雨の水槽

有未

雨の水槽

 降り始めた冬の雨の冷気が室内に入り込んで来る。私は半分程、開いていた窓を閉めて暖房を点けた。ホワイトノイズのように流れていたテレビを消して、ぼさりとソファに座り込む。背後では半年前から付き合い始めた恋人が、温かい紅茶を淹れる音がしていた。ティーバッグを三度、ちゃぽんとする音が私の耳に届いた。


 私はもう過去の遺物と言われている、いわゆるガラケーでかちかちと友人にメールを書いていた。彼はマグカップを持って私の隣に座り、アッサムのストレートを飲む。それは、もう見慣れた動作であった。彼は、紅茶については少し渋みがあるくらいが好きらしい。


 付き合って一年後くらいに、私たちは一緒に暮らし始めた。性急な気もした。だが、私も彼も相手と一緒にいたいという気持ちが強く、彼が私の家に身を寄せる形で共に暮らすことになった。


「あ」


 届いた一通のメール。友人からではない。携帯電話会社からのダイレクトメールだ。そこには、ガラケーからスマートフォンへの機種変更をする場合、指定の機種であれば格安で販売しますという内容が絵文字を使って鮮やかに書かれていた。それを彼に言うと、お得だね、と返される。


「これを機に買い替えたら?」


「そうねえ」


 私は悩んだ。かちかちと打てるガラケーが本当に好きで、周りがスマートフォンに変えてSNSなどを楽しんでいても、私は頑なにガラケーを持ち続けた。それは、これからもそうだと思っていた。しかし先日、数年以内にガラケーのサービス提供が終了予定だというニュースを観た。私はようやく焦り、スマートフォンへの切り替えを検討し始めていたところだった。


「今月末までが機種変キャンペーンで、指定機種の在庫がなくなり次第、終わりだって」


「そうか」


「うん」


 更に私は悩んだ。もう切り替えの時期なのかもしれない、と。思い切って、機種変更してしまおうか。そう、窓の外の雨を見ながら私は考えた。


「よし、機種変更する」


「良いね」


「うん。早速、今から行って来る」


 ガラケーをぱちりと閉じて私は立ち上がる。すると、彼はテーブルにマグカップを置いて、俺も行って良い? と私に尋ねた。良いよー、と答えつつも、どうも彼は私が行くところに付いて来る傾向が強いなと思った。


 外出の支度をし終えて窓の外を見ると、先程よりも少しばかり雨足が強くなっていた。私は気象病なので雨の日は頭痛がしたり気怠くなったりする。しかし、今日はあまりそういう感じがしなかった。それでも雨の日の外出は少々、億劫なものである。けれど、機種変更の為だ。私と彼は傘を持ち、家の扉を開けた。


 外に出て傘を広げると、ばらばらと雨が傘に当たって弾ける音がたちまちに響く。私たちは並んで歩き、携帯ショップを目指した。十二月の下旬の土曜日、夕方の少し前。通り過ぎる人はまばらで、時折、思い出したように車が走り去って行く。


 歩いて十分くらいのところにある携帯ショップに着いてすぐ、私は窓口に案内された。待ち時間がなかったことは幸いだった。暖房の効いた店内。冷えていた体が温まって行く。


 私が窓口の椅子に座ると、彼が店内の自販機で温かい飲み物を買ってテーブルに置いてくれた。それは私が冬になるといつも買っている、レモネードだった。ありがとうと言うと、うん、と彼は短く返事をして後ろにあるソファに座った。


 機種変更には一時間程が掛かった。その間、レモネードを飲みながら店員と話せたので、私の喉は渇くことはなかった。


 新しいスマートフォンを手に、彼と家路を辿る。途中でコンビニに寄りたいと彼が言うので、立ち寄った。彼は、温かいコーヒーを手に、何か好きなお菓子を買って良いよと私に言った。私は紅茶のクッキーを一袋、彼に買って貰った。


 コンビニを出て少しすると、雨が小降りになって来た。私は、良かったなと思いつつ歩いた。


 私は帰宅すると早速、スマートフォンの色々な設定をしたり、アプリをインストールしたりした。そんな私を見て、これで連絡が付きやすいねと彼が言った。


 これまで私がガラケーだった為、彼との主な連絡手段はメールと電話だったのだが、彼はチャットでもっと気軽に私と連絡を取りたいようだった。彼の場合、私以外からのメールはあまり来ないようだった。チャットアプリを入れてよという彼の言葉を受けて私がアプリを入れると、良かったー、と安心したように、嬉しそうに彼は言った。


