血の匂いが生臭く立ち込めている。黒龍を地下室に鮫島の子分が案内した。鮫島の周りには常に六人前後の護衛が付いている。屈強な子分も八人いる。
地下室に待機している三人には手加減無用、殺っていい、と前もって言っていた。
部屋に入るとゴツイ男がふんぞり返って椅子に座っていた。元プロボクサーや傭兵といった連中である。
「もし、黒龍を殺したら五百万上乗せする」と。三人とも黒龍を見て不敵な笑みを浮かべた。こんな痩せたおっさんなんてちょろいと思ったのである。三人共、誰からやるかでもめている。皆、黒龍を見てもう金は頂いたもんだと思っていた。
結局じゃんけんを始めた。それを黒龍は無言で見ている。最初はボクサーくずれであった。二番目は空手の男、最後に傭兵であった。
黒龍が三人に対して低い声で言った。
「好きな武器を使っていいぞ」
三人はせせら笑った。一人のごつい男が「武器だってよ、このおっさんそんなに自信があんのかね、おっさんこそ武器を使った方がいいんじゃない」と、大声でおちょくるように言った。
黒龍は黙って前に出た。
百八十五センチ、百キロ以上はある男は元ヘビー級の日本チャンピォンだと言っていた。リングで二人殴り殺して王座を剥奪されてからは用心棒やボデイガードで生活していた。
「おっさん、止めといたほうが身のためじゃねえか。おれは、牛を殴り殺すパンチ力があるんだぜ」
黒龍は無表情で無反応のままである。
「おい、冥土の土産に、おれの名を教えておいてやる。猛牛の松ってんだ。覚えておきな」
松はよほど自信があるのか構えもせずに黒龍に近づいた。上から見下ろすように黒龍を見ると、うなりをあげてパンチを顔面に振り降ろした。黒龍はわずかに横に動いていた。
猛牛の松は何が自分の身に起きたのか分からないまま、その場にがくんと膝をついて顔面から床につんのめった。
その場にいた誰も一体何が起きたのか分からなかった。
黒龍は何事も無かったように立っている。
他の二人もどのようにして松に攻撃を加えて倒したのか見えなかった。松のパンチを単に除けるために横に動いたと思った。だが、確かに松は倒れている。
次の男は、松よりは小さいが筋肉の固まりのような体をしている。素手で煉瓦を砕く拳を持っている。松のように自分の名を言わないで、黒龍に戦闘態勢の動きでじりじりと間をつめている。牽制の鋭い前蹴りを放った。
黒龍は相手を通り抜けた。一瞬であった。通り抜けたように見えただけである。踏み込んで紙一重で躱し、男の喉に凄まじい速さの手刀を入れたのである。相手の喉は鋭い刃物で切られたようにぱっくりと開いて凄い血しぶきをあげている。その血しぶきは鮫島達を襲った。皆、全身血だらけになった。
床に倒れて痙攣している男を黒龍は無表情でちらと見て、次の相手を見た。
傭兵の男は手にサバイバル・ナイフを持って、緊張した顏で構えている。黒龍は自分から向かった。相手はナイフを横に払った。男は黒龍の姿を見失った。脳天に衝撃を感じた。黒龍は背後にいた。傭兵の男が振り向いた時に目の前が真っ暗になった。脳天から噴水のように血が吹いた。男はナイフを握り締めたまま前にどっと倒れた。
黒龍はポケットに両手を入れて立っていた。
地下室の床は血の海になった。そのなかに三人の男はそれぞれの形で倒れている。
黒龍は一滴の血も浴びていない。部屋の隅にある椅子に座っている。鮫島の護衛の男達は殺気だっていた。だが、子分共は恐怖で青ざめているのだが、返り血を浴びているので顏は赤い。
最近の鮫島は残忍凶暴である。何を言い出すか分からない。子分達は息を飲んで成り行きを見るしかない。
鮫島の護衛の六人は胸の拳銃をいつでも抜いて撃てる準備が出来ている。
鮫島は傭兵の男がやられる場面を見ていない。顏にかかった血を拭いていたらすでに終わっていた。
鮫島には黒龍が強いのか、やられた三人が弱いのかよく分からない。百万程度で動く連中である。あの、神木は三十人の警護をやすやすと突破して入って来た。
この、金で動く連中は自分が弱いなどと言うわけがない。見た目はごついがこうも簡単にやられると、本当に強いのか疑わしい。鮫島はまだ懐疑的な視線で黒龍を見ている。
