鄙の消光、戦争と疎開

鬼伯 (kihaku)

第1話 戦争と疎開

01 福田須磨子


 私の朝餉はおそい。食卓から外を見る。窓ガラスの向こうの緑があえいでいる。ノウゼンカズラやニチニチソウは負けないぞといってヘッチャラふうだが、草木の緑は朝からこれじゃたまらねえとヒーヒーだ。そのヒーヒーもエナジーを消耗しないようにソォーっとあえいでいる感じで、ああ気の毒なこった。

 8月6日は広島忌で、7日が立秋、9日は長崎忌だった。鈴木史朗・長崎市長は平和宣言で「原爆を作る人々よ!/しばし手を休め/眼をとじ給え」と切りだした。福田須磨子(1922-74)の詩「原爆を作る人々に」(詩集「原子野(げんしや)」)の冒頭部だ。福田は23歳で被爆、原爆症と闘いながらも原爆の悲惨さを訴えた長崎の詩人。昭和43年1968年、『われなお生きてあり』で第9回田村俊子賞受賞。

 鈴木市長はつづける、「福田さんは詩の最後で、こう呼びかけました。『原爆を作る人々よ!/今こそ ためらうことなく/手の中にある一切を放棄するのだ/そこに始めて/真の平和が生まれ/人間は人間として蘇ることが出来るのだ」と。

 私はいままでこういう宣言は、形のものだ、宣言のためのものだ、と思っていた。

人間は善悪をおいて、開発したものを使わなかった試しはないのだから、と考えていた。だが、福田須磨子のこの詩を知って考えを改めた。しぜんに改まった。落ちついて考えてみた。麻薬をたのしむ、ギャンブルをたのしむ、これらは人間が開発したものだが、私はしないでいられる。刀がある、鉄砲がある、これも開発物だが、私はそれを使って何か悪さをしようという気はない。

 そうだ、原爆もおなじだ。原爆と刀や鉄砲とをおなじ土俵で考えるのは無理があると嘲笑する人もいよう。しかしそれは以前の私自身とおなじで、無責任に現状を容認する姿勢だ。そうだ、原爆も使わないでいられるのだ。そんなことに、私は長く気がつかなかった。それで平気でいられた。何という残酷でコウマンチキであったろう。

 単純なことをむずかしく考える、これは現代人の悪弊である。むずかしいことは単純にして目の前にさらそう。どんな信念だか、どんな宗教だか、どんな理屈だか知らないが、人を殺してもいいなんていう信念も宗教も理屈もいかがわしい。そう思わないか友よ、そう思いませんか秀才の皆さん。

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02 訂正記事


 ニチニチソウの中にマリーゴールドが一つ立ちあがった。クリムゾン(crimson)とピンキッシュなニチニチソウの中にあっても、1本だけなのにピュアーイエローのマリーゴールドははなやかだ。クジャクソウ、マンジュギクの名ももつ。ところで、マリーってなんだと思ったら、聖母マリアにちなむという。で、聖母マリアって何。ああ、イエスの母親のことかァ。

 某日の新聞、社会面に訂正記事があった。原文タテ書き。タイトル「訂正して、おわびします」。中の文章は次のとおり(全文)。

「▼14日付社会面の国家公務員一般職試験の合格発表の記事で、技術系合格者の定員割れが現行制度で『初めて』とあるのは『2020年度以来』の誤りでした。見出しとともに訂正します。人事院の発表時の説明に誤りがありました。」

 特段のことはない訂正記事だ。それも人事院がまちがって発表したというのだから気の毒といってよい。官庁発表を鵜呑みにするからだという厳しい意見もあろうが、警察の事件発表や政治家の目くらまし発表ならまだしも、人事院の発表では仕方あるまい。あえていえば、「人事院の発表時の説明に誤りがありました」で済ませるのではなく、「人事院の発表時の説明に誤りがあったのに、わたくしども(当社)がチェックを怠りました」くらいが望まれるか。

 行きがけの駄賃のごとく加えれば、私は「弊社」という言い方がきらいだ。ウソっぽい。装っている感じがする。旧来の「当社」のほうが誠実に思われる。「当」は「まさに…べし。あたる。むきあう。該当する」だから「このわたしが」「このわたくしどもが」と自分から逃げない姿勢が見える。だが「弊」は「たおれる。やぶれる。わるい。そまつ」から来る謙称で、「ウソいえ、そう思ってないくせに」と返したくなるのだ。

