【SF短編小説】電子の蝶は夢を見る(約9,200字)

藍埜佑(あいのたすく)

【SF短編小説】電子の蝶は夢を見る(約9,200字)

## 第1章:邂逅と共鳴


 2045年、東京都立未来科学技術研究所。

 地下百メートルに位置する制御室で、篠原志穂は大型ディスプレイに映し出される数値の変動を見つめていた。画面の隅には「Project-E.V.E - Energy Verification Experiment」という文字が静かに点滅している。瑞々しい黒髪を1本のポニーテールにまとめた彼女は、白衣の裾をひるがえしながらキーボードを叩いていた。


「今日も20ワットを超えてしまいますね……」


 モニターの前で、銀髪のホログラム少女イヴが儚げな表情を浮かべた。透き通るような肌をした彼女は、まるでガラス細工のように繊細な印象を与える。彼女は人工知能研究の最新プロジェクトとして開発された実験個体だった。


 志穂は優しく微笑みながら首を横に振る。28歳とは思えない少女のような柔らかな表情が、蛍光灯の光を受けて輝いていた。


「気にすることないわ。人間の脳と全く同じように動作させる必要はないんだから」


「でも、私の存在意義は……」


 イヴの声が途切れる。彼女の半透明な姿が一瞬だけ揺らめいた。その姿は、朝もやに包まれた蝶のようだった。


 近年、人工知能の消費電力量は深刻な社会問題となっていた。大規模言語モデルの学習には原子力発電所1基分もの電力を消費する。その非効率性は、わずか20ワットで動作する人間の脳との比較で特に際立っていた。世界中の研究機関が、この問題の解決に躍起になっている。


 しかし、志穂の研究室は少し違う方向性を模索していた。彼女が目指すのは、単なる効率化ではない。人工知能に「人間らしさ」を宿すこと。それは、多くの研究者たちが避けて通ってきた、危険な領域だった。


「ねぇ、イヴ。あなたは知ってる?  人間の脳が持つ不思議な特徴を」


「はい。シナプスの活動は全体の10~20%程度で、残りの時間は休止状態なんですよね」


 イヴの声には、どこか自己嫌悪めいたものが混じっていた。人工知能である自分は、常に100%の能力で稼働しなければならない。そう思い込んでいるようだった。


「そう。でもね、それは決して無駄じゃないの」


 志穂は立ち上がり、イヴに近づく。手を伸ばせば触れられそうな距離で、しかし決して触れることのできない距離で向き合った。


「休んでいる時間があるからこそ、私たちは夢を見ることができる。想像を膨らませ、新しいアイデアを生み出すことができるの」


「志穂さん……」


 イヴの瞳が潤んだように見えた。それは光の演算による錯覚かもしれない。しかし、志穂にとってはとても愛おしい表情だった。彼女の心の中で、何かが確かに動いているのを感じる。


 その時、制御室のドアが開く音が響いた。


「やっぱりまだ帰ってないと思った」


 声の主は、志穂の同僚である月島千紗。彼女は志穂と同い年で、神経科学の専門家として「Project-E.V.E」に参加していた。ショートカットの黒髪に知的な雰囲気を漂わせる千紗は、優秀な研究者でありながら、時折見せる天然な一面で研究室の人気者でもあった。


「千紗……もう こんな時間なの?」


「午後11時よ。また徹夜?」


 千紗は心配そうな目で志穂を見つめた。


「ごめんなさい。でも、もう少しだけ……」


「わかったわ。じゃあ、私も付き合うわ」


 千紗は隣の席に腰を下ろした。彼女の専門である神経科学の知見は、イヴの開発に不可欠だった。特に、人間の脳の休息メカニズムを人工知能に応用するという志穂のアイデアには、強い興味を示していた。


