マイ・フェア・レディ

@marucho

第1話

「この黒真珠を日没までにどこかへかくして。次の朝までに私たちが見つけられなかったら、その宝石はあなたのもの」

 孤児院にやってきた、「機関」の職員を名乗る女はそう言った。

「これはいわばかくれんぼ。楽しむつもりでやってくださいね」

 黒いスーツを身に着けた個性のない男たちが、一列に並ばされた私たちの手のひらに一粒ずつ黒真珠をのせていく。

「子供たちにそんな高価なものを……」とささやいた孤児院の管理人たる教区吏を、女は目線一つで黙らせた。

「これ、売ったらいくらくらいかな」

 隣に立つリーラに聞かれたけれど、私は「さあ」と答えた。

 宝石なんて見るのも触るのも初めてだ。値段なんて分かりはしない。

 もっとも、それはここにいる誰もがそうだろうけど。

 孤児院に住まう子どもたちは渡された黒真珠を、撫でたり、投げたり、あるいは鼻の穴に入れてみたりして、それぞれに珍しがっていた。

 リーラは耳に押し付けて「波の音聞こえないね」と言っていた。耳に当てると波の音が聞こえるのは、貝殻だろう。それだって、自分の血流の音が、そんな風に聞こえるって錯覚だけど。

 私がリーラに教えてやろうとしたとき、パンと女は手を叩いた。

「さあ、今から隠してください。急いで急いで」

 姉妹たちは蜘蛛の子を散らすように駆けだしていった。めぼしいところを早い者勝ちだ。たとえば屋根裏。あるいは階段下。とっておきはやはり二段ベッドの床下だろうか。

 リーラが隠したのは、暖炉用に保管された薪の隙間だった。「絶対大丈夫だと思ったんだけどな」と悔しそうにしていたリーラの真珠は、朝になると黒スーツたちの手の中におさめられていた。

 例の女は回収された真珠の数を数える。

「49個。一つ足りませんね」

かくれんぼの勝者は手を挙げなさい、と女は命じた。「宝石を守り通したあなたには、真珠のネックレスよりも素敵な褒美をあげましょう」

 私は無視する。

「たとえば、肉入りスープが出る施設への移動、とか」

 リーラは「いいな」と言ったし、他の子たちもきゃあと悲鳴を上げた。そんなに言うならもっと真剣にやればよかったのに。

 でも、まだだ。

「今なら個室も用意してあげましょう」

 コツコツと床板を叩く革靴の音が鳴る。

「本当は絹のお洋服も用意してあげたいけれど、これ以上は私の権限ではどうにもできません」

 なるほど、ここまでか。

 私は口に含んだものをぷっと吐き出した。

 床に固い何かが当たる音と、転がる音が、冷たい空気を裂いていった。

 音は止まる。女の革靴の先で。

「口に含んだままでいる。賢い子ですね」

 よだれにまみれた汚い黒真珠を、黒スーツのうちの一人が拾い上げた。

 女が私の頭を撫でたときの、とろけるようなリーラのまなざしを忘れることはできない。

 こうして私は、「機関」の子となったのである。11歳になる冬のことだった。


「機関」が用意した新しい施設は、首都の真ん中にある庭付きの大きなお屋敷で、教区吏どころか専用の司厨人や、掃除婦、庭師までいた。

「あなた方は、選ばれた優秀な女の子たちです。ここでは上流階級に出しても恥ずかしくないよう、淑女としての教育を授けましょう」

 教室と呼ばれる机と椅子が並べられた正方形の部屋の中には、全国から集められたであろう女の子たちが三ダースほどもいた。どの子も細く、小さく、恵まれた出自でないことが明らかだった。

