第12話

第12章:指先でなぞるため息


雨上がりの朝。

静香はカーテンを開けて、街の気配を静かに見下ろしていた。

空気は澄んでいて、雨の匂いがまだ残っている。


窓に映る自分の横顔を、静香はじっと見つめた。

昨夜、椎名が触れた頬に、まだあの感触が残っている気がする。


指先でなぞれば、きっと思い出してしまう。


触れた瞬間、胸の奥で何かが弾けるような感覚があった。

けれど、それ以上を求めることにためらいがあったのも事実だ。


静香はそっと頬に手を伸ばしたが、触れる直前で指を止める。


「……はぁ。」


わざと深いため息をついた。

触れたい気持ちを、わざと息とともに吐き出して遠ざける。


触れなければ、求めずに済む。


そう思えば楽になるかもしれない。

けれど、指先はまるで誘われるように再び頬へと向かっていく。


その繰り返しが、もどかしい。


「昨日の私、どうかしてる。」


静香はそう自分に言い聞かせたが、頭の片隅で、触れ合った瞬間の椎名の視線を思い出してしまう。


その日の夜


カフェの片隅で、椎名と向き合っていた。

夜の静かな店内。窓際の席には、他に客はいない。


コーヒーを口に運ぶ椎名の手元を、静香はぼんやりと眺めていた。


「……今日は、あまり話しませんね。」

椎名が静かに言う。


「そうかしら。」

静香はカップの縁を指先でなぞる。

意識していなかったが、確かに自分の声が少ないことに気づいた。


「ため息、三回目ですよ。」

椎名が小さく笑う。


「え?」


「会ってからもう三回ついてます。」


椎名は静香の視線を逃さず、ゆっくりとテーブルに肘をついた。


「……そんなに?」


「触れたくなると、ため息が出るんですか?」


静香は言葉を失った。


図星を突かれたようで、顔が熱くなるのを感じる。


「……意地悪。」


「意地悪じゃないですよ。」椎名は目を細めた。

「わかりますよ。触れたいのに、触れられない気持ちって。」


静香はカップを持ち上げて、コーヒーを飲むふりをした。

けれど、熱いわけでもない液体が喉を通るたびに、彼の言葉が残ってしまう。


「触れたら、もっと求めてしまうかもしれない。」


小さく呟いたつもりだったが、椎名には届いていたようだった。


「いいんじゃないですか?」


静香は顔を上げた。


「求めていいと思いますよ。僕は止めません。」


彼はさらりと言ってのけるが、その言葉には確かな温かみがあった。


「……ずるいわね。」


静香は肩をすくめて、椎名の手元をちらりと見つめる。

彼の指先はグラスの縁をなぞっている。


それは、触れたいけれど触れないという、静香と同じ迷いの表れのようにも見えた。


ため息が出るのは、きっと私だけじゃない。


静香はグラスの縁に触れていた自分の指を、そっと引き寄せた。

そしてわずかに微笑んだ。


「あなたの前では、ため息はもうやめるわ。」


椎名がグラスを置く音が、静かに響く。

そしてゆっくりと静香の手の甲に、自分の手を重ねた。


「それでも、ため息をつきたくなったら言ってください。」


「どうして?」


「……触れますから。」


静香はふっと笑い、彼の手を握り返した。


触れることが怖くても、ため息はもう必要なかった。

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夜明けに触れる指先 高橋健一郎 @kenichiroh

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