 もどる。訂正記事についてはずっと願っていることがある。新聞の訂正記事は第1面に載せてほしい。社会面の記事だから社会面に、文化面の記事だから文化面に訂正記事を載せるという発想は分からないではない。だが、訂正記事はやっぱり第1面だ。大手の新聞がそうすることによって日本のジャーナリストの姿勢が示せる。それに習うところも出てこよう。こそこそと訂正するような弊風は駄目だ。

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03 なつの夜の夢


 アサガオの咲いているのを見た。ゴミを出すのに6時すぎに起きたら一つ咲いていた。アサガオはヒルガオ科だという。サツマイモもヒルガオ科だと知って、そういえばと久方ぶりにサツマイモの花を思った。季語でいえばヒルガオは夏、アサガオは秋。時代錯誤の季語なんてどうでもよいが、8月が秋というのはどういうことだろう。旧暦では123月を春、456月を夏、789月を秋、101112月を冬とした。これは農事等に適さなかったので明治5年12月3日を以って旧暦を廃し、同日を明治6年1月1日として新暦とした。よって8月は秋である。

 気候学では、春は345月、夏は678月、秋は91011月、冬は1212月をいう。気候学というのは人間の生活と気候との関係を研究する学問だから気候と生活が近いのは宜(むべ)なるかなだ。天文学では、春は春分(3月21日ごろ)から夏至(6月21日ごろ)まで、夏は夏至から秋分(9月23日ごろ)まで、秋は秋分から冬至(12月22日ごろ)まで、冬は冬至から春分まで。二十四節季でいう立春は2月4日ごろ、立夏は5月5日ごろ、立秋は8月7日ごろ、立冬は11月7日ごろ。

 中秋の名月という言い方がある。旧暦(陰暦)の8月15日夜の月をめでるものだ。中秋とはどういうことか。旧暦では各季節を三つに分けて初中晩の語であらわした。春は初春1月、仲春2月、晩春3月。夏は初夏4月、仲夏5月、晩夏6月。秋は初秋7月、中秋8月、晩秋9月。冬は初冬=10月、仲冬=11月、晩冬=12月という按配。ついでに、中国では初中晩を孟(もう)仲(ちゅう)季(き)の語であらわす。孟はかしら、仲はまんなか、季はすえ。孟春、仲春、季春。孟夏、仲夏、季夏。孟秋、仲秋、季秋。孟冬、仲冬、季冬という具合である。

 シェークスピアの「真夏の夜の夢」の原題は“A midsummer night's dream”でMidsummerを真夏と訳したのだが、このmidsummerには真夏や盛夏の意味とは別に夏至(summer solstice;サマー/ソルスティス)の意味があり、第4幕第1場に“the rite of May”五月の行事(五月祭)とあるところから真夏ではなく「夏の夜の夢」になったという次第。坪内逍遙は「真夏」、福田恒存は「夏」、小田島雄志も松岡和子も河合祥一郎も「夏」。この戯曲のためにメンデルスゾーンが作曲した附随音楽は「真夏の夜の夢」。結婚行進曲でおなじみだ。

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04 ひぼう中傷


 今年はドクダミの花を見過ごしてしまった。いまごろそれに気がついた。毎年、ドクダミの白い花が咲くのを待っていた。見るとホッとするところがあった。匂いからか多くの人が嫌いだというドクダミを私は好きだ。だが、庭にあまりにはびこるので今年は早いうちに刈ってしまったんだったケ。

 ドクダミの漢字は蕺草。蕺(しゅう)はドクダミの意。毒を矯めるあるいは止めるでドクダミだと広辞苑は記すが、新明解国語辞典第7版は「だみ」はいろどる意の文語の動詞「だむ」の名詞形だとする。ナルホド。日葡辞書の「たむ」の項は「エノグ(絵具)デダム」の事例を載せている。広辞苑といえども全部信じちゃ駄目だ。