 そのうちの一人が手を挙げる。

「どうしてそんなことをするのですか?」言外に、「今まで見ないフリをしてきたくせに」と匂わせて。

治安の悪さと孤児の多さ、それに伴う孤児院および福祉のキャパオーバーは、この国の誰もが知ることだった。

「いい質問ですね」女はその意図に気づかないふりをする。

「あなた方のような従来のしがらみにとらわれない子供たちが、この国に新風を吹き込んでくれると信じてのことですよ」

 もう十分でしょう、という言葉の代わりに、女は手を叩いた。

「これからあなた方には新しい名前と、制服と、教科書とをあげましょう。読み書きを教えるのは別の方ですが、算数と外国語は私が教えます。これからは先生と呼びなさい」

 教室に詰め込まれた優秀な子女たちは、この一言で理解した。

「これ以上聞いてはならない」

先生は一人一人にサイズのあった制服を手渡した。ウールのボレロだ。暖かい。

 それと同時に新たな名前が与えられる。

「あなたはピエタ。これが最初の名前です」

 ピエタ。ピエタ。口の中で転がすように、何度か私は呟いた。真珠みたいに冷たい感触がした。

この言葉が別の国では「慈悲」を意味することは、まだ知らなかった。


 さて、不穏な出だしとは裏腹に、施設での日々は粛々と過ぎて行った。

予告されたとおり自分だけのベッドと机と、それらを収める部屋が与えられ、食堂では元宮廷料理人だという司厨長が作るフルコースが供される。お小遣いまでもが支給された。

「何に使うかは問いません。ただ、必要なものに使いなさい」

一時間目から五時間目までの時間割があり、授業がある。

内容は読み書きに計算という日常生活に欠かせないものから、歴史や外国語といった教養科目まで一通りそろっていた。施設という無味乾燥な呼び名よりも、寄宿学校と言った方がしっくりくる。イミテーションの私たちは、お嬢さまたちが通う学校のことなんて何も知らないけれど。

 実際、外からみたこの学校は上流階級の子女が通う学校と見なされていたようで、道行く人は花嫁学校と呼び、私たちも生徒を自称した。

 本当に普通の学校のようだった。

変わったことといえば、刺繍にダンス、ピアノのお稽古といった趣味ものめいた授業が組み込まれていたことだろう。

「理想の女とは、ベッドの上では娼婦のように、ベッドの外では乙女のように振舞う」

 ある朝の日、お祈りの前に、先生は黒板にこの故事成語を書き付けた。一定の間隔で響くチョークと板の接触音が、同じサイズで並ぶ神経質なアルファベットを生み出していく。

 最後にピリオドを打つと、この言葉には賛否あるでしょうが、と前置きして先生は私たちに向き直った。

「真の淑女とは、幸福にも逆境にも環境に応じてしなやかに姿を変えていく者だと、私は定義します」

 先生は教壇の上から私たちを睥睨する。選抜を潜り抜けたクラスメイトたちは、誰もひるまない。

「刺繍針より重いものなど持ったことがない深窓の令嬢のようにも、宝石の真贋など知ったことではない孤児のようにも、振舞えるようになりなさい」

 その日の夜から、寝る前に訛りの矯正をする時間が加えられた。

始めのHは絶対に発音せず、Rは決して巻かないように。腹からではなく、胸の奥底から、声を出しなさい。

「あなたは姿勢が悪いから、そんな声しか出せないのですよ」

 猫背の習慣は、孤児院にいた頃、懲罰として屋根の低い階段下の物置で過ごさせられたときにできたものだ。簡単に治るものではない。

 廊下の壁を背にして立ってみなさいと先生に指示される。耳と肩とかかとが一直線になるように。もっと、胃を持ち上げることを意識して。ただし腰を反りすぎないこと。ときに棒でぴしりとやられながら。

 完成した立ち姿を先生は姿見で写す。

「そう、これが正しい姿勢です、リンダ」

 リンダ。これが今日の私の名前だ。

 花嫁学校最大の特徴は、毎朝別の名前を与えられることだ。初めの日の私はピエタであったが、ある日にはチョウ、また別の日にはスヴェトラーナであり、今日はリンダだった。

 お祈りの時間のあと、今日の名前の札を配られるとき、鮮やかな絵具にまみれたキャンバスを私は思った。

 キャンバスは白い絵具でどんどん塗りつぶされていく。これまですべての過去を消されていくような感覚だった。孤児院での出来事や共に寝起きした子どもたち。そして昨日の名前ですら。


