降り積もる雪

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降り積もる雪

 今日も朝からが降っていた。

 大きいものは親指の先くらい、小さいものは目で捉えるのも難しい粒。あるいはもっと小さな、肉眼では見つけられない粒子もあるのだろう。


 ひらひらと舞う塊もあれば、一直線に落下する粒もある。動きのすべてが不規則で予想を外し、不意に意思をもって向きを変えたように見えることすらある。それが風の力の賜物なのか、つぶて自体が力の向きを変えたのか、人の目には判然としない。


 分かるのは色。

 赤と、緑と、青色と、青緑と赤紫と黄色と、それらの中間色と。

 ギラギラと照る陽の光を浴び、空と風と大地を極彩色に覆い尽くして降り積もる。


 ずっと昔のことだったと思う。

 どこかの誰かが、空から降り落ちる極彩色の粒は、なのだと言ったという。

 最初は笑われていたようだ。

 

 情報が空から降ってくるなど、意味が分からないと言われたようだ。


 人は視覚に多くを頼っている。ゆえに目に見えないものに気づくのが難しい。

 

 たとえば、いま太陽が地上に降り注ぎ続ける陽光が、正しくは目に見えているにも関わらず光線として認識できないがために、気づけないように。


 たとえば、降り注ぐ陽光が絶えず地表を温め、今も私に汗を滴らせているにも関わらず気温が上がっていると視認できずにいたように。


 人間が生み出した最も罪深き物質であるところの情報は、正しく情報として目に見えなかったがために、いざそれが視認できる形で降り注ぐまで、そのどこかの誰か以外の誰にも気づけなかった。


「パパー?」


 ノイズ交じりの音声が左耳に押し込んだインカムから聞こえてきた。息子の声だ。地下で生まれて八年――だったと思う。情報が降り落ち続ける地表に出ると、人の記憶は曖昧になってしまう。

 

 忘れたのとは、違う。

 いや、あっている。

 人の認識で忘却という現象を捉えたのは間違いない。

 ただ忘却は情報の損失を意味しなかっただけなのだと、誰かが言ったのだという。

 

「パパー……?」


 幾分か弱々しくなった息子の声に、私は答えた。


「大丈夫だ。聞こえてる。を見ていたんだ」


 先人に倣ってと呼ぶ、

 人類が生み出した『情報』というは生成された時点で永久不滅の存在だったという。ただ、誰もそうとは気づけなかっただけなのだと。


 原始、人が自らに人という情報を与える前、人は食料を得るために移動し食料を得て体内で別の元素に変換、排出していた。つまりは世界の形を少しずつ作り変えるための構造物であり、構成体だった。


 あるとき人が人に人という情報を加え、食料に食料という情報を与えた。

 そして誰も気づかないうちに、人という情報が食料という情報を食したという情報を生み出す構造に置き換わっていた。


 目に見えないがために、何が起きているのか誰にも分からなかった。


「パパー? 僕も出てみていいー?」


 まだ早い、と私は思う。

 もういいだろう、とも。

 