 私はというと、チャットアプリがあると私が一人で外出している時に頻繁に彼から連絡が来るようになるのかと危惧していた。彼が嫌いだというわけでは決してない。私は彼を大切に思っている。ただ、いつも私と同じ時間を過ごそうとする彼のことを少しだけ、時々だが重たく思うことがあった。彼は私一人が外出する時間が数時間であったとしてもメールをしてほしいと言うし、今日のように一緒に行ける場所には一緒に行こうとする。それを嬉しく思う反面、どこか窮屈にも思う自分がいた。


 私は、彼と付き合う前は一人の時間というものを必要としない人間だと思っていた。だが、違ったようだ。彼が私と同じ時間を求めることで分かったのだが、私は私一人の時間を必要とするタイプのようだった。絶対に、というわけではない。だが、エアレーションのない水槽の中の魚のような気分になることがあるのは事実だった。私は彼に好かれ、彼に惹かれながらも、息苦しく思うことがあった。それは水の中で息が苦しくなることと似ていた。


 ――不意にどこか遠くに流れて行きそうな意識に飲まれた時、彼が私の名前を呼んだ。しずく、と。その三つの音は確かにそれぞれの音の正しい重さを以て私に降り落ちる。


 彼は温かい紅茶の入ったマグカップを持ち、私の隣に座った。私の前にもマグカップを静かに置いてくれた。湯気が出ている。私が彼を見上げると、彼はテーブルに置いたコンビニの袋の中から私の選んだクッキーを取り出して私に差し出した。食べる? と。私は肯定し、受け取る。クッキーの封を開けた。微かに甘いにおいがした。


 私は、帰宅してからずっと手に持っていたスマートフォンを一度、テーブルに置いて大きく伸びをひとつした。骨の軋む音が聞こえたような、そんな気がした。


 彼は、ロイヤルミルクティーのベースを作ろうと言って、ソファから立ち上がった。数日前に買ったばかりの電気ポットで、お湯が沸いて行く音がする。彼がティーポットや茶葉を用意する、ささやかな音がする。きっと彼は几帳面だから、私のように目分量ではなく、いつもするようにティースプーンで茶葉の量を計ってティーポットに入れることだろう。ややあって、彼が湯を注ぐ音が後ろで聞こえ始めた。やがてティーポットをテーブルに静かに置き、ティーコジーを被せる彼の指は長く、骨張っていた。私はいつも、それを見るのが好きだった。


 紅茶が抽出されて行く間、私はクッキーのひとつを食べてみた。少し疲れていたのか、クッキーの優しい甘さが体にも心にも心地好かった。やがて抽出された紅茶を彼がサーバーに注いでくれた。紅茶の香りが漂う。冷ます為に蓋はしないので、しゅるしゅると湯気が部屋に昇って行く。


 私は、隣で紅茶を飲む恋人――常盤ときわのことを見上げた。目が合う。ただ、それだけのことがひどく幸福で彼のことを愛しいと思うと同時、心の片隅にある、水の中にいるような息苦しさを私は無視することは出来なかった。


 以前、常盤とホームセンターに行った時、何とはなしに二人で水槽のコーナーを見たことがある。小さな金魚鉢や大きな長方体の水槽まで、色々なものがあった。魚は一種類しか展示販売されていなかった。それは、私が幼稚園生の頃に知った、ネオンテトラという熱帯魚であった。色鮮やかな体躯を持つネオンテトラは、主にアマゾン川流域に分布している。青や赤の綺麗なラインを持つ、性格の穏和な魚だ。


 私はしばしの間、彼らが泳ぐ様子を眺めていた。その時、常盤が言った「綺麗だね」という何気のない一言が、私は未だに耳の奥底に眠る貝のようにして張り付いて離れないことを自覚している。彼の言った言葉は他意のない、ありふれた一言だった。だけど、それに引かれて彼を見上げた時、私が彼について抱いている感情の名前が見付かったような気がしたのだ。


 ネオンテトラの水槽には二種類の水草が植えられていて、底石の砂利の上には水色のビー玉が敷き詰められていた。水槽の奥ではエアレーターが絶えることなく酸素を生み出し、その水槽の中をネオンテトラたちは美しく泳いでいた。優雅に、美しく。