 最初の試験が行われたのは、入学して半年後だった。

 内容はいたってシンプルで、簡単な小論文や読解テスト、歴史上の重要な事件を答えさせるなどありふれた筆記試験だった。

 ときどき「この計算問題を解きなさい。それからヨブ記第二章三節から四節までを追記すること」という脈略のない出題もあったが。

 ほかの実技科目については、日々の生活態度を見て、成績を決定するらしい。その成績が何に影響するかを私たちは何も知らされていなかった。

 ただ、一つだけ言えることは、発表された試験結果において、私が一等だったということだ。

「よくがんばりましたね、チェリー」

 舌にからみつく黄金のはちみつのような優越感。

 孤児院をあとにしたときに感じたリーナのとろけるような視線と同じ種類のものを、私は教室中から浴びていた。

 このようにして、第三位までの成績をおさめた者は皆の前で表彰されるが、一顧だにされない顔ぶれもあった。

 窓際の一番後ろの席が、空席となっている。

 花嫁学校では席替えもしょっちゅうあったから、必ずしも席順通りではなかったけれど、いなくなった子のことに私はすぐに思い至った。

 Rの発音がどうしても治らなかった子だった。

「彼女には新しい家が決まりました。良きことですね」

 無神経な誰かが尋ねると、先生はにっこり笑ってそう答えた。

 脱落しなかった優秀な私たちは、またもその一言だけで理解した。

 これはただの試験ではない。

 椅子取りゲームなのだ。


 試験が行われるたび、教室の人数はまた一人、一人と減っていく。

 二年が経つ頃には、教室に残るメンバーは一ダースほどになっていた。

 方針が変わったのは、この頃だ。

 最初の試験以降、三か月ごとに行われていた試験は、予告なしで開催される抜き打ちしきになった。

 けれど、誰もそのことに苦情を申し立てない。

「もうじき」「霧が出る頃」「冬の長い日」

 先生の細かな言葉尻にその兆候を読み取っていたからだ。

 目線は狭い学内だけでなく、外の世界へも向けられた。

 読解の授業で扱われるのは、もはや文学作品ではない。

「このたびの海戦ではおしくも敗れたが、我が国はいまだ世界に屈しない」指示通りに私は新聞を朗読する。先生は問うた。「それはどういう意味だと思う? ユリコ?」

「私たちが負けたということです」

「その通り」

 ダンスや刺繍の授業は、「もう十分だろう」と言われ打ち切られた。「玄人並みの腕前でも不自然ですからね」

 代わりに加わったのが、課外授業だ。

 あるとき、私の通学鞄の中には、禁書扱いの本が入っていたことがあった。手に入れたおぼえなどない。

 帰りのお祈りの時間に私は手をあげた。

「私の鞄の中に、これが入っていました」

 できるだけ、震えた声で、怯えるように。

「これはあまりにも淫猥すぎると学校側から禁止されたものです。もちろん私は買った記憶などありません。規則をおかすなど考えることも許されないことです」

 私は右隣の少女に流し目をやる。今日の彼女の名前はたしか、デイジーだったはずだ。

「では、なぜここにあるのか。誰かが入れ間違えたのではないか」

 ちょっと待って、とデイジーは叫ぶが、先生は「続けなさい」と私の方へ顎をしゃくる。

 学級裁判は、正しい方ではなく、有利な方に天秤が落ちる。

「今の反応で皆分かったでしょう。デイジーが一体何をしたか」

 あなたが級友を陥れる人だとは思わなかった、と私は泣き崩れる。

 次の日から、また一人生徒が減った。いなくなったのは、デイジーだ。

 きっとあのデイジーは悪気があったわけではない。もしかすると、先生に私の鞄に本を仕込むよう指示されていたのかもしれないし、単に成績一等の私を陥れたかっただけかもしれない。

 言い訳など問題にならない。あるのは結果だけだ。

 椅子取りゲームは続く。


 奇妙な噂を聞いたのは、ある郊外学習の日のことだった。

 その日、朝起きると私はふかふかのベッドの上ではなく、冷たい土の上にいた。

 むき出しの裸足にムカデが這う感覚で理解する。

 今日の課題は、門限までに帰宅すること。

 当然、私は一番最初に帰ってきた。

「おかえりなさい。お転婆はそこそこにしなさいよ」と出迎えてくれた先生は、頭についた枯れ葉を払ってくれた。

「はい、先生。どうも失礼いたしました」

 次に帰ってきたのは、ブランカだった。ネグリジェは破け、頬には血がにじんでいる。ひどい有様だ。一体どこに捨て置かれたのだろう。

 宿舎に戻った私たちは、談話室の暖炉の前で他の子たちを待っていた。

「皆いつ帰ってくるんだろうね」

 食堂で用意されたココアをすすりながら、ブランカは言った。

「さあ、知らない。これをいい機会だと思って脱走したのもいるんじゃないの」

 事実、落第したうちの何人かは夜の間に宿舎を抜け出したり、こうした校外学習の間に外に出て行っているようだった。中にはよそで知り合った男と駆け落ちした奴もいたらしい。

