顕現 ~或いは、祈り~
皐月あやめ
或いは、祈り
夕闇に祭囃子が聴こえる。
まもなく
いや、祭囃子に紛れるように耳に届く、泥水のように濁った足音から、逃げていた。
ピーヒャラ、カンカン、ドンドンドン。
ひたり。ひたり。ひたり。
涼子は子供の頃から、稀に不思議なモノを視たり、不可思議な現象に遭遇したりしていた。
それは黒い
かと言って、その
ピーヒャラ、カンカン、ドンドンドン。
ひたり。ひたり。ひたり。
まだ幼く、ソレが何なのか分からなかった頃は、不用意に周囲に漏らし両親を困らせたり、友人達に気味悪がられたりもした。
口汚い罵りを浴びせられたこともあった。
だから成長するにつれ、涼子は固く口を閉ざし、視えないふりをして、己の心を守ってきたのだった。
ピーヒャラ、カンカ……、ドンドン……。
ひたり。ひたり。びたり。
祭囃子が遠のいていく。
迫る足音が近づいて来た。
夏だというのに異様に寒い。
浴衣の
大人になっても、結婚して子供を産み、孫から「ばぁば」と呼ばれるようになろうとも、涼子の体質は変わらなかった。
ただ年齢と共に、幾分かは鈍くなってきてはいるようで、所謂『怪異』に遭遇する頻度は減っていた。
たが、今はちょうどお盆の時期だ。
生きている人達とそうでないモノたちが混じり合う。
地獄の釜の蓋が開き、亡者共が現世に還って来る。
あの世とこの世の境が曖昧になる。
びたり。びたり。びた、びた、びた。
祭囃子が止んだ。
逃げなければ。早く。せめて神社に着けば。
びたっ、びたっ、びたっ。
足音が小走りになった。
追いつかれる。追いつかれる。
気づけば背後から、ドブのような酷い臭いも漂ってきている。
こんなことは初めてだ。
こんなに禍々しい気配を、涼子は五十手前のこの歳まで感じたことがなかった。
どうしたことか、辺りが暗い。
幾ら北国の夕暮れとは言え、夏の盛りだ。
陽が落ちるには早過ぎる。
街灯は?この暗さなら、街灯が点くはずなのに。
それに、それにいつまで坂を登れば辿り着くのか。
本来なら舗装された坂道の先に、鳥居までの石段が続いているはずなのに。
どうして、どうしてとそればかりが頭を巡る。
それでも涼子は足捌きの悪い浴衣の裾を、信玄袋を持ったまま掴み上げ、一心不乱に走り続けた。
びたびたびたっ。びたびたびたっ。
ソレは恐らく、もう手の届くところまで迫っている。
嫌らしい足音。得体の知れない、生臭い気配。
耳元ではぁはぁと聴こえるのは、自分の荒い息遣いか、それとも。
その時、涼子の左手が、ぐいと後ろに引かれた。
信玄袋をもっていない方の手だ。
ヒッと空気の塊を飲み込む。
いやだ、捕まった。捕まってしまった——
「ばぁば!」
ハッとして声の方へと頸を回すと、まだ幼い孫が、小さな両手で自分の左手を握りしめていた。
「ばぁば、いたい」
「——
まだ三歳にもならない可愛い盛りの孫の信長が、大きな瞳に涙をいっぱいに溜めて、祖母である涼子を見上げている。
紺の滝縞の甚平を身につけて、足元はスポーツブランドの子供用サンダルでオシャレをした孫との、お祭りデートの最中だったことを涼子は思い出していた。
そうだ、その途中からあの足音がついて来て。
びたびたびたっ。
はぁはぁはぁ。
そして、すぐそこに、居る——
「ノブくん!」
涼子はしゃがみ込み信長を抱きしめた。
「ごめんね、ばぁば、引っ張っちゃったね。痛くしてごめんね。でも神社までもう少しだから、もう少しだから!」
孫の小さくて柔らかい頬を撫でながら、この子だけは守らなければと、涼子は無理やり笑顔を作り震える声で語りかける。
はぁはぁ。はあぁぁぁ。
そんな涼子の耳朶に生臭い吐息が吹きかけられた気がして、全身にぞわりと怖気が走った。
「ばぁば、こわいの、いる」
——え?
「うしろ、くさくてこわいオジサン、きた」
信長の言葉に、涼子は弾かれたように顔を上げた。
頸を巡らせても、自分達の背後には、闇。
闇、闇、闇しか涼子には視えない。
ただ、ずっと、禍々しい気配だけが間近にあるだけだった。
「ノブくん……?」
——まさか。
ギュッと信長を抱きしめる腕に力が入る。
その腕はみっともないくらいに、ガタガタと震えていた。
「オジサンこわい!イヤッ!キライッ!」
信長が泣き叫びながら、涼子の浴衣にしがみつく。
大粒の涙を零すその瞳は、薄い水の膜が張られたかのように澄み渡り、闇の中にあって淡く微かに光り輝いていた。
まさか、この子は。
涼子の腕の中で、信長が背後の闇を睨みつけるようにして、視線をあげる。
ぼろぼろと涙で頬を濡らしながら、すうと大きく息を吸い、気丈にも闇に向かって言い放った。
「こないで」
ざわり。
気配が、一歩退いたかのように、涼子には感じられた。
「ばぁばにちかづかないで」
ざざ、ざ。
ふたりを取り巻く空気から、生臭さが薄れつつあった。
「どっかいっちゃえ!」
信長が
ザアッ!!