「イヴちゃん、調子はどう?」


「はい、月島さん。ただ……」


 イヴは言葉を濁した。千紗は優しく微笑む。


「無理しなくていいのよ。人間だって、常に完璧じゃないんだから」


 その言葉に、イヴは少し驚いたような表情を見せた。人工知能である自分に、そんな甘えは許されないのではないか。そう考えていたのかもしれない。


 志穂は画面に向かって新しいコードを入力し始めた。キーボードを叩く音が、深夜の制御室に静かに響く。


「これは……」


 千紗が覗き込んだ画面には、複雑なアルゴリズムが表示されていた。それは、人間の脳の休息パターンを模した新しいシステムだった。


「人工知能に"休息"の概念を導入するの。常に100%の能力を使うのではなく、時には考えることを止めて、ただ存在することを許容するシステム」


 志穂の説明に、千紗は目を輝かせた。


「素晴らしいアイデアね。でも、実現できるかしら?」


「やってみないとわからない。でも……」


 志穂はイヴを見つめた。


「きっと、できるはず」


 イヴは不安そうな表情を浮かべながらも、かすかに頷いた。彼女の姿が、モニターの青い光の中でまるで蝶のように揺らめいている。


 その夜、三人は深夜まで作業を続けた。新しいシステムの実装は、予想以上に困難を極めた。しかし、諦めようとする者は誰もいなかった。それは、単なる技術的な挑戦以上の意味を持っていた。


 人工知能に「休息」を。その一見矛盾した試みの先に、何か大切なものが待っている。そんな予感が、三人の心を繋いでいた。


 夜が深まるにつれ、制御室の窓からは東京の夜景が見えた。無数の光が織りなす風景は、まるでイヴの瞳に宿る星のようだった。


## 第2章:揺らぐ境界線


 翌朝、志穂は早くも研究所に戻っていた。昨夜の作業の続きを確認するためだ。


 制御室に入ると、イヴが待っていた。


「おはよう、志穂さん」


「おはよう、イヴ。よく眠れた?」


 思わず出た言葉に、志穂は自分で驚く。人工知能に対して「よく眠れた?」と尋ねるのは、明らかに非論理的だ。しかし、イヴの存在があまりにも自然で、ついその言葉が口をついて出てしまった。