 私はそれを侮蔑する。

 競争から外れるだなんて、落伍者もいいところだ。

「きっと意気地がなかったのね」競い、争う意気地が。

「そんなことないと思うよ」

 ブランカはすぐに反論した。これには驚かされたものだ。

 残ったメンバーの中でも、格別弱気で、やる気のなさそうな子だったからだ。成績だっていつもどん尻だった。

 ブランカは続ける。

「ねえ、八番街の三ブロックめにあるバーの噂知ってる?バーテンにマイフェアレディを、ラム抜きで頼むと、学校から抜け出す渡しを付けてくれるって」

「知らない。八番街って禁則域でしょ。しかもお酒にバーなんてもってのほか」

 禁則域の八番街に、酒をたしなむためのバー。

 制服を脱ぎ、顔を汚して、踏み入ったことくらいならあるけれど、マイフェアレディの噂は聞いたことがなかった。

「あなたは行ったの? そのバーとやらに」

「まさか。もし見つかったら、また元の孤児院や、場合によってはもっとひどいところに連れて行かれるかもしれないからね」

 暖炉の薪がはじける。カップを持つブランカの影が、壁に揺らめく。

「ただ、抜け出した子たちは、バーでマイフェアレディを頼む意気地があったんじゃないかって思ってるだけ」

 その日、門限までに帰って来なかった子は、3人いた。

 これで私たちは半ダースになる。


 卒業試験の開催が告げられたのは、花嫁学校にやってきて三年目のことだった。

「かくれんぼをしましょう」

 先生は言った。人が減り、スペースの余った寒々しい教室の、さらに一段高い教壇の上から、睥睨するように。

「一週間、猶予を上げます。この街に馴染み、働き、埋没しなさい。一週間後に一週間かけて私たちはあなた方を探します。あの手この手に奥の手も使います。今までのお遊びとは違う、全力です」

 私は手を挙げる。

「もし、見つからなければ?」

「晴れて卒業の身分となるでしょう」

 最低限の駄賃と着替えを持って、私は外に出る。慣れたものだ。

 例の校外学習もあったし、貴族の令嬢のフリをして古巣の孤児院を慰訪したこともあった。

 数年前まで良き友人だったリーラは、雇いの掃除婦になっていて、下心いっぱいのにたにた笑いで私に近づいてきた。

「何をしましょう? 靴磨き? 洗濯? ローブ持ち? なんだっていたしますわ。すこうしだけの褒美でなんだって」

 正体があの黒真珠の娘だと気づきもしなかった。

 試験開始を申し渡されてすぐに宿舎を出た私は、まず顔見知りのいるお屋敷に出向った。ここの奥様は進んでいらっしゃるようで、旅行をして外交を深め、この国はここが悪い、あそこが良くないとぶつくさ言うのが好きだと聞いていた。

 そして、その旅行に付いてこさせる、外国語が堪能な有能なメイドを求人が出ていることも。

 面接を経て、私はお屋敷に入ることに成功する。使用人たちにまぎれ、奥様が実は隣国の大臣と不倫関係にあることを掴む。あえて黙っていることを選択する。秘密を共有する。

 こうして本当の意味で、屋敷の使用人の一員となる。

 三か月が経った頃、私は暇を申し出た。

「田舎街の出には、都会の空気は合わなかったようです。実家で療養させていただきたく」

 進んだご婦人は、何にでも文句を言わないと気の済まない性格だ。お付きのメイドが離れていくことは珍しくなかった。

「それは仕方ないわね」と慣れた態度だった。

「ここでの出来事は大切な思い出として胸にしまっておいてね」

 餞別として渡されたチョコレートの菓子箱のいくつかは中身が金だった。口封じだろう。

「ありがとうございます」と菓子箱を大事に鞄にしまったが、屋敷を出ると、私はすぐにそいつを川へ投げ捨てた。

 そして、鞄の二重底から、しわのついた制服を取り出す。

 身長が伸びるたびに直して着続けた大切な制服。一等のバッヂがいくつもついた私の誇り。ウールのボレロに三月ぶりに腕を通すのは三か月ぶりだ。

 花嫁学校の門をくぐり、校長室へ向かうと、先生は最高の笑みで迎えてくれた。

「おめでとう。卒業試験を受けた生徒のうち、見つからなかったのはあなた一人でした。疑いもなく、最優等の成績です」

 褒められるたび、承認されるたび、やっかみと羨望をうけるたびに感じていた甘い味。糖蜜の海におぼれていくような最高の感覚に私は浸る。

 このままおぼれ死んでもいいくらい。

 次の瞬間までは、本気でそう思っていた。

 先生は、試験結果を告げる。

「ですが、戻ってきてしまったあなたは、不合格です」


「普通ならばここで除籍処分となるはずですが、あなたは最優等です。特別に再試験を受けさせてあげましょう」

 この私が? 三ダースももいた同級生はもう誰もいないのに? 不合格?