まるで一陣の風が吹き飛ばしてしまったかのように、それまで涼子と信長を恐怖に陥れていた禍々しい気配が霧散した。
気づけば闇も払拭されており、辺りの景色も当たり前のようにそこにあった。
ぽつぽつと灯る街灯の火。
夕闇に浮かぶ夏の木立。
連なる先には、朱塗りの鳥居。
ふたりは石段前の小さな広場に座り込んでいた。
何だったのか、今のは。
どうなったのだろう。
あの得体の知れない、恐ろしいモノは。
消えた?
どこかに、行ってしまった?
孫の、信長の言葉のとおりに……?
解らない。
涼子ごときでは、何も解らなかった。
ただひとつ確かなことは、危機は去ったということだけ。
ピーヒャラ、カンカン、ドンドンドン……
遠くに響く祭囃子を聴きながら、涼子は信長の顔を覗き込む。
まだ僅かに涙の溜まった両の瞳。
その色が、淡い緑に染まっている。
「ノブくん」
呼ばれた信長がパチパチと瞬きを繰り返す間に、その瞳は元の濃褐色に戻っていった。
「ばぁば?」
キョトンとした表情で小首を傾げる愛らしい孫を見て、涼子は愕然とした。
この子は、信長は、自分の体質を受け継いでしまっている。
しかも、強い。
自分なんかより、余程強い
自分の実の娘であり、信長の母親である
ああ、まさか、信長が——
自身の幼い頃からの苦い記憶を思い出し、涼子は孫のこれからの長い人生を想い、幼く華奢なその身を強く抱きしめた。
わたしはこの子に何をしてやれるのだろう。
「くるしぃよ、ばぁば」
「ノブくん、よく聞いてね」
むずがる信長の、涙の跡が残る水蜜のような白い頬を両の掌で包み込み、涼子はいつもと変わらないその瞳の奥を見つめ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「もう、知らない人を視てはダメ。それから、お名前を訊かれても、教えちゃいけないよ」
「どうして?」
「今みたいに、怖い思いするの、やでしょ?」
「こわいの、やだッ」
信長が、涼子の胸に飛び込んでくる。
その柔らかい髪を撫で、鼻先を埋めると、子供特有の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
幸せの匂いだ。
「あとね、知らない人を、お家に呼んだりしてもダメだよ」
「えー、おともだちはぁ?」
「お友達はいいよ。たくさん連れておいで」
やったぁと喜ぶ孫に微笑んで、涼子は小指を差し出した。
「それでもノブくんが怖くなったときは、ばぁばのとこまで走っておいで。ばぁばがノブくんを守ってあげる。だから、ばぁばとお約束してね」
本当に、守ることが、出来るだろうか。
それでもこの子には、自分しかいない。
この子を本当に理解してあげられる人間は、自分しか……。
信長は、丸くて白い手を持ち上げ、涼子の小指に自身の短い小指を絡めた。
そして大好きな祖母に向かって、ふにゃっと笑う。
「ノブくんね、ばぁばとおやくそく、できるよ!」
他人には理解され難い『異能』を持つ祖母と孫は、指切りげんまんの歌を唄いながら、改めて強く手を繋いだ。
「ノブくん、神様にお参りして行こうか」
「うん!ノブくん、あかいの、すき!キレイ!」
キャッキャと跳ねるように、全身で喜びを表す孫の手を引き、涼子は石段をゆっくりと上がる。
この子に綺麗と言われるならば、この街の氏神様は、間違いなくそこに
涼子は願わずには居られなかった。
強い
ならばどうぞ。
どうぞこの子をお護りください。
どうか、どこへも連れて行かないで——
「ばぁば〜、ノブくんおなかすいたぁ。あめりかんどっぐ、たべたい〜」
涼子の手をブンブンと揺すりながら、信長が幼子らしい駄々を捏ねだした。
クスクスと涼子の口から、思わず笑いが漏れる。
「わかった、わかった。したらお砂糖いっぱいかけてもらおうね」
「おさとぅいーっぱいッ!おやくそくね!」
瞳をキラキラ輝かせる信長と、ふたたび指切りげんまんの歌を唄う。
その旋律に、祭囃子が重なり合う。
夏祭りの夜は、始まったばかりだった。
了
顕現 ~或いは、祈り~ 皐月あやめ @ayame
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