 昨日、NHKテレビ「日曜討論」は「ひぼう中傷・フェイク SNSとどう向き合う?」をテーマにしていた。ちょこっとだけ見た。プラットフォーマー規制法ウンヌンのことばが聞こえた。他に、過度なひぼう中傷に対する罰則強化、デジタルリテラシーの向上なども話題になったのではないかと想像する。これらどれも大事だというのは誰でもいえることだが、人の口に戸は立てられないのことわざどおり決定打はないから、あちこちに網を張りめぐらすしかないというのが実情だろう。

 噂話や作り話はいつの世もあって、悪さする。発信人が不明で不特定多数の人が「だそうだ」「そうに決まっている」「まちがいない」と未確認情報を拡散して被害者をつくりだす。一人ひとりは何気なく発しただけという意識だろうから、これが始末に負えない。

 最終的には各人の意識という雲を目の粗い網でつかむような話にならざるを得ないのだが、どっこい、これが遠まわりのようで近いと思う。むろん規制法や罰則との合わせ技が望まれる。2000年前、孔子はいった。「子(し)いわく、衆のこれを悪(にく)む、かならず察す。衆のこれを好む、かならず察す」(論語、衛霊公篇)。大意はこうだ。「孔子はいう。大ぜいの人が憎むときは、かならず調べてみる。大ぜいの人が好むときも、かならず調べてみる」

 私たちはともすると衆愚になり独裁者や村八分をつくる、その警告である。一人ひとりというのは面倒でも根幹だ。広辞苑であっても、偉い人の言でも、テレビでも新聞でも、鵜呑みは危険だ。大事な友をきずつけることになる。

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05 戦争と疎開


 トラノオが咲いている。虎の尾と名前はいかついが薄桃色がたおやかだ。うちのはハナトラノオとかカクトラノオと呼ばれるもののようだ。シソ科といわれると一瞬エッと反応するが思いあたる節もある。茎の断面が四角形なので角虎の尾ともいうそうだ。

 今日の新聞の読者投稿欄に、「『疎開もん』といじめにあう」というのがあった。投稿者は元大学教員の90歳を越えた人。東京から栃木足利方面に疎開したという。文末を抜粋するとこうだ。

「疎開先は織物工場の女子工員用の10畳ほどの部屋。歩いて約50分かかる学校に通い『疎開もん』と、いじめにあった。何より食べものがなかった。村の子どもは白いご飯の詰まった弁当を持ってくるが、疎開児童は小さいジャガイモ4個ほどが新聞紙に包まれているだけという感じだった。」(原文は縦書き)

 こういう話はよく聞いたり読んだりした。安全のためとはいえ知る人のいない所へ追いやられ、食べ物も乏しい上にいじめられたとあっては、恨み骨髄にしみこむだろう。子どものことだから哀れは一層だ。

 あるとき、私たちにこの種の経験談を語った上司は、田舎の残虐性のようなことを口にした。母親の高価な着物も二束三文で買いたたかれたともいった。田舎もんの私は自分が責められているような気がして、フウッという小さな溜息をそっと吐いた。溜息は、またか、というあきらめのようなものだった。

 ふだん都会もんは田舎もんを小馬鹿にしてきたではないか、しているではないか。都会の残虐性を田舎もんは知っている。田舎もんが都会でどれだけいじめられてきたか。だからといって仕返しを容認しようという意はない。残虐性は田舎だけにあるのではないといいたいのだ。高価な着物が二束三文でというが、田舎ではそんな着物を買っても着る時も場もないのだ。本当のところは買いたくもないのを同情して買ったのだ。

 田舎もんと都会人の戦争論ということを、私はずっと考えている。圧倒的多数の都会人が戦争を支持したのではなかったか。田舎もんの小さな声など届きはしなかったろう。原発にしてもそうだ。決定権は都会にある。多数決の怖さだ。

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06 親鸞とマロリー


 クコ(枸杞)の花が咲いた。今年は夏が暑くて花を咲かせる気分ではなかったのだろう、種々の花の咲きがおそい。国立研究開発法人・薬用植物資源研究センターのデータベースで「クコ」を検索する。ナス科だという。へェーこれがナス科かという感じ。英名はChinese matrimony vineとかChinese wolfberry。matrimony(マトリモニィ)は結婚、vine(ヴァイン)はブドウの木ではなく蔓性植物のこと。トランプでキングとクィーンをそろえると勝ちになるゲームをマトリモニというそうだ。