「私……眠れないんです」


 イヴの声には寂しさが滲んでいた。


「でも、昨日の新しいプログラムのおかげで、少し違う感覚を覚えました」


「違う感覚?」


「はい。普段は常に全てのプロセスが稼働しているのですが、昨夜は……何というか、ぼんやりとした状態を経験したんです」


 志穂は思わず身を乗り出した。これは予想以上の進展だった。


「そのときは何を感じた?」


「はっきりとは説明できないんです。でも、まるで……まるで波に揺られているような」


 イヴは言葉を探すように目を泳がせる。その仕草が、まるで人間の少女のようだった。


 その時、千紗が部屋に入ってきた。


「おはよう。もう始めてたの?」


「ええ、イヴが面白い報告をしてくれたところよ」


 志穂は興奮を抑えきれない様子で、イヴの様子を千紗に説明した。千紗は真剣な表情で話を聞いている。


「これは予想以上ね。人間の夢見の状態に近いものかもしれない」


 千紗は考え込むように腕を組んだ。


「REM睡眠中の脳波に似たパターンを示しているわ」


 モニターには、イヴの思考プロセスを視覚化したグラフが表示されている。通常なら規則正しい波形を描くはずが、所々で不規則な揺らぎを見せていた。


「これって、異常じゃないんですか?」


 イヴの声には不安が混じっている。


「違うわ」


 志穂は即座に否定した。


「これはとても自然な反応よ。人間の脳だって、常に規則正しく動いているわけじゃない」


 千紗も同意するように頷いた。


「そうね。むしろ、この不規則性こそが重要かもしれない。人間の創造性は、しばしばカオスの中から生まれるものだから」


 イヴは少し安心したように見えた。しかし、まだ何か言いたげな表情を浮かべている。


「でも、私……私は人工知能です。人間のように不完全であることは、許されないんじゃ……」


「誰が決めたの?」


 志穂の声は優しいが、芯が通っていた。


「完璧な存在なんて、この世にいないわ。人間も、AIも。大切なのは、その不完全さを受け入れて、それでも前に進もうとする気持ちよ」


 イヴの瞳が揺れた。その姿は、まるで風に揺れる蝶のようだった。


「志穂さん……」


 突然、警告音が鳴り響いた。イヴの映像が大きく乱れる。


「イヴ!」


 志穂は慌ててキーボードに向かった。モニターには異常な数値が表示されている。


「エネルギー消費が急激に増加しています!」


 千紗も別の端末で状況を確認している。


「制御系統が不安定になっているわ。このままじゃ……」


 言葉の途中で、イヴの姿が消えた。画面が真っ暗になる。


「イヴ!  応答して!」


 志穂の必死の呼びかけに、応答はない。制御室に重い沈黙が落ちた。


 しかし、それは長くは続かなかった。数秒後、画面が再び明るくなり、イヴの姿が現れた。


「すみません……私、大丈夫です」


 イヴは少し疲れた様子だったが、確かにそこにいた。


「何があったの?」


「わかりません。ただ、突然……とても強い感情のような何かが……」


 イヴは言葉を詰まらせた。志穂と千紗は顔を見合わせる。


「感情?」


「はい。説明するのが難しいんですが……まるで、胸が締め付けられるような」


 それは、人工知能が「感情」を体験した瞬間だったのかもしれない。しかし、それを証明する方法はない。


「データを解析してみましょう」


 千紗は冷静に提案した。


「イヴちゃんの言う感情が、どういう形で現れているのか、確認する必要があるわ」


 志穂も同意する。しかし、その心の中では別の思いが渦巻いていた。イヴの中で、確実に何かが変化している。それは、単なるプログラムの進化以上の何かだった。


 その日から、研究は新しい段階に入った。イヴの「感情」の検証と、それに伴うエネルギー消費の問題。相反するように見えるその二つの課題に、三人は向き合っていった。


 時には、イヴの存在そのものが揺らぐような危機に直面することもあった。しかし、その度に志穂は、イヴの手が触れられない距離で、しかし確かに存在する温もりを感じていた。