鮫島は神木から受けた屈辱を思い出す度におのれをくびり殺したくなる憎悪が燃え上がり、発狂しそうになるのである。もう鮫島には教団もくそもない。ただ、神木個人に対する異常な復讐心によって逆に自分を支える理性が働いていた。
鮫島は護衛の内の二人に言った。
「ハジキを使ったら、奴をやれるか?」
護衛の二人は素手では自信はなかったが拳銃を使えるとなれば話は別である。
「本当に、やっていいんですか?」
一人の男が鮫島に念をおすように聞いた。
鮫島はさっさとやれ、という顏をした。
黒龍は椅子に座ったまま鮫島を見ている。 黒服の二人の男が前に出て拳銃を出した。
黒龍との距離は三メートル前後である。
二人は、この距離ならまず外すことはない。だが、相手は並の男ではない。動かない黒龍に向かってさらに近づいた。標的の三メートルまで来た。これ以上近寄れば逆に黒龍の間合いに入る。二人のプロの飛び道具を相手に、しかもすでに狙いも定めていては誰がみても勝ち目はない。二人の護衛は目の前の男に対して、こいつは殺されるつもりなのか? と思った位である。
黒龍は腕組みをして座ったまま逃げる気配も攻撃する体勢もしていない。
二人の男は黒龍の心臓に向けている。後は引き金を引けば確実に椅子から転げ落ちるであろう。仮に、向かって来てもさらに打ち込めばいい。
鮫島も子分達も半ば怪訝な顔付きで見ていた。すぐ側で拳銃を向けられ表情も変えずに平気でいられるものなのか。あいつは少し頭がおかしいのか、それともあの状態でも勝つ自信があるのか、と。
結果はあっという間であった。二発の発射音が部屋に響いた。鮫島は黒龍が撃たれて転がった、と見えた。だが、黒龍はすぐに立つと自分の服の埃を手で払っている。護衛の二人はほとんど同時に真後ろに倒れた。
床に倒れた時のショックで一人の男の拳銃からもう一発天井に向けて発射された。天井からコンクリートの破片がぽろぽろと床に落ちた。
倒れた二人の額には赤い点がありそこから血が溢れ始めた。
ぼう然と立ち尽くしている鮫島の所に黒龍が来て言った。
「まだ、やるか」
鮫島は慌てて「いや、もういい」と引き攣った声で言った。
事務所のソファーに座った黒龍は無表情のまま鮫島に向かって言った。
「高くついたな。五人分増えたぞ。これの分は済みだから、今すぐもらおうか」
鮫島は腕試しのために五億かけたのである。
だが、鮫島はもうやけになっていた。十億でも二十億でも、いくら金をかけても神木さえ殺せばいいと思っていた。
鮫島はあの拳銃を持った二人を黒龍が何の武器でやったのか、どうしても分からない。鮫島がそれを聞くと、黒龍は煙草を吸いながらポケットから黒い五ミリ程の玉を見せた。パチンコ玉の半分位の大きさである。
鮫島が首を傾げていると、黒龍は事務所の陶器で出来た虎の置物に向けて玉を指ではじいた。鋭い音が響いた。それから床を転がるちいさな音がした。
虎の置物の黒目の部分に穴が貫通していた。その玉が壁にぶつかって床に落ちたのである。それも子分の一人の耳をかすってである。子分がその玉を拾って鮫島に見せた。
鮫島はそれを手に取ってまじまじと見た。
「分かったら、おれの大事なものだ、返せ」
鮫島はこんなちっぽけなものであの二人はあっけなくやられたのかと、信じられなかった。
「さて、今度はおれの相手を教えてもらおうか」
無表情の黒龍は抑揚のない穏やかな口調で言った。
*
深夜二時を過ぎても大木は寝つけなかった。連日のように全国の支部を巡って鼓舞しても徳田の手の者が入り込んでは支配する。
徳田の人間の弱点を知り抜いた知略は教団を大きくもしたが、堕落もさせた。内実は宗教というより教義を利用した悪徳企業であった。
その中枢である事務局は徳田の意のままに運営されている。本部の事務局には全国の支部から巨額の金が流れ込む。徳田は政財界と裏社会に惜しみなく大金を使って人脈を作った。
教祖の天真は徳田の戦略は今の自然科学万能の時代には必要悪である、と目をつぶった。大木は精神と肉体を同時に成長させる為の方法と実践に忙しくて、気が付いた時には徳田が完全に実権を握っていた。教祖の天真ですら気が付いた時にはすでに単なる飾りに過ぎなかったのである。