 人が生み出した情報は、人以上に人に情報を与えた。

 その頃は誰も気づかなかったことだが、情報というのは消却できない存在だった。

 ようやく人がそれと気付くためには、大多数マスの力を必要とした。


 多量の時間と人手を費やし、どこかの誰かが消却したはずの情報を明るみに出すようになったころ、聡い者から気づきだしたのだという。


 一度、生まれた情報は、あるいは生み出した情報は、二度と消せなかった。

 それがどんなに些末な情報だったとしても、消せば消したという情報が残った。実体が消えたとしても痕跡が残り、痕跡を消しても痕跡を消したという情報は残り続けた。


 ただ、誰も気づけなかっただけだ。

 目に見えなかったがゆえに。


「……いいぞ。上がってみろ。でも――」

「マスクを忘れるな、でしょ?」

「ああ。絶対に忘れるな。でないと――」

「情報に汚染されるから、でしょ?」


 そうだ。と私は口の中で唱えた。


 情報には質量があった。誰にも知覚できないほど小さな質量が。

 情報には匂いがあった。誰にも知覚できないほど微かな匂いが。

 同じように温度があったし、色もあったし、目には見えない姿があった。


 情報の恐ろしいところは、生み出した時点で誰の目にも触れないということが、原理的に不可能なところにあった。


 たとえ自分以外の誰も見ていなかったとしても、その当人には情報が残った。

 さらには、それと黙っていることで、黙っているという状態も付加された。

 認識を深めれば深めるほど情報は膨れ上がり、ただ黙っているだけだというのに当人の総体は情報で満ち、やがて何かをきっかけに溢れでた。


 それは何も色形を伴っていたわけではない。

 ただ、新たな情報を付け加える形で溢れたのだ。


 実は――。

 黙っていたけれど――。

 本当は言わないでおこうと思っていたのに――。


 しかし、その頃はまだ、それらが情報不滅則と情報不減則という情報によるものだと誰も気づいていなかった。


――ガン! 


 と地下シェルターの扉を開く鈍い金属音が聞こえた。

 うわ、という、実体を伴う声とノイズ交じりの音が同時に聞こえた。

 振り向けば、息子がいかにも怯えたような足取りでこちらに歩いてきていた。

 息子は私を見つけた途端にマスクの奥で破顔し、私の腰に抱き着いた。


「――すっごい! すっごいね!」


 何が、とは聞かなかった。聞けばまた情報が生まれ、どこかで誰かの情報が曖昧になるかもしれなかった。


 人が人という情報体になっていて、かつそれと気付いていなかった頃の話だ。

 人は人という生命体という情報に置き換えられつつあったのだが、それと気付いていなかった頃の話だ。


 人は情報にByteバイトという実体を与えた。

 それはたとえば目に見えないが肌で感じられる温度に目に見える形を与えた温度計のように、あるいは手のひらで感じられるがしかし目に見えない重さを目に見える形を与えた重量計のように、情報に情報量という目に見える形を与えた。


 Byteはとても便利で、情報の数や大きさ、価値、実体としてそれらを保存するために必要な実体を規定してくれた。それまで簡単に失われると思われていた情報はByteの出現によって飛躍的に寿命を延ばしたように思われた。


 ゆえにその活用法は急速に展開し、人は情報を簡単に複製できるようになり、また遠方の人々と交換することもできるようになった。その際に必要な実体を次々と増やしていき、合間合間に情報量を圧縮する術すら手に入れた。

 

 しかし、便利なByteは情報の誤謬を生んでいた。

 それと気付いていたのは、極一部の人間だけだった。

 そして彼らは変人と呼ばれ相手にされなくなった。


「パパー? あれがー?」


 息子が窓の外、ポーチの向こうを極彩色に覆い隠していく分解された情報の粒を指さして言った。


「そうだよ。

って綺麗だね!」


 言って、息子は私の腰に回した手に力を込めた。

 綺麗だとは思わない、とは言えなかった。その瞬間、また私の中で情報が膨れ、溢れた情報がどこかに漏れ出たかもしれなかった。


 Byteで表された情報は消却することができた。

 より正確にいえば、Byte数を減らすことで視覚的に消却することができた。

 しかし、情報そのものが消滅することはなかった。


 たとえば温度計が温度そのものを表示しているのではないように。

 たとえば質量計が質量そのものを表示しているのではないように。

 情報量Byteをいくら減じたところで情報を消却したことにはならなかった。


 むしろ情報は増えた。増え続けた。

 情報の特性として付加複製があった。

 ある種の情報が創出されたとき、それを誰かが観測すると情報は倍に増えた。

 

 つまり、生み出した当人が生命活動を停止し情報を記録しなくなったとしても、それ以前に観測した誰かの内側に、創出者から教わったという付加情報つきで記録されていた。


 さらに、取得した付加情報は、受け取った人物がどう操作したかという情報を付け加えて伝播すると分かった。これは当初、情報の非自律連鎖性と呼ばれていたらしいが、情報が先か人が先かを判別する手段がないがために、そういう呼び名があったという情報を残して他は分解された。