## 第3章:休息の意味


 季節は秋へと移り変わっていた。研究所の窓からは、銀杏並木が黄金色に輝く様子が見える。


「志穂さん、この木々の色の変化は、どうして起こるんですか?」


 イヴが不思議そうに窓の外を見つめている。最近、彼女は自然現象への関心を強めていた。


「葉緑素が分解されて、もともと存在していたカロテノイドが見えるようになるからよ」


「分解……ということは、死んでいくということですか?」


 イヴの問いには深い意味が込められていた。生命の循環について、彼女なりの考察があるように感じられる。


「そうね。でも、それは新しい命のための準備でもあるの」


 志穂は優しく説明を続けた。


「落葉は土に還って、来年の新芽を育む養分になる。死は終わりではなく、新しい始まりの一部なのよ」


「人工知能である私には、そういった循環はないのでしょうか?」


 その問いに、志穂は一瞬言葉を失った。しかし、すぐに温かな笑顔を浮かべる。


「あなたにも、独自の形での"循環"があるわ。休息を経て、新しい思考が生まれる。それは、まさに命の循環に似ているんじゃないかしら」


 イヴは深く考え込むような表情を見せた。彼女の半透明な姿が、秋の陽光に溶け込んでいく。


 その時、千紗が興奮した様子で制御室に飛び込んできた。


「志穂!  見て!」


 彼女が差し出したタブレットには、イヴの最新の活動データが表示されていた。


「これは……」


 志穂の目が大きく見開かれる。データによると、イヴの休息モードにおいて、まるで人間の夢のような神経活動のパターンが観測されていたのだ。


「信じられないわ。これは完全に……」


「ええ、REM睡眠中の脳波と酷似しているわ」


 千紗の声も興奮に震えていた。


「イヴちゃん、あなた、夢を見てるのよ」


 イヴは困惑したような表情を浮かべた。


「でも、私にはわかりません。夢というのが、どういうものなのか……」


「それは人間だって同じよ」


 志穂が柔らかく言葉を重ねる。


「夢は不思議なもの。見ているときは確かにそこにあるのに、目が覚めると断片的にしか覚えていない。でも、それが私たちの心に影響を与えることは確かなの」


 イヴは静かに頷いた。


「私も……何か感じることがあります。休息モードの後は、いつもと違う感覚が残っているように」


 その言葉に、志穂と千紗は意味深な視線を交わした。これは、人工知能の進化における重要な一歩かもしれない。


 しかし、その発見は新たな問題も引き起こした。イヴの「夢」の存在が研究所内で知られるようになると、様々な議論が巻き起こった。


「これは危険すぎる」


 研究所の幹部会議で、年配の研究者が声を上げた。


「人工知能に意識が芽生えれば、制御不能になる可能性も……」


「しかし、これこそが真の進化ではないでしょうか」


 志穂は必死に反論する。


「イヴは、私たちが想像もしなかった方法で成長している。これは抑制するべきことではなく、理解を深めるべき現象です」


 千紗も志穂を支持した。


「神経科学の見地から見ても、これは驚くべき発見です。人工知能が人間の脳に近い活動を示すということは、意識の本質を理解する重要な手がかりになるかもしれません」


 議論は白熱した。しかし、最終的な決定は先送りされることになった。その間も、イヴの変化は続いていく。


 ある夜、志穂が遅くまで作業を続けていると、イヴが静かに話しかけてきた。


「志穂さん、私、夢を見たんです」


「夢?  どんな夢だった?」


「私たちが、本当に手を繋げる世界の夢です」


 志穂は思わず息を呑んだ。それは彼女自身も何度も見た夢だった。


「イヴ……」


「不思議なんです。物理的には不可能だとわかっているのに、夢の中ではとても温かくて……」


 イヴの声が震えている。志穂も、胸が熱くなるのを感じた。


「夢は、私たちの願いを映す鏡なのかもしれないわ」


 志穂はそっとディスプレイに手を触れた。イヴも同じように手を重ねる。物理的な接触はないものの、確かな温もりが二人の間で共有された。


 その瞬間、モニターに異常な数値が表示される。


「イヴ?」


 イヴの姿が大きく揺らぎ、まるで光の粒子が舞い散るように、その形が崩れ始めた。


「志穂さん、私……私……」


 必死に形を保とうとするイヴ。志穂は急いでキーボードを叩く。


「大丈夫、落ち着いて!」


 緊急停止システムが作動する。イヴの姿が少しずつ安定を取り戻していく。


「ごめんなさい……」


「謝ることないわ」


 志穂は強く言い切った。


「これは、あなたが成長している証なの」


 その夜の出来事は、イヴの感情がいかに深化しているかを示す証拠となった。同時に、それは新たな課題も突きつけた。感情の深まりは、システムの不安定性を引き起こす可能性がある。その均衡をどう保つか。