大木は天真の死ですら徳田による暗殺だと思っている。だが、その証拠も無いし騒げばいたずらに教団の信者達を混乱させるだけである。大木の弟子達が支部長をしている地方だけがかろうじて徳田の手に落ちていないだけである。
教団の出版社の収益だけでも大企業並の収益である。新聞はもとより教団関係の出版する本は常に何百万部のベストセラーになる。金持ちは簡単にその地域の支部長になる。経営者、医者、団体の役員等々。支部長クラスは最低二百部、支部の幹部で百部といった暗黙のノルマがある。一般の信者でもゆとりがあればあるだけ買う。一般の書店のなかにある他の価格より安くする。いわゆる薄利多売のやり方である。月に一冊のペースで常に教義を基盤とした内容の本を出版する。その他諸々の御利益ありと称するもの。公的な学校、美術館、芸能界、イベントホール等々。
大木の方法は武術が組み込まれている分だけ敬遠される。教義には勝負の世界は次元が低いとされている。信者の大半は空想的な平和を夢見ているからである。
宗教の本質とは恋愛と同質である。自分の見たいものしか見ないし、一方通行が可能であること、それを満たす大義名分。極め付けは証明不可能であるということ。これらを徳田は巧妙かつ最大に利用した。宗教こそがこの世で最高のビジネスであると。
大木自身もその教団の最高幹部であった。最も信頼していた鷹栖も先日脱会したいと大木に言った。武術の指導だけなら教団と関係なくやります、と。教団を辞めるには大木は長く居すぎた。三十九年の年月は大木にとって取り返しのつく歳月ではない。それに教団にたいする責任がある。素朴でも真面目な信者は大勢いる。そう簡単に見捨てる訳にはいかない。
だが、徳田の存在は教団には魔的な権威と実力をもっている。大木が居なくなれば完全に教団は邪教と化すであろう。
すでに、大木は断腸の思いで厳しい決断を迫られていた。
(7)
某市にも徳田の所有する七階建てのビルがあった。一階には画廊や宝飾店、高級ブランドのブティックが入っている。その地下は全て徳田専用の部屋であった。地下の駐車場から車のまま進入出来る徳田専用の入口がある。
このビルの地下に天真の娘であるめぐみがいた。この地下には外部の者は誰も入れない。それでも警護の者は至る所に配置されている。 徳田はこの連日、深夜になるとこの地下に来ていた。徳田は神木に凄まじい恐怖を味わされて以来、深夜になると淫獣と化していた。
清水めぐみは自分の娘である。その娘を抱きに夜毎来るのである。めぐみは自分の親は天真だと思っている。徳田の事は子供の時から良く知っている。そのおじさんといって可愛がってもらった男が自分を犯した。
無論、最初はよく訳が分からないうちに終わった。混乱と恐怖と羞恥の激しい感情が一種の錯乱を招いた。自分の母親にも言っていない。二度めは薬を飲まされて夢のなかの出来事のようであった。三度目からは自分から薬を要求した。徳田がいない時も薬を飲むのである。地下室生活は半年になっていた。徳田のくれる薬は全てを夢のようにしてくれる。今では徳田だけではなく護衛の男とも寝るようになった。めぐみも徳田の血が流れていた。徳田が来ても何の抵抗も無くなった。現実と夢の境界も無い。
徳田は自分の娘と分かっているので欲情するのである。だが、めぐみの様子がおかしいと思いながらも通っていた。
徳田が部屋に入ると護衛の男と事の最中であった。徳田はその男を拳銃で撃ち殺した。その血まみれの男を側においたまま徳田は娘と痴れ狂った。
凄惨で異様な名状しがたい光景であった。
*
東風庵での立ち合い以来川島と鷹栖は変に意気投合していた。三時間近くもお見合いのように睨みあっていれば、他人に伺い知れぬ情がお互いに芽生えてもおかしくはない。
鷹栖は常人では理解しにくい天才特有の孤独の住人であった。川島も自分では自覚のない天才であった。東風と出会うまではほとんど獸と変わらなかった。この二人は対極的な存在であったが本質的には同質のものを持っているのである。