 ――私は、常盤という人間を美しいと思っているのだと、その時に気が付いた。良く言えば、美しい。悪く言えば、どこか人間味がない。私は、そんなことを考えているのだと。高い身長、細身の体と長い指、穏やかな声と所作、博識なところ。そういったことのことごとくを、美しい――綺麗なものとして私は捉えている。そう、鑑賞物のようだと私は思っているのだと。


「大丈夫?」


 急に黙り込んでしまった私を心配するように常盤が言った。私は、それに返事をしながらも、心はネオンテトラの水槽の前にいた。


 美しいものには美しいものが似合う。彼がネオンテトラだとするならば、私は同じ水槽にいる生物にもなれないのだろう。儚い生物として命を輝かせるネオンテトラよりも、私はきっと水槽の底に敷き詰められた人工物のビー玉が相応しいのだろう。それは自分の卑下に値すると、どこかで声がした。だが、思ってしまったことは変えられないのだ。ガラケーをスマートフォンに機種変更するように、自分の気持ちを簡単に切り替えることが出来れば良いのだが、そんなことは出来ないということを私は自分の二十八年の人生というものの中で知っている。


 もうすぐ、クリスマスが来る。最寄駅のイルミネーションは、話題になることも多かった。ちかちかと輝く人工の光を脳裏に思い描きながら、その日、私は眠りに就いた。






 ――もしも、ひとつ願いが叶うなら。そんな使い古された文句を私は思い浮かべた。私は私の恋人、常盤の心が知りたかった。本当に私を好きでいてくれているのかどうか。それが、知りたかった。好きな相手のいる人間なら思いそうな、陳腐なことだった。


 彼は言う。私のことを好きだと。一緒にいたいと。大切にしたいと。それは私も同じ思いだった。だが、私たち二人の思いがぴったりと重なっているようには思えなかった。そんなことは世界の誰にも不可能なのかもしれない。人が単独の個として存在している以上、しかも目に見えない心というものについて、ふたつがぴたりとひとつになることはないのだろう。分かっている。もう私は子供ではないのだ。けれど、理解と納得はいつも違う場所にあった。彼は一体、どこを見ているのだろう。常盤は、私を見ているようでいて、私を通り越して世界の輪郭線のような遠いところを見ている。そんな気がした。






 今日はクリスマス当日。生憎の雨模様になった。それでも私と常盤は、夕方に駅前のイルミネーションを見に行こうと決めた。私は特別にイルミネーションが好きなわけではない。それは常盤も同じだった。ただ、せっかくのクリスマスの日にどこにも出掛けないのもつまらないよねということで話が一致した。


 私は、常盤にクリスマスプレゼントを渡したいと思っているものの、当日になったというのにまだ用意をしていなかった。と言うのも、私の帰りが遅くなると常盤から連絡が来るので早く帰ろうかなと思ってしまうし、二人で一緒にいる時は一人で買い物をする隙がなかった。


 そこで私は今日、クリスマスプレゼントを選びに行くことにした。駅前での待ち合わせを午後六時に決めて、お昼ご飯を食べてから私は一人で出掛けることにした。私の行くところに付いて来たがる常盤は、やはり今回もそうしたいと言ったが私は丁重に断り、理由については何とか曖昧に誤魔化した。


 私は家の近くにある商業施設に行き、常盤へのクリスマスプレゼント選びに奮闘した。だが、お店を見て回り始めて一時間が経過し、二時間が経過しても、まだ私は何を買うか決められなかった。良いなと思うものは幾つかあった。しかし、これという決め手に欠けた。


 良く考えてみると、常盤は生活に必要なものはほとんど揃っているようだった。彼の大切なスマートフォンとパソコンと、少しの洋服と靴と鞄。それで充分なようだった。私の持ち物が多すぎるのかもしれない。


 常盤は一体どういうものが好きなのだろう。私はここに来て、常盤に何をあげたら良いのか分からなくなっていた。そうこうしている間にも時間は過ぎて行く。スマートフォンで時間を確かめると、もう午後五時になっていた。


 私は気分転換しつつ考えをまとめる為に、ペットボトルの緑茶を買ってベンチに座った。渇いた喉に緑茶が心地好かった。ボトルの蓋を閉めてふと辺りを見回すと、仲の良さそうな恋人たちが寄り添って歩いているのが視界に入り、クリスマスだもんね、と改めて今日という日の特別性を私に思わせた。常盤との待ち合わせまで、あと一時間しかない。雨はようやく小降りになって来ていた。