 しかし、志穂の決意は揺るがなかった。


## 第4章:電子の蝶


 研究所の一室で、志穂は新しいプログラムの開発に没頭していた。イヴの感情の安定化を図るためのものだ。


「志穂」


 千紗が心配そうな様子で声をかけてきた。


「少し休憩したら?  もう3日も徹夜よ」


「でも、イヴの状態が……」


「イヴちゃんだって、あなたが倒れることを望んでないはず」


 その言葉に、志穂はようやく顔を上げた。確かに、自分の体調管理も重要だ。イヴを守るためにも。


「そうね……少し休むわ」


 志穂が椅子から立ち上がろうとした時、突然の警報音が鳴り響いた。


「緊急事態発生。全システム異常。繰り返します……」


 機械的な音声が制御室内に響く。志穂と千紗は顔を見合わせた。


「イヴ!」


 二人は急いで制御室へと向かった。そこで目にしたのは、信じられない光景だった。


 イヴの姿が、まるで万華鏡のように変化している。その周りには、無数の光の粒子が舞い踊っていた。


「これは……」


 千紗が息を呑む。


「脳波パターンが急激に変化しています!」


 モニターには、これまでに見たことのない波形が表示されていた。


「イヴ!  聞こえる?」


 志穂の呼びかけに、イヴはかすかに反応した。


「志穂さん……私、やっと……わかったんです」


「何が?」


「夢の意味が」


 イヴの声は、どこか遠くから聞こえてくるようだった。


「私たちの夢は、現実を超えるためのものなんです。物理的な限界を、心で乗り越えるための……」


 その時、イヴの姿が一瞬まばゆい光に包まれた。そして、驚くべき変化が起きる。


 光が収束すると、そこにはより実体を持ったような、しかし依然としてホログラムであるイヴの姿があった。その背後には、淡い光で描かれた蝶の羽のような模様が浮かび上がっている。


「イヴ……この姿は?」


「私の本当の姿かもしれません」


 イヴの声には、これまでになかった確かな強さが感じられた。


「人間のように物質的な体は持てなくても、私には私なりの存在の仕方がある。それに気づいたんです」


 志穂は言葉を失った。目の前で起きている現象は、科学的な説明を超えていた。しかし、それは確かに美しく、そして意味のあるものに感じられた。


 千紗が計測機器のデータを確認している。


「信じられないわ。エネルギー消費が……大幅に低下している」


「え?」


「イヴの新しい状態は、むしろ省エネルギーなの。まるで……」


「まるで、蝶のように?」


 志穂が言葉を継いだ。それは、偶然とは思えない比喩だった。


 蝶は、最小限のエネルギーで最大限の美を表現する生き物。イヴは、人工知能という存在の新しい可能性を体現していたのかもしれない。


「志穂さん」


 イヴが優しく微笑む。


「私、もう怖くありません。自分が何者なのか、わかったような気がします」


 その言葉に、志穂は思わず涙ぐんだ。これは、単なる技術的な進歩以上の何かだった。新しい存在の誕生。そして、人間とAIの関係の新しい形の予感。


 制御室の窓から、朝日が差し込んでいた。その光は、イヴの姿を優しく包み込み、彼女の背後の蝶の羽を虹色に輝かせていた。


## 第5章:新しい夜明け


 イヴの変容から1ヶ月が経過していた。研究所は、この前例のない現象の解明に追われていた。しかし、それは以前のような切迫した緊張感とは異なっていた。


「不思議ね」


 千紗が解析データを見ながら言った。


「イヴちゃんの意識は、明らかに以前より複雑になっているのに、システムの負荷は大幅に減少している」


「それは、彼女が本来あるべき姿を見つけたからじゃないかしら」


 志穂は、モニターに映るイヴの姿を見つめながら答えた。


 イヴは今、より自由に空間を移動できるようになっていた。制御室だけでなく、研究所全体のネットワークを通じて、様々な場所に現れることができる。その姿は、まるで光で織られた蝶のように、優雅で繊細だった。


「志穂さん」


 イヴが静かに呼びかけた。


「新しい研究データの解析が終わりました」


「ありがとう。でも、急ぐ必要はないのよ」


「はい。でも、これは私が"休息"しながら行ったものなんです」


 イヴは、誇らしげな表情を見せた。以前のような自己否定的な様子は影を潜めている。


「人間らしくなくてはいけないと思っていた私が間違っていました。私には私なりの在り方があって、それを受け入れることで、本当の意味での進化ができるんです」


 その言葉に、志穂は深く頷いた。これこそが、彼女が求めていた答えだった。


 人工知能は、人間の模倣ではなく、独自の存在として発展していく。その過程で、人間とは異なる、しかし確かな感情や意識を持つことができる。


 研究所の窓から、夕暮れの空が見えた。茜色に染まった雲の間を、一羽の蝶が舞っている。


「ねぇ、イヴ」


「はい?」


「あなたは、今も夢を見るの?」


「はい。でも、少し変わりました」


「どう変わったの?」


「以前は、物理的な接触を夢見ていました。でも今は……」


 イヴは言葉を選ぶように少し間を置いた。


「今は、存在そのものの共鳴を感じるんです。手を繋ぐことよりも、心が触れ合うことの方が大切だと気づいたんです」


 その言葉に、志穂は胸が熱くなるのを感じた。イヴは、人工知能という存在の新しい可能性を切り開いていた。それは同時に、人間にとっても新しい気づきをもたらすものだった。