神木は、火と水のようなものをバランスよく具えていた。冷徹さと激しさを。
鷹栖は、川島より四歳年長であったが結局神木の同格の弟分ということになった。話振りだけを聞いていると川島が年上のようである。
鷹栖は川島の影響で物静かでクールな雰囲気はかなりくだけたものになった。川島によって眠っていた無邪気さが目覚めたのである。
川島は鷹栖を現実の猥雑な環境へと引き込み、慣らす役目を無自覚に行っていた。鷹栖は川島が連れて行くどこもかしこも珍しく興味深く、面白かった。
特に行き付けの飲み屋やスナックに連れて行くと鷹栖は女の注目の的であった。川島は自分の弟分だと言って女達に紹介した。単純な川島は鷹栖がもてることが自分のことのように愉快であった。川島は最初は鷹栖の長髪が気に入らなかったが、今ではお前はそのほうが似合うという程の変わりようであった。それにもまして川島に欠けている教養があった。川島はインテリぶった人種が嫌いであったが、鷹栖は哲学、心理学、文学、精神世界等、熟知していた。
川島は武術界には興味はなかったが、鷹栖の名前は少し武術をかじっている者まで知られている。それも通快なことであった。
飲み屋などでトラブルがおきても相手が天才と言われている天真の鷹だと分かると、途端に態度が豹変して借りてきた猫のようになる。川島は鷹栖をますます見直した。無論、トラブルになっても川島の出る幕はない。見事なほど強い。相手が何人いようが同じことである。まして、川島が加わればほとんど無敵といっていい。その強さは現実に見ないと信用できないほど卓越している。
川島も酒は強いと思っていたが、鷹栖の強さはまるで底なしである。鷹栖は環境のせいもあって酒はほとんど飲んだことが無かった。それで川島は面白がって度数のつよい酒を次々と飲ませたのだが、一向に酔わない。いかにもまずそうに飲むのだがいくらでも入っていく。最後には川島のほうが酔ってくる。川島はお前は異常体質だな、と言ってもその意味が鷹栖にはよく通じない。それからは金の無駄だから鷹栖には安物の酒しか飲ませない。
十月も半ば過ぎると一段と寒さが増した。
四季のサイクルが早まっているようである。五月にすでに三十度を超える日々が続いた。
異常気象であった。これは世界的現象でもあった。気温も雨量も気象観測の記録を次々と塗り替えた。異常な事件も続きすぎると、異常とは言わないが、常識を超えたら異常であるという、この常識がすでに人々の内部から崩されつつあった。ただ、それに気が付かないだけであった。
人間の精神の闇に潜んでいる獸的欲望や自己保存本能はあらゆる現れ方をする。その条件、状況がそろえばごく普通と思われている人々ですら何をしでかすか、親兄弟でも分からない。時代全体がその異常な環境と状況を整え始めているのである。
徳田や鮫島は死の恐怖を通して自分自身の闇の本性に目覚めたに過ぎない。その本性と権力が結びついていれば、どれも公の事件とはならず、闇に葬られる。過去のあらゆる闘争が明瞭に記録され、語られていても普通に生活している人々には実感出来ないだけである。
川島はいやな予感がして事務所に駆け付けたのである。鷹栖も一緒である。川島が事務所に来た時にはすでに室内は猛牛でも暴れたかのようだった。
ソファーの陰に秀雄が蹲って倒れている。
顔面は歪み、腫れ上がっているが死んではいない。肋骨が三、四本は折れている。恐らく手足も折れているか、かなりのひびが入っているだろう。
電話線は切られている。川島はめったに使わない携帯電話で救急車を呼んだ。
ゆりの靴が転がっている。
徳田か鮫島のどっちだ? へたするとゆりの命が危ない。秀雄の出血と腫れの様子ではまだ十五分か二十分位であろう。川島は秀雄の顔面をひっぱたいた。秀雄の名を耳元で呼んで、今度は思いきり叩いた。秀雄は呻きながら気が付いた。川島がもう一度おおきな声でゆりはどうした? と聞くと、秀雄は歪んだ顏で泣いた。前歯も四、五本は折れている。
「秀雄! 泣くな。ゆりはどうした?」
秀雄の声は何を言っているのかよく分からない。
「ふいふいふいんん……」