 結局、常盤へのクリスマスプレゼントは無難なものになってしまった。しかも安く済んでしまった。本当にこれで良いものかと悩んだのだが、時間はないし、常盤はもう自分に必要なものは揃っているのでは? という思考に至り、私は彼が使ってくれそうなものを選ぶことしか出来なかった。


 小雨の中に傘を広げ、雑貨店でラッピングして貰ったプレゼントがバッグの中にちゃんとあるかを確認してから私は駅に向かって歩き始めた。商業施設の中のお店の至るところでクリスマス・ソングが流れていたことを思い出す。そして、今日は珍しく買い物中に常盤からの連絡がなかったことも思い出した。連絡があればあったで私は水の中にいるような息苦しさを少なからず覚えるというのに、なかったらなかったで気になるものだと私は思った。


 駅前に着くと、もう樹木やお店の看板などのイルミネーションがきらきらと光っていた。煙るように降る雨を通して見るイルミネーションは幻想的で、特別にそれが好きなわけではない私の目にも魅力的に映った。私は早く常盤に見せたいと思った。


 だが、約束の午後六時を過ぎても、常盤は来なかった。やがて六時半になった。私はその間、スマートフォンを見て常盤から連絡が来ているか何度も確かめた。私から連絡もしてみたが返事はなかった。今日は彼は家にいるはずだった。寝ていたら申し訳ないと思いつつも、私は常盤に電話を掛けた。しかし、留守番電話に接続しますという無機質な案内が響いた。私は電話を切った。


 手袋をしていない私の両手はいつしか冷たくなっていた。幸い、雨の勢いが強まる様子はなかった。それでも冬の霧雨は私の体を冷やして行く。バッグに入っているクリスマスプレゼントを私は何となく見つめた。クリスマスらしく、緑色の包みが赤色のリボンで飾られている。これを受け取って店員さんにお礼を言った時、私は間違いなく笑顔だった。


 二度目になる電話にも常盤は出なかった。急用でも出来たのだろうか。一度、家まで戻ってみようか。彼がそこで寝ているならそれで良い。いつも仕事で疲れているようだから、ゆっくり休んでいて貰いたいとも思う。私は別にどうしてもイルミネーションを二人で見たいというわけではないのだから。


 ただ、いつもならすぐに返事の来るチャットに返事がなく、電話にも出ない常盤のことを思うと、私は急激に孤独感が増して行くのが分かった。イルミネーションはそんな私の気持ちなど知らずと言った感じで、緩やかに明滅を繰り返し、美しく輝いていた。近くのお店からは、有名なクリスマス・ソングが流れて来る。恋人たちは寄り添い、手を繋いでイルミネーションを見ながら幸福そうに会話をしていた。


 午後七時になった。未だ常盤から連絡はない。彼は一方的に約束を破る人ではなかった。長いとは言えない付き合いでも分かる。彼はとても誠実な人だ。何かあったのかもしれない。もう一度、電話をして出なかったら家に帰ろう。そう、思った矢先だった。


 スマートフォンに常盤の名前が表示され、着信音が流れた。電話だ。私は冷たくなった手で通話ボタンを押して、端末を耳に当てた。


「ごめん! 今、駅にいる?」


「うん」


「ごめん! もう着くから! さっき気が付いて、それで……」


 耳の向こうで、彼の声が車の走行音に掻き消された。


「あ、もう着く! 一旦、切るから」


「うん、大丈夫だから」


「ごめん」


 電話が切れて五分もせずに、常盤はやって来た。彼は少し息を切らし、傘は畳んだまま手に持っていた。彼の少し癖のある髪に雨の雫が散っている。


「ごめん、遅れて。正直に言うと寝てた。アラームは掛けておいたんだけど。本当にごめん」


 良いよ、疲れてるんだよ。私は、そう言おうとした。しかしどうしてだろう、言葉にならなかった。私は傘を差して、ただそこに立って彼を見上げていた。雨音のほとんどない細雨が、まるで私と彼の二人だけを包むように降っている。そんな気がした。


