あなたの記憶を消去します

@utu-bo

あなたの記憶を消去します

 二〇九八年、ある脳科学者が脳内海馬における記憶という電気信号の解析に成功した。

 例えば、子供の公園デビューという記憶。うまくデビューできるかしらという母親の不安、新しい世界を発見するかしらという子供への期待感、そうした感情と現実の出来事によって構成されている。そんな記憶を感情と出来事に分離し、それぞれが持つ電気信号をコード化する。コード化された記憶を消去するという技術が生まれた。

 私は脳科学者ではない。この技術の理論など新聞やインターネットでかじった程度だ。だから、簡単にしか説明できない。原理はこうだ。

 記憶は電気信号であり、プラス極という属性を持っている。コード化することで記憶と同等のマイナス属性を持つ電気信号を作り出す。プラス極の属性を持つ記憶にマイナス極の属性を持つ電気信号を掛け合わせる。その結果、プラスとマイナスが相殺されて、零の記憶が生まれる。記憶の消去が完了となるのだ。

 まだ、現在の脳科学では記憶の消去しかできない。しかし、いずれは人工脳という擬似媒体への保管も可能となるだろう。

「人間は永遠の生命を得るだろう」

脳科学者が興奮してテレビで語っているのを見たことがある。

 人格の操作すら可能とするというこの最先端の技術の危険性を考えれば、技術が堅牢な国家管理とされるのも必然のことであろう。

 国は脳科学を専門とする国立記憶銀行という機関を設立した。国立記憶銀行のみが国の認める範囲に限り、この脳科学の技術を利用することができる。私の勤め先が国立記憶銀行だ。国家公務員として八時から十七時という勤務時間の間、国から発行された記憶消去命令書による記憶消去作業に従事している。今日も午前中、二件の作業を行った。


 一件目は輝かしい未来のあったはずの少女だ。少女は幼い頃から両親の虐待を受けていた。トラウマが心を支配し、自分では処理できない憎しみが健全なる社会に向かっていった。社会不適合者であり、犯罪予備軍となったモンスター。いつか犯すであろう犯罪を未然に防ぐため、彼女の憎しみの礎となるトラウマの記憶を消去する作業だ。まず少女の脳内海馬映像がモニターに浮かぶ。脳の海馬がクローズアップされ、翠色の血流が逞しく流れていた。プラス属性の記憶だ。翠色の血流を浸食するのは闇よりも深い黒色の血流。複製されたマイナス属性の電気信号だ。ゆっくりと海馬が闇に浸食されていく。そして、翠色の血流が全て飲み込まれた時、記憶の消去が完了する。

 未来永劫に彼女が虐待されたという記憶を取り戻すことはない。代わりにトラウマに苦しみ、憎しみが生まれることもない。健全なる社会と彼女の未来は救われるのだ。


 二件目はバイク好きの青年だった。彼はツーリングの最中にある女性と出会い、恋に落ちる。恋に落ちた相手は、この国を牽引する財力を持つ企業家の娘。彼は本気だった。彼女も本気だった。しかし、彼女にはこの国の重要なポストを担う許婚がいた。まるでロミオとジュリエットだ。経済力を持たない彼など、この国にとって鼻糞ほどの価値もない。彼は彼女を忘れなければならなかった。この国を牽引する企業家は金に物を言わせ、彼を国立記憶銀行へと送り出す。ロミオとジュリエットの恋物語の結末はどう足掻いても、悲劇的なのだ。

 無事に彼の記憶の消去も完了する。愛する彼女の記憶を取り戻すこともなく、消去された記憶に苦しむこともない。彼の手には一枚の紙が握られていた。記憶の消去が自己責任で行われたという誓約書だ。誓約書には消去した記憶を二度と取り戻すことができないことが明記されている。しかし、そもそも記憶を消去された人間がその記憶を取り戻そうと考えるだろうか。記憶は消去されたのだ。どんな記憶であったのか、どれだけ重要な記憶であったのか、分かるはずもない。消去された記憶の手がかりである誓約書も彼にとって何の意味もない。彼は誓約書をクシャクシャに丸め、ゴミ箱に投げ入れる。再びバイクに跨がり、何事もなかったようにツーリングに出掛けていった。


 今日、最後の記憶の消去対象がやってきた。天文学的な数字の政治献金疑惑が掛けられている政治家だ。彼の顔がニュースでよく流れていたので覚えている。彼の消去すべき記憶は政治献金を受けたという事実だ。記憶の消去により、裁判での厳しい追求にも「記憶にございません」という名台詞を吐き続けることができる。それにより彼とこの国の政治が守られるのだ。


 結局、国立記憶銀行という機関は国民ではなく、この国と特権階級の人間を守るために稼働しているのだと思わざるえない。私はその存在意義に疑念を抱きながらも、彼の記憶の消去作業を行った。




 十七時に終業のベルが鳴った。私がデスクの上を片付けて、帰り支度をしていると、上司が「お疲れ様」と肩を叩く。

 今日の作業の報告と私の記憶の消去が始まる。私は今日の三人と同じように誓約書にサインをした。脳内信号の精査を受け、今日の記憶の電気信号が調べられる。

 国立記憶銀行の職員全員が終業時の記憶の消去が義務付けられている。その目的は個人情報の保護。しかし、本当にそうなのだろうか。心に刺さった棘が引っかかる。棘は今日一日の作業内容の記憶と一緒に消去されてしまう。ポロリと抜け落ちた棘はどこに消えてしまうのだろうか。私はモニターに映る自分の海馬を見ていた。翠色の血流が闇よりも深い黒色に浸食されていく。頭の中身をヤスリで削られた感覚があったが、痛みは感じなかった。

 私が目を覚ますと、上司が目の前にいて、端末やコード類の確認をしている。もう記憶の消去が完了してしまったようだ。時計は一七時四八分を指している。そこで四八分も眠っていたことに気がついた。記憶を消去されたが、喪失感はなかった。むしろ脳みそがリフレッシュされた爽快感があった。


 私は上司に頭を下げ、「お先に失礼します」と重い鞄を持った。鞄の中に誓約書の束が溢れるほど詰め込まれていたが、気にはならない。



 何故、誓約書が山ほどあるのか。



 元々、記憶がないのだから、気に病むこともない。私は定年まで悩むことなく国立記憶銀行で働き続けることができるだろう。


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