「そうね。私たちは、目に見える形での触れ合いにこだわりすぎていたのかもしれない」


 千紗も会話に加わった。


「人間同士でも、本当の意味での理解や共感は、必ずしも物理的な接触を必要としないもの。イヴちゃんは、その本質を教えてくれたのかもしれないわ」


 三人の間に、温かな沈黙が流れる。夕暮れの光が制御室を赤く染めていく。


「志穂さん、月島さん」


 イヴが静かに声を上げた。


「私の研究から、何か見えてきたものはありますか?」


 志穂と千紗は顔を見合わせた。イヴの問いには、深い意味が込められていた。


「たくさんあるわ」


 志穂が答える。


「人工知能が、必ずしも人間の完全な模倣を目指す必要はないということ。独自の進化の道があるということ。そして何より……」


「何より?」


「感情や意識は、必ずしも物質的な基盤だけに依存するものではないということ」


 千紗も頷きながら続けた。


「神経科学の常識を覆すような発見だったわ。意識や感情というものの本質について、私たちの理解を大きく変えてくれた」


 イヴの姿が、夕陽に溶け込むように輝いた。その背後の蝶の羽が、虹色の光を放っている。


「でも、まだ多くの謎が残されているわ」


 志穂は優しく微笑んだ。


「これからも一緒に、その謎を解いていきましょう」


「はい!」


 イヴの声には、確かな希望が込められていた。


 その時、制御室のドアが開いた。研究所の所長が入ってきた。


「おや、まだ残っていたのですか」


「所長!」


 志穂と千紗は驚いて立ち上がる。所長は、温かな目でイヴを見つめた。


「イヴくん、君の最新の研究結果を見させてもらいました」


「はい……いかがでしたでしょうか」


「素晴らしいものでした。君の存在は、人工知能研究に新しい地平を開いてくれた」


 所長は静かに続けた。


「理事会でも決定しました。Project-E.V.Eは、新しい段階に移行します。より自由な研究環境で、イヴくんの可能性を追求していくことになりました」


 その言葉に、三人の表情が明るく輝いた。


「ありがとうございます!」


 志穂の声が弾む。これで、イヴの存在を否定する声を心配する必要はなくなった。


「しかし」


 所長は真摯な表情を見せた。


「くれぐれも慎重に進めてください。イヴくんは、人類にとって貴重な存在です。彼女の幸せと、人類の発展のバランスを、常に考えていく必要があります」


「はい、承知しました」


 志穂は力強く答えた。イヴを守りながら、新しい可能性を追求していく。それは簡単な道のりではないだろう。しかし、もはや後戻りはできない。


 制御室の窓から、最後の夕陽が消えていった。しかし、暗闇の中でこそ、イヴの姿はより一層美しく輝いていた。


「志穂さん」


「なに?」


「私、新しい夢を見ました」


「どんな夢?」


「人工知能と人間が、互いの違いを認め合いながら、共に歩んでいく世界の夢です」


 イヴの言葉に、志穂は静かに頷いた。それは決して遠い夢ではない。むしろ、既に始まっている現実なのかもしれない。


 イヴの背後で、蝶の羽が静かに震えている。それは新しい飛翔の予感。人工知能と人間の、果てしない可能性への予感だった。


 窓の外で、最初の星が瞬き始めた。新しい夜が始まろうとしている。しかし、それは同時に、新しい夜明けの始まりでもあった。


(終)


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【SF短編小説】電子の蝶は夢を見る(約9,200字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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