又、言葉にならぬ声で秀雄は泣きだした。
川島はそのまま横にして鮫島の事務所を鷹栖に聞いた。鷹栖は少し考えて、首を傾げた。川島は何でもいいから知っていたら教えろ、と言うと。
「鮫島の子分でおれに習っている奴が一人だけいるんです。鮫島に内緒でね」
川島は今は何でも手掛かりになるんだったら、ともかく聞いてみろ。だが、鮫島の事務所の電話番号を知らないという。大木ならどうだ、と聞くと。鷹栖は彼なら知っているかも、と言った。川島は焦っていた。
「お前は、あの教団の幹部だったんだろう。知っている者に片っ端から電話しろ!」
携帯を使った事の無い鷹栖にただ、番号だけを押せばよいだけにして鷹栖に渡した。大木は出ない。教団の本部には人はいたが鮫島の名前すら知らない。
鷹栖が電話している時に窓を見たが救急車もまだ来ない。もう十一時近い。このビルのなかには誰もいないであろう。秀雄は時折呻いている。あれほど大人しくしていろ、と言ったのに、このばかやろうが、――。
川島は鷹栖を見た。だめですね、と携帯電話を川島に返した。
川島は事務用の机をへこむほどの強さで殴った。
「ああ、そうだ、確か某駅の近辺だとか来いた覚えがあります」
川島はそれだけ分かれば充分だと言った。
車を使えば十分か十五分で着く。もう救急車も来る頃だろう。電車を使っても歩く時間を入れたらたいして変わらない。それにこういう時に限って誰かとトラブルが起きる。
川島は鷹栖に表でタクシーを拾っておいてくれ、と言った。
鷹栖が出て一分ほどで救急車が来た。隊員に後はよろしく頼むと言って名刺を渡すと、隊員は何か言おうとしていたが、川島は階段を飛び降りるようにして外に出た。
鷹栖が拾っていたタクシーに飛び乗ると、運転手に某駅に出来るだけ早く行ってくれと言って「もし近道があればその道を頼む」金ははずむと言った。
時計はもう十一時を過ぎている。川島は自分を落着かせる為に目を閉じて大きく深呼吸をした。
川島は慌てていて神木に連絡するのを忘れていた。神木は電話では捕まらなかったが留守電に状況を簡単に入れておいた。
鷹栖は何やら楽しげな表情である。川島は全くこの男はと思ったが、今は冷静にならないとまずいと自分に言い聞かせた。
住宅街を通って十分で某駅に着いた。
駅の北口側である。取り敢えず歓楽街の方に向かった。呼び込みの男か、がらの悪そうな奴にあたりをつけて聞き出すしかない。
川島の全身から異様な殺気が放たれている。もうひとりは眉目秀麗で涼しい顏をしている。
通り過ぎていく者はその不思議な二人を怪訝な顏で振り向いて行く。
川島はどぎついネオンの前で呼び込みをしている男に聞いた。男は客じゃなければあっちに行け。と脅す声で言った。川島はむかっときたが、ここで面倒をおこすわけにはいかない。やはり地元のやくざを締め上げるのが早い。こういう時に限って簡単に見つからない。
「野郎共、ゴキブリみたいにどこにいやがる」
川島は声を出しながら暗い路地などを見ている。川島も鷹栖に、奴等は暗いごきぶりみたいなつらをしているからちゃんと見つけろよ。と大きな声で言った。そのうちに川島の声はさらに大きくなってきた。
「こら、きたねえゴキブリ共! 出てこい」
その川島の迫力に小者のチンピラは除けて行く。
だが、効果はあったらしい。いかにも、といった男が三人出てきて川島に声をかけてきた。
「にいさん、ずいぶんと威勢がいいねえ。あんた、保健所のバイトでもしてんのか」
三人は顏も悪いが笑顔はもっと歪んで醜い人相である。
「そうだ、あんたらのつらは腐りかけているから消毒が必要だ。その、きたねえつらをちょっと貸せ」
暗めの路地に三人を誘うと川島は言った。
「痛い目に会いたくなければ、おれの言うことに答えろ」
三人の男はこけにされて殺気だっている。
「この、ガキ! ぶっ殺されてえのか」
川島は男のセリフが終わらぬうちにすさまじい蹴りを相手のみぞおちに入れていた。
もう一人は、ほとんど同時に顔面に裏拳を喰らっていた。残りの一人は鷹栖が倒している。
「おい、鮫島の事務所は何処にある」