「しずく?」


 彼が私の名前を呼んだ。不意に私は、以前に見たネオンテトラの泳ぐ水槽を思い出した。


「どうして連絡してくれなかったの?」


 私の口から出たのは彼を責める言葉だった。彼を労わる言葉ではなかった。自分でも自分に私は驚いた。一体、どうしたというのだろうか。


「ごめん、本当に。寒かったよな。寝ててさ、急いで来たんだけど」


 何度目かになる謝罪を彼が私に言う。


「連絡しようと思ったらもう時間過ぎててさ。とりあえず家を出ようと思って行動しちゃったから連絡するの遅れたんだ。ごめん」


 私は彼に怒っているのではなかった。常盤との待ち合わせで私が遅れることは何度もあった。朝、起きるのが常盤よりも私はとても遅くなる時もあった。


「これ、クリスマスプレゼント。ささやかだけど。本当にごめんな、遅れて」


 そう言って常盤が私に差し出したのは、赤色の袋に緑色のリボンの付いた包みだった。


 「良かったら開けてみて。傘、持つから」


「うん」


 お礼も言わないまま、私は袋を開けた。中にはチョコレート色の手袋が入っていた。


「手袋だ」


「そうそう。良く手を繋ぐとさ、しずくの手、冷えてるなーって思って」


「うん」


「今日も冷えたよな。ごめんな」


「ううん、良いんだ。そんなことは良い」


 私は手袋を着けてみた。とても暖かい。


「ごめんね」


「しずくは何も謝ることないだろう。俺がさ」


「そうじゃないんだ」


 私は分かってしまった。私は私が思うよりも遥かに常盤のことが好きなのだと。過剰に思えた彼からの連絡も、いつも私の行く場所に付いて来たがる彼のことも、私はきっとそういうことに安心していたのだ。私と彼は同じ水槽にいるのだと。いつでも共に泳げるし、同じ酸素を取り入れることも出来るのだと。だが、群泳する魚の陰に彼を見失った時、私は酸素があっても息苦しい思いをしていた。止めどなく生まれる酸素の泡に包まれても、私は常盤が不意にいなくなっただけで、心の行き場をなくしてしまった。


 私は彼を鑑賞物のように美しいと思っていた。どこか人間味がないと思っていた。しかし、人間味がないのは私の方だったのかもしれない。確かに常盤は完成された人間であるかのように私に思わせるところがあった。所作ひとつ取っても、彼は美しかった。けれど、彼はいつも私に言ってくれていた。好きだよ、と。それに同じ言葉を返しながらも、私は本当に心から彼の隣にいたことがあるのだろうか?


「連絡がなかったから不安だった。いつも、すぐに連絡をくれるのに。何かあったのかと思った。それで、今まで連絡をくれていたことがすごく嬉しいことなんだって気が付いた。今まで、ごめん」


 私は考えがあまりまとまらないまま、常盤に告げた。


「しずくが謝ることはないよ。不安にさせてごめん」


 また、彼は謝った。違うのだ。私は謝ってほしいのではなかった。ただ、伝えたかった。こういう時、どうしたら良いのか私にはまるで分からなかった。自分の幼稚さを悔しく思った。


「これ、クリスマスプレゼント」


 私はバッグから包みを取り出して常盤に渡した。


「ありがとう、開けて良い?」


「うん。本当にささやかだけど。だって常盤は必要なものは持っていて。全部、揃っている気がしたから」


「そんなことないよ」


 常盤は少し笑って言った。今度は私が傘を持って彼に差そうと思ったが、身長差があってうまく行かなかった。またも彼は笑った。そぼ降る雨に濡れながら常盤は私のプレゼントを開けて行く。


「あ、手帳だ」


「手帳、持ってるかもしれないけど。これなら色々と書いてずっと持っていてくれるかなって思って」


「うんうん、ありがとう」


「私も。ありがとう」


 そこで、流れているクリスマス・ソングが耳に入って来た。今まで聞こえていなかったかのような感覚に陥る。明るいメロディーが存在感を主張し、聴く人の内耳の底まで届けと言わんばかりにそれは駅前に響いていた。


「綺麗だな」


 常盤が見つめるイルミネーションを私も見た。ようやく彼は持っている傘を広げる。私と常盤は互いに傘を差し、二人並んで立っていた。そのことがひどく嬉しかった。


「綺麗だね。良かった、一緒に見られて」


「そうだな」


 気が付くと私たちは手を繋いでいた。私は、独りよがりだったのかもしれない。何度、手を繋ぎ、好きと伝えようとも、常盤の心が知りたいと願おうとも、それは稚拙で、身勝手な思いだったのかもしれない。


 二人で並んで、私たちは家路を辿る。同じ家に帰る為に。


 ――やがて、雨は上がった。

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