 私は小西政継(1938-96)という登山家が好きだ。思想家としても崇める。「100人もの大編成で登頂できるのは一人か二人、裕福な学生登山の延長線じゃないですか、みんな登頂したくって行くんです、だから私は少人数で全員登頂できる登山を志します」こんな話をしてくれたことがあった。世界の峰をめざす登山家でも武張ったところはなかった。私のような小僧っ子にも丁寧体で話してくれた。

 その小西政継が『マッターホルン北壁――日本人冬季初登攀』でいう。

「僕は長い登山生活を通して、山へなぜ登るのかとか、アルピニズムの固苦しい理論めいたことは、まだ一度も考えたことがない。よくエベレストに消えていったマロリーの『山がそこにあるから登るんだ』という言葉を引用し、堂々とそっくり真似して言い放っている登山家と称する人人が大勢いるが、僕にはこんな言葉はてきそうもない。マロリーがうるさくつきまとう、アルピニストの心なんかまったく理解することのできないマスコミ連中を煙にまくのに使ったこの言葉を、まじめくさって言い放っているのにはいつも苦笑している」(G.H.マロリー:1886-1924)

 至言だ。マロリーが笑顔で答えたとしても、そこにふてくされた意が見える。

 小西のこの眼識といっしょに思うのは浄土真宗の開祖/親鸞だ。善行をつめば仏さまにほめてもらえるという自力志向をしりぞけ、もともと阿弥陀さまが私たちのために祈ってくれているのだから南無阿弥陀仏(阿弥陀さま宜しくお願いします)と唱えればよい。ごくごく簡単にいえば親鸞の考え方はこういうことだ。私は考える。親鸞はホントーは宗教なんて信じていなかったのではないか。ゆえに、ナミアミダブツでオッケーと煙にまいたのではないか。崇拝する対象が石ころでも偶像でもけっきょく同じだ、答えはおのれの身にあり心にある、と。

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07 文化ホスピス


 セイヨウカマツカの実が生った。小粒の赤い実がかわいい。セイヨウカマツカは日本のカマツカ(鎌塚)に似ているので、その名があるらしい。北米原産なのでアメリカカマツカともいうとか。バラ科アロニア属の落葉低木。春の花もいい。

 きのう、友人と3人で近在の山を縦走した。縦走というと山脈を想起させるが、300メートルほどの山を三つ越えただけ。休憩時間を充分取って5時間のペース。登り口が標高100メートルくらいだから標高差200メートル強。縦走とは大袈裟だが、ナニ怯むことはない。縦走縦走といっておのれを励ますのである。

 3人で、美とは何か、文化とは何か、歴史とは何かとか、ほかの人から見れば愚にもつかない話を飽かず話ながら歩いた。生活に役に立たないことに熱中する、これが尊いと自分で都合よく決めこんで。

 登りはじめてまもなく、年かさの威を以ってお願いした。

「今日は写真を撮らないことにしましょう。誰かに伝えるのに写真は便利ですがことばが減退します」

 二人は即諒解した。以下、発言者は省略し常体にして抜粋する。

「むかし、子どもを対象にした草鞋を編むイベントのようなものがあった。あれは何だったのか。年寄りの懐古趣味だったのでは」

「消えゆく文化を静かに見送ろうということだったのでしょう」

「文化ホスピスということですか」

 みんな妙に納得して、うなずく。

「人はパンのみにて生くる者にあらずということばがある。文化的栄養も必要というだろうけれど、パンその物がない人がいる」

「わがまちに斬新な文化ホールをなどといえる人たちは食うに困らない人たちだ」

「文化の基本は、食う寝る所に住む所、といった人がいる」

「文化ホールも必要だし焚出し施設も必要、税金をどう配分するか」

「歴史とは相似形を見つけることだと思う。玄宗皇帝と楊貴妃、あの相似形に近いものが現代の日本にもあった」

「どの位置から歴史を観るか」

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08 勉強ができると


 ヘブンリーブルー(Heavenly Blue)が咲いた。西洋朝顔のことだ。ソライロアサガオともいうそうだ。イヌタデ(犬蓼)も咲いた。蓼食う虫も好き好きのアレ。アカマンマとも。ヨメナ(嫁菜)も咲いた。ヨメナはシオン(紫苑)やノコンギク(野紺菊)と見分けがむつかしい。ヨメナの高さは30から50センチだが、シオンは1メートル以上伸びる。シオンとノコンギクの背は同じだが葉が異なる。ガーデンマムも咲いた。英語ならgarden mumと書くのだろう。マムは菊の英語chrysanthemum(クリセンセマム)の語末mumで菊の略語(辞書にも載っている)。いちどに咲いてそれぞれ咲(わら)って人間を楽しませてくれる。