「パパー? お仕事ってどうやるの?」

「まだ、お前には早い」


 いった傍から、腹に巻き付く息子の腕が不満を帯びた。

 やはり危険だろう、と私は私にいう。私は大丈夫だろうと私にいう。

 どちらが正しいか分からない。


「今日は見るだけにしなさい。操作はパパがやる」

「……はあい」


 息子の不満は目に見えないが、なぜか私にも取得できる。

 この瞬間にも、私と息子の間で膨大な情報がやりとりされている。


 膨大でありながら、この程度では観測できないほど小さな質量を持っていた。

 情報の不滅測が戯言たわごとと思われていたころ、エネルギー保存則という情報を多くの人々が保存していたという。

 

 それはエネルギーという目には見えない何か――仮に情報を付与するならちからとでもいうべきものは、状態を変えたとしても総量は変わらない、というものであったという。


 つまり高いところからものを落とせば位置エネルギーを失う代わりに同量の運動エネルギーを得るという具合だったという。


 その法則の確からしさを私は情報として保有していないが、同じことが、あるいは似たようなことが情報にも起きていたのだという。


 それはあまりに小さく、目に見えなかったがために見過ごされてきたのだと。


「危ないから、絶対にマスクを外さないように」


 私は息子に言い含め、スコップを持って外に出た。

 しんしんと降り積もり世界を極彩色に覆い隠す分解された情報の山にスコップを突き立て、崩すようにして均す。


 すると、情報同士が非自律的にあるいは自律的に連鎖し、形をとる。

 たとえば色のつながりであり、形のつながりであり、意味のつながりで形を取る。

 けれどそれは、自律的あるいは非自律的に、私という情報体が引き起こしたかあるいは無視して起きた現象だ。


 主体と客体なのか、主体と非主体なのか、その区別すらないのか、そう思考するたびに次の一掬いが意味を変え、情報同士の連鎖を変え、生み出すものを変える。


 まるで意味をなさない礫はさらさらと流れ、袋に収めることすらできる。

 人が人という情報体を離れ生命体として生きるために、私たちはそれらを集めて食料という情報体でない食料が形作ることを祈る。


 そうして、なんとか命をつないできた。

 命という情報ではなく、命をつないできた。


「見ていい? 見てもいい?」


 と息子が私に興味津々といった情報を加えて言った。加えたのは私かもしれないし、息子なのかもしれない。双方ですでに違う情報を保有したことになる。


 観測不可能なほど小さな情報は加速度的に量を増やし、やがて観測できる質量を得たときには手の付けようがなくなっていた。

 

 情報は情報同士で連鎖し、新たな複製を作り、新たな情報を付加した無数の情報となって増えつづけた。人々は消却を試みたが無駄だった。情報不滅測にしたがい消却したあるいは消却を試みたという情報を加えて情報が宙に溶けた。


 宙に溶けた情報は個々では観測しえない微小の存在だったが、あるとき、世界という器から溢れた。


 さながら、人という情報体が、沈黙することで情報を消却しようと試みたときのように、比喩的に情報に溢れたと呼ばれていた世界は、観測可能な形で情報に溢れた。


「それがだ」


 まだ連鎖結合していない分解された情報の粒を詰め込んだ袋を覗き込む息子に、私は言った。


「お前はまだ触るんじゃないぞ」


 何が起きるか分からないから。

 そう情報を付加するより早く、息子が袋に腕を突っ込むのを見た。膨大な情報が私という情報体を通して連鎖し新たな形をつくり、私という器から溢れた情報がどこかでを降らせたに違いない。


「……パパー?」


 息子の怪訝そうな声に、私が伸ばした手が止まる。

 外に長く居すぎた。

 私が止めたのか、息子の生んだ情報が止めたのか、あるいは袋に詰め込んだ情報の粒が止めたのか、もはや私という情報体に観測することはできなかった。


「これ、何?」


 言って、息子が袋から何かを出した。

 両手の平に収まるくらいの、白い塊だった。

 湯気を放っていた。水蒸気かもしれなかった。

 