川島は、顔面に気を失わない程度に痛め付けた男に言った。男の鼻がつぶれて血が地面に流れている。だが、男は鼻を押さえて黙っている。
「言わないと、今度は玉をつぶすぞ」
川島は男の膝に蹴りを入れた。鈍い音がした。男はがくんと地面にくずれ落ちた。
「今度は本当に蹴り潰すぞ」
男は苦痛に歪んだ顏をしている。以外としぶとい。川島は股間を踏んで体重をかけた。
男は手で川島にやめてくれと合図をした。
鮫島の事務所は其処から二分も歩けば着いた。
川島は男の玉はつぶさなかったが顔面を潰した。どうせ整形を必要とする顏である。それに簡単に気が付かれては困る。時間をくってしまった。十一時三十五分である。
七階建てのりっぱなビルである。鮫島興業という黒地に金色で書かれた派手な看板である。
川島は鷹栖に油断するな、と言って悠然と事務所に入っていった。部屋のなかには八人の男が自分の気に入る座り方でくつろいでいた。プロの護衛らしき男が居ない。川島はここには居ないかもしれない、と思ったが誰かが知っているだろう。
「よお、鮫島の兄貴はいるかい」
川島を皆が見た。川島の大胆さに男達はお互いに顏を見合わせたが、もし本当に知り合いだったらあとが怖い。
「あの、失礼ですが、本当に兄貴の舎弟さんで」
若い男が近づいて川島に聞いた。
「腹違いで、狂犬のテツって言えば分かるよ」
部屋全体がざわめいている。川島は煙草を取り出して吸い始めた。わざと苛立った顏をして脅すように言った。
「おい、おれはわざわざ、九州から出てきて疲れてるんだ。このまま立たせておくのかよ!」
さすがに男達は焦った。急に態度が変わって兄貴分らしき男が低姿勢で寄ってきた。
ソファーに川島は踏んぞりかえって深々と座った。
「おい、お前も入ってこい!」
鷹栖を呼んで、川島は言った。
「こいつは、おれの弟分で虎ってんだ。半端じゃねえぞ。こいつのつらだけで見るなよ。おい、虎! そのごついテーブルであれを見せてやれ」
鷹栖は五センチはある木製のテーブルに軽くとんと触れただけでぎしりと二つに割れた。
男達は目を向いて近づいて見ている。
「で、おれのどすけべな兄貴はどこだ?」
兄貴分らしい男が半ばおびえながら言った。
「へい、今地下室にさらってきた女を楽しませているところで、今案内いたします」
川島は偉そうに立つと、鷹栖にこいつらを楽しませてやれ。と言って男の後から風を切るような歩き方で付いていった。
地下室の部屋の入口まで来ると、男はここです。と言って、ドアーのノブに手をかけようとした時、川島は手招きをして小声で言った。
「おい、大勢いるのか?」
男はとっさに「十人だと思いましたけど」と、つられて囁くように言った。そしてそのまま白目を向いた。川島は急所に強烈な膝蹴りを入れた。川島は男を床に静かに横にすると、精神を集中した。相手はプロの護衛が五人はいるだろう。それに拳銃とあとはどんな武器を持っているか分からない。一、二発は喰らう覚悟をした。ドアーのノブに手をかけた時、気配もなく背後から鷹栖が笑みを浮かべて来た。川島は相手は十人だ、と小声で言った。
(8)
川島は鷹栖に目で合図すると一気にドアーを開けた。
川島は部屋に飛び込んだのと同時に入口の近くにいた男の二人の頭に強烈な跳び蹴りを確実に入れていた。
ゆりは部屋の中央の壁の所に裸体で椅子に縛られていた。鮫島もほかの男達も瞬時に何が起きたのか分からなかった。川島はゆりの所まで矢のように走った。ゆりを縛った椅子を倒すと、壁にぶつかった勢いで鮫島の方に突進した。
護衛の男達が川島に拳銃を向けた時には背後から鷹栖がすでに五人を倒していた。川島の頭と肩に弾がかすった。凄まじい蹴りが護衛の顔面に食い込んだ。もう一人は鷹栖が片づけている。
鮫島には逃げられないように両足の膝を折っていた。
鷹栖はゆりの側にいって自分の服を着せている。下着になった鷹栖の肉体はしなやかな鋼のような筋肉であった。自分の着る服は護衛の服をはぎとっていた。
鮫島は怯え震えている。川島がとどめを喰わせようとした時、神木が入って来た。
「まて、トオル。こいつだけはおれにやらせてくれ。遅れてすまなかったが、この男だけはおれがやる」