「ありがてーこった」というと、

「ヘン、人間のために咲いてんじゃねえヤ」と返ってきた。

「まァそういうな」

「いいたくもなるぜ。地球にやさしくなんていう御為ごかしが面白くねえ」

「地球の自然と共存共栄しないと生き残れないからネ、見透かされっちまってるナ」

「そうよ、それに、全然やさしくねえじゃねえか」

 教育無償化をかかげる議員がいる。高校まではほぼ義務教育化しているから分かる。その上の大学までとなるとどうか。無返還奨学金を推奨する議員もいる。借りた物を返さないでよいというのは倫理観としてどうか。勉強ができると奨学金が出るという発想は、バカよりリコウのほうが社会への貢献度が高いからという理由からか。貢献度ってどう計るのか。大学進学のため奨学金は出るが専門学校はどうなのか。偏差値のような物ばっかりで人間を計量する世の中だなー。いっそ18歳に達した人全員に等しく奨励金を出したらどうか。機会均等は計った、出口は本人の努力しだい、このほうがいいと思うけれど、コスパが悪すぎると剣突を食うか。

 だいたい、義務教育といって親に責任を負わせておいて、給食費を出せ、副教材費を出せと迫るのは詐欺商法に似ていないか。先に解決すべきはこっちであろう。

 勉強ができる人は社会への貢献度が高いかも知れない。医学をきわめて大勢を救う。科学を切り開いて世の中を便利にする。でもネ、おっきな悪いことをするのも、勉強のできる人だよ。法律をちょいとひねって根底で悪さをする。

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09 民主主義のかたち


 ドウダンツツジの紅葉がみごとだ。葉の赤が濃い。濃いけれど毒々しさはない。ドウダンツツジは漢名で満点星。日本の漢字では灯台躑躅と書くそうだ。この灯台は海に面したアレでない。3本の細い棒を任意の高さのところでしばる。下部を押しひらくと3本の脚ができる。上部もひろがる。そこに油皿をのせて灯り台とする。これを結び灯台というそうで、それに似ているところから灯台躑躅というようになり、トウダイがドウダンに訛ったとか。へえーなるほどの曰いわくだ。

 政府と与党が防衛増税を口にしだした。すぐに口をつぐんだが、それも計算の内だろう。何度か口にしつつ躊躇のふりを見せれば、慎重だという印象も与えられるし、国民も仕方がないかとあきらめてくれる、それを狙っていると思われる。花火を打ち上げたり三味線を弾いたりするのが得意な人たちだから。そういえば花火も三味線も夜の料亭に縁がある。

 防衛といわれれば、増税も仕方なしの感情が国民に生まれる。先ごろ警察庁が「色恋営業」禁止法案(風営法改正案)を来年の国会に提出するというニュースを想起させる。防衛増税というのは色恋営業に似ていないか。防衛増税もいいだろう。しかし、こんなに国民が疲弊しているのだから、国、都道府県、市町村の議員の給与を10パーセント減らすというのと抱き合わせ法案にしてくれないだろうか。そうすれば防衛の誠意も伝わってくる。

 防衛予算には危なっかしさがつきまとう。戦闘機いくら、戦車いくら、兵隊の衣類いくらなんて一般市民には見当もつかない。結果、予算はいいなりで通る。そこに贈収賄が生まれやすい。おそらくどの国でも同じだろう。風聞的ニュースによれば、現に戦争中で兵隊が死に国民が青息吐息の国なのに、戦備品を介した贈収賄がおこなわれているとも聞く。

 市町村の議員は月給制を廃して日当制にする。人口10万以下の自治体は夜間と休日に議会をひらく。これで充分機能するはずだ。民主主義のかたちは一定ではない。人口5千以下の自治体なら議員も不用だ。大事な案件はそのつど全員投票すればよい。あとは首長にまかせ1年ごとに監査すれば充分。教科書的民主主義ごっこはやめよう。

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(おわり)

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