 理解が及ばなかった。

 呆然自失の私は、手を引かれるまま、机が一つしかない教室に連れていかれた。

「問題用紙です」筆記用具とともに、一枚の紙とペンが渡される。単純な筆記試験なってどれくらいぶりだろう。なぜ。どうして。いまさら、こんなことを。

 手を叩く音。試験開始の合図だ。

 反射的に渡された問題用紙を、表に返す。試験問題は、公平を期すために、いつだって裏にして渡されたから。

 しかし、この日の問題用紙には、何も書かれていない空白だけがあった。

 ペンを握ったまま私は顔を上げる。先生と目が合う。

「ここで学んだすべてのことを書きなさい」

 そのとき、はじめて私は理解した。自分がけして、一等ではなかったことを。

 私はインク壺にペン先を浸す。

 何を書くべきかは分かっていた。

 それはクラスメイトたちとの交歓の日々。厳しくも優しい教師たち。さまざまな事情で去って行くことを余儀なくされた友人たちへの、惜別。

 最後の一行に、今まで一等に甘んじてきたこの身には、落第はけして受け入れられないことを書き記すと、私は席を立ち、解答用紙を提出した。

「結果はあとで伝えます。それまでは、自室で待っていなさい」

 けれど、この指示に私は従わない。

 教室から出た私は、身体をすっぽり覆うコートを着て、まっすぐ門を出た。街へ向かう。古着屋で胸が大きく開き、足もあらわなワンピースを求め、その場で着替える。食堂の片隅で、女将が置き忘れた口紅とおしろいを拝借し、化粧をする。

 あの花嫁学校の優等生にはとても見えないように、キャンバスを白く上書きする。

脱いだ制服は、チョコレートを捨てたあの川に投げた。ポケットの中にはちょっとした遺書も仕込んである。うっかり見つかっても、些細な挫折に耐えられなかったお嬢様の身投げの果て、とでも勘違いしてくれることだろう。

 痕跡は塗りつぶす。学校で教わったことだ。

 汚れた水が染み込み、沈んで流れていく制服は見届けない。

 行かなければならないところがあるからだ。

 八番街。禁則域三ブロックめにある寂れたバー。

 注文するのは「ラム抜きのマイフェアレディ」

 バーテンは黙ってうなずき、別室の隠し扉を開けた。隙間風の吹くバーには似合わない、毛足の長いじゅうたんと、ふかふかのソファが揃った部屋へ。

 先生はそこで待っていた。

「やっとここに来ましたね。十二人目です」手には先ほど提出したばかりの回答用紙があった。

 ということは、三年目以降に消えた子たちはすでに卒業したということだ。

「ずっと気が付きませんでした。私はとんだどべですね。学校での成績なんてまるで意味がなかった」

 重要なのは、気づき、動き、逃げ出す胆力。

「意味はありましたよ。あなたは忠誠心と野心を十二分に示しました。けれど、真面目に卒業してしまうような子には、務まらないようなこともお任しなければなりませんから」

 私が向かいのソファに座ると、先生は解答用紙を細かくちぎり、口に入れて飲み込んでしまった。これで私のすべては消えた。

 これが最後です、と先生は言った。

「私の仕事は、教育と引き換えに使える駒を育てること。今からあなたには最初の仕事を与えます。ここから先は逃げられません。いいですか?」

 バーテンが音もなく部屋へやって来て、テーブルの上にマイフェアレディを置いていった。細い脚のカクテルグラスがふたつ並ぶ。

「もちろん。誰よりも優秀な働きをしてみせます」

 先生と私はかちんとグラスを合わせた。

「分かりました。ならば、合格です」

 その言葉と共に、私はグラスを飲み下す。

 ラム抜きのマイフェアレディは、ほとんどがオレンジジュースで、柑橘特有の苦さが走る。

 甘味が足りない。ラム以外の何かを足せば、もっとおいしくなるはず。

 そう、たとえば。

 誰もがほしがり、羨望の目を向けるような、とびっきりのはちみつとか。

「場所は国境近くの教会。学校を卒業したばかりの尼僧ピエタとして、明日到着することになっています。あなたの仕事は、そこにあるすべての辞典を偽物に入れ替えること」

 ピエタ。ピエタ。ピエタ。

 転がすように新たな名を口の中で呟いた。奇しくも最初に与えられたものと同じ。

「汽車のチケットや当面の荷物はここにそろっています」

 旅行鞄の中には、新人尼僧にふさわしい質素な衣装と、三冊の辞典が入っていた。

 与えられた課題の目的は、聞かない。これも学校で習ったことだ。

 一番大事なことは、誰より抜きんでること。

 先生はパンと手を叩く。

「では、行ってらしゃい。ピエタ」 

 私は旅行鞄を持って、立ち上がる。

 顔も知らない同僚たちと競い、極上のはちみつを得るために。

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