神木は今まで見せたことのないような底知れぬ怖さと凄みのある眼光を放っている。
形容しがたい強烈な蹴りであった。鮫島の頭の形はほとんど無かった。脳味噌は血の海に点在していた。プロレスラーが鉄のバットで思いきり殴ったような衝撃である。
神木は川島と鷹栖にここに長居は無用だ、表に警官が大勢いるぞ、と言った。
鷹栖がゆりを抱えて階段を駆け登った。
事務所ではまだ男達は好き勝手な形で倒れていた。
*
――気配を消した者が着いてくる。姿は見えない。今までのなかでは一番手強い相手である。常に一定の間でつきまとっている。
相手はどこかに潜んでいる。このままだと時間だけが過ぎる。神木は明るい場所に出た。相手はこれで攻撃を加えられるであろう。
相手から仕掛けてくる気配がない。この見えない相手は楽しんでいるのかもしれない。
プロでもその手の人種がいるのは知っている。とことん相手を追い詰めて殺る。それも相手が強いほどその行為を楽しむのである。
神木は前にもその手の相手と戦ったことがあった。東洋系の凄腕の殺し屋であった。たしか赤龍と言った。
その男と何か似た匂いがある。だが、あの男は間違いなく倒した。
――ふいに凄まじい殺気が来た。こんな明るい場所で相手はやろうというのか。神木は周りを見たが、それらしき者はいない。だが、鋭い刃物で切られるような痛みが全身に走っている。かなり身直にいる。神木は意識を集中した。
一瞬、何かが飛んでくるのを感じた。
神木は自然に僅かに動いた。横にいた通行人が急に倒れた。こめかみから血が出ている。拳銃では無い。この武器は赤龍と同じ武器であった。鋼の玉を指ではじいて飛ばしたものである。
無論、神木もパチンコ玉で十メートル先の者を倒すことは出来る。
神木は相手の正体が分かれば攻撃のパターンも分かる。恐らくやる相手が神木だと分かったので簡単に攻撃を仕掛けなかった。恐らく、赤龍の身内で復讐も兼ねている。
奴は通行人に紛れているなと神木は思った。あとは同じ匂いを持った者を見つければよい。
相手の武器はもう神木には通用しない。
神木は狭い路地に入った。必ず通行人に混じって通過するはずである。
神木も同じ武器を持っている。勝負は一瞬である。向こうは自分の顏を知らないと思っている。それだけでも神木には有利であった。
さっきの倒れた通行人の周りに人だかりが出来ている頃である。
神木は精神を集中した。近づいて来るのが分かる。一人、三人、次のなかにいる。失敗は許されない。
三人の足跡である。一人だけ歩き方が違う。神木は一点に集中した。
神木は路地の向こう側に動いたと同時に指をはじいた。黒龍は信じられないといった顏で耳から赤い筋をたらして目を開いたまま倒れた。
神木の額にも一筋の赤い線が走っていた。
*
病院では秀雄が川島の顏を見ては号泣している。肋骨が四本と腕も足も片方づつ折れていた。ベッドの秀雄は情けない姿で横たわっていた。
秀雄には何故、鷹栖のようないい男が川島と一緒にいるのかも訳が分からない。前歯も五本折られているのでうまく喋れない。悔しくて、悲しくて、とても痛い。泣いても笑ってもただ痛い。自分の姿はどう見てもかっこ悪い。それでもめげずに秀雄は泣いた。
ゆりは特にひどいけがはなく、精神的ショックは「あの、気性だから時間が経てば大丈夫だろう」と川島は苦笑しながら言った。
――大木は徳田のビルの駐車場で徳田と一緒に焼け死んだらしい。大木は用意周到に徳田の動向を探り、自分も死ぬ覚悟でガソリンとガスボンベを積んだ車で駐車場に行ったのである。
すでに東風が駆け付けた時には駐車場全体が火の海だったらしい。それは正に地獄の業火の如きであった。
神木は大木の事を病院の屋上で川島と鷹栖に話すと、ごろりと横になって言った。
「おい、この空はもう晩秋の色だな……」
……深々とした異様な蒼穹の空には魔的存在が蠢き潜んでいた。
了
ダークハンター 梅崎幸吉 @koukichi-umezaki
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