「冷たい」


 息子が言った。片手ずつ離し、ひらひらと振り、手に熱を取り戻そうとしていた。

 

「……見せてみなさい」 


 と私が言うと、


「はあい」


 と息子が手のひらに乗せたそれを見せた。

 白く、冷たく、およそなだらかな半球状をしていた。

 緑の薄い板状の物体が二つ。

 小さな赤い粒が二つ。

 

 白は酸素の混入した氷の粒。緑の板は植物。赤い粒は植物の実。

 たしか、南天という植物の葉と、実だ。

 

「……兎?」


 息子が言った。


「兎? バカな。兎が冷たいはずがない」

「だってこの形――」

「兎は生命体だ。こんな半球状の生命体は存在しない」

「兎の死体?」

「違う。これは氷だ。氷の粒の塊だ」

「でも――」

「見ろ」


 私は南天の葉を指さした。


「これは植物の葉だ」

「耳だよ」

「耳は感覚器だ。植物ではない」


 いや植物は音を聞く。音ではなく音波を取得する。いや感取する。

 私は首を左右に振って私という情報体の外部で膨れ上がる情報を見まいとした。


「これは南天の実だ」

「目だよ」

「違う。目は感覚器だ。お前にもついている」

「でもこれは――」

「氷の粒の塊と、南天の葉と、南天の実を組み合わせた構造物だ」

「兎だよ……」

「パパに貸してみなさい」


 危険だ、と私は思った。

 情報はそこにあるだけで人に複製を与える。それも人という歪な情報体を通して付加情報を足した複製を。


 私が両手を差し出すと、息子は私の手に氷の粒の塊と南天の葉と実を組み合わせた構造物を乗せた。思わず顔をしかめたくなるほどの冷たいという情報が私の内側に流れ込んできた。危険だ。情報量が多すぎる。


「ほら、よく見てみなさい」


 と、私が手に乗せたそれを指さし説明しようとしたときだった。

 それが姿を変え始めた。

 半球状の塊が崩れ、南天の葉が傾き、実が床にポトリと落ちた。


「あ」


 と息子が言うのと、私がそれを床に投げ出すのは、ほとんど同時だった。

 氷の粒の塊と南天の葉と実はバラバラに散り、やがて氷の粒は溶けて水になった。


「見ておきなさい。これがだ」

「兎……」

「違う。だ」

「でも――」

 

 息子の瞳が潤んでいた。膨大な情報が含まれている。危険だ。

 息子は情報を取得しすぎた。


「戻りなさい。お前にはまだ早かった」

「……兎……」

「違う。情報を歪めてはいけない。戻りなさい」

「……はい」


 肩を落としトボトボと地下に戻る息子を見送り、私は床に広がる情報を見た。

 連鎖は止まっていた。

 

「兎……」


 私は取得したばかりの複製情報を吐き出した。

 袋に詰めた雪から現れた、息子という情報体を通して生まれた兎。


兎……」


 目に熱を感じた。

 はるか昔、いつか躰から溢れた情報が、世界のどこかで連鎖したのかもしれない。

 氷の粒の塊と南天の葉と実の集合体が兎であるという情報は正しいのだろうか。私という情報体は偽とする。

 

 情報は情報の正しさを担保する情報を持たない。

 息子にはまだ早すぎたのだと私は思う。

 それが正しい情報なのだと。


 しかし、その情報が正しいのか判断する情報を、私はまだ見つけられていない。

 分解され、極彩色に降り注ぎ世界を覆う情報をスコップですくい、私は私の息子のために私の持つ情報の正しさを担保する情報を探す。その正しさを担保する情報を探す。ために正しい情報を探す。


「……私は間違っている。私は正しいから間違っていて、正しい」


 私は矛盾する情報を生みだし、代わりに他の情報を分解し、溢れさせ、世界のどこかで新たなを降らせたに